第5話 同日 再び帷子家

文字数 2,500文字

  同日 再び帷子(かたびら)

〈大学のカフェテリアで11時に。〉
 帷子(しん)は送信すると、スマートフォンをズボンのポケットにしまう。日が長いこの時期、6時はまだ十分に明るい。伸は一度深呼吸をしてから、自宅の玄関ドアを開けた。
「ただいま。」
 玄関で靴を脱ぎながら、おそらくリビングに居るだろう家族に声をかける。
「伸、ちょっとこっち来て。」
 リビングから母親、理恵の声がする。
 玄関から直接階段を上って自室に(こも)ろうとしていた伸は階段に掛けた足を下ろし、一つため息をつくと、リビングへと向かった。
「あんた、夏休みいつからなの?」
 伸がリビングに入るなり、間髪(かんぱつ)を入れずに理恵が声を掛ける。キッチンで夕飯の支度(したく)をしている。ダイニングテーブルの椅子には妹の綾子が座っている。高校から帰って来て、私服に着替えたらしい。不機嫌(ふきげん)そうな顔で伸と目を合わせずに自分の手元を見ている。テーブルの上で何かをいじっているようだ。テーブルを(はさ)んだ反対側にはマイクが、これも伸の方は見ずに真っすぐに前を見て座っている。
「何、なんで急にそんな事()くんだ。」
 伸は警戒する。
「綾子が夏休みに父さんの所に行くんだけど、あんた、付いて行ってあげて。」
「はぁ~?なんで俺が行かなきゃならないんだ。」
 即座(そくざ)に伸は不満を()らす。
「良いじゃない。大学は夏休み長いんでしょ。少しくらい妹の(ため)に協力してあげなさい。」
「私、兄ちゃんに来て欲しいなんて言ってないからね!」
 それまで黙っていた綾子が伸に(うった)える。
「じゃあ、良いじゃない。綾子はもう高校生なんだから、アメリカくらい、1人で行けるよ。向こうには父さんが居るんだし。」
「1人じゃないもん。沙也達と3人だもん。」
 綾子のふくれっ面が大きくなる。
駄目(だめ)よ。ロサンゼルスの空港からどうやって行けばいいか、タクシー使うにしても、綾子達だけじゃ困っちゃうでしょ。第一、父さんは仕事で、綾子達の相手はして居られません。」
 母はきっぱりと宣告(せんこく)する。
「それで、俺が犠牲(ぎせい)になるのかよ。父さんは綾子の父親だろ。少しは娘の(ため)に動いたらどうなんだよ。」
「あんた、夏休みでどうせ遊んでるんでしょ。父さんは仕事です。たまにはあんたも、父さんの顔見て来なさい。」
 『父さん』と聞いて、伸が顔をしかめる。
「母さんはよ。俺と綾子が居ないなら、母さんだってやる事無いだろ。むしろ、母さんと綾子で行って来たら。」
「馬鹿ね。母さんはNPOの活動があるでしょ。家を()けられないの。父さんからマイクに(はい)って来るお願いの対応もしなきゃならないからね。」
 何故(なぜ)か、母は楽しそうだ。
「だから、兄ちゃんは来なくて良い。私達だけで行けるってば。」
 綾子が今度は母親に(うった)える。
「伸、綾子達とアメリカに行ってあげて下さい。おとう…孝一さんが、伸が同行することを条件に許可すると言っています。」
 マイクは立ち上がって伸に向き直り、頭を下げる。伸の顔がみるみる赤くなっていく。
「結局、父さんの遠隔操作(えんかくそうさ)かよ。何でも命令すれば良いと思ってるのか!」
 伸はマイクに向かって叫ぶ。綾子は言葉を無くし、ただ眼を丸くして兄を見つめるだけだ。怒鳴(どな)り声に反応して、理恵がキッチンから飛び出して来る。
此処(ここ)に座って、伸。」
 素早(すばや)い行動とは対照的に静かな声だ。伸を真っ直ぐに見て、テーブルの()いている椅子を指差(ゆびさ)す。
「何で…。」
 自分の発言で場の空気が変わってしまった事に戸惑(とまど)い、伸の(ほお)が引きつっている。
「良いから、ここに座りな。」
 理恵は指差した椅子の正面の空いている椅子に先に座る。座っても伸を真っ直ぐ見上げている。伸は用心深くテーブルに近付くと、ゆっくりと椅子に腰を下ろす。まだ、顔は上気(じょうき)している。
「あんた、父さんに何年会っていない?」
 伸の顔を見つめて話す理恵の声は、更に(おだ)やかさを増している。
「何だよ、それ。」
「良いから。どのくらい()ったかなって思ったの。どのくらい会ってない?」
 伸はため息をついて、壁を見る。
多分(たぶん)、最後に会ったのは高二の時だ。シンポジウムで日本に帰って来た時だった。」
「そうか。じゃあ、3年?4年目かな。」
 理恵の声は穏やかだ。
「大体そんなもんだ。」
「一緒に日本で住んでいた時を覚えてる?」
「いつの話だ。物心(ものごころ)ついた時には、もう単身赴任(たんしんふにん)してたよ。」
「伸が5つの時だったよ。プロジェクトチームに参加する為に渡米してからずっとだから。」
「何となく、覚えているよ。空港まで送って行った時の事を覚えている。」
「綾子は、まだ私にだっこされてた。何か覚えてる?」
 理恵は視線を綾子に向ける。綾子は黙ったまま、首を横に振る。
「そんな程度なんだよ。伸も、綾子も。」理恵は、伸と綾子を交互に見ながら話し続ける。「普通の家族に比べたら、圧倒的にお父さんとの時間が()らないんだ。父さんと私が別れた(わけ)でも、死んでしまった訳でもないのにね。遠くに居て、意志だけ伝えて来る。顔を合わせて互いの存在を確認出来たら伝わることも、文字のやり取りだけじゃ伝わらないんだ。」
 綾子は居辛(いづら)そうにしている。伸も壁を見たまま、母親を見る事が出来(でき)ないでいる。
「…行ってきな。少しは顔を合わせて話した方が良い。」
「母さん、朝と言う事が違う。」
 綾子がまだ不満気(ふまんげ)な顔をしている。
「母さんはよ。母さんは会わなくて良いのかよ。母さんだってずっと会って無いじゃないか。」
 伸もまだむくれた顔で言う。
「私は、大人になってから長い間一緒にいたから、離れていても大丈夫。綾子は、友達と行くのも良いけど、ちゃんと父さんとも顔合わせて話して来ること。食事の1回くらい、一緒してあげなさい。」
 理恵は微笑(ほほえ)んだ。兄妹は母を見ていない。
 しばらく間が()いた。
「ちょっと考えさせてくれ。綾子が友達連れて行くなら、俺も友人と一緒でも良いか。」
「そうだね、仕方(しかた)ないか。」
 母の声は明るい。
(わか)った。ちょっと考える。」
 伸は立ち上がると、もう一度ため息をついた。
「早く返事を頂戴(ちょうだい)ね。」
 理恵も立ち上がってキッチンに戻っていく。伸はリビングに2人と1体を残して廊下に出た。
「今日は、何だか(ひど)い日だ。」
 階段を上がりながら、思わず(ひと)り言が口をついた。
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