『医者倒し』

文字数 2,016文字



 結局、尾方が小船屋に解放されのは、日が落ちてから更に暫く経った後だった。

 クタクタになった尾方が上司(少女)に携帯で連絡をすると、今日は直帰でいいとのことだった。

 かくして尾方は、徒歩にて帰路に着く。

 特に急ぐ用事もなかったので、尾方はゆったりと街灯に照らされた道を歩む。

 その歩みの中で尾方は、今週一週間のことを反芻していた。

 始まりは片腕の喪失。

 次いで悪の神との接触。

 そこから始まった、やることだらけの一週間。

 思い返せば、その間尾方は、シャングリラに一度も行っていない。

 こんな事は。尾方の悪魔人生で始めてのことだった。

 争いのない。仲間と過ごす充実の一週間。

 尾方が自分の人生に、ある筈もないと思っていた平穏。

 それが一時のものとはいえ、尾方の人生に確かにそれは刻まれた。

 これがどのような意味を持つのか。

 それがどのような意義となるのか。

 分かるのは、尾方巻彦ただ一人である。

 故に男は噛み締める。

 いつからか始まったこの男の凄惨たる死に塗れた真っ暗な道の中で、

 たまにその道を照らす街灯のような眩しさを。

 これからなんども反芻するであろうその光を。

 まずは一回目と噛み締める。

 その光は、やはりこの男には、大変眩しく感じられた。

 ②
「ただいまー」

 尾方が自室に入り帰宅の挨拶をすると、

 昨日まで帰ってきた返事がなかった。

 尾方はあれっと部屋の奥を見る。

 そこには、昨日までは正端清が座って挨拶を返してきていたのだが、

 今日はその姿はなかった。

 最近は、毎日おかえりと挨拶を返されていた尾方は、少し寂しい気持ちになったが、

 まぁそんな日もあるかと、部屋の奥に入ったところで、ちゃぶ台の上にメモが置かれていることに気がついた。

 そこには大変達筆な文字で、

「拝啓 尾方巻彦 殿 本日は私用によりお手伝いすることが出来ません。ですので、ほんの気持ちですが、冷蔵庫の中に作り置きの肉じゃがを入れておきました。暖めて食べてください 正端清より 敬具」

 と書かれていた。

 尾方はフフッと微笑み。そのメモを冷蔵庫に張ると、肉じゃがを暖め始めた。

 するとその時、

『ピンポーン』

 家のチャイムが鳴った。

 尾方は一瞬呆気にとられたが、以前の姫子の件もあるため、念のため玄関に向かった。

 玄関の扉の前まで行った尾方は扉の向こうへ声をかける。

「はい。尾方ですけど? どちら様?」

 すると、

「尾方か? 加治だ。開けろ」

「へ? 健次郎?」

 声の主は、尾方の担当医である加治健二郎であった。

「どしたの一体?」

 尾方は扉を開けながら言う。

 そして加治医師を見ると、彼は傷だらけの青年を担いでいた。

 その傷は、どれも切り傷の様に見えたが、不思議なことに血はそれほど流れていないようだった。

 尾方は呆れたように笑いながら言う。

「あー、面倒ごと?」

 加治医師は許可も無く、家に上がり込みながら言う。

「そうだ、お前ほどではないがな」

 尾方は特にそれを制する様子も無く、後に付いて部屋の奥に入っていく。

 加治医師は、青年を尾方の万年床に寝かせる。

 その際、加治医師は右手を青年から離さない様に注意している様に見受けられた。

 尾方はそれを傍らで見ていたが、

 その様子を見て少し考えるような仕草をする。

 そして、「あっ」と思いついたような顔をすると、

「そうか! 権能!」

 とポンッと手を叩き言った。

 権能。それは悪魔固有の能力の事である。

 神直属の病院に勤める医師は、その全てが天使か悪魔である。

 当然それは尾方も知っていたが、尾方が加治医師の権能を見るのは初めての事だった。

 加治医師はその言葉を受け、少し億劫そうに答える。

「そうだ。お前には見せる機会も診せる機会も来ないだろうが。一応これが俺の権能【医者倒し(ドクターストップ)】だ」

 尾方はハハッと笑う。

「医者倒しって、医者には縁起でもないんじゃない?」

「全くだ。事実コイツを俺は嫌いでな。滅多なことでないと使わん」

 加治医師は不愉快そうに言う。

「へぇ、まぁ僕的には気になるところだけどさぁ。そんな容態なんだったら話してる暇なんてないんじゃない?」

 尾方が促すように手の平を青年のほうに向けるが、加治医師は溜息を付いて苛立ちを隠さず言う。

「まぁ、医者に暇が来るから【医者倒し】な訳だ。俺の権能は、『右手で触れてる対象を触れた瞬間の状態で完全に固定する能力』だ。俺が触れてる間は、患者は良くなりもしないし、悪くなりもしない訳だな」

 それを聞いて、尾方は納得した顔をする。

「なるほど...、確かに医者倒しだしまんまドクターストップって訳だ。悠長に話してる暇なんて幾らでもあるんだねぇ」

「まぁ、触れてる対象の時間が止まるわけではないから、コイツは今一番救急な容態のまんまなんだが」

「それは先に言って欲しかったかな! 悠長に話してる場合か!」

 その後尾方は、加治医師に言われるままに、治療に必要な薬や包帯を大量に買出しに行かされた。
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