(1)奇怪な傷痕
文字数 4,580文字
pm8:32 LA某所――
「ボス?」
汗ばむ額に触れようとした細い手首を寸でで掴み、ディランは自分を呼ぶ手の主を見た。
街に出れば今でもスカウトの声が掛かるという端麗な顔が心配げに自分を見つめている。
三年前に彼女の危機を救うことになったのは、あくまで成り行きに過ぎぬと何度も伝えているのだが、未だにこうしてディランの身を案じ続けてくれている。
その厚意というか気概に感じ入るものはあれど、チームに入り、男女の区別がない苛烈な訓練を最後までやり遂げ、彼女がこれほどまで戦いに適性を持っていたと知ったときは複雑な思いがした。
訓練を完遂したときの彼女――リディアの笑顔は今でも忘れられない。
そんな彼女だからか。
美女の傍らに散弾銃が立て掛けられているのに違和感どころか馴染んでさえ見えるのは。確か“脱出時”に彼女が使っていた二連式の猟銃ではなかったか?
目覚めたばかりで頭が回らない。
身体は熱く、全身汗まみれになっているのが分かる。久しぶりに“あの頃”の夢を見たせいで、呼吸が乱れているのに気づく。
ぼんやりとした記憶に働きかけるべくディランは首を巡らした。
部屋にあるのは見覚えのない調度品ばかりだが、それよりも、左手の窓から差し込む月明かりで、室内の照明が落とされていることに初めて気がついた。
眠りを邪魔せぬ配慮だろう。
リディアが一人ベッドの傍らに残り、ディランの容態を看ていてくれたのは聞くまでもない。
「汗を拭かないと」
しっかりと掴んでいるディランの力強い手を見ながら、決まり悪げに弁明するリディアの手には確かにタオルが握られている。
言われてようやくディランが彼女の手首を解放する。
「ここは? あれからどうなっ――」
まだ霞がかかったような記憶を呼び起こしつつ、上半身を起こしかけて、わき腹に違和感を感じてディランは押し黙る――なにも感じない。その部分だけが自分の身体ではないように何にも。
シャツをアンダーごとたくし上げ、わき腹を目視すると、そこには黒々と大きな痣ができていた。
「何なの……それ?」
リディアが気味悪がるのも無理はない。荒事に慣れた彼女でも今までに見たこともない傷病だったからだ。
見た目は打撲痕だが、青黒く鬱血する症例とはほど遠く、よく見れば、そこだけ皮膚の質感が全くない――まるで黒塗りのプラスティック板を貼り付けたような平坦さを表していた。
「ちょ――」
リディアが止める間もなく、ディランが無造作にその異様な黒斑に手を触れる。
そうして真剣に触診する姿は、マフィアというより思索に耽る哲学者を思わせる。割と端正な顔立ちだけに、眼鏡を掛けさせ書物を持たせるだけでもU.L.C.A.(カリフォルニア州ロサンゼルス校)の図書室に違和感なく溶け込めるどころか、女性の熱い視線をシャワーのように浴びれそうだ。
「何も感じない」
この二十代とは思えぬ錆びた声を耳にしなければ。無論、女子学生とは隔絶した“道”を歩んできたリディアからすれば、むしろ“頼もしさ”しか感じれまいが。
叩いたり、抓 ったり、しばらく無言で触診を続けるディランを見守っていたリディアがたまらず声を掛ける。
「で、どうなの?」
「そうだな……まず触ることができない」
「?」
「触っても肌の感触がない」
「プラスティック板みたいな?」
「そうじゃない。何かを触った感触すらない」
「どういうこと……?」
リディアの眉間に深いしわが寄るものの、答えたディランの方も困惑の色が濃い。
これまで切り傷、打撲、骨折、火傷などあらゆる痛みを経験してきたが、“何も感じない”という奇怪な症状は、さすがに初めてのことだったからだ。
他の男であればとうにパニックを起こしているところを、ディランは試験結果を報告する研究者のように、淡々と状況を説明する。
「試しに叩いてみたが、肌を叩いた感触がないし、叩かれたという実感もない」
「よく分からないわね……」
「言葉通りだ。抓っても――いや抓ろうとしたが、そもそも肉が掴めないし、爪を立てても肌に傷さえ付けられなかった。まるで……実体がないかのように」
「どうにも要領を得ない話しね。私には、絵で描いたリンゴを掴もうとしてる、みたいな徒労感を感じるんだけど」
「……そうとも言えるな」
合点がいった風なディランの表情に、「今のでよかったわけ?」とリディアは肩をすくめてみせる。
「それで、痛みはなさそうだけど、具合は?」
「問題ない。ただ……ここだけ“何も感じない”という違和感があるだけだ」
何度もわき腹を押さえるディランにリディアはしごく妥当な提案をする。
「やはり、医者に診せるべきだわ」
「病院よりも研究所の方がいいかもしれん」
真面目な顔で言われて、それがディランのジョークと気づくのに数秒を要して、リディアが戸惑いを浮かべる。
「こんな時に、貴方の冗談を初めて聞かされるとは思わなかった」
「案外、冗談ではないかもしれん」
「まさか」
ディランの想像は当たらずとも遠からず。さらには、それが東洋人の振るう刀によって影を切り取られた部分であるとは、無論、二人が知る由もない。
「いずれにしろ、病院は後回しだ」
「ディン……」
「問題ないと言ったはずだ。それより教えてくれ、今の状況を」
不安げなリディアを手で制し、ディランが話を促すと諦めたように報告をはじめる。
「ここは“隠れ家 ”のひとつ。あの化け物をショットガンで吹っ飛ばした後、屋敷を出てすぐに車を乗り換え、逃げ込んだところ。もちろん、どこに逃げ込むかは相談するまでもなかった――下手な場所に逃げるよりは、ってね」
「それは構わんが……記憶にないな」
視線を巡らすディランの声は覚束ない。
部屋にある調度品のどれにも見覚えがないからだ。 “廃掃班”への資金投入は今なお組織の最重要事項として上限無しで行っており、必要とされるものはすべて組織で準備するため、『№2』に座す自身が知らぬ物件の存在を、ディランがどう捉えるかは言うまでもない。
「小言は勘弁して。厳密には、この部屋は私たちの私的借部屋 なんだから」
「……」
「好きに羽根を伸ばしたくなるとき、てのがあるのよ」
ディランの無言に不興を買ったと思ったか、珍しく若干の動揺を見せて、リディアは「とにかくっ」と強引に話を切り上げる。
「屋敷を出てから対尾行処理は3回行ったし、追跡者の有無を何度もチェックしたわ。その上、ここは組織の手が入ってないクリーンな隠れ家。周囲の監視も隣室にいるクレイグ達と交替で必ず一人置いているから、当分の安全は確保できる。――さっきみたいに、いきなり気絶されるとびっくりするけど」
「そうか。気を失ったのか」
それほどまでに精神が消耗していたという自覚はディランになかったが、気づけばベッドの上、という事実の前に否定はできない。思い返しても、こんな消耗はマルコと出会ったあの時以来ではなかったか。
残された左手の平を見つめる。
あの時、重ねられた大きな手の力強さが蘇る。途端に、鳩尾のあたりを貫かれたような感覚に襲われ、それが“喪失感”であると気づけぬディランはただただ眉根を寄せる。それを心労ととったのだろう。
「怪我はないから単なる疲れね。でも念のため、もう少し眠っていた方がいいわ――私はあっちにいるから」
安堵した顔で立ち上がるリディアをディランの呟きが呼び止めた。
「あの東洋人共は何なんだ――?」
「LAの組織でないのは確かね」
思案げに胸前で組んだ両腕が豊かな双丘を押し上げる。ベッドの傍で扇情的この上ない仕草だが、ディランの関心は別にある。
「悪党もポリスもこの街で、我々に戦争を仕掛けるバカはいないわ。案外、海の向こうから来たのかも。あの鎖の化け物――あれってニンジャ?」
東洋人からの連想か。肩をすくめるリディアが何を想像しているかは言うまでもないが、仕草とは裏腹に瞳に宿るわずかな畏怖の感情は隠し切れていない。
刀。
呪術。
鎖の怪人。
ここがLAであることを疑わせるような尋常ならざる小道具のオンパレード。いや、流行りのアメコミ・ヒーロー物を想像すれば、むしろハリウッドのお膝元らしいと言えぬでもない。
だが、血と硝煙がすべての世界で生きてきた彼女にとってはあまりに非現実的で馴染みがないものであり、それでも実際にその脅威を体感しているだけに、言い知れぬ薄気味悪さが今も肌に纏わり付いているのかもしれない。
屈強なディラン達と肩を並べて戦闘部隊に所属するリディアでさえ未知の恐怖を覚えるのはむしろ当残のことだったであろう。
「“荷”を渡せと言っていたな」
話に正常な進展が見込めないと感じて、ディランは切り口を変えてみる。
「東洋人。契約。荷――参加組織で貿易セクションを仕切っていたところがあったな」
「エリオット貿易会社――確かエリンて男が仕切ってたはずよ。幹部会のパーティで話したことがあるわ」
「あたり か」
その名に聞き覚えがある。奴らの襲撃が行われる直前に、ディランに連絡を取ってきた電話の主がエリンだったはずだ。
今後のことも考え、情報共有すべくディランが掻い摘まんで経緯を伝えると、リディアは得心したように頷いた。
「荷運びの契約でトラブった……てところか。エリンはここ数年、強か さでのし上がってきたようだけど、今回は相手が悪すぎたわね」
「奴ら相手に“力”で黙らせることもできまい。恐らく、奴らの動きを知っても止められず、警告だけはしようとしたんだろう」
「つまり、エリンのせいでマルコが――」
言いかけて己の失言に気づき、硬直するリディアにディランが「否」と告げる。
「マルコを護れなかったのは俺の弱さだ」
石像が口を開けばそうなるだろうと思わせる、軋むような固い声。
苛烈な修練を積んだという“自負”が、“奢り”に代わっていたのはいつ頃だったのか。
己を満たす自責の念に、呑まれてはいけないと頭では理解しつつ、つい委ねてしまいそうになるのをディランはかき集めた精神力で必死に抗う。
ダメだ――。
自責の念に駆られて“やるべき事”を放棄するなど許されない。
(いや、俺はそんなことをマルコに教えてもらったわけではないっ)
気づけば、何かに貫かれたような胸の空虚感に、小さくも熱い何かが生まれていた。それが空虚感を僅かでも満たすことで、辛うじて肉体が動かせると実感しディランは安堵する。
「事情はどうでもいい。今度はこちらが奴らを捜し出し、消すだけだ……必要なら組織ごとな」
静かな口調とは裏腹に、それは凄愴な誓いの言葉であった。
自然とディランの視線が、椅子にかけられた自身のジャケットに向けられる――壮年の部屋でついぞ渡すことのできなかったモノに。
近寄りがたい気迫を纏うディランに、リディアは微かに痛ましげな視線を向けるだけだった。
「ボス?」
汗ばむ額に触れようとした細い手首を寸でで掴み、ディランは自分を呼ぶ手の主を見た。
街に出れば今でもスカウトの声が掛かるという端麗な顔が心配げに自分を見つめている。
三年前に彼女の危機を救うことになったのは、あくまで成り行きに過ぎぬと何度も伝えているのだが、未だにこうしてディランの身を案じ続けてくれている。
その厚意というか気概に感じ入るものはあれど、チームに入り、男女の区別がない苛烈な訓練を最後までやり遂げ、彼女がこれほどまで戦いに適性を持っていたと知ったときは複雑な思いがした。
訓練を完遂したときの彼女――リディアの笑顔は今でも忘れられない。
そんな彼女だからか。
美女の傍らに散弾銃が立て掛けられているのに違和感どころか馴染んでさえ見えるのは。確か“脱出時”に彼女が使っていた二連式の猟銃ではなかったか?
目覚めたばかりで頭が回らない。
身体は熱く、全身汗まみれになっているのが分かる。久しぶりに“あの頃”の夢を見たせいで、呼吸が乱れているのに気づく。
ぼんやりとした記憶に働きかけるべくディランは首を巡らした。
部屋にあるのは見覚えのない調度品ばかりだが、それよりも、左手の窓から差し込む月明かりで、室内の照明が落とされていることに初めて気がついた。
眠りを邪魔せぬ配慮だろう。
リディアが一人ベッドの傍らに残り、ディランの容態を看ていてくれたのは聞くまでもない。
「汗を拭かないと」
しっかりと掴んでいるディランの力強い手を見ながら、決まり悪げに弁明するリディアの手には確かにタオルが握られている。
言われてようやくディランが彼女の手首を解放する。
「ここは? あれからどうなっ――」
まだ霞がかかったような記憶を呼び起こしつつ、上半身を起こしかけて、わき腹に違和感を感じてディランは押し黙る――なにも感じない。その部分だけが自分の身体ではないように何にも。
シャツをアンダーごとたくし上げ、わき腹を目視すると、そこには黒々と大きな痣ができていた。
「何なの……それ?」
リディアが気味悪がるのも無理はない。荒事に慣れた彼女でも今までに見たこともない傷病だったからだ。
見た目は打撲痕だが、青黒く鬱血する症例とはほど遠く、よく見れば、そこだけ皮膚の質感が全くない――まるで黒塗りのプラスティック板を貼り付けたような平坦さを表していた。
「ちょ――」
リディアが止める間もなく、ディランが無造作にその異様な黒斑に手を触れる。
そうして真剣に触診する姿は、マフィアというより思索に耽る哲学者を思わせる。割と端正な顔立ちだけに、眼鏡を掛けさせ書物を持たせるだけでもU.L.C.A.(カリフォルニア州ロサンゼルス校)の図書室に違和感なく溶け込めるどころか、女性の熱い視線をシャワーのように浴びれそうだ。
「何も感じない」
この二十代とは思えぬ錆びた声を耳にしなければ。無論、女子学生とは隔絶した“道”を歩んできたリディアからすれば、むしろ“頼もしさ”しか感じれまいが。
叩いたり、
「で、どうなの?」
「そうだな……まず触ることができない」
「?」
「触っても肌の感触がない」
「プラスティック板みたいな?」
「そうじゃない。何かを触った感触すらない」
「どういうこと……?」
リディアの眉間に深いしわが寄るものの、答えたディランの方も困惑の色が濃い。
これまで切り傷、打撲、骨折、火傷などあらゆる痛みを経験してきたが、“何も感じない”という奇怪な症状は、さすがに初めてのことだったからだ。
他の男であればとうにパニックを起こしているところを、ディランは試験結果を報告する研究者のように、淡々と状況を説明する。
「試しに叩いてみたが、肌を叩いた感触がないし、叩かれたという実感もない」
「よく分からないわね……」
「言葉通りだ。抓っても――いや抓ろうとしたが、そもそも肉が掴めないし、爪を立てても肌に傷さえ付けられなかった。まるで……実体がないかのように」
「どうにも要領を得ない話しね。私には、絵で描いたリンゴを掴もうとしてる、みたいな徒労感を感じるんだけど」
「……そうとも言えるな」
合点がいった風なディランの表情に、「今のでよかったわけ?」とリディアは肩をすくめてみせる。
「それで、痛みはなさそうだけど、具合は?」
「問題ない。ただ……ここだけ“何も感じない”という違和感があるだけだ」
何度もわき腹を押さえるディランにリディアはしごく妥当な提案をする。
「やはり、医者に診せるべきだわ」
「病院よりも研究所の方がいいかもしれん」
真面目な顔で言われて、それがディランのジョークと気づくのに数秒を要して、リディアが戸惑いを浮かべる。
「こんな時に、貴方の冗談を初めて聞かされるとは思わなかった」
「案外、冗談ではないかもしれん」
「まさか」
ディランの想像は当たらずとも遠からず。さらには、それが東洋人の振るう刀によって影を切り取られた部分であるとは、無論、二人が知る由もない。
「いずれにしろ、病院は後回しだ」
「ディン……」
「問題ないと言ったはずだ。それより教えてくれ、今の状況を」
不安げなリディアを手で制し、ディランが話を促すと諦めたように報告をはじめる。
「ここは“
「それは構わんが……記憶にないな」
視線を巡らすディランの声は覚束ない。
部屋にある調度品のどれにも見覚えがないからだ。 “廃掃班”への資金投入は今なお組織の最重要事項として上限無しで行っており、必要とされるものはすべて組織で準備するため、『№2』に座す自身が知らぬ物件の存在を、ディランがどう捉えるかは言うまでもない。
「小言は勘弁して。厳密には、この部屋は私たちの
「……」
「好きに羽根を伸ばしたくなるとき、てのがあるのよ」
ディランの無言に不興を買ったと思ったか、珍しく若干の動揺を見せて、リディアは「とにかくっ」と強引に話を切り上げる。
「屋敷を出てから対尾行処理は3回行ったし、追跡者の有無を何度もチェックしたわ。その上、ここは組織の手が入ってないクリーンな隠れ家。周囲の監視も隣室にいるクレイグ達と交替で必ず一人置いているから、当分の安全は確保できる。――さっきみたいに、いきなり気絶されるとびっくりするけど」
「そうか。気を失ったのか」
それほどまでに精神が消耗していたという自覚はディランになかったが、気づけばベッドの上、という事実の前に否定はできない。思い返しても、こんな消耗はマルコと出会ったあの時以来ではなかったか。
残された左手の平を見つめる。
あの時、重ねられた大きな手の力強さが蘇る。途端に、鳩尾のあたりを貫かれたような感覚に襲われ、それが“喪失感”であると気づけぬディランはただただ眉根を寄せる。それを心労ととったのだろう。
「怪我はないから単なる疲れね。でも念のため、もう少し眠っていた方がいいわ――私はあっちにいるから」
安堵した顔で立ち上がるリディアをディランの呟きが呼び止めた。
「あの東洋人共は何なんだ――?」
「LAの組織でないのは確かね」
思案げに胸前で組んだ両腕が豊かな双丘を押し上げる。ベッドの傍で扇情的この上ない仕草だが、ディランの関心は別にある。
「悪党もポリスもこの街で、我々に戦争を仕掛けるバカはいないわ。案外、海の向こうから来たのかも。あの鎖の化け物――あれってニンジャ?」
東洋人からの連想か。肩をすくめるリディアが何を想像しているかは言うまでもないが、仕草とは裏腹に瞳に宿るわずかな畏怖の感情は隠し切れていない。
刀。
呪術。
鎖の怪人。
ここがLAであることを疑わせるような尋常ならざる小道具のオンパレード。いや、流行りのアメコミ・ヒーロー物を想像すれば、むしろハリウッドのお膝元らしいと言えぬでもない。
だが、血と硝煙がすべての世界で生きてきた彼女にとってはあまりに非現実的で馴染みがないものであり、それでも実際にその脅威を体感しているだけに、言い知れぬ薄気味悪さが今も肌に纏わり付いているのかもしれない。
屈強なディラン達と肩を並べて戦闘部隊に所属するリディアでさえ未知の恐怖を覚えるのはむしろ当残のことだったであろう。
「“荷”を渡せと言っていたな」
話に正常な進展が見込めないと感じて、ディランは切り口を変えてみる。
「東洋人。契約。荷――参加組織で貿易セクションを仕切っていたところがあったな」
「エリオット貿易会社――確かエリンて男が仕切ってたはずよ。幹部会のパーティで話したことがあるわ」
「
その名に聞き覚えがある。奴らの襲撃が行われる直前に、ディランに連絡を取ってきた電話の主がエリンだったはずだ。
今後のことも考え、情報共有すべくディランが掻い摘まんで経緯を伝えると、リディアは得心したように頷いた。
「荷運びの契約でトラブった……てところか。エリンはここ数年、
「奴ら相手に“力”で黙らせることもできまい。恐らく、奴らの動きを知っても止められず、警告だけはしようとしたんだろう」
「つまり、エリンのせいでマルコが――」
言いかけて己の失言に気づき、硬直するリディアにディランが「否」と告げる。
「マルコを護れなかったのは俺の弱さだ」
石像が口を開けばそうなるだろうと思わせる、軋むような固い声。
苛烈な修練を積んだという“自負”が、“奢り”に代わっていたのはいつ頃だったのか。
己を満たす自責の念に、呑まれてはいけないと頭では理解しつつ、つい委ねてしまいそうになるのをディランはかき集めた精神力で必死に抗う。
ダメだ――。
自責の念に駆られて“やるべき事”を放棄するなど許されない。
(いや、俺はそんなことをマルコに教えてもらったわけではないっ)
気づけば、何かに貫かれたような胸の空虚感に、小さくも熱い何かが生まれていた。それが空虚感を僅かでも満たすことで、辛うじて肉体が動かせると実感しディランは安堵する。
「事情はどうでもいい。今度はこちらが奴らを捜し出し、消すだけだ……必要なら組織ごとな」
静かな口調とは裏腹に、それは凄愴な誓いの言葉であった。
自然とディランの視線が、椅子にかけられた自身のジャケットに向けられる――壮年の部屋でついぞ渡すことのできなかったモノに。
近寄りがたい気迫を纏うディランに、リディアは微かに痛ましげな視線を向けるだけだった。