(2)誰がために
文字数 3,131文字
PM7:30 LA ビバリーヒルズ高級住宅街
マルコ・ロッシュ邸――
いつもは静寂を友とする閑静な中庭に、今宵だけは華やかな彩りが添えられていた。
それは心躍る“音色”であり、舌を蕩けさせる“味彩”であり、そして感情を揺さぶる“喜色”であった。
特に人々を喜ばせるパフォーマンスは、一時とはいえ、集った目的を忘れさせるほどの盛り上がりをみせている。
仮面の男が繰り出す『氷と鎖のイリュージョン』に、ピエロと美女のコンビが魅せる『天空のナイフスロー』――全米屈指のパフォーマー達が披露する大道芸は、路上パフォーマンスの枠を越え、一流のイリュージョンとして世界に通用するだろう。
それでも“主役”が登場するまでの、所詮は“前座”に過ぎぬと招待客達は皆承知している。
望む望まないに関わらず、今宵、“この場に集い、主役に謁見すること”こそが、自身の為すべき事と弁 えているからだ。
他でもない、あの 『マルコ・ロッシュ』の招きとあれば――LAで一定以上の階層に至った者達にとっては、あらゆる予定をキャンセルしてでも馳せ参じねばならない、重要事案なのは間違いない。
誰もが内心、戦々恐々としながら、表面上は談笑しつつ主役の登場を待ち望む――そんな歪な光景を眼下に納めながら、邸内の窓際に立つ壮年がひとり。
「月曜の晩ともなれば、急用のひとつやふたつも出てくるか」
寸前のパーティ・キャンセルにも関わらず、報告を受けた壮年の声はあくまで淡々としていた。
夜だというのにサングラスを外さぬため、表情からその胸内を察することはできないが、月の浮かぶ窓外を眺めるその姿は、怒りとは無縁の静謐を象っている。
「判事に続き市長 まで。『マルコ・ロッシュ』の名が威を失いつつあるということか」
普段の彼らしからぬ台詞は黙々と着付けを進める付き人に向けたものではない。部屋の端、扉口にたたずむ男が口を開く。
「少なくともプレゼントは届けられてる――絵画に彫刻、いずれも貴方が贔屓にしている芸術家の作品だ」
「それであやされて いたのでは同じことだ」
「なら予定を二週間も早く繰り上げなければいい」
男の無造作な返答に付き人の手がびくりと止まる。LA三大勢力の一角を成すマフィアのボスに向ける言葉としては、自殺行為に等しい暴言だったからだ。
「続けろ」
今度の台詞は緊張のあまり硬直した付き人に対してのものだ。
青ざめる付き人に一瞥もくれず、壮年は壁際の棚上に顔を向ける。
調度品がほとんど見られない中で、唯一といえる銀縁の写真立てが置かれていた。
写っているのはサングラスをかけ、ぎこちない笑みを浮かべる自身と赤髪の豊かな女性。壮年の緊張を知らぬげに、彼女は日だまりを思わす暖かな笑顔を浮かべている。
頬を微も動かさぬ壮年だが、細身の肩に置いた掌から伝わる感触を今でも覚えているのだろうか。
「確かにバースデイは俺にとって特別だった。だが、年を数えることに興味があったわけじゃない」
それは組織で古参の者なら誰もが承知している。あの日 以来、日曜の礼拝どころか祈りひとつ捧げたことのない彼が、その日を一年で唯一の“安息日”とした意味を。
富と権力を手中にしながら、いまだ一人の女も寄せ付けぬその心情を。
だからこそ、次の壮年の言葉は“奇異”以外の何ものでもなかった。
「それは今日とて同じこと 」
「?」
男の眉根がよる。とても二十代はじめとは思えぬ深い険 が刻まれた相貌に、通常ならば感情の機微を読み取るのは困難だが、今宵、ささやかな奇跡が起きたようだ。
自分に向けられた壮年の穏やかな笑みに、“右腕”と称される者が明らかな“困惑”を浮かべる。
今し方、男が口にしたように壮年の“誕生日”は二週間後だというのに。
「“思い出”が大切なように“現在 ”も大切にしたいと思ってな――例え招待者が全員欠席しようとも、お前だけは 付き合えよ」
昔と違い、今や専任警護として共にいる時間は長い。その上、昔からの付き合いという意味でも一部の者を除けば、男は若くして“古株の一人”として挙げられよう。
それでも、壮年から掛けられる言葉のほとんどが、仕事 に関することで占められる。それだけに――。
普段耳にすることのない“何か”が込められた壮年の言葉に、戸惑うばかりの男の返答を壮年が待つことはなかった。
付き人の手からステッキを受け取り、扉口に向かって歩み始める。
男がポケットから何かを取り出しかけたが――いやそう見えただけなのかもしれない――空手を抜いて扉を開けた。既にその顔はいつもの鉄面皮に戻っている。
壮年が部屋を後にしても、男――ディラン・ウェイアードの口から返事が紡がれることはなかった。
*****
「――本当にお気づきになりませんので?」
壮年の後を追うべく踏み出しかけたディランの足を止めたのは、付き人とは別の4人目――禿頭の老人の声だった。これまでディランの隣にいたのを気づかなかったらしい付き人だけが、驚きも露わにぽかんと口を開けている。
振り向いたディランが無言で問いかけると、どこか困ったような顔で老人は答えた。
「らしい と言いますか……何よりも己に課している貴方様が、お分かりにならぬとは」
嘆息さえ交えつつ、視線をこの場ではない彼方の方へと向ける。
「……あれ から七年になりますか」
「――っ」
その一言でディランの巌のような頬がびくりと震えた。
気づいたからだ。
今日が何の日かを。
「あの日 以来、旦那様の関心は貴方様に注がれていました……信じられませんか? いや分かっているはずです。それが深い哀しみ の裏返しであるということも」
確かに、ディランはマルコに拾われた。ただの気紛れと云う者が大半であったが、漠然とそうではないと思っていた。無論、理屈などなく単なる直感に過ぎない。おかげで思春期の頃には、その理由が気になって頭から離れぬ時期もあった。だが、それなりに成長した今ならば、老人の説かんとする話しも正解か否かは別にして十分に理解はできる。
誰しも、失ったものが大きいほど、その空きを何かで埋めようとするものではないか?
「ですが、そうして見守り続けてきたからこそ、分かってもいたのです。貴方様の献身を。それが故に、いつの間にかご自分が癒やされていたことを」
「……支えられていたのは、常に俺の方だ」
「“互いに”で、よいではないですか」
憮然と呟くディランに“謙虚も過ぎれば”と老人が説く。そうして、「何が切っ掛けか分かりませんが」と穏やかな視線で壮年が消えた扉向こうを見やり――
「前を向けるようになったのですよ、きっと。あの方が祝ってくれた誕生日という“過去”でなく、貴方様と出会えた今日という“現在 ”を、未来 をようやく見れるようになったのです」
そうして深々と頭を下げる老人に、ディランは無言できびすを返した。今度こそ、壮年の後を追うために。心持ち、先ほどより足取りに力強さを感じさせつつ。
「……貴方の献身も、支えになってるだろう」
ディランが言い置いたそれを老人が耳にしたのかは分からない。振り向かずとも分かるのは、彼の気が済むまで、しばらく頭を上げることはないだろうということであった。
マルコ・ロッシュ邸――
いつもは静寂を友とする閑静な中庭に、今宵だけは華やかな彩りが添えられていた。
それは心躍る“音色”であり、舌を蕩けさせる“味彩”であり、そして感情を揺さぶる“喜色”であった。
特に人々を喜ばせるパフォーマンスは、一時とはいえ、集った目的を忘れさせるほどの盛り上がりをみせている。
仮面の男が繰り出す『氷と鎖のイリュージョン』に、ピエロと美女のコンビが魅せる『天空のナイフスロー』――全米屈指のパフォーマー達が披露する大道芸は、路上パフォーマンスの枠を越え、一流のイリュージョンとして世界に通用するだろう。
それでも“主役”が登場するまでの、所詮は“前座”に過ぎぬと招待客達は皆承知している。
望む望まないに関わらず、今宵、“この場に集い、主役に謁見すること”こそが、自身の為すべき事と
他でもない、
誰もが内心、戦々恐々としながら、表面上は談笑しつつ主役の登場を待ち望む――そんな歪な光景を眼下に納めながら、邸内の窓際に立つ壮年がひとり。
「月曜の晩ともなれば、急用のひとつやふたつも出てくるか」
寸前のパーティ・キャンセルにも関わらず、報告を受けた壮年の声はあくまで淡々としていた。
夜だというのにサングラスを外さぬため、表情からその胸内を察することはできないが、月の浮かぶ窓外を眺めるその姿は、怒りとは無縁の静謐を象っている。
「判事に続き
普段の彼らしからぬ台詞は黙々と着付けを進める付き人に向けたものではない。部屋の端、扉口にたたずむ男が口を開く。
「少なくともプレゼントは届けられてる――絵画に彫刻、いずれも貴方が贔屓にしている芸術家の作品だ」
「それで
「なら予定を二週間も早く繰り上げなければいい」
男の無造作な返答に付き人の手がびくりと止まる。LA三大勢力の一角を成すマフィアのボスに向ける言葉としては、自殺行為に等しい暴言だったからだ。
「続けろ」
今度の台詞は緊張のあまり硬直した付き人に対してのものだ。
青ざめる付き人に一瞥もくれず、壮年は壁際の棚上に顔を向ける。
調度品がほとんど見られない中で、唯一といえる銀縁の写真立てが置かれていた。
写っているのはサングラスをかけ、ぎこちない笑みを浮かべる自身と赤髪の豊かな女性。壮年の緊張を知らぬげに、彼女は日だまりを思わす暖かな笑顔を浮かべている。
頬を微も動かさぬ壮年だが、細身の肩に置いた掌から伝わる感触を今でも覚えているのだろうか。
「確かにバースデイは俺にとって特別だった。だが、年を数えることに興味があったわけじゃない」
それは組織で古参の者なら誰もが承知している。
富と権力を手中にしながら、いまだ一人の女も寄せ付けぬその心情を。
だからこそ、次の壮年の言葉は“奇異”以外の何ものでもなかった。
「それは
「?」
男の眉根がよる。とても二十代はじめとは思えぬ
自分に向けられた壮年の穏やかな笑みに、“右腕”と称される者が明らかな“困惑”を浮かべる。
今し方、男が口にしたように壮年の“誕生日”は二週間後だというのに。
「“思い出”が大切なように“
昔と違い、今や専任警護として共にいる時間は長い。その上、昔からの付き合いという意味でも一部の者を除けば、男は若くして“古株の一人”として挙げられよう。
それでも、壮年から掛けられる言葉のほとんどが、
普段耳にすることのない“何か”が込められた壮年の言葉に、戸惑うばかりの男の返答を壮年が待つことはなかった。
付き人の手からステッキを受け取り、扉口に向かって歩み始める。
男がポケットから何かを取り出しかけたが――いやそう見えただけなのかもしれない――空手を抜いて扉を開けた。既にその顔はいつもの鉄面皮に戻っている。
壮年が部屋を後にしても、男――ディラン・ウェイアードの口から返事が紡がれることはなかった。
*****
「――本当にお気づきになりませんので?」
壮年の後を追うべく踏み出しかけたディランの足を止めたのは、付き人とは別の4人目――禿頭の老人の声だった。これまでディランの隣にいたのを気づかなかったらしい付き人だけが、驚きも露わにぽかんと口を開けている。
振り向いたディランが無言で問いかけると、どこか困ったような顔で老人は答えた。
「
嘆息さえ交えつつ、視線をこの場ではない彼方の方へと向ける。
「……
「――っ」
その一言でディランの巌のような頬がびくりと震えた。
気づいたからだ。
今日が何の日かを。
「
確かに、ディランはマルコに拾われた。ただの気紛れと云う者が大半であったが、漠然とそうではないと思っていた。無論、理屈などなく単なる直感に過ぎない。おかげで思春期の頃には、その理由が気になって頭から離れぬ時期もあった。だが、それなりに成長した今ならば、老人の説かんとする話しも正解か否かは別にして十分に理解はできる。
誰しも、失ったものが大きいほど、その空きを何かで埋めようとするものではないか?
「ですが、そうして見守り続けてきたからこそ、分かってもいたのです。貴方様の献身を。それが故に、いつの間にかご自分が癒やされていたことを」
「……支えられていたのは、常に俺の方だ」
「“互いに”で、よいではないですか」
憮然と呟くディランに“謙虚も過ぎれば”と老人が説く。そうして、「何が切っ掛けか分かりませんが」と穏やかな視線で壮年が消えた扉向こうを見やり――
「前を向けるようになったのですよ、きっと。あの方が祝ってくれた誕生日という“過去”でなく、貴方様と出会えた今日という“
そうして深々と頭を下げる老人に、ディランは無言できびすを返した。今度こそ、壮年の後を追うために。心持ち、先ほどより足取りに力強さを感じさせつつ。
「……貴方の献身も、支えになってるだろう」
ディランが言い置いたそれを老人が耳にしたのかは分からない。振り向かずとも分かるのは、彼の気が済むまで、しばらく頭を上げることはないだろうということであった。