幕間(4)桐生(前編)
文字数 9,718文字
Anytime Anyway――
「――いると思った」
少女の声を背に受けても、学生服の少年は青草の上に腰掛けたまま、身動ぎひとつしなかった。
右肩に小鳥を止まらせ、うつむき加減の視線は近くで静かなダンスを舞っている蝶のツガイを追っているのだろうか。
小鳥が飛び立ち、下草を踏む足音が近づいてくる。
「静かだとは思うけど、何がそんなにイイわけ?」
無言のまま少年の顔が上を向く。
林の中にぽつんと産み落とされた陽だまりは、ここが1000万もの人が暮らす世界で有数の超過密都市であることを忘れさせるほど、静けさに満ちていた。
仰げば、陽光を遮るもののない澄んだ青空が望める。
少年は両手を頭の後ろに回して枕とし、白シャツが青露に濡れることも厭わず寝転ぶ。その少し離れた隣に腰掛ける気配は少女のものだろう。
「……お前こそ、珍しいな」
「今日はみんなで茶葉の買い物。部長が“安くてイイ店”を見つけたからって」
「なんで一緒に行かない?」
「いいじゃん、べつに」
それきり会話が途切れる。
その場に気まずさ が訪れないのは、二人にとってそれがいつものことだからだ。
小中高と一緒の学校でいわゆる“腐れ縁”という関係だ。さすがに子供の頃と違い、中学に入る頃には二人の間で会話を交わすことは少なくなったが、気づけば少年の隣に少女がいることが多い。
友人の少ない少年と違い、少女は部活動にも精力的で、時間ができたのなら、男女問わずカラオケの誘いでも何でもあって当然のはずだ。彼女が口にしたように、わざわざこんな面白みのないところへ立ち寄る必要はない。
むき出しの健康的な太腿を細い手がさすり、短いスカートの端を目一杯に引っ張る。
「――そんなカッコでくるからだ」
少年が突き出した右手には雑巾のように握りしめられたハンカチが。少女の洩らした声が“笑い”と気づいて少年の唇がへの字に結ばれる。
「小さすぎるんだけど」
笑みを含んだ苦情とハンカチとの交換。少女に拒否はされなかったものの、割に合うのか否か微妙な表情のまま、少年は右手を引っ込める。
澄んだ青空に白い雲が形を変えながら右から左へ流れていく。
思ったより速い流れに、上空では風が強いのだと知れる。葉ずれの音さえ聞こえぬここ との違いに、自分だけ取り残されたような――世の、時の移ろいを妙に慌ただしく感じてしまう。
(もっとゆっくりでいいのに)
もう少しすれば、帰らなければならない。
無意識に少年の口から洩れたため息が、少女に気を遣わせてしまったのだろうか。
「……独りでいない方がよくない? ここは『壬申会』が狙ってるって話しだし」
「親父が何とかするさ」
「そうかもしれないけど。こんなトコでさ……夜うろついてる人影を見たとか、大量の機材を持ち込んでるとか、おかしな噂もあるんだよね。全部、『壬申会』が絡んでるみたいだけど」
「どっからの情報だよ?」
「噂よ、う・わ・さ」
魔法の言葉のように連発するが、理屈もなにもあったもんじゃない。少年は嘆息ひとつを感想として軽く聞き流す。少女も暇つぶし程度だったのか、それ以上話題を広げることもしなかった。
「……ここ、いい場所ね」
「……」
「……今度、たてて あげよっか」
「……」
「……」
「……」
ふいに、がさりと音を立てて、少女の顔がドアップで現れ、少年が端正な顔を初めて引き攣らせた。
「ぅお?!」
「こっちが驚きよ?! そこは“下ネタかよ!”とかツッコんだり、イジったりするとこでしょっ」
「ぇ? いや……」
面食らったままの少年を置き去りにして、少女は一気に捲し立てる。
「こっちが恥ずかしーっての。何なの、ヒトがせっかく茶をたててやろー と思ってんのに」
「下ネタじゃねーのかよ……」
「なに?」
キッと睨み付けてくる少女の細い肩を少年はそっと押しやり、人心地つける距離を保つ。
「いや、ぜひ頼むよ。今日みたいな天気なら、サイコーだと思う」
「でしょ?」
「ああ。花見で使ったシートでも敷いて、座布団も持ってきて。そうだ、『竜泉寺』の粟餅も買ってこよう」
「『竜泉寺』?! なら桜餅と団子も付けたいっ」
屈託のない少女の笑顔に少年は苦笑を洩らす。彼女の変わり身の早さには、何度見ても驚かされ、感心させられる。
「いいけど、食べるのがメインになりそうだな」
「いいのっ。『茶道部』に入ったのは和菓子をたくさん食べたかったからよ」
実際にはそうではないからこそ、ストレスが溜まると少女は嘆き、それ故に意気込みは強い。
「一度、あぐら をかいて、片手に茶、片手に串団子で豪快に“茶”をしたかったの」
「それって“茶”じゃねーよな?」
白い肌の美少女からくるイメージとは、だいぶかけ離れている行為であり妄想であるが、少年の知る“彼女のイメージ”と寸分変わることはない。
「勿体ないよ、お前――」
「え、なに?」
「……いや、何でも」
「よし、じゃあ明日ね」と戯 ける少女に「もう少し情緒を噛みしめろ」と応じる少年はいつの間にか笑み崩れていた。それを心底嬉しげに見つめる少女の心情を知ることはなく。
「じゃあ、来週あらためて。じゃね、カズマ」
「ああ、ハヤネ」
****
『伏竜会』――。
黒檀という厳つい看板を建てた門構え奥にある邸のさらに奥。
ひと部屋丸ごと神棚となっている中央に、石造りの長い台座が置かれ、その前に少年は座していた。
クセのない髪をオールバックで丁寧に撫でつけ、和服姿の着こなしも堂に入った姿のせいか、『神棚の間』という場所に違和感なく溶け込んでいる。
まるで修行僧のように。
事実、入室した少年がきれいに背筋を伸ばして正座し、端正な顔を何もない台座の上に向けてから、かれこれ一時間が過ぎていた。
「――身体に障るぞ」
声が掛けられる前に、月明かりで延びた影が台座を掠めていたのに少年は気づいている。だが、言葉とは裏腹の無機質な声が示すように、少年にとって、意識を向けるに値するものではない。
「奴らのちょっかい が酷くなってる。俺では止められなくなってきている。そのうち――」
「分かってる」
強い口調で遮る少年に、声の主は怒りを表す事もない。はじめから、情報伝達が目的と割り切ってるかのように、淡々と言葉を紡いでいく。
「最近、奴らの背後 にいるのが誰かが分かった。――『黒鷺 』だ」
びくりと震えた少年の肩を声の主は見逃さなかったはずだ。そして気づいてもいる――その要因が“怯え”にあると。
「昨日、ウチの若い衆がヤツに目を潰された。“直射日光を焼き付けられたようだ”と医者は言っていたが。――例の“まじない”か?」
「……」
「この二十年、“腕っ節”だけで我を通してきた人間だ。自慢じゃねえが、大概のヤツなら黙らせられるし、俺たちの力が通用するなら、何でもやってやる。だが、ヤツにはそれが通じん」
そこで初めて“憤懣”という感情の機微が声に込められるが、少年はやはり黙したまま。
「お前しかおらん」
「――分かってる」
間があったものの、少年は再び語気強く応じる。今度はどこか腹立たしげに。それきり場を包んだ沈黙が会話の終了を告げていた。
廊下が軋みを立て、声の主がきびすを返したのだと知れる。
「ヤツは……ヤツは正真正銘の下衆野郎だ。何をやってきても気を強く持て。呑まれたら、やられるぞ 」
「――――」
去り際に、そう言い捨てて声の主が去った。
最後まで視線さえ交わすことなく。
何を伝えたいかは少年にも分かる。『黒鷺』という人物の特異な嗜好 はその筋であまりに有名だからだ。
噂を耳にする分だけでも醜悪極まりなく、それでも未だに野放しになっているのは、狡賢さだけでなく、相当に腕が立つ からなのだと。そんな輩が絡んでくるとなれば、親 として心配するのは当然であったろう。
案じてくれていると、少年も頭では理解しているのだが、どうしても態度は硬く口も重くなる。顔を見れば怒りの方が先に来ると承知しているが故に。
「――俺より、母さんに顔を出してやれよ」
絞り出す少年の声は、誰にも届かず『神棚の間』に溶けて消える。
台座の上には、相変わらず何もないまま 。
眉一筋動かさず、しかし、膝上で固められた少年の拳が白くなる。どれほど祈り願っても、どうしてもそこに視ることができない 。だが、父親の力はもう及ばぬと伝えられ、そうなればもはや、“あの場所”を守れる者はいない。
突然、突きつけられた現実に動揺し、これまでも十分に感じていた無力感がさらに強められる。
(俺は自分の居場所すら守れないのか――)
よりによって、どうしてあの場所を?
確かに都心にとって、空き地は排除すべき無駄であり、同時に宝物でもあるのだろう。だが、武闘派で鳴らす暴力団に喧嘩を売ってまで、手に入れようとする理由は本当に“金”だけか?
『壬申会』では既に三人の役付が“負傷引退”に追い込まれ、まともに活動できるレベルではなくなっている。今回の抗争は、誰がどう考えても、とっくに割に合わなくなっていた。
それなのに――。
(よりによって『黒鷺』か――)
それこそ修行の賜で、同年代どころか、大学生を相手にしても腕っ節で劣るというつもりはなく、事実、少年の有する戦闘力は通常の高校生を遙かに凌駕している。
握力は80㎏を越え、80弱の自重を50回以上懸垂するパワーと1500メートル走を4分で走る足腰と心肺能力。それを組の“裏稽古”に混ざり、汚い手を含めた実戦稽古で存分に活かしてきた少年の力は、スポーツ武道を嗜む大人を歯牙にも掛けぬ領域にまで錬磨されていた。
だが、相手は“裏”よりなお深い“闇社会”の有名人だ。あまりに“格”が違いすぎる。
(いや、あれ さえ手にできれば――)
必死で台座を睨み付けるが、当然のように変化は何も起こらない。焦りが心をさざ波のように揺らし続け、心のどこかで「ダメだ」という諦めが澱のように堆積していくのが分かる。
「貴方ははじめに“何もない”のを見てしまった。だから“ない”と思い込んでるの」
「どういうこと?」
「貴方自身が認めてないのよ。欲していないとも言えるわね」
「??」
「強く欲しなさい。――いつでもそこに“ある”のだから」
母の言葉を少年はいつでも思い出せる。たった今交わした会話のように。だが、何度思い起こしても謎かけのような母の言葉を理解できず、未だに手にすることはできない。
桐生家に伝わるという至宝『無陰』を。
伝承では桐生家三代景義が『黒き槍』を振るったといい、七代義則は『濃緑の弓』を射ったと伝えられる。それの形すら様々であるが、“呪具”として優れているのは確かであり、光陰流宗家に相応しい力をもたらしたのは間違いない。
その栄光に浴すのが少年の定めであるはずだ。
事実、少年を取り上げた産婆は「百年に一人の逸材」と涙ながらに訴え、赤子から溢れる呪力ともいうべき力に抗しきれず力尽きたという。だがそれ以来、少年は“力”を失ったらしい。
いや、母親が言うには「息をひそめた」のだ。それは少年の無意識な優しさからくるのだと言っていた――。
あの会話からすでに二年が経過し――実質的には最初の三ヶ月で投げ出してしまっていたが――至宝を手にする鍛錬は未だ何の進展も見られない。正直、単なる座禅を組む毎日にすぎなかった。
今宵もまた。
この後更に一時間、何もない台座を少年は凝視し続けていたのだった。
****
「一馬君、ハヤネ来てない?」
零時前の電話が、叔母さんからと知って少年はひどく動揺した。嫌な予感に動悸が高まり、気づけば自身の胸部が強い鼓動でかすかに揺れているのさえ感じられるほどに。
「一馬君?」
「いえっ。来てないです。どうして俺に?」
「あの子が慌てて出かけていくのに気づいたとき、貴方の名を呼んでた気がして……」
叔母さんの要領を得ない話しを遠く耳にしながら、少年はスマホをチェックすべきだと気がついた。そうなればいてもたってもいられない。
「俺も捜しますよ。何か分かったら連絡します」
口早に言って、相手の反応も待たずに電話を切る。即座にメールの着信をチェックするが、残念ながら何もない。あるのは迷惑メールと同義と決めつけてるアプリの更新等に関する通知メールばかりで苛立ちを募らせる。
「くそっ。なにやってんだよ、あいつ」
腕を振り、部屋の中を彷徨 き回る。それが意味の無いことと気づいて、とにかく外に出ようと着替え始めた。
「――まさか、空き地じゃないよな」
『壬申会』が夜な夜な現れるとも言っていた。実際、何をしているのか分からぬが、今夜も何かがあるとハヤネは独自の情報網で知って、確かめようとしてるのではないか?
あまりに馬鹿馬鹿しい推測だが、放っとけずに行動するのがハヤネだ。否定するどころか、あり得そうで段々無視できなくなってくる。
「くそっ。やめろよ。放っとけよ、馬鹿野郎」
行き場のない怒りを抱えたまま、財布とスマホだけは持って、少年は裸足で部屋を飛び出した。
「若、どうしました?」
「何でもないっ」
最近立てたらしい夜番の男を振り切るようにして邸を出る。愛用のクロスバイクで向かえば大して時間はかかるまい。
「――ハヤネの野郎、出やがらねえ」
野郎じゃない、と怒られそうだがそんなことを気にしてる余裕はない。スマホの呼び出し音が確かに鳴っているのに、「応答無し」というのが少年を余計に焦らせる。
やっぱり何かあったのか。
少年は不安を振り払うようにハンドルを強く握りしめ、全力でペダルをぶん回し、疾風のごとく路上を切り裂く。
車両の通行をきっちり見極めた上で、堂々と信号無視を繰り返し、前方に黒々とした林影が浮き上がってきた頃には背中に汗が滲んでいた。
「どこだ――?!」
いや、あの場所にいるのだろう。自転車を乗り捨てて、周辺に人気が無いのを確認した上で走り出す。 自転車による全身運動をやめた途端、一気に汗が噴き出し、目に染みた微妙な痛みを嫌って、ひっきりなしに手の甲で目をこする。
「ぜぇ、ぜぃ……ぜっ」
酸素を求める口は開きっぱなしで、こんなに消耗してしまっては、万一の際、彼女を助ける力が残せないと頭では分かっている。だが、少年の足取りは緩まるどころか、目的地に近づくにつれ、むしろ早まるばかりだ。
(ハヤネ――)
彼女の名を胸中で呼ぶたびに疲れを忘れ、力が湧き上がる。そんな自身に起こっている不可思議な現象には無自覚で、少年の心を占めるのは抑えがたい焦りと救いたい気持ち。
(ハヤネ――)
絶体に見つけなければならない。今もどこかで彼女が――
前方に光の舞台が見えた。
闇に包まれた林内で、そこだけ月明かりが降り注ぐ幻想的な舞台は、離れた位置だからこそ映えて見えるのだろう。
勝手知ったる場所なのに、初めて見る光景を、だが堪能している余裕はない。なぜなら――
そこに蠢く複数の人影が。ざわり、と訳も分からず少年の全身が総毛立つ。
「ハヤネ――」
少年の洩れた声は、見つけた安堵でなく“絶句”。 想像外のシーンを目にしたが為に。
輪を描く人影たちの中心に、蹲 る影とその間に見える細く長い白い足。
くぐもった声は男のものか女のものか。
少年の声が届いた瞬間、もつれ蠢く影の塊がぴたりと止まる。
「カズ――いやっ」
「なんだ、おめえ?!」
少女の確かな苦鳴を罵声が掻き消す。
輪が乱れ、途端に獣臭が少年の面貌を叩いたような気がした。暴力に馴れきった声には明らかな脅しが含まれている。
「失せろや、兄ちゃん」
いかにも頭の悪そうな角刈りが近づいてくるのを少年は無視して、白い足の向こうに見える小顔に釘付けになっていた。
その顔は捜し続けた彼女に違いなく、だがある意味でそうではない――だって。だってその表情。
(何で――)
恐怖と恥辱とに塗りつぶされた少女の顔に、何よりも浮かんでいるのは、少年に対する“絶対的な拒絶”。
「――ぉ」
思わぬ感情をぶつけられて、少年は何かを叫ばんと口を開けたまま、全身を硬直させてしまう。それを角刈りは完全に誤解していた。
「なあ、そう怖がんな。俺ら大事な仕事の真っ最中だからよ。邪魔しねえで帰ってほしいのよ、な?」「――」
「サジ、怖がらせ過ぎだ。固まって動けないんじゃ逆効果だろうが」
嗤い声に「そいつも混ぜて やったらどうだ」と別の声が上がって、周囲に下卑た笑いが谺した。
再び動き出す影の塊に視線が集まる。
「黒鷺さん。俺らにもちゃんと――」
取り巻きの一人が、少女に覆い被さる人影にそう声を掛けたとき、どさりと音がして全員がサジの方を見やった。
まさか殺っちまったのか、と。
「おい、サジ――?」
「どけろ」
低い声に取り巻き連中の表情が変わった。月明かりの下に現れたのが、想像以上に若い少年だと気づいたからであり、そんな少年が放つとは思えぬ強烈な殺気を全身に浴びせられたからであった。
だがひとり、変わらず一定の律動を続ける黒鷺と呼ばれた人物に、少年が犬歯を剥き出しにして叫ぶ。
「ハヤネからどけろと言ってるんだよっ!!」
物理的圧力を伴って殺気が叩きつけられた時、少年の肉体は、一瞬で黒鷺のすぐ傍に近づき、目一杯に右拳を振りかぶっていた。
あ然と反応できぬ取り巻きを置き去りにして、怒気を孕んだ少年の右拳が唸りを上げ、次の瞬間、音もなくより大きな掌に包み込まれていた。
「――?!」
目を剥く少年の腕が引きつけられ、よろめいたところで、いつの間にか手にした黒鷺の“短冊”が胸に貼り付けられる。
「『煌』」
それが黒鷺の呟きと少年に気づく余裕はなかった。目を眩 ますまばゆい光が札から発せられ、その光に押されるかのように肉体を吹き飛ばされる。
「――ぐぅっ」
地面に叩きつけられた痛みよりも、息ができずに少年は悶えた。あまりの眩しさに心肺機能が驚き放心し、呼吸という己の使命を一時忘れてしまったかのように。
「俺の“光”は万物の使命 を一時的に眩ます輝きを宿す」
かすかに湿った音をたてて黒鷺が少女から離れ、ゆっくりと立ち上がった。
少女のあられもない姿と歪んだ表情に獣欲を掻き立てられた取り巻きが、呻いて思わず屈み込むのを黒い何かが叩きつけられ、仰向けにひっくり返った。それが黒鷺の蹴りだと認識できた者はいない。
「――まだ済んでない 」
それの意味するところを暴力に敏感な者達は察して顔を苦痛に歪ませた。おあずけ を喰らって素直に従えるほど、主従関係が深い訳ではないらしい。
「そんな――」
「分かってるな? 面倒だから殺さないだけだ」
敵味方の区別なく。
喘ぐ獣共にもうひと釘差しておき、ようやく少年の方へ向き直る。瑞々しい少女の肉体を名残惜しそうに眺めながら。
「桐生だな。その殺気――“無能”と聞いていたが、誰かに封じられていたか。それを自力でこじ開けるとは、やはり宗家の子か」
意外にも取り巻きの誰よりも低い小柄な体躯とは裏腹に、陰々と響く声は“絶対者”としての自信に満ち溢れている。
裏社会だけでなく、闇社会でも忌避されながら、誰も手出しできぬ力を有する者。『黒鷺』である彼だからこそ、許される傲慢だ。
それを耳にしながら、少年は子鹿のように脚を震わせつつ立ち上がるところであった。双眸に激しい怒気を漲らせて。
「ここに宗家の至宝が眠ると睨んでいたが、どうやら違ったようだ。まあ、代わりに思わぬ馳走 に預かったから、あながち無駄でもなかったが」
「! ……そんなもののために?」
少年が身動きしない少女を見やる意味を黒鷺が理解したのかどうか。
「どちらの価値も 分かっていないようだな。至宝は無論、お前達自身
のこともな。……ちなみに格別だぞ、この娘は」
「黙れっ」
あまりにわざとらしい黒鷺の台詞に、簡単に反応した少年が、手負いとは思えぬ素早さで再び黒鷺に躍りかかる。
「速さ は認めるが、そんな教える拳 じゃ当たらんな」
扇風機のように拳を振り回す少年の攻撃を上半身だけの動きで避けてみせ、黒鷺は口元に嘲笑を浮かべる。
タイミングをみて少年に足払いをかけ、バランスを失ったところに拳を叩き込んだ。地面に倒れたところに大上段から踵を振り下ろす。
「ごっ……」
「術を使う必要もないな。お前には『至宝』を渡してもらいたいから、痛めつけるのはこの辺にしておこう。それよりも――」
小柄と思えぬ強力で少年を俯かせ、その腰に手を回す。
「一度、宗家の子を味わって みたかったんだ」
「何を――」
「知っているだろう。俺の嗜好 を?」
耳元で囁かれて少年の背中を悪寒が走り抜ける。全身が鳥肌たっているのが分かった。
「ふざけんな。やめろっ」
血相を変えた少年が無我夢中で暴れ回る。雄叫びを上げ、全身が沸騰するほどの力を込めて死力を尽くすも、力士に抑え込まれたように、二人の身体は微も揺らがない。その時完全に何もかもを忘れて、ただ利己的に、己のためだけに、少年は逃れようと必死で足掻いた。
『黒鷺』という化け物から。
あの気色悪い噂と同じ目に、自分が合わせられるなんて。
(冗談じゃねえっ!!)
その灼熱と屈辱を忘れることはないだろう。それは肉体でなく魂に捺された“汚れた焼き印”だ。
やがて、それを受け入れた後、激痛の中にあって思っていたのは、ただハヤネのことであった。
(ハヤネもこの痛みを――いや、これ以上の痛みをあいつは――)
爪に土が食い込み、生爪が剥がれ落ちかけるのも構わず、少年は地面を掻き毟りながら、ただ歯を食い縛る。
分かっていなかった。
自分は何も分かっていなかった。ハヤネが受けた痛みに比べれば、この痛み が何だというのか。
この恥辱を知人に見られたくはない。
自分はもう――
ハヤネが見せた拒絶の意味を少年は痛みと共に知った。同じ目に遭ってようやく。
(ハヤネ――)
すまない、という気持ち。悔しい、という気持ち。憎い、という気持ち。すべての気持ちがごちゃまぜになり、だがどれもが今ある痛みを表現し得ない。
ただ、湧き上がってくるものがある。
祈りのように。
執念のように。
(殺してやる――)
激痛が走るたびに、黒く濁りきった汚泥が自分の中に溜まっていく。恥辱と憤怒に塗れた煮えたぎる汚泥が。
(殺してやる――)
それ以上の何も浮かばない。
意地でも声を殺し、自分の最も深いところで喚き散らしながら、ひたすら恨み辛みを積み上げていく。誓う。呪う。必ず果たしてやるのだと。
(殺す。殺す。殺す。殺す……)
スマホを手がかりに、少年の父親達が駆けつけたときには放心した無残な二人が残されていただけであった。
「――いると思った」
少女の声を背に受けても、学生服の少年は青草の上に腰掛けたまま、身動ぎひとつしなかった。
右肩に小鳥を止まらせ、うつむき加減の視線は近くで静かなダンスを舞っている蝶のツガイを追っているのだろうか。
小鳥が飛び立ち、下草を踏む足音が近づいてくる。
「静かだとは思うけど、何がそんなにイイわけ?」
無言のまま少年の顔が上を向く。
林の中にぽつんと産み落とされた陽だまりは、ここが1000万もの人が暮らす世界で有数の超過密都市であることを忘れさせるほど、静けさに満ちていた。
仰げば、陽光を遮るもののない澄んだ青空が望める。
少年は両手を頭の後ろに回して枕とし、白シャツが青露に濡れることも厭わず寝転ぶ。その少し離れた隣に腰掛ける気配は少女のものだろう。
「……お前こそ、珍しいな」
「今日はみんなで茶葉の買い物。部長が“安くてイイ店”を見つけたからって」
「なんで一緒に行かない?」
「いいじゃん、べつに」
それきり会話が途切れる。
その場に
小中高と一緒の学校でいわゆる“腐れ縁”という関係だ。さすがに子供の頃と違い、中学に入る頃には二人の間で会話を交わすことは少なくなったが、気づけば少年の隣に少女がいることが多い。
友人の少ない少年と違い、少女は部活動にも精力的で、時間ができたのなら、男女問わずカラオケの誘いでも何でもあって当然のはずだ。彼女が口にしたように、わざわざこんな面白みのないところへ立ち寄る必要はない。
むき出しの健康的な太腿を細い手がさすり、短いスカートの端を目一杯に引っ張る。
「――そんなカッコでくるからだ」
少年が突き出した右手には雑巾のように握りしめられたハンカチが。少女の洩らした声が“笑い”と気づいて少年の唇がへの字に結ばれる。
「小さすぎるんだけど」
笑みを含んだ苦情とハンカチとの交換。少女に拒否はされなかったものの、割に合うのか否か微妙な表情のまま、少年は右手を引っ込める。
澄んだ青空に白い雲が形を変えながら右から左へ流れていく。
思ったより速い流れに、上空では風が強いのだと知れる。葉ずれの音さえ聞こえぬ
(もっとゆっくりでいいのに)
もう少しすれば、帰らなければならない。
無意識に少年の口から洩れたため息が、少女に気を遣わせてしまったのだろうか。
「……独りでいない方がよくない? ここは『壬申会』が狙ってるって話しだし」
「親父が何とかするさ」
「そうかもしれないけど。こんなトコでさ……夜うろついてる人影を見たとか、大量の機材を持ち込んでるとか、おかしな噂もあるんだよね。全部、『壬申会』が絡んでるみたいだけど」
「どっからの情報だよ?」
「噂よ、う・わ・さ」
魔法の言葉のように連発するが、理屈もなにもあったもんじゃない。少年は嘆息ひとつを感想として軽く聞き流す。少女も暇つぶし程度だったのか、それ以上話題を広げることもしなかった。
「……ここ、いい場所ね」
「……」
「……今度、
「……」
「……」
「……」
ふいに、がさりと音を立てて、少女の顔がドアップで現れ、少年が端正な顔を初めて引き攣らせた。
「ぅお?!」
「こっちが驚きよ?! そこは“下ネタかよ!”とかツッコんだり、イジったりするとこでしょっ」
「ぇ? いや……」
面食らったままの少年を置き去りにして、少女は一気に捲し立てる。
「こっちが恥ずかしーっての。何なの、ヒトがせっかく
「下ネタじゃねーのかよ……」
「なに?」
キッと睨み付けてくる少女の細い肩を少年はそっと押しやり、人心地つける距離を保つ。
「いや、ぜひ頼むよ。今日みたいな天気なら、サイコーだと思う」
「でしょ?」
「ああ。花見で使ったシートでも敷いて、座布団も持ってきて。そうだ、『竜泉寺』の粟餅も買ってこよう」
「『竜泉寺』?! なら桜餅と団子も付けたいっ」
屈託のない少女の笑顔に少年は苦笑を洩らす。彼女の変わり身の早さには、何度見ても驚かされ、感心させられる。
「いいけど、食べるのがメインになりそうだな」
「いいのっ。『茶道部』に入ったのは和菓子をたくさん食べたかったからよ」
実際にはそうではないからこそ、ストレスが溜まると少女は嘆き、それ故に意気込みは強い。
「一度、
「それって“茶”じゃねーよな?」
白い肌の美少女からくるイメージとは、だいぶかけ離れている行為であり妄想であるが、少年の知る“彼女のイメージ”と寸分変わることはない。
「勿体ないよ、お前――」
「え、なに?」
「……いや、何でも」
「よし、じゃあ明日ね」と
「じゃあ、来週あらためて。じゃね、カズマ」
「ああ、ハヤネ」
****
『伏竜会』――。
黒檀という厳つい看板を建てた門構え奥にある邸のさらに奥。
ひと部屋丸ごと神棚となっている中央に、石造りの長い台座が置かれ、その前に少年は座していた。
クセのない髪をオールバックで丁寧に撫でつけ、和服姿の着こなしも堂に入った姿のせいか、『神棚の間』という場所に違和感なく溶け込んでいる。
まるで修行僧のように。
事実、入室した少年がきれいに背筋を伸ばして正座し、端正な顔を何もない台座の上に向けてから、かれこれ一時間が過ぎていた。
「――身体に障るぞ」
声が掛けられる前に、月明かりで延びた影が台座を掠めていたのに少年は気づいている。だが、言葉とは裏腹の無機質な声が示すように、少年にとって、意識を向けるに値するものではない。
「奴らの
「分かってる」
強い口調で遮る少年に、声の主は怒りを表す事もない。はじめから、情報伝達が目的と割り切ってるかのように、淡々と言葉を紡いでいく。
「最近、奴らの
びくりと震えた少年の肩を声の主は見逃さなかったはずだ。そして気づいてもいる――その要因が“怯え”にあると。
「昨日、ウチの若い衆がヤツに目を潰された。“直射日光を焼き付けられたようだ”と医者は言っていたが。――例の“まじない”か?」
「……」
「この二十年、“腕っ節”だけで我を通してきた人間だ。自慢じゃねえが、大概のヤツなら黙らせられるし、俺たちの力が通用するなら、何でもやってやる。だが、ヤツにはそれが通じん」
そこで初めて“憤懣”という感情の機微が声に込められるが、少年はやはり黙したまま。
「お前しかおらん」
「――分かってる」
間があったものの、少年は再び語気強く応じる。今度はどこか腹立たしげに。それきり場を包んだ沈黙が会話の終了を告げていた。
廊下が軋みを立て、声の主がきびすを返したのだと知れる。
「ヤツは……ヤツは正真正銘の下衆野郎だ。何をやってきても気を強く持て。呑まれたら、
「――――」
去り際に、そう言い捨てて声の主が去った。
最後まで視線さえ交わすことなく。
何を伝えたいかは少年にも分かる。『黒鷺』という人物の
噂を耳にする分だけでも醜悪極まりなく、それでも未だに野放しになっているのは、狡賢さだけでなく、相当に
案じてくれていると、少年も頭では理解しているのだが、どうしても態度は硬く口も重くなる。顔を見れば怒りの方が先に来ると承知しているが故に。
「――俺より、母さんに顔を出してやれよ」
絞り出す少年の声は、誰にも届かず『神棚の間』に溶けて消える。
台座の上には、相変わらず
眉一筋動かさず、しかし、膝上で固められた少年の拳が白くなる。どれほど祈り願っても、どうしてもそこに
突然、突きつけられた現実に動揺し、これまでも十分に感じていた無力感がさらに強められる。
(俺は自分の居場所すら守れないのか――)
よりによって、どうしてあの場所を?
確かに都心にとって、空き地は排除すべき無駄であり、同時に宝物でもあるのだろう。だが、武闘派で鳴らす暴力団に喧嘩を売ってまで、手に入れようとする理由は本当に“金”だけか?
『壬申会』では既に三人の役付が“負傷引退”に追い込まれ、まともに活動できるレベルではなくなっている。今回の抗争は、誰がどう考えても、とっくに割に合わなくなっていた。
それなのに――。
(よりによって『黒鷺』か――)
それこそ修行の賜で、同年代どころか、大学生を相手にしても腕っ節で劣るというつもりはなく、事実、少年の有する戦闘力は通常の高校生を遙かに凌駕している。
握力は80㎏を越え、80弱の自重を50回以上懸垂するパワーと1500メートル走を4分で走る足腰と心肺能力。それを組の“裏稽古”に混ざり、汚い手を含めた実戦稽古で存分に活かしてきた少年の力は、スポーツ武道を嗜む大人を歯牙にも掛けぬ領域にまで錬磨されていた。
だが、相手は“裏”よりなお深い“闇社会”の有名人だ。あまりに“格”が違いすぎる。
(いや、
必死で台座を睨み付けるが、当然のように変化は何も起こらない。焦りが心をさざ波のように揺らし続け、心のどこかで「ダメだ」という諦めが澱のように堆積していくのが分かる。
「貴方ははじめに“何もない”のを見てしまった。だから“ない”と思い込んでるの」
「どういうこと?」
「貴方自身が認めてないのよ。欲していないとも言えるわね」
「??」
「強く欲しなさい。――いつでもそこに“ある”のだから」
母の言葉を少年はいつでも思い出せる。たった今交わした会話のように。だが、何度思い起こしても謎かけのような母の言葉を理解できず、未だに手にすることはできない。
桐生家に伝わるという至宝『無陰』を。
伝承では桐生家三代景義が『黒き槍』を振るったといい、七代義則は『濃緑の弓』を射ったと伝えられる。それの形すら様々であるが、“呪具”として優れているのは確かであり、光陰流宗家に相応しい力をもたらしたのは間違いない。
その栄光に浴すのが少年の定めであるはずだ。
事実、少年を取り上げた産婆は「百年に一人の逸材」と涙ながらに訴え、赤子から溢れる呪力ともいうべき力に抗しきれず力尽きたという。だがそれ以来、少年は“力”を失ったらしい。
いや、母親が言うには「息をひそめた」のだ。それは少年の無意識な優しさからくるのだと言っていた――。
あの会話からすでに二年が経過し――実質的には最初の三ヶ月で投げ出してしまっていたが――至宝を手にする鍛錬は未だ何の進展も見られない。正直、単なる座禅を組む毎日にすぎなかった。
今宵もまた。
この後更に一時間、何もない台座を少年は凝視し続けていたのだった。
****
「一馬君、ハヤネ来てない?」
零時前の電話が、叔母さんからと知って少年はひどく動揺した。嫌な予感に動悸が高まり、気づけば自身の胸部が強い鼓動でかすかに揺れているのさえ感じられるほどに。
「一馬君?」
「いえっ。来てないです。どうして俺に?」
「あの子が慌てて出かけていくのに気づいたとき、貴方の名を呼んでた気がして……」
叔母さんの要領を得ない話しを遠く耳にしながら、少年はスマホをチェックすべきだと気がついた。そうなればいてもたってもいられない。
「俺も捜しますよ。何か分かったら連絡します」
口早に言って、相手の反応も待たずに電話を切る。即座にメールの着信をチェックするが、残念ながら何もない。あるのは迷惑メールと同義と決めつけてるアプリの更新等に関する通知メールばかりで苛立ちを募らせる。
「くそっ。なにやってんだよ、あいつ」
腕を振り、部屋の中を
「――まさか、空き地じゃないよな」
『壬申会』が夜な夜な現れるとも言っていた。実際、何をしているのか分からぬが、今夜も何かがあるとハヤネは独自の情報網で知って、確かめようとしてるのではないか?
あまりに馬鹿馬鹿しい推測だが、放っとけずに行動するのがハヤネだ。否定するどころか、あり得そうで段々無視できなくなってくる。
「くそっ。やめろよ。放っとけよ、馬鹿野郎」
行き場のない怒りを抱えたまま、財布とスマホだけは持って、少年は裸足で部屋を飛び出した。
「若、どうしました?」
「何でもないっ」
最近立てたらしい夜番の男を振り切るようにして邸を出る。愛用のクロスバイクで向かえば大して時間はかかるまい。
「――ハヤネの野郎、出やがらねえ」
野郎じゃない、と怒られそうだがそんなことを気にしてる余裕はない。スマホの呼び出し音が確かに鳴っているのに、「応答無し」というのが少年を余計に焦らせる。
やっぱり何かあったのか。
少年は不安を振り払うようにハンドルを強く握りしめ、全力でペダルをぶん回し、疾風のごとく路上を切り裂く。
車両の通行をきっちり見極めた上で、堂々と信号無視を繰り返し、前方に黒々とした林影が浮き上がってきた頃には背中に汗が滲んでいた。
「どこだ――?!」
いや、あの場所にいるのだろう。自転車を乗り捨てて、周辺に人気が無いのを確認した上で走り出す。 自転車による全身運動をやめた途端、一気に汗が噴き出し、目に染みた微妙な痛みを嫌って、ひっきりなしに手の甲で目をこする。
「ぜぇ、ぜぃ……ぜっ」
酸素を求める口は開きっぱなしで、こんなに消耗してしまっては、万一の際、彼女を助ける力が残せないと頭では分かっている。だが、少年の足取りは緩まるどころか、目的地に近づくにつれ、むしろ早まるばかりだ。
(ハヤネ――)
彼女の名を胸中で呼ぶたびに疲れを忘れ、力が湧き上がる。そんな自身に起こっている不可思議な現象には無自覚で、少年の心を占めるのは抑えがたい焦りと救いたい気持ち。
(ハヤネ――)
絶体に見つけなければならない。今もどこかで彼女が――
前方に光の舞台が見えた。
闇に包まれた林内で、そこだけ月明かりが降り注ぐ幻想的な舞台は、離れた位置だからこそ映えて見えるのだろう。
勝手知ったる場所なのに、初めて見る光景を、だが堪能している余裕はない。なぜなら――
そこに蠢く複数の人影が。ざわり、と訳も分からず少年の全身が総毛立つ。
「ハヤネ――」
少年の洩れた声は、見つけた安堵でなく“絶句”。 想像外のシーンを目にしたが為に。
輪を描く人影たちの中心に、
くぐもった声は男のものか女のものか。
少年の声が届いた瞬間、もつれ蠢く影の塊がぴたりと止まる。
「カズ――いやっ」
「なんだ、おめえ?!」
少女の確かな苦鳴を罵声が掻き消す。
輪が乱れ、途端に獣臭が少年の面貌を叩いたような気がした。暴力に馴れきった声には明らかな脅しが含まれている。
「失せろや、兄ちゃん」
いかにも頭の悪そうな角刈りが近づいてくるのを少年は無視して、白い足の向こうに見える小顔に釘付けになっていた。
その顔は捜し続けた彼女に違いなく、だがある意味でそうではない――だって。だってその表情。
(何で――)
恐怖と恥辱とに塗りつぶされた少女の顔に、何よりも浮かんでいるのは、少年に対する“絶対的な拒絶”。
「――ぉ」
思わぬ感情をぶつけられて、少年は何かを叫ばんと口を開けたまま、全身を硬直させてしまう。それを角刈りは完全に誤解していた。
「なあ、そう怖がんな。俺ら大事な仕事の真っ最中だからよ。邪魔しねえで帰ってほしいのよ、な?」「――」
「サジ、怖がらせ過ぎだ。固まって動けないんじゃ逆効果だろうが」
嗤い声に「そいつも
再び動き出す影の塊に視線が集まる。
「黒鷺さん。俺らにもちゃんと――」
取り巻きの一人が、少女に覆い被さる人影にそう声を掛けたとき、どさりと音がして全員がサジの方を見やった。
まさか殺っちまったのか、と。
「おい、サジ――?」
「どけろ」
低い声に取り巻き連中の表情が変わった。月明かりの下に現れたのが、想像以上に若い少年だと気づいたからであり、そんな少年が放つとは思えぬ強烈な殺気を全身に浴びせられたからであった。
だがひとり、変わらず一定の律動を続ける黒鷺と呼ばれた人物に、少年が犬歯を剥き出しにして叫ぶ。
「ハヤネからどけろと言ってるんだよっ!!」
物理的圧力を伴って殺気が叩きつけられた時、少年の肉体は、一瞬で黒鷺のすぐ傍に近づき、目一杯に右拳を振りかぶっていた。
あ然と反応できぬ取り巻きを置き去りにして、怒気を孕んだ少年の右拳が唸りを上げ、次の瞬間、音もなくより大きな掌に包み込まれていた。
「――?!」
目を剥く少年の腕が引きつけられ、よろめいたところで、いつの間にか手にした黒鷺の“短冊”が胸に貼り付けられる。
「『煌』」
それが黒鷺の呟きと少年に気づく余裕はなかった。目を
「――ぐぅっ」
地面に叩きつけられた痛みよりも、息ができずに少年は悶えた。あまりの眩しさに心肺機能が驚き放心し、呼吸という己の使命を一時忘れてしまったかのように。
「俺の“光”は
かすかに湿った音をたてて黒鷺が少女から離れ、ゆっくりと立ち上がった。
少女のあられもない姿と歪んだ表情に獣欲を掻き立てられた取り巻きが、呻いて思わず屈み込むのを黒い何かが叩きつけられ、仰向けにひっくり返った。それが黒鷺の蹴りだと認識できた者はいない。
「――まだ
それの意味するところを暴力に敏感な者達は察して顔を苦痛に歪ませた。
「そんな――」
「分かってるな? 面倒だから殺さないだけだ」
敵味方の区別なく。
喘ぐ獣共にもうひと釘差しておき、ようやく少年の方へ向き直る。瑞々しい少女の肉体を名残惜しそうに眺めながら。
「桐生だな。その殺気――“無能”と聞いていたが、誰かに封じられていたか。それを自力でこじ開けるとは、やはり宗家の子か」
意外にも取り巻きの誰よりも低い小柄な体躯とは裏腹に、陰々と響く声は“絶対者”としての自信に満ち溢れている。
裏社会だけでなく、闇社会でも忌避されながら、誰も手出しできぬ力を有する者。『黒鷺』である彼だからこそ、許される傲慢だ。
それを耳にしながら、少年は子鹿のように脚を震わせつつ立ち上がるところであった。双眸に激しい怒気を漲らせて。
「ここに宗家の至宝が眠ると睨んでいたが、どうやら違ったようだ。まあ、代わりに思わぬ
「! ……そんなもののために?」
少年が身動きしない少女を見やる意味を黒鷺が理解したのかどうか。
「
「黙れっ」
あまりにわざとらしい黒鷺の台詞に、簡単に反応した少年が、手負いとは思えぬ素早さで再び黒鷺に躍りかかる。
「
扇風機のように拳を振り回す少年の攻撃を上半身だけの動きで避けてみせ、黒鷺は口元に嘲笑を浮かべる。
タイミングをみて少年に足払いをかけ、バランスを失ったところに拳を叩き込んだ。地面に倒れたところに大上段から踵を振り下ろす。
「ごっ……」
「術を使う必要もないな。お前には『至宝』を渡してもらいたいから、痛めつけるのはこの辺にしておこう。それよりも――」
小柄と思えぬ強力で少年を俯かせ、その腰に手を回す。
「一度、宗家の子を
「何を――」
「知っているだろう。俺の
耳元で囁かれて少年の背中を悪寒が走り抜ける。全身が鳥肌たっているのが分かった。
「ふざけんな。やめろっ」
血相を変えた少年が無我夢中で暴れ回る。雄叫びを上げ、全身が沸騰するほどの力を込めて死力を尽くすも、力士に抑え込まれたように、二人の身体は微も揺らがない。その時完全に何もかもを忘れて、ただ利己的に、己のためだけに、少年は逃れようと必死で足掻いた。
『黒鷺』という化け物から。
あの気色悪い噂と同じ目に、自分が合わせられるなんて。
(冗談じゃねえっ!!)
その灼熱と屈辱を忘れることはないだろう。それは肉体でなく魂に捺された“汚れた焼き印”だ。
やがて、それを受け入れた後、激痛の中にあって思っていたのは、ただハヤネのことであった。
(ハヤネもこの痛みを――いや、これ以上の痛みをあいつは――)
爪に土が食い込み、生爪が剥がれ落ちかけるのも構わず、少年は地面を掻き毟りながら、ただ歯を食い縛る。
分かっていなかった。
自分は何も分かっていなかった。ハヤネが受けた痛みに比べれば、
この恥辱を知人に見られたくはない。
自分はもう――
ハヤネが見せた拒絶の意味を少年は痛みと共に知った。同じ目に遭ってようやく。
(ハヤネ――)
すまない、という気持ち。悔しい、という気持ち。憎い、という気持ち。すべての気持ちがごちゃまぜになり、だがどれもが今ある痛みを表現し得ない。
ただ、湧き上がってくるものがある。
祈りのように。
執念のように。
(殺してやる――)
激痛が走るたびに、黒く濁りきった汚泥が自分の中に溜まっていく。恥辱と憤怒に塗れた煮えたぎる汚泥が。
(殺してやる――)
それ以上の何も浮かばない。
意地でも声を殺し、自分の最も深いところで喚き散らしながら、ひたすら恨み辛みを積み上げていく。誓う。呪う。必ず果たしてやるのだと。
(殺す。殺す。殺す。殺す……)
スマホを手がかりに、少年の父親達が駆けつけたときには放心した無残な二人が残されていただけであった。