121)メルヴィンなら怖くない
文字数 5,457文字
マリオンが出て行ったあと、こうして2匹はキュッリッキに密着していた。
「い~い? アタシの代わりにぃ、キューリちゃんのそばで守っているのよぉ~?」
そうマリオンに言いつけられているからだ。
たかが人間ごときに言われるまでもない、とフェンリルは言い返してやりたかった。しかし、今回大失態を犯している。
アルカネットに暴行されるキュッリッキを、助けることができなかったからだ。
ベルトルドとアルカネットは、キュッリッキにとっては保護者のような存在であり、2人に任せていれば安全だった。とくに
幸いベルトルドによって回避出来たものの、ベルトルドがいなかったらと、フェンリルは忸怩たる思いにかられている。
どこへ行くときも、片時も離れずついていっていた。しかしベルトルドの
キュッリッキを守るために人間の世界へ降臨したというのに、これでは本末転倒だ。
傷ついたキュッリッキの心の泣く声が、フェンリルの耳には聞こえている。痛くて痛くて、心臓が鷲掴みにされるような、そんな残酷な痛みの声だ。
幼子の頃から傍らで見守っているが、一体いつまでこの少女は辛い思いを味わい続けなければならないのだろう。アルケラの巫女として、尊ばれ大切にされるべき存在なのにだ。
1万年前の人間の世界とは、仕組みがだいぶ変わっている。しかしようやくキュッリッキは国の保護を受けることができた。当人の願いで傭兵団にいまだ属しているが、常に安全であるべきなのに、身内という死角からの暴行を受けてしまった。
もう、何が何でもキュッリッキのそばを離れない。けっして、危険なめにはあわせはしない。
そうフェンリルは、再度心に誓っていた。
ノックとともに顔を出したのは、メルヴィンだった。
「入ってもいい?」
「う、うん」
キュッリッキは全身を緊張で塗り固め、メルヴィンが部屋へ入ってくるのを見つめていた。嬉しさを上回って、怖くて心臓がドクドクした。
メルヴィンはベッドの横に置いてある椅子に座り、キュッリッキに優しく微笑みかけた。
「ただいま」
「どこか、出かけてたの?」
「ええ、ちょっとそこまで」
「そうなんだ……」
それ以上言葉が見つからず、キュッリッキはがっかりしたように俯いて、小さなため息をついた。我知らず、シーツを掴む手に力がこもる。
キュッリッキの様子を見つめながら、メルヴィンは先ほどの、マリオンから見せられたビジョンを思い出していた。
ハーメンリンナから戻ると、カーティスに呼ばれて談話室に行った。そこで、マリオンからキュッリッキの記憶を見せられたのだ。一人で抱え込むには複雑すぎて、結局マリオンはカーティスたちに相談し、メルヴィンにも真実を伝えようとなった。
メルヴィンは一瞬にして我を忘れそうなほど、カッと頭の中が沸騰して激怒した。
ヴァルトがビビったほどの怒気と殺気をまとって、爪竜刀に手をかけた。
再び弾丸のごとくアジトを飛び出しそうなメルヴィンをタルコットが抑え付け、ギャリーやルーファスによってなだめられた。それで頭が冷えてきたところで、ようやくキュッリッキの心情を思いやれるようになったのだ。
自分の怒りよりも、まず、キュッリッキのことなのだから。
キュッリッキは見ず知らずの男に、あんな振る舞いをされたわけではない。
心から信頼し、親のように慕う相手にされたのだ。
(助けてメルヴィン、怖いよ…助けてっ)
記憶の中のキュッリッキは、そう心の中で助けを求めていた。
(どれほど怖かっただろう…)
性的なことには、疎すぎるとマリオンから聞いている。あれでは疎くても関係なく、恐怖体験として心にキズが残る。
もっとよく冷静になるために、メルヴィンは自分の部屋に戻り暫く考えた。
キュッリッキから拒絶されたとき、驚きもしたし、正直ムッとしたのだ。
「愛しているんじゃないのか、オレを信じていないのか?」
そう思ってしまった。そしてそう思ってしまったことを、心から恥じた。少しでもそんな風に考えてしまった自分の心の狭さを、情けないと思った。
キュッリッキの身体に触れたい、キスをしたいという欲求はある。でも、今は自分のそんな欲求など気にしてる場合じゃない。
自分は男だから、ああされたことが、どれほど怖いことだったかなど正直判らない。なんとなくそんな感じなのかと、想像することでしか理解出来なかった。
今判ることは、キュッリッキは深く傷ついている、ということだ。
(立ち直れるよう、そばで支えになってやらなければならないんだ。それができるのは、オレだけだから)
そう改めて意を決して、キュッリッキの部屋を訪れた。
怪我が治ってから元気で明るかったのに、今はすっかり元気が失せてしまっている。そればかりか、目に見えて身体が一回り小さくなってしまった。ただでさえ華奢だというのに、これ以上痩せ細られると不安で仕方がない。
キュッリッキはずっと俯いて、自分の手を見つめていた。そしてメルヴィンも黙ってじっと、キュッリッキの顔を見つめていた。
暫く静かな時間が流れ、やがてキュッリッキがぽつり、と口を開いた。
「あの……ね」
「はい」
また口を閉じる。そして数分が経過したところで、再び話しだした。
「ベルトルドさんちでね……その、……アルカネットさんに、酷いこと、されたの…」
語尾が尻すぼみになる。肩に力を込めて、堪えるような表情で唇を震わせた。
「とっても怖かったの。…アルカネットさんなのに、アルカネットさんじゃないひとの顔をしてて怖かった。ベルトルドさんが助けてくれて、一生懸命、走って逃げてきたの」
そしてポロポロと、涙が頬を滑り落ちる。
「マリオンが……ね、それでメルヴィンを怖く感じちゃうんだって、言ってたの…」
メルヴィンが怖いんじゃない。メルヴィンが男だから、男というものに恐怖を感じているのだと。
「メルヴィンがあんな乱暴なことするわけないって、判ってるのにね…。――ホントはね、いますぐメルヴィンに抱きしめてほしい、キスしてほしい、でも怖い。アタシ、このままじゃメルヴィンに嫌われちゃう……メルヴィンに嫌われるの、一番ヤダぁ」
キュッリッキは大きくしゃくり上げると、声を上げて泣き出した。
やっと、気づいた。
確かに男というものに恐怖感をいだいた。初めて、そんな恐怖があるのだと知った。だけど、それ以上にこんなにも不安で恐ろしく感じているもの。
メルヴィンに嫌われてしまうこと、だった。
(男を、メルヴィンを怖がって拒絶し続けていれば、きっと愛想を尽かされちゃう。いつになったら克服できるかなんて判らない。それじゃメルヴィンはいつまで待てばいいの?きっとそんなに待ってくれないもん…)
そう思えば思うほど、焦りと恐怖で頭の中がおかしくなりそうだった。
メルヴィンを失うことなど、考えただけでゾッとする。もしそんなことになれば、もう生きていられない。勝手に自分は死んじゃう。
恐怖と恋しさの板挟みに、キュッリッキはどうしていいか判らず、ひたすら泣き続けていた。
一方、今すぐ抱きしめてやりたい衝動をグッと堪え、メルヴィンは我慢強くキュッリッキを見つめていた。
男というものを怖がりながら、しかしキュッリッキが最も恐れているも、それが自分に嫌われることだと判って、どうしようもなく愛おしさがこみ上げてくる。
(そんなことで、嫌ったりすることは絶対にないのに)
キュッリッキのいじらしさに、胸のあたりをかきむしりたいほど、メルヴィンの心は歓喜に震えていた。
やがてキュッリッキが泣き止んでくると、メルヴィンは立ち上がり、ベッドに腰を下ろした。
「リッキー、オレから触れるのが怖く感じるなら、リッキーがオレに触れてくれませんか」
「え?」
涙を手の甲で拭いながら、キュッリッキは一瞬きょとんとメルヴィンを見た。
自分が、メルヴィンに触れる。その発想は沸かなかった。
(自分から触れるなら、怖くないのかな? 大丈夫なのかな…)
一度しゃくり上げ、涙を拭う。そして、メルヴィンと距離を縮めるように、少しずつメルヴィンに寄った。
メルヴィンはキュッリッキが触れやすいように、身体をキュッリッキへ向ける。
少し躊躇したあと、恐る恐るといったように、キュッリッキは手を伸ばした。
まず肩に、指先で触れる。次に、そっと掌で腕に触れた。
少しも怖くない。
そして、両手で手に触れた。
(大きくて力強く、それでいて優しいメルヴィンの手)
この大きな手が触れるたびに、ドギマギした。まだ告白する前、自分の手を包み込むこの手に、安心と幸せを感じていた。それは今も変わらない。
(いつだってこの手に守られてた。優しく、あたたかく。それなのに、どうして怖いと思っちゃったのかな)
大好きで大好きでたまらない、メルヴィンの手なのに。
「メルヴィン……」
キュッリッキは再び目に涙を浮かべると、飛びつくようにしてメルヴィンに抱きついた。
「メルヴィンならもう大丈夫なの! メルヴィンならもう大丈夫だもん」
大好きなメルヴィンの手だから、もう怖いなんて思ったりしない。
「リッキー…」
メルヴィンはキュッリッキの身体に腕を回すと、そっと抱きしめた。
何年も触れていなかったような錯覚にとらわれるほど、久しく感じる愛しい少女のあたたかな身体。甘くて優しい香りが、鼻腔をくすぐっていく。メルヴィンはようやく、ホッと胸をなでおろした。
広い胸に顔を伏せて泣いていたキュッリッキは、顔を上げてメルヴィンを見上げる。
「ずっと、そばで、守ってくれる?」
「はい」
「アタシだけを、守ってね?」
「はい。必ず、あなただけを守ります」
「約束なんだからね」
「約束です」
キュッリッキは身体を起こすと、メルヴィンの両肩に手を置いた。そして顔を真っ赤にすると、不器用にメルヴィンにキスをした。
* * *
「あー、なんとか大丈夫そうだねえ」
「うんうん。愛の力よねぇ~」
ルーファスとマリオンは、しみじみと頷きあった。
「つーかよ、いい加減アイツらを覗いて、映像を共有すんのヤメねーか……。そのうち乳繰り合うところまで見せられそーなんだが!」
ザカリーがゲッソリした顔でルーファスを睨む。
「だってさ、気になるじゃん。心配デショー? 当傭兵団唯一の純粋派カップルなんだし。しっかり大事に見守っていってやらないと」
「単に面白がってるだけだろが」
「人聞き悪いなあ」
ギャリーにツッこまれて、ルーファスはえへへと笑って誤魔化した。
「まあ、暫くは我々男性陣――ガエルとハーマン除く――を怖がると思いますが、心が癒されるまで辛抱ですよ、みなさん」
ホッとしたようにカーティスに言われ、
「なんで、俺とハーマンは除外なんだ?」
ガエルが不思議そうに首をかしげた。
「やっぱそこは、クマと狐だからじゃない?」
ルーファスが代弁する。
「セクハラだ」
「クマがセクハラとかいってんじゃねーよ!! 腹がよじれるだろ!」
すかさずヴァルトが爆笑しながら茶化した。
「失敬な」
ムッと不愉快そうに、ガエルは眉間に縦ジワを刻んだ。
カーティスの予想通り、キュッリッキはガエルとハーマンは怖がらなかった。むしろ、積極的に抱きついたりしているくらいだ。
キュッリッキの認識では、ガエルもハーマンも、トゥーリ族は”歩く動物のぬいぐるみ”なのだ。そこに性別はあまり関係ないようである。
ただ、アイオン族やヴィプネン族の男性陣に関しては、やはり怖がってそばに寄ろうとしなかった。
デリケートな問題だけに、皆もわざとそばに寄ってからかったりせず、キュッリッキが怖がらない距離で接していた。
それから穏やかに一週間ほど過ぎた夜、それは突然やってきた。
飲みに出かけようとして、玄関を出ようとしたギャリーとタルコットは、ドアを開けた瞬間盛大に悲鳴を上げた。
「この馬鹿どもが、この俺を見て悲鳴を上げるな気色悪い!!」
腕を組んで、不機嫌そうに言ったその人物。
「な、御大!?」
ギャリーは目をぱちくりさせて、正面に立つ男を凝視した。
ドスのきいた悲鳴に驚いて、奥からみんながぞろぞろと駆けつけてくる。
「げっ、ベルトルド様!?」
「なにが”げっ”だルー。男に黄色い声で歓迎されると気色悪いが、ゲッとか言うな馬鹿者!」
「これは……ベルトルド卿」
みんな驚きと複雑な表情を浮かべ、偉そうに立つベルトルドを見やった。
「リッキー」
メルヴィンの後ろに隠れるようにして顔をのぞかせるキュッリッキに気づいて、ベルトルドはこれ以上にないほど優しい笑顔を向けた。
「こっちにおいで、リッキー」
ベルトルドはそう言って手を差し伸べる。しかしキュッリッキはメルヴィンにしがみついて、困ったように顔を伏せた。
そんなキュッリッキの様子に、一瞬だけベルトルドの表情に悲しげな笑みが過ぎった。
「どのようなご用件でしょう? ベルトルド卿」
カーティスが簾のような前髪の奥の目を眇め、ベルトルドにたずねる。
「リッキーを迎えに来た」