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文字数 2,311文字
その夜、アウルはなかなか眠れなかった。
ソーンのことを考えれば考えるほど腹がたってくる。
それから、ロー。
あれからずっと、ローの姿を見ていない。
きままな猫だ。ふらりといなくなることはこれまでもあった。気にすることはない、とアウルは自分に言い聞かせた。あれは聞きまちがいにちがいない。猫が人間の言葉を話すなんてね。
アウルは寝床で何度も寝返りをうち、ついにあきらめて起き上がった。
暑い夜だった。開け放った窓にたらした帳はそよとも動かない。
少しでも涼しくしようと、アウルは帳を持ち上げた。
満月に近い夜で、外はほんのり明るかった。庭の植え込みの向こうにつづく森が、くっきりと影をきわだたせている。
かすかに風を感じて、アウルは一息ついた。帳を開けたまま寝台に戻ろうとした時、庭の人影に気づいて目をこらした。
人影は小さく、白っぽい衣を着ている。庭をゆっくりと横切り、森の方に歩いて行く。
寝間着姿のアレンだ。
アウルは驚いた。
こんな時間に、どこへ?。
考える間もなく、アウルは部屋の隅の燭台を手に外に飛び出した。
庭にはもう、アレンの姿はない。
誰かを呼んでいたら追いつけないだろう。アウルは月と燭台の明かりをたよりに、森に向かった。
小走りで道を辿っていくと、イーグ川のあたりでようやくアレンの後ろ姿を見つけた。
「アレン!」
アウルは夢中で呼びかけた。
アレンは立ち止まり、振り返った。その顔は、人形のように表情がない。
風が吹き、木々をざわめかせた。月の光が木の葉に散らされて、銀粉のようにふりそそいだ。
アレンの脇に、よりそっているものがいた。
夜に溶け込みそうな漆黒の毛並み。頭はアレンの肩ほどの位置にある。しなやかに美しい、大きな狼だ。
それはたてがみよりも黒い瞳でアウルを見た。はっきりとした知性のある、冷ややかなまなざしだった。
と同時に、激しい風が吹きつけた。
立っていられず、アウルは地面に倒れ込んだ。
燭台の火は消え、月までもが雲に隠れた。
真の闇。
「アレン!」
呼びかけても返事はなく、気配すら感じられない。
アウルは、生まれて初めて息も出来ないような恐怖を味わった。膝をついたまま、ふるえをおさえるのがやっとだった。もう方向すらわからない。永遠の無の中にとりのこされた感じ。
その時、誰かがアウルの肩に手を触れた。アウルは、ぎょっとしてその手をふりはらった。
「だいじょうぶ」
耳元で声がした。少年のような、若々しい声だ。
「ついてきて」
声の主はアウルの手を取った。アウルを立ち上がらせ、歩き出す。
「あなたは?」
答えはなかった。しかし、どこかで聞いたことのある声だった。その冷たくなめらかな手は妙な安心感があり、アウルは導かれるままゆっくりと進んだ。
やがて、広い場所に出たようだ。闇の中でも、空気の感じが違ったのがわかる。
再び月が雲間から出て、あたりをぼんやりと明るませた。手の感触は消え、アウルは立ちつくした。
館の庭に戻っている。
「ニャア」
「ロー」
アウルは叫んだ。
「言ったでしょ」
ローは、光る緑色の目でアウルを見上げた。
「だめだって」
ここまで連れてきてくれた者と同じ声。
「あなたは、なに?」
アウルは混乱して頭をかかえた。
「アレンはどこ?」
「シャアクが連れて行きました」
「シャアク?」
「森の王にして精霊の王」
「精霊・・・」
アウルはつぶやいた。
「あなたも?」
「そうです」
「だめよ、連れ戻さなきゃ」
「彼は怒っています。あなたがたが森を壊そうとするから」
「ああ」
アウルはうずくまった。
「ごめんなさい。あなたたちには、許しをこうつもりだった」
「それではすみませんよ。わたしたちは、だんだんと住処を奪われてきたんです。シャアクはここ百年ばかり眠っていまいましてね。めざめたらこのしまつ。こっぴどく叱られましたよ。人間を甘やかしすぎたって」
「だからって、アレンを連れていくことはないじゃない」
アウルはかんしゃくをおこしそうになった。
「あの子を返して」
「わたしも怒っているんですよ、アウル」
ローは言った。
「精霊と人は共存してきた。むしろわたしたちは、おとなしくしていましたよ。なのにあなたは一線を越えようとしている」
「ダイのためだったのよ。わたしだって森が好きだわ」
「でも、豊かさを選んだ。人間は、きりもなく欲望を追いかける。満足を知らないんだ」
ローはため息をついた。
「わたしは、あなたのお母さまが好きでしたよ。森を愛しんでくれた。供物をそなえるたびに祈ってた。あなたと、これから生まれる子の幸せを。だからあの人が亡くなったとき、わたしはここに来たんです。あなたがたを見守るためにね」
「母さま・・・」
アウルは両手で顔をおおった。
「助けて、ロー。アレンをとりもどさなければ」
「あなたが考えを改めるなら、そうしてあげたいところですが」
ローはなだめるように言った。
「決めるのはシャアクです」
「シャアクのところに案内して」
「異国の神など森に入れないと、約束してくれますね」
「ダイがどんなに豊かになっても、アレンがいなければはじまらない」
アウルは手を伸ばしてローを抱きしめた。
「お願い、ロー」
ローは身をこわばらせたが、やがてするりとアウルの腕を抜け出した。
「着替えて来てください。そんな格好では森に入れませんよ」
ソーンのことを考えれば考えるほど腹がたってくる。
それから、ロー。
あれからずっと、ローの姿を見ていない。
きままな猫だ。ふらりといなくなることはこれまでもあった。気にすることはない、とアウルは自分に言い聞かせた。あれは聞きまちがいにちがいない。猫が人間の言葉を話すなんてね。
アウルは寝床で何度も寝返りをうち、ついにあきらめて起き上がった。
暑い夜だった。開け放った窓にたらした帳はそよとも動かない。
少しでも涼しくしようと、アウルは帳を持ち上げた。
満月に近い夜で、外はほんのり明るかった。庭の植え込みの向こうにつづく森が、くっきりと影をきわだたせている。
かすかに風を感じて、アウルは一息ついた。帳を開けたまま寝台に戻ろうとした時、庭の人影に気づいて目をこらした。
人影は小さく、白っぽい衣を着ている。庭をゆっくりと横切り、森の方に歩いて行く。
寝間着姿のアレンだ。
アウルは驚いた。
こんな時間に、どこへ?。
考える間もなく、アウルは部屋の隅の燭台を手に外に飛び出した。
庭にはもう、アレンの姿はない。
誰かを呼んでいたら追いつけないだろう。アウルは月と燭台の明かりをたよりに、森に向かった。
小走りで道を辿っていくと、イーグ川のあたりでようやくアレンの後ろ姿を見つけた。
「アレン!」
アウルは夢中で呼びかけた。
アレンは立ち止まり、振り返った。その顔は、人形のように表情がない。
風が吹き、木々をざわめかせた。月の光が木の葉に散らされて、銀粉のようにふりそそいだ。
アレンの脇に、よりそっているものがいた。
夜に溶け込みそうな漆黒の毛並み。頭はアレンの肩ほどの位置にある。しなやかに美しい、大きな狼だ。
それはたてがみよりも黒い瞳でアウルを見た。はっきりとした知性のある、冷ややかなまなざしだった。
と同時に、激しい風が吹きつけた。
立っていられず、アウルは地面に倒れ込んだ。
燭台の火は消え、月までもが雲に隠れた。
真の闇。
「アレン!」
呼びかけても返事はなく、気配すら感じられない。
アウルは、生まれて初めて息も出来ないような恐怖を味わった。膝をついたまま、ふるえをおさえるのがやっとだった。もう方向すらわからない。永遠の無の中にとりのこされた感じ。
その時、誰かがアウルの肩に手を触れた。アウルは、ぎょっとしてその手をふりはらった。
「だいじょうぶ」
耳元で声がした。少年のような、若々しい声だ。
「ついてきて」
声の主はアウルの手を取った。アウルを立ち上がらせ、歩き出す。
「あなたは?」
答えはなかった。しかし、どこかで聞いたことのある声だった。その冷たくなめらかな手は妙な安心感があり、アウルは導かれるままゆっくりと進んだ。
やがて、広い場所に出たようだ。闇の中でも、空気の感じが違ったのがわかる。
再び月が雲間から出て、あたりをぼんやりと明るませた。手の感触は消え、アウルは立ちつくした。
館の庭に戻っている。
「ニャア」
「ロー」
アウルは叫んだ。
「言ったでしょ」
ローは、光る緑色の目でアウルを見上げた。
「だめだって」
ここまで連れてきてくれた者と同じ声。
「あなたは、なに?」
アウルは混乱して頭をかかえた。
「アレンはどこ?」
「シャアクが連れて行きました」
「シャアク?」
「森の王にして精霊の王」
「精霊・・・」
アウルはつぶやいた。
「あなたも?」
「そうです」
「だめよ、連れ戻さなきゃ」
「彼は怒っています。あなたがたが森を壊そうとするから」
「ああ」
アウルはうずくまった。
「ごめんなさい。あなたたちには、許しをこうつもりだった」
「それではすみませんよ。わたしたちは、だんだんと住処を奪われてきたんです。シャアクはここ百年ばかり眠っていまいましてね。めざめたらこのしまつ。こっぴどく叱られましたよ。人間を甘やかしすぎたって」
「だからって、アレンを連れていくことはないじゃない」
アウルはかんしゃくをおこしそうになった。
「あの子を返して」
「わたしも怒っているんですよ、アウル」
ローは言った。
「精霊と人は共存してきた。むしろわたしたちは、おとなしくしていましたよ。なのにあなたは一線を越えようとしている」
「ダイのためだったのよ。わたしだって森が好きだわ」
「でも、豊かさを選んだ。人間は、きりもなく欲望を追いかける。満足を知らないんだ」
ローはため息をついた。
「わたしは、あなたのお母さまが好きでしたよ。森を愛しんでくれた。供物をそなえるたびに祈ってた。あなたと、これから生まれる子の幸せを。だからあの人が亡くなったとき、わたしはここに来たんです。あなたがたを見守るためにね」
「母さま・・・」
アウルは両手で顔をおおった。
「助けて、ロー。アレンをとりもどさなければ」
「あなたが考えを改めるなら、そうしてあげたいところですが」
ローはなだめるように言った。
「決めるのはシャアクです」
「シャアクのところに案内して」
「異国の神など森に入れないと、約束してくれますね」
「ダイがどんなに豊かになっても、アレンがいなければはじまらない」
アウルは手を伸ばしてローを抱きしめた。
「お願い、ロー」
ローは身をこわばらせたが、やがてするりとアウルの腕を抜け出した。
「着替えて来てください。そんな格好では森に入れませんよ」