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文字数 2,055文字

「アウルさま! おかげんはよろしいのですか?」
「もう大丈夫よ」
 馬屋番が驚くのもかまわず、アウルは馬を引き出して森に向かった。
 グイン湖へ。
 湖の中島は、あいかわらず美しく湖面に緑の影を落としていた。
 精霊たちはここと重なり合った空間で、アウルを眺めているのだろうか。あいにくとこちらは人間界、中島に渡る橋はない。
 アウルは馬から降りて湖の岸辺に近づいた。
「ロー!」
 呼びかけても、水鳥たちがばさばさと羽音をたてるばかり。
「そこにいるんでしょ」
 返事はない。
 いっそ泳いで向こうに行こうか。さらに水辺に進んでそう思いかけた時、対岸の水草の間から小さな生き物が現れた。ぴんととがった耳、灰色の毛並み、大きな緑色の眼の。
「ロー」
 アウルは微笑んだ。
「よかった、よく顔を見せて」
「アウル」
 離れていたが、ローの声ははっきりと聞こえた。
「なんともありませんか?」
「ええ」 
「どう謝っていいか」
「あなたはみんなのために危険をおかしてくれた。元気になってよかった」
「恐ろしくありませんか。わたしが」  
 ローは言葉をとぎらせた。
「あやうく、あなたの命を奪うところでした」
「大丈夫。あなたは、そんなことはしない」
「でも、つぎはどうなるか」
 突然猫の姿が消えた。息をのむ間もなく、少年のローがアウルの前に立っていた。
「自分を抑えられると思いますか」
 ローはささやいた。
「知りませんでした。人間の霊気が、こんなにも魅惑的なものだったとは」
 ローはアウルに手をのばした。ぴたりと首筋につけられた手は、冷たい氷のような感触だった。それがじわりと熱くなっていく。
 精霊はいずれ人間を狩らずにはいられなくなるだろうとソーンは言っていた。シャアクも否定しなかった。
 だが本当にそうだろうか。人間の欲望ははかりしれないが、それを抑える理性だって持ち合わせている。精霊が取り込むのは、人間の邪気ばかりではないはずだ。
 アウルはローの緑色の眼を見つめたまま、そっと彼の手首をとった。両手で包み込むようにして自分の首から引き離す。
 ローは肩で大きく息をした。
「わたしたちは、これからも一緒にいられるはず」
「いえ」
 ローはゆっくりとかぶりを振った。
「いつかは誘惑に負けてしまう」
 アウルの手を静かにふりほどくと、
「あなたに会うのは、これが最後です」
「森を守るわ。なんとかして」
「あなたやアレンの時代は大丈夫かもしれません。でもその後は? わたしが生まれた時、世界の大半が森でした。今や人間は増え続け、世界に満ちている。たとえ神殿が建たなくとも、あと百年もすればこの森は失われるでしょう。精霊は居場所を失って、消え去るしかない。人間との関係を変えていかなくては」
「シャアクも同じ考えなのね」
「ええ。わたしたちそれぞれの好きにしろと。新しい世界に出て行くのもよし、森が無くなるまでここに止まるのもよし」
「彼自身はどうするのかしら」
 変化を受け入れるには老いすぎた。そう言っていたけれど。
「さっき、子供たちをつれて奥の森へ」
 アウルは、ローにつられて中島の向こうに目を向けた。
「あっちなら、人間の手が入るのも最後でしょう。多くの木々がないと子供たちは消えてしまう。人間の霊気をとる力もないうちに」
 ローは、静かにつけたした。
「シャアクはもう戻らないと思います」
「なぜ?」
「また眠ると言っていました。こんどは目ざめないと」
 アウルは目を見開いた。
「目ざめなければ、死じゃないの」
「精霊は死にません。いずれ消滅するだけです」
「同じことよ。ソーンを放っておくつもり?」
「ソーンはシャアクと森を憎んでいる。どうしようもないでしょう」
「ちがう」
 アウルは首を振った。
「と思う。ソーンは、憎みながらもシャアクに会いたかったのよ。会って、それから、自分でもどうしていいかわからないでいる。このままにしておいてはだめ。なのに、シャアクはさっさと逃げるつもりなんだわ」
 ローは肩をすくめた。
「本人に言ったら怒りますよ」
「怒ればいいのよ」
 アウルは馬の手綱を取った。
「シャアクの所に行く」
 ローは驚いたように、
「無理です。あなた一人では」
「一緒に来て」
「だめです、アウル。わたしはもう」
「あなたしか頼れないの。力をかして」
 ローは後ずさった。
「お願いよ」
 ローは何も答えなかった。
 アウルは一つため息をついた。身をひるがえして馬に飛び乗る。
「わかったわ」
「アウル」
 ローは叫んだ。
「あなたでは、シャアクを探せません」
「やってみなければわからないわ」
「困らせないでください。わたしが言うことを聞くしかないのをご存じなんだ」
 アウルはちょっと微笑み、馬上からローに手をさしのべた。
 ローは少しためらったものの、アウルの手を握り、ふわりと馬の後ろにまたがった。
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