第三話

文字数 720文字

地下街の端
出入口に近いベンチの上

そこに 男はいた

大きなリュックサックを傍らに置き
いつもと変わらぬ姿勢で
静かに眠っている

住む家を追われた者か
住む家を探しにいく者か

今にも粉々に崩れそうな自分を
しっかり抱き締めるように

男は
腕を組んで眠っていた

十年ほど前
東京都内にあったゲストハウスで
あるフランス人と仲良くなったことがあった

笑うと翳があったが どこかしら
心臓を鷲掴みにされるような 
そんな魅力的な眼差しを持つ人だった

全てを投げ出してきたんだ
日本に来るために

何故?

一度来てみたかったんだ 

そう?

ここは素敵な国だね
でも勘違いしないで欲しいんだ 
自分の国が嫌いになった訳じゃない

ただ あそこは悲しみが多すぎる

そんな彼が愛してやまないもの
それは珈琲だった

「フランス人は馬鹿にみたいに飲むのさ。珈琲を。
 朝起きて一杯、会話の傍らに一杯、昼に一杯、帰宅して一杯。
 少なくて四杯。飲む人はもっと飲んでるんじゃないかな」

そして 彼はこう付け加えた

「スターバックスなんかで売っているもの。 
 あれは珈琲なんかじゃない。本物の珈琲はエスプレッソのようなものを言うんだ」

高い圧力によって抽出され
凝縮された旨味を持つ
珈琲の中の珈琲

「それが、エスプレッソだ」

彼はそう言って笑った
味わい深い声で

彼とは
三日後に別れたが
さよならは言わなかった

ベンチの上で
静かに眠る男をみた時
私は急に彼のことを思い出した

彼は
辿り着けたであろうか
自分の居るべき場所に

願わずにはいられない

私の 彼の そして
頑なに目を閉じて眠るこの男の人生が

長い旅路の末
最期を迎える時

苦痛の底に
凝縮された笑いがあるような
旨いと言って
飲み干せるようなものであって欲しいと

エスプレッソのような 
奥深く濃いものであって欲しいと

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