第3話

文字数 1,227文字

……………………わたしが本当のことを言っているかって? これだからな。きみら凡人は他の人間にも自分と同じようなことしか起こらないと信じきっている。凡人というものは、現実は一つしかないものだと依怙地に定めてかかっている。自分の現実が唯一の現実で、わたしが3人に分割してそのうち2人が消息不明だというのは事実だよ。きみは、きみの経験したことがないことがわたしに起きたからといって、わたしの言ったことの現実性を否定するのかね。なにを根拠に? なにも世界の各所に地面がマットのようにペロっとめくれる場所があって、そこから地下世界というかパラレルワールドというのかそんなようなものに入れるとかそういうことを言っているのではない。現実は一つではない。それだけだ。それを知っているかいないかが凡庸な人間とそうでない人間をわけるのだよ。
 それでまあそのヘンテコな病院を抜け出して(どうやって抜け出したかはきみの顔に濡れ雑巾みたいに貼り付いている非難が消えたら話すが、とにかくわたしは堀辰雄的サナトリウムを期待していて当てがはずれたんだし)、墓地に隠れた。あんまり遠くまでも一気には行けないしね。安心したからなのか、それとも希望が見いだせなくて現実逃避したのか、うとうとしてしまった。惰眠からふわふわ浮上してくると、というか浮上の原因だが、ぱたぱたぱたぱた音がする。あっ、と叫ぶところだった。足音に違いない。連中わたしの居場所に検討をつけたのか、そう思ってわたしは警戒したよ。身動きを最小限に墓石の陰から周囲をさぐった。黄金色のなにかが白っぽい光の真昼の墓地にちらついている。すると女の子なんだ。高校を出たばかりくらいの、すらりとして軽い。染めた金髪を蜂蜜みたいになびかせて墓石のあいだの小路を走りまわっている。夢かどうか。自分の舌をぎゅっと噛んでたしかめた。わざわざ手指などを噛むなんてばかげたことだからね。舌はジンとしびれて血を滲みださせて、口腔から身体へと鉄分やなんかを還流させた。これはリアルだというわけだ。そう確信を得て、また周囲を視覚的、聴覚的、あるいは本能的にも探索して彼女しかいないことを信じるにいたった。わたしは蜂蜜のように流れるその髪を追いかけ、つかみ、放さなかった。
 事を終えたとき、1950年代のアメリカ映画みたいな音の雨がどしゃぶりに降りだした。わたしと彼女は簡単な法要を営むような小屋の軒先に避難して、雨宿りをしたよ。そのとき彼女はつま先立ちしてわたしにキスをしてくれた。親密さをつたえる甘いキスというやつだ。運命の出会いというんだな。もう心がかよいあっていた。おそらくは出会うまえに。この世に生を受けるずっとまえから。おや、きみは笑っているね。まあ笑うがいい。わたしがきみなら、わたしだって笑っているさ。だが。ここが肝心だ。わたしはきみではない。
 彼女は咲良(さくら)という名前だ。
 わたしたちは抱擁しあって雨の音を聴いていた……………………
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