第49話 “浮き”の庵

文字数 1,233文字

 糸は川沿いから木立ちの中へ続いていた。
 量は糸巻きが作れるほど拾った。しかし端はまだ見えない。

 すると、木立の中に庵があった。
 かなり古いが造りはしっかりしている。茅葺(かやぶ)き屋根を柱が支え、木戸はぴったりと閉められている。やはり、入った覚えもなければ立ち寄った覚えもない。

 なのに袖口から垂れた糸は戸口に挟まっている。

 庵の周りには砂利が敷いてある。山猿か野犬が糸の端を持っていったのかとも思ったが、ここを渡ったなら音がする。足跡も残っていて然るべきだ。

 しかし庵の砂利は水を打ったように静まり返っていた。飛び石の類もない。

 そこで、あの禿げ達磨どもの会話を思い出した。

 ——ぬしの浮きはいいのう。
 ——職人に作らせたからのう、ほっほっほ。

 なるほど。“糸”がつながっている先は“浮き”か。

 そう思って目の前の庵を見ると、足を踏み入れただけで、たちどころに傾き、砂利に沈んでしまいそう佇まいをしている。それとも魚を捕らえる“仕掛け”か。

 これは……

 いつの間にか袈裟の下に着た着物が破けていた。
 茂みを歩いてたとき枝に引っ掻けてでもしたか。真新しい裂け目が、また糸を引いている。しかし、糸はその一本だけではない。二本……、三本……、四本……。数えるたびに増えていく気さえした。

 見ればそこかしこからから糸が垂れていた。まるで女郎蜘蛛だ。近頃は絡新婦と字を改めたのだったか。

 みすぼらしい。
 あの陰気くさい女と同じ姿をしていると思うと腹立たしかった。

 あの禿げ達磨ども、よくもこんな……

 風が吹いて、たわんだ糸があおられる。茂みが鳴りやむと、糸のたわみがなくなっていた。一歩たりとも、その場から動いてはいないのに、糸が張っている。

 ざわざわと茂みの奥から、また音がした。再び風が吹いてくる。ざわざわと、ざわざわと。

 よくもまあ、こんな仕掛けで狐を騙そうと思いましたね。

 舐められるのは、我慢ならなかった。

 玉鏡は袈裟を脱ぎ捨てた。着ていた着物もすべて。
 ばさばさと、まさに大袈裟な音を立てて着ていたものが庵の軒下に落ちる。

 しかし風のやまぬうちから、今度は髪の一本に、ぴんっと引っ張られる感覚があった。

 くどいですよ。

 爪を振るう。
 断ち切れた髪のひと房が庵の影に吸い込まれていった。

 糸は一本ではなかった。あの四人が総出で玉鏡を釣ろうとしたのだろう。糸が短くとも魚が近く寄ってくれば問題ない。

 玉鏡は庵を見た。
 これが“浮き”であるなら、糸は果たしてどこにつながっているのか。無論、それは釣り竿なのだろうが、ここまでの道のりを考えると、庵の裏手か、それとも……

 玉鏡は空を仰ぎ見た。川面と同じ景色が広がっている。

 あの髭、まさか伊達ではなかったとでも。

 腹立たしいが、あの雲海から釣り糸を垂らす相手がいるらしい。喧嘩を売るには少々骨が折れそうな相手だ。黙って立ち去るのが良案であるのは間違いない。

 …………。

 しかし、意趣返しのひとつもせず逃げるのは肌に合わなかった。


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