第19話 古寺の女

文字数 1,826文字

 子どもの頃、物知りだとよく褒められた。
 今も働いている薬問屋の者たちは博識だと褒めてくれる。しかし、本当はなにも知らない。自分は酒の味を知らない。博打も女遊びも知らない。
 そして、誰かに惚れるということも知らなかった。
 
           ◯
 
 あの人を見初(みそ)めたのは雨の日だった。
 山の空は気まぐれだ。麓では晴れていても峠を越す前に天気が崩れるのも珍しくない。
 降り始めた雨に、油紙でできた合羽を羽織る。しかし歩いている間にも雨足は強まり、やがて景色が霞むほどにまでなった。

 これは、さすがに弱ったな。

 足下がぬかるんでいる。足を滑らせたのは三度目だった。斜面で同じ目に遭えばただでは済まない。

 雨を凌げる場所を探すと、道をはずれた所に古寺があった。屋根には苔が生え、柱は湿気で黒ずんでいる。もう誰も住んではいないだろう。そう思った。

「……え」

 軒下を四角く囲む濡れ縁に、女性が立っていた。

 袈裟に似た着物を身につけているが、剃髪(ていはつ)はしておらず、肩上までの髪が頬を撫でている。
 女性は空を見上げ、憂うような顔をした。

 まるで、一輪挿しの花のようだ。

 以前に遣いに行った先の家で見たことがある。他に飾りもなにもない、質素な器に生けられた花に自分はなぜか心を惹かれたのだった。

「ーーどうかされましたか」

 鈴音のような声だ。
 濡れ縁の女性がこちらを見ている。それに気が付くと耳に雨音が戻ってきた。

「あ、雨宿りを、させてもらいたくて」

 なにも考えられないまま自分は言った。

「そうでしたか。こんな襤褸寺(ぼろでら)でよければ、どうぞ」
「ありがとう、ございます……」

 自分の声が届いていたかはわからない。また雨足が強まってきて、女性は薄暗い堂内へ戻っていった。
 
           ◯
 
 屋根はあの有り様だが、幸いにも雨漏りはしていなかった。

「大層なもてなしはできませんが」
「これは、どうも」

 戻ってきた女性がお茶を出してくれた。
 奥に台所があるのだろう。雨で体は冷え切っていた。しかし思いのほか、お茶が熱く、自分はむせてしまう。

「げほっ……げほっ……」
「そう焦って飲まれなくても茶は冷めませんよ。それとも、あなたの家の茶碗には足でも生えているんですか」
「いえ、そんなことは……」

 またむせそうになる。口許を抑えて首を振った。
 顔を反らして目だけで女性を見る。呆れはしていないが目の前にいる男にはさして興味もない、というような表情だった。しかし、自分はその顔さえも見入ってしまう。
 不意にその瞳がこちらを見た。慌てて話題を取り繕う。

「あの、不躾なことをお尋ねしますが、あなたはこの寺の住職なのですか」
「そう見えますか」

 女性はどこか試すような口ぶりだった。

「当ててみてはどうです。実は雨で退屈していたものですから」

 と、女性は居住まいを正す。真正面からこちらを向き、両の手を膝に添える。
 見てもよいと許しがでたはずなのに、見ようとしただけで息が詰まる。堪えきれず、自分は目を反らした。

「……旅の僧、なのですね」

 言うと女性は身をよじり、自分と同じものを見た。
 部屋の隅に籠を逆さにしたような笠がある。
 深編笠(ふかあみがさ)といい、虚無僧が被るものとして知られている。彼女の着た袈裟からは尺八が覗いていた。同じく尺八も虚無僧の持ち物で、その縦笛を吹きながら諸国をめぐるのだ。

「物知りな方ですね。ところで、あなたはどうなのです。桐油合羽に背負い荷物、見たところあなたも旅をしているようですが」
「自分は薬売りをしています。今日は隣町に行った帰りで……」

 話していて急に眠気が襲ってきた。瞼が重い。気を抜けばすぐにでも寝入ってしまいそうな眠気だ。

「随分とお疲れのようですね。外は生憎の雨ですし、今日はここで休まれてはどうです」
「いや、それは……」

 薬問屋の主人には今日戻ると伝えてある。薬の代金を持ち帰らないと番頭にも叱られてしまう。なにより見初めたばかりの女性と同じ屋根の下で寝るのは(はばか)られる。しかし、自分の心は揺れ動いていた。

「ちょうど私も、山寺にひとりで心細かったもので」

 彼女が言った。決心がつくまで、またしばし時間を要したが。

「……では、どこか空いている部屋を」
「隣が空いています。そこなら雨音も少しは防げるでしょう」

 襖を開けると、そこは畳敷きの小部屋だった。昔はなんら用向きがあったのかもしれないが今はなにもない。荷物を隅に置き横になる。

 そこから先は、よく覚えていない。
 
 
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