第30話 二度目の取組
文字数 2,777文字
翌朝、少年は竹林の中にある大石を相手にひとり稽古をしていた。おれは朝餉を済ませてから着たが、少年はいつからいたのだろうか。
「おまえ、ずっとここで稽古してたのか」
「わ、悪いか」
おれが訊くと、少年は決まり悪そうに目を反らす。
…………。
昔の自分を見ているみたいで気まずかった。
おれも少年もなにも言わず、風で擦れあう竹の葉音がやけに大きく聞こえた。しかし風がやむと、竹林さえ黙ってしまった。余計に気まずくなり、耐えきれずおれは口を開いた。
「おまえ、どっちの家の子どもなんだ」
「え?」
「りゅう……いや、おれを負かした家の人間か、祀っていた家の人間か。どっちなんだ」
しばらく間をおいて、少年が答えた。
「東の家の、……お、おまえを相撲で負かした家の子だ」
「そうか」
ゆうべ、奇山先生から教えてもらった。村には東の家と西の家、ふたつの大きな家があると。
『東の家は伝説にある龍虎を退治した力士の一族、西の家はそれまで龍虎を水神として祀ってきた一族だ。あまり人前に姿を現さない水神河童に、西の家は橋渡し役を務めてきた。いわゆる神官職だ。しかし欲がでたのだろう』
次第に西の家が幅を利かせるようになってきた、と奇山先生は語った。
西の家への非礼は龍虎への非礼。その頃から西の家はまるで身分の高い者のように振る舞うようになる。村長よりも力を有し、いくつもの家が彼らの傘下に入った。
一方で確執をもつ家もあった。東の家はその代表格である。
龍虎と人間の相撲勝負は、そうした村人同士の確執に決着をつけるためでもあった。勝負の行方は知った通り。時が流れ、ほとんどの家は昔どちらの一族に付いていたかも忘れ去られてしまったという。
『しかし、東と西の両家の確執はずっと尾を引いている。なぜそうなったのかは定かではないが、今は元服前の男児に相撲をとらせ、勝ち負けを競う風習ができている』
そんなことをして何か意味があるのだろうか。
『西の家によれば、東の家の男児を負かせば河童が村に戻ってくるそうだ。面倒な農作業をせずとも田畑が潤い、日照りの心配もなくなる』
その取組が七日後にあるという。
勝負に向けて、この少年は稽古をしていたのだろう。昨日すれ違った相撲男児たちを思い出す。あの少年たちも西か東の力士として取組をするのだろうか。目の前にいる少年より、ずっと力士らしい体付きだった。
「きょ、今日は負けないからな。昨日みたいにいくと思うなっ」
覇気のない声で、少年は啖呵 を切る。
「そ、そうか」
両家の話を聞いたときには勝手に河童を担ぎ出して豊作だの不作だの勝手なこと言っていて腹立たしかった。手ひどく負かしてやろうとも思っていたはずなのに。
ここに来ると、調子が狂う。
おれは頭を振った。ここで手加減したら、どうなるかわからない。油断して負けでもしたらーー
「どっ、どうしたんだよ」
少年は先に土俵に上がっていた。おれも向かいに上がる。昨日と同じく掛け声は譲った。
「ーーは、はっけよい、のこった!」
またしても四つで組む。
おれは下手に投げようとしたが、少年がそれを阻んでくる。お互いに技を打つも決まらない。なら押し出してやろうと、おれは少年を土俵際まで追い詰める。
しかし、そこからが長かった。
どれだけ押せしても少年は土俵を割らない。しばらく膠着が続いた。長丁場になったら、どっちに転ぶかわからない。おれは焦った。
ーーーー相手、瓜助だろ。
ーーさっさと決めちまえよ。
どきりとした。土俵の周りには誰もいない。それなのに声が聞こえる。
違う、これはただの……
故郷の里はもうない。だから仲間の声なんて聞こえるはずがない。わかっていても気がそぞろになる。すると負けたらという気持ちが湧いてくる。息切れの音に交じって鼻を啜る音がした。
「……ひぐっ……ひっ……」
おれと組み合ったまま、少年は泣いていた。こうなれば体力と気力の削り合いだ。
また番付の思い出が頭をかすめる。相手はいつもおれを負かしていた同い歳の河童だった。土俵の外からそいつの取り巻きが言った。
ーー負けたらドベだぞ。
そしたら相手が急に動いた。今でも覚えている。あのときーー
下手から投げを打つ。少年は残ろうとした。だが気が逸れた隙を狙って、おれは一気に浴びせかける。
耐えきれず、少年はおれの下敷きになって倒れた。
「…………」
勝ちはした。けれども嫌なことを思い出してしまった。
今の手はおれを負かした河童がやってきた勝ち方だ。踏ん張るのに必死だったおれは間抜けなほどあっさりと土俵外に転がった。
土俵の外に倒れた少年を見下ろす。腕を顔にあて表情を隠しているが、鼻を啜る音がした。泣いているのは隠せていない。
まるで昔の自分を見ているみたいだ。みじめだと思ってしまう。
おれは目を反らした。竹林には誰もいない。その方がよかった。けれども風が吹いていないせいで、しゃくりあげるような涙声が耳に届いてしまった。
泣くなよ、とは言えなかった。おれも番付に負けて同じように泣いていた。
どうなってほしかったのだろう。
考えたところでおれの昔は変わらない。だから考えずに済んだ。それなのに、この少年はどうにかなるかもしれない。そう思ってしまう。
「おまえ、七日後の取組にでるのか」
東の家には今年、元服前の男児はひとりしかいないらしい。なら、この少年が。
「な、なんでそんなこと言わなきゃいけないんだよ」
涙をこらえた目で、少年はおれを睨んでくる。
「それは、その……い、言ったら田んぼは取らないでやるぞ」
また思い付きを口走ってしまった。龍虎のふりをしたつもりだが、おれは龍虎を知らない。だが、それは少年も同じはず。
「……好きででるんじゃない。一昨年までは兄ちゃ……あ、兄が出るはずだったんだ。でも、元服して村を出ていったから」
お鉢が回ってきた。少年はものうげそうに言う。初めて聞く言葉だが、おおよその意味は汲み取れた。
西の家の男児がどれほどのものなのかは知らない。だが、この少年に勝てる見込みがあるかと問われれば首を振る。
けれども、おれは考えてしまう。
もし、あのときおれにも頼れる相手がいてくれたらと。
さっさと取組を済ませて帰るつもりだったが、奇山先生はあと七日この村に留まる。借りた空き家でいるのも暇だ。それに今のおれは龍虎なのだから少しくらい好き勝手してもいいだろう。
「よし、なら河童のおれが稽古つけてやる」
「え……なんで?」
涙ぐんだ少年は不思議そうにおれの顔を見上げる。
なんで、って訊かれても……
「お、おまえこそ、勝ちたくないのか」
しばらくの間、少年は黙っていた。竹の葉が擦れる音も鼻を啜る音も聞こえない。じっと待っていると、少年は立ち上がった。
「……け、稽古、つけてください」
涙声ながらに少年は言った。
「おまえ、ずっとここで稽古してたのか」
「わ、悪いか」
おれが訊くと、少年は決まり悪そうに目を反らす。
…………。
昔の自分を見ているみたいで気まずかった。
おれも少年もなにも言わず、風で擦れあう竹の葉音がやけに大きく聞こえた。しかし風がやむと、竹林さえ黙ってしまった。余計に気まずくなり、耐えきれずおれは口を開いた。
「おまえ、どっちの家の子どもなんだ」
「え?」
「りゅう……いや、おれを負かした家の人間か、祀っていた家の人間か。どっちなんだ」
しばらく間をおいて、少年が答えた。
「東の家の、……お、おまえを相撲で負かした家の子だ」
「そうか」
ゆうべ、奇山先生から教えてもらった。村には東の家と西の家、ふたつの大きな家があると。
『東の家は伝説にある龍虎を退治した力士の一族、西の家はそれまで龍虎を水神として祀ってきた一族だ。あまり人前に姿を現さない水神河童に、西の家は橋渡し役を務めてきた。いわゆる神官職だ。しかし欲がでたのだろう』
次第に西の家が幅を利かせるようになってきた、と奇山先生は語った。
西の家への非礼は龍虎への非礼。その頃から西の家はまるで身分の高い者のように振る舞うようになる。村長よりも力を有し、いくつもの家が彼らの傘下に入った。
一方で確執をもつ家もあった。東の家はその代表格である。
龍虎と人間の相撲勝負は、そうした村人同士の確執に決着をつけるためでもあった。勝負の行方は知った通り。時が流れ、ほとんどの家は昔どちらの一族に付いていたかも忘れ去られてしまったという。
『しかし、東と西の両家の確執はずっと尾を引いている。なぜそうなったのかは定かではないが、今は元服前の男児に相撲をとらせ、勝ち負けを競う風習ができている』
そんなことをして何か意味があるのだろうか。
『西の家によれば、東の家の男児を負かせば河童が村に戻ってくるそうだ。面倒な農作業をせずとも田畑が潤い、日照りの心配もなくなる』
その取組が七日後にあるという。
勝負に向けて、この少年は稽古をしていたのだろう。昨日すれ違った相撲男児たちを思い出す。あの少年たちも西か東の力士として取組をするのだろうか。目の前にいる少年より、ずっと力士らしい体付きだった。
「きょ、今日は負けないからな。昨日みたいにいくと思うなっ」
覇気のない声で、少年は
「そ、そうか」
両家の話を聞いたときには勝手に河童を担ぎ出して豊作だの不作だの勝手なこと言っていて腹立たしかった。手ひどく負かしてやろうとも思っていたはずなのに。
ここに来ると、調子が狂う。
おれは頭を振った。ここで手加減したら、どうなるかわからない。油断して負けでもしたらーー
「どっ、どうしたんだよ」
少年は先に土俵に上がっていた。おれも向かいに上がる。昨日と同じく掛け声は譲った。
「ーーは、はっけよい、のこった!」
またしても四つで組む。
おれは下手に投げようとしたが、少年がそれを阻んでくる。お互いに技を打つも決まらない。なら押し出してやろうと、おれは少年を土俵際まで追い詰める。
しかし、そこからが長かった。
どれだけ押せしても少年は土俵を割らない。しばらく膠着が続いた。長丁場になったら、どっちに転ぶかわからない。おれは焦った。
ーーーー相手、瓜助だろ。
ーーさっさと決めちまえよ。
どきりとした。土俵の周りには誰もいない。それなのに声が聞こえる。
違う、これはただの……
故郷の里はもうない。だから仲間の声なんて聞こえるはずがない。わかっていても気がそぞろになる。すると負けたらという気持ちが湧いてくる。息切れの音に交じって鼻を啜る音がした。
「……ひぐっ……ひっ……」
おれと組み合ったまま、少年は泣いていた。こうなれば体力と気力の削り合いだ。
また番付の思い出が頭をかすめる。相手はいつもおれを負かしていた同い歳の河童だった。土俵の外からそいつの取り巻きが言った。
ーー負けたらドベだぞ。
そしたら相手が急に動いた。今でも覚えている。あのときーー
下手から投げを打つ。少年は残ろうとした。だが気が逸れた隙を狙って、おれは一気に浴びせかける。
耐えきれず、少年はおれの下敷きになって倒れた。
「…………」
勝ちはした。けれども嫌なことを思い出してしまった。
今の手はおれを負かした河童がやってきた勝ち方だ。踏ん張るのに必死だったおれは間抜けなほどあっさりと土俵外に転がった。
土俵の外に倒れた少年を見下ろす。腕を顔にあて表情を隠しているが、鼻を啜る音がした。泣いているのは隠せていない。
まるで昔の自分を見ているみたいだ。みじめだと思ってしまう。
おれは目を反らした。竹林には誰もいない。その方がよかった。けれども風が吹いていないせいで、しゃくりあげるような涙声が耳に届いてしまった。
泣くなよ、とは言えなかった。おれも番付に負けて同じように泣いていた。
どうなってほしかったのだろう。
考えたところでおれの昔は変わらない。だから考えずに済んだ。それなのに、この少年はどうにかなるかもしれない。そう思ってしまう。
「おまえ、七日後の取組にでるのか」
東の家には今年、元服前の男児はひとりしかいないらしい。なら、この少年が。
「な、なんでそんなこと言わなきゃいけないんだよ」
涙をこらえた目で、少年はおれを睨んでくる。
「それは、その……い、言ったら田んぼは取らないでやるぞ」
また思い付きを口走ってしまった。龍虎のふりをしたつもりだが、おれは龍虎を知らない。だが、それは少年も同じはず。
「……好きででるんじゃない。一昨年までは兄ちゃ……あ、兄が出るはずだったんだ。でも、元服して村を出ていったから」
お鉢が回ってきた。少年はものうげそうに言う。初めて聞く言葉だが、おおよその意味は汲み取れた。
西の家の男児がどれほどのものなのかは知らない。だが、この少年に勝てる見込みがあるかと問われれば首を振る。
けれども、おれは考えてしまう。
もし、あのときおれにも頼れる相手がいてくれたらと。
さっさと取組を済ませて帰るつもりだったが、奇山先生はあと七日この村に留まる。借りた空き家でいるのも暇だ。それに今のおれは龍虎なのだから少しくらい好き勝手してもいいだろう。
「よし、なら河童のおれが稽古つけてやる」
「え……なんで?」
涙ぐんだ少年は不思議そうにおれの顔を見上げる。
なんで、って訊かれても……
「お、おまえこそ、勝ちたくないのか」
しばらくの間、少年は黙っていた。竹の葉が擦れる音も鼻を啜る音も聞こえない。じっと待っていると、少年は立ち上がった。
「……け、稽古、つけてください」
涙声ながらに少年は言った。