第61話 最後の言葉

文字数 3,745文字

 屋敷に戻ると金衛門は目に見えて不機嫌だった。
 お露が言い付けられた用を済ませてきたことを伝えても睨むだけでなにも言わない。夕餉の席でも口を利かなかった。そして風呂の支度をしていると、金衛門に呼び止められた。

「お前、町へ出たときにいらぬ口を利いただろう」
「なんのことか分かりません」
「とぼけるな! 昼間、役人がやってきて根掘り葉掘り訊いていきおったわ!」

 曰く役人は金衛門を疑っていた。
 呉服屋の火事で一番得をしたのは大店に金を貸し付け、恩を売った金衛門である。役人が訪ねて来たのはお露が町に行ってから。お露が密告したと考えれば辻褄も合う。金衛門は早口に言った。

「私は……なにもしていません」
「だったら誰が告げ口したのだ! 誰も言ったやつがいないのなら役人が来る道理もないだろうが!」

 日頃の行いを鑑みれば、誰が言わずとも金衛門が怪しまれるのは自然な流れだ。しかし、この男にそんな考えがあるはずがない。

「お前のせいで俺の名前に傷が付いたわ! 恥を知れ!」

 言いがかりだ。お露は思った。
 もう怯える気持ちはない。
 金衛門は自分を睨んでくる目が気に入らなかったらようだ。梅干しのような顔をして歯を噛みしめる。腹の底から湧いてくるなにかを言おうとして、けれども怒りにまた歯を噛みしめてしまい、口を開いたり閉じたりしている。

「どうかなさいましたか」

 なにも知らない顔で玉鏡が現れた。じろりと金衛門が睨め付ける。話を聞かずとも、その顔を見ただけで玉鏡はすべてを察したようだった。
 しかし金衛門は怒りを吐き出したくて仕方ないようだった。

「もう我慢ならん。この娘は——」
「まぁまぁ、相手は年端もいかぬ娘子です。そう毎度のようにお怒りになられていては、いかに金衛門様といえど箔が落ちてしまいます」

 だが金衛門にはその忠告が気に食わなかったらしい。堰を切ったように捲し立てる。
 この娘は掛け軸に悪戯しただけでなく、主人に濡れ衣を着せようと虚偽の密告をした。そうすれば借金も有耶無耶(うやむや)になると踏んだからだろう。言っておくが、お前の親に貸し付けた金利はまだ残っているからな、と。

「お前もそうだ、玉鏡よ」

 金衛門はこの数日間のことを蒸し返し始めた。あれもこれもすべて、この娘が糾されるべきこと。仏門の徒なら物事の善し悪しくらい分かるだろう。

「頑なにこの娘の肩ばかり持ちおって! なぜだ、答えよ!」
 はあ、と玉鏡が溜め息を吐く。
「それは、金衛門様が間違っていらっしゃるからですよ」

 袈裟を着た女は迷いなく言った。そのひと言に、屋敷は水を打ったように静まり返える。
 金衛門は信じられないものを目の当たりにした顔になった。
 無理もない。この男はそういう人間なのだから。
 間の抜けた顔に怒りが戻ってくる。またしても金衛門は犬のように吠えた。

「お前に寝床を貸し与えてやったのも、食事を用意してやったのも、すべて、すべてこの俺だぞ!」
「そうでしたか? 寝床の支度も料理も、すべてそこの娘がしたのではありませんでしたか」
 詭弁だ、詭弁、と金衛門は吠える。
「どいつもこいつも……金子を貸してやった俺に対する恩義を忘れた恩知らずどもめ!」

 金衛門は顔を真っ赤にした。今この男と鉢合わせしたなら、どんな悪党でも逃げ帰るに違いない。
 そんな男を前にしてもなお、玉鏡は毅然としていた。
 あれほどよくしてやったのに。激昂した金衛門が鉄鞭を振り上げる。

「やめろっ!」

 叫んだ瞬間、お露のなかでなにかが切れた。
 金衛門に飛びかかる。鉄鞭を持つ手にしがみついた。たがが外れたのは金衛門も同じだった。お露を壁や柱にでたらめに叩きつける。拳で殴られた。髪を引っつかまれた。けれども離さない。着物の上から腕に噛みつく。ぎゃっと叫び声がした。金衛門は死に物狂いで暴れる。しがみ付いていた着物の袖が、噛みついた所から破け、お露は床に放り出された。
 ぎしっ、と床板が軋む。

「はぁ……はぁ……はぁ……」

 金衛門は獣のような目をしていた。息のしかたも病的だ。ぶつぶつ、ぶつぶつと、なにをかつぶやきながら歩いてくる。
 お露には、その唇がなんと言っているのか理解できた。

 ……殺してやる、……殺してやる。

 つぶやきながら金衛門は咳き込んだ。ここ数日ずっと続いている症状だ。しかし髪が貼り付いた顔は病人ではなく、鬼のそれに見えた。剥き出しの腕や、握りしめた鉄鞭もそう。

 ……殺してやる、……殺してやる。

 一歩、また一歩と、金衛門が近づいてくる。立とうとして、ずきりと体が痛んだ。倒れかけて背中が壁にあたった。
 顔をあげる。
 目の前に金衛門がいた。
 けれども、怖くはなかった。むしろ——

「……ふっ」

 金にものを言わせ、好き放題してきた男が、下女に歯向かわれて激昂している。
 お露には、それがとても滑稽に思えた。
 胸の内が顔に出ていたらしい。金衛門が獣の咆哮をあげた。力任せに鉄鞭が振り下ろされる。頭をかち割る気だ。これで、ようやく一矢報いられたか。
 ——ぼとりと音がして、鉄鞭が床に落ちた。

 ……え?

 なにが起きたのか、わからなかった。
 鉄鞭の柄には指が残っていた。黒く変色し、付け根からちぎれている。ずるずるになった断面は粘ついた糸を引いていた。
 金衛門が手を見た。
 黒ずんだ右の手からは指がなくなっていた。

「うあああああああああああああああ!!」

 悲鳴があがった。痰が絡んだ汚ならしい声だ。腰を抜かして、金衛門が床に這いつくばる。その目がお露を見た。怒りはとうに消え失せ、瞳は縋るような色に染まりきっている。
 まだ指の残っている手が、お露の足をつかんだ。

「ひっ」

 血の気が引く。逃げようにも腰が抜けて立てない。

「たっ、助けてくれ! 指が、指が!」
「うわああっ!」

 お露は必死にあらがった。手近にあった鉄鞭を投げつけ、つかまれていない足で金衛門を蹴った。顔を一撃して怯んだ隙に這って逃げる。どたどたどた、と後ろから足尾とが追ってくる。着物の背中をつかまれた。

「た、助け……」
「いやっ、離せっ!」

 振り払った拍子に金衛門が足をもつれさせた。襖を押し倒して部屋に転がる。
 そこにすっと人の影が横切った。
 袈裟を着た玉鏡だ。

「た、玉鏡、助けてくれ! 指が、指が落ちた! ごほっ……医者だ、医者を呼べ!」

 ごほごほと金衛門は咳き込んだ。二度、三度では治まらず、壁に手を着いて体を支える。しかし——

「なんだ、俺が頼んでいるんだぞ!」

 壺をやる、酒をやる、金をやると言い、まだ指の残っている手で金衛門が戸棚の中身をひっくり返す。何枚もの小判が散らばり、畳が金色になる。

「まだか、まだ足りないのか!」

 また戸棚を開け、ひっくり返す。小判だけでなく、骨董を納めた木箱や証文の類までが畳の上に散らばった。これでどうだ、まだ足りないのかと叫ぶ。ごほごほと、また咳き込み始めた金衛門は胸を押さえてうずくまった。

 …………。
 玉鏡は薄ら笑いを浮かべていた。
 その目が、金色になった畳にうずくまり、むせび泣く金衛門を見下ろしている。
 お露はぞっとした。
 (ぜい)を尽くした夕餉にも、好物だと話していた金箔の羊羮にも能面のような顔をして、お露との話したときでさえ、こんな顔は見せなかったのに。
 その女が、笑っている。
 おぞましいとさえ感じるほど、その横顔は美しかった。

「たま、かが……み……」

 声ともいえぬ、痰の絡んだ音がした。畳の方を見て、お露は思わず後ずさった。
 金衛門は這い上がってくる虫でも落とすように、右の腕を必死に叩いている。さっき見たときは手首までが黒く腐っていたが。
 今は肩口までが黒ずんでいる。袖のちぎれた着物の下がどうなっているのかはわからない。しかし、右の胸を掻きむしる金衛門を見ていると、その肌がどんな色しているのかは想像できた。

「い、医者を」

 医者を呼ばなくては。言いかけて玉鏡が口を開いた。

「あら、懲らしめてほしいと言ったのは、あなたではありませんでしたか」
 確かにそうだが……

 お露は金衛門に目を向けかけ、すぐさま顔を反らした。見てはいけないもの、だった。
 掻きむしったときに前がはだけたのだろう。右の胸が腐って、抉れた黒いものの中から臓器が覗いていた。

          ◯

 どれほど経ったか。お露は顔を背けたまま一歩も動けなかった。衣擦れの音がして、ようやく首を動かせた。
 玉鏡が床に散らばったものの中から細長い紙を拾い上げる。証文の類かと思ったが違う。模様紙の裏打ちが施されたそれが、べろべろと持ちあがる。

 あの女の掛け軸だった。

 玉鏡はそれを丁寧に巻き直し、桐の箱に納める。そしてお露に箱を差し出した。

「これ、元はといえばあなたのものでしょう」

 さも当然のことのように玉鏡は言う。
 金衛門が借金のかたに巻き上げたものだが、元をただせばお露が寺の和尚からもらったものだ。金衛門がこうなった以上はお露が持つのが筋なのだろう。

 そっと木箱を受けとる。
 お露は台所に向かった。そして、木箱を火の付いた竈に放り込む。火が木箱に燃え移り、中のものを燃やす。
 後ろでそれを見ていた玉鏡がぽつりと言った。

「——あら、もったいない」

 その言葉が、お露は今でも忘れられないでいる。

(了)
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