第58話 玉鏡との茶会

文字数 2,333文字

 あれから五日がすぎた。玉鏡はまだ屋敷にいる。ひと晩だけと言っていたのに、とは誰も言わなかった。

 外は晴れている。お露は洗った着物を干していた。金衛門のひと声で、洗濯もお露の役目になった。屋敷に連れてこられたとき、これからの日々は地獄だと思っていたのに今は望みをもてている。

 人の気配がして振り返る。

 縁側に玉鏡がいた。袈裟は干してしまっているので、今は薄い色の着物だけを身に付けている。

「なにか、ご用でしょうか」
「大したことではないのですが、そうですね。客人を招きたいので、お茶の用意をお願いします」

 茶を出すのもお露の役目だ。しかし勝手なことをしては金衛門にまた折檻される。お露は金衛門が恐ろしかった。逆らおうとすると、どうしても足がすくんでしまう。

「もしかして、他に急ぎの用でもありましたか」
「……いえ。すぐにお持ちします」

 物干しは後回しだ。お露は急ぎ台所へ向かった。
 
          ◯
 
 湯を沸かし、ふたり分の茶を淹れる。茶請けの羊羹は金衛門が買ってきたものだ。玉鏡は以前口にした栗羊羹が美味だったと言っていたが、これがその甘味なのかは分からない。

 盆を持って部屋に行く。まだ客人は来ておらず、いつかのように玉鏡はひとりで書を読んでいた。

 早すぎた、かな。

 ここで待つべきか。しかし冷めた茶を出すのも失礼だ。淹れ直してこようとして、ぱたんと書が閉じられる。

「来ましたか。せっかくですし、あなたもどうです。そんな所に突っ立っていてはお茶が冷めますよ」

 畳の間には座布団が二枚向かい合って敷かれている。

「でも、それだとお客人が」

 お露が言うと、玉鏡は妖艶な笑みを浮かべた。

「あら、私が呼んだのは、あなただけですよ」
「え……」

 この人には驚かされるばかりだった。心が浮き足立ちそうになる一方で体が動かない。自分はただの下女だ。用があればその都度呼びつければいい。それをこうも芝居じみた真似をするなんて。
 玉鏡の意図が読めない。

「……なにか、粗相がありましたか」
「叱りつけるために呼んだと」

 それ以外に思いつかない。

「そう怖がらなくてもいいでしょう。説教をする気は毛頭ありません。それよりも話し相手になってくれませんか」

 玉鏡は閉じた書を脇に置いた。金衛門が取り立てに行き、ひとり部屋にいるのも退屈だったと玉鏡は吐露した。

「わ、わたしなどでよければ」

 お露は膝のほこりを払い、勧められた座布団に座る。

 …………。

 頭のてっぺんから品定めされているようだった。屋敷に他の者はおらず、座り直しただけでも着物の擦れる音がやけに大きく聞こえた。
 玉鏡が茶を啜る。そうしてお露はようやく肩の力を抜いた。

「こうして会ったのもなにかの縁です。実は小耳に挟んだのですが、近頃は若者の間で上方落語が流行りだとか」
「は、はあ」

 そういった話は聞かないが。

「ひとつ披露していただけませんか。若者は一度聞けば覚えられると聞きますし」
「えっ」

 旅籠屋にいた頃はお客相手にちょっとした芸を見せることもあった。呼び込みもしていて話すことは不得手ではない。

 けれど、上方の落語なんて……

 家の手伝いばかりしてきた身だ。客が来ずとも準備や手入れにはこと欠かない。しかし、年頃の娘が好む遊びや流行りなんて、お露にはこれっぽっちも分からなかった。

「ほんの冗談ですよ。本気にしました」
「……少しだけ」
「それは悪いことをしましたね。落語とまでは言わずとも、なにか面白い話があれば聞かせてくれませんか」

 面白い話と言われても、そんなものお露には——

「でしたら、うちに泊まっていた旅の人から聞いた話などはどうでしょう」
「あら、このお屋敷は宿部屋でも貸し出しているのですか」

 玉鏡の言葉にはっとした。お露はあわてて自分の身の上を話す。

 旅籠屋の前で呼び止めたときのことをお露は今でも覚えている。しかし、玉鏡からすれば、あれは取るに足らない些細なことだったのだろう。

 胸の内でなにかがしおれたようだった。それが声に出ないようにお露は努めた。

「——その人が言うには枕返しという妖怪がいるそうで」
「ああ、あれですか。寝ている間に枕をどこかへやってしまうという」

 知っていたことにお露は驚いた。やはり徳の高いお坊さんは知識も豊富なのか。

「逆に玉鏡様はなにか妖怪を知っていますか」

 なんの気なにし訊いた。

「妖怪、というものは知りませんが——」

 そこからどう話が転がったのか、確かなことは覚えていない。茶碗はすっかり空になり、いつしかお露は談笑していた。しかし玉鏡もそれを咎めることはせず、羽目をはずした下女を小さく笑って許してくれた。

 仁徳にあふれた方だ。お露はまだ数えて十三だが、産まれてこの方これほどの御仁には会った試しがない。恐らくこの先もずっと……

 玉鏡はきれいな指で茶碗の縁をなぞりながら言う。

「天罰、というものはあります。そのうち、下るやもしれませんよ」

 それがどのような意味を含むのか、お露には分からなかった。

 しかし、聡明で旅をする玉鏡なら天罰としか思えない事象を見てきたのかもしれない。お露はそう思うことにした。

          ◯ 
 
 茶会が終わった後のことだ。廊下で玉鏡が部屋の襖を少し開け、中を覗いていた。

「今日、誰か訪ねてきましたか」

 訊かれてお露は首を横に振った。

「そうですか」

 ひょっとして忘れ物だろうか。旅籠屋では時折誰も心当たりのない荷包みが見つかる。そうしたものは既に宿を立ってしまった宿泊客の忘れ物であるのが相場だ。
 お露も何があるのかと中を覗く。あの掛け軸が飾られている部屋だった。

 え……

 掛け軸の女は、右の腕に黒い染みをこさえていた。
 昨日までそんなものはなかったのに。


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