第2話 闇に染まる その1
文字数 4,133文字
「どうだった?」
「それは、姐さんの描いた通りだよ。香恵はどっか行ったけど、緑祁の方はもう目の前真っ暗!」
「そうか。ならば自然に立ち直る前に、仕掛けるぞ?」
「はい!」
二人は緑祁がいる客間に移動した。扉をノックし、
「緑祁くん、今、いいかい?」
声をかける。
「……何ですか……」
かなりトーンの低い返事だ。まだ意気消沈しているのだ。それを確認した雉美と峰子は、
「緑祁くんのことが気になってしまってね、ちょっと入らせてもらうよ」
返事を待たずに客間に入る二人。緑祁は黙って座っていた。
「香恵さんの件は驚いたけど、それはまあ置いておいて」
「………」
「おっと失礼。でもあの子も難しい時期なんだよ、私は同じ女だからわかる。でもね、頭を冷やせばすぐに冷静になれるさ。だって賢い子だから!」
「でも、ここにはいなくて……」
ここで峰子が、
「緑祁くん、キミはどうなの? 香恵さんが戻ってきたら、それだけで立ち直れる? 仲直り、できる?」
「ぼ、僕ですか……?」
ここから、二人は緑祁に悟られずに霊障を使うのだ。峰子が緑祁の手を握り、
「仲直りできなかったら、緑祁くんは香恵さんと離れ離れのまま! そんなのかわいそうです!」
毒厄を流し込んだ。その毒厄は蜃気楼を混ぜ、精神面に影響する霊障合体・幻覚 汚濁 。洗脳にも使える厄介なものだ。
「しっかりしてください!」
心配している素振りをして、バレないように幻覚汚濁を流し込み、自分たちにとって都合の良い方向に緑祁の考えをコントロールする。
「落ち着こうか、緑祁くん? ここで怒っても悩んでも、香恵さんは戻って来ない……」
もう十分なほど、峰子は幻覚汚濁を緑祁に使った。その証拠に彼の瞳は輝きを失ってしまっている。
(ここまで来れば、後は容易い!)
ここから、言いたいことを投げかけて自分たちに従わせるのだ。言葉は時としてどんな刃物よりも鋭く、人の心を切り裂ける。
「緑祁くん、どうすれば香恵さんはあなたに振り向いてくれると思う?」
「………」
「それはね、力だよ。他の誰よりも強い力! 誰にも負けない力! それこそ、香恵さんの心を掴む最強の手!」
ではどうやってその強さを証明するのか。それも雉美は教える。
「【神代】へ、攻撃するんだ。それが一番、効率の良い証明になる! 己の力を指し示し、香恵さんの心を鷲掴め! 巨大な組織を敵に回してでも、力を見せるんだ!」
雉美も峰子も、【神代】には不満がある。霊能力者だから、大社で働いているからという理由だけで、どうして支配を受けなければいけないのか。命令されなければいけないのか。
(豊雲さんが行動を起こすなら、教えてくれればよかったのに……)
四月の出来事は、終わってから知った。事前に知っていれば、豊雲の味方ができたのにと二人は後悔している。
そして、豊雲の命を奪い野望を打ち砕いた緑祁が気に食わない。だから彼に、【神代】を攻撃させるのだ。
(【神代】にたてついた者がどんな末路を辿るのか! 緑祁、あなたが一番よくわかっているでしょうよ!)
暗黒の未来しか待っていないのである。
「【神代】はね、悪魔なんだ。何の罪のない人を大勢殺して、従わせて、支配している。それが正義なはずがない! そうは思わない?」
「きっとね、香恵さんはキミのところに戻ってきますよ! 強さをアピールすれば!」
とにかく精神面に堪える言葉を投げかけ続け、同時に幻覚汚濁も続ける。
もう十分、緑祁の心は毒された。正常な判断など、できるはずがない。
(完璧だ! これでもう、緑祁は私たちの下僕! 何でもやらせることができるぞ!)
言われた通りに動くだけの奴隷が完成した、と二人は思った。
だが、
「香恵……! 香恵が欲しい!」
「……ん?」
予想外に声を出したので驚く峰子。
「違うだろう、緑祁くん? あなたの敵は【神代】……」
「香恵はどこだい……? 香恵は僕のものだ……! 誰にも渡さない…!」
様子がおかしいことに気づいた雉美は、
「ちょっと? どうなってんのよ、峰子?」
「おかしい……? 何で勝手に喋ってるの、この人……! 今、自我は封印して……」
峰子も、何が起きているのかわかっていないのだった。
「香恵、香恵、香恵! 僕だけのものだ!」
しかし軌道修正を図る。
「そ、そうだね、緑祁くん。香恵さんを取り戻すためには、何をすれば……」
「僕が直接取り戻す! 邪魔するヤツはみんな邪魔だ、みんな排除だ……!」
が、それを全く聞き入れない緑祁。
「待てってば、緑祁! いいか、あなたがすべきことは……」
「僕がすることは……香恵を僕のものに!」
「違うんだって! そうじゃなくて……」
「黙れ!」
旋風を使い、自分に掴みかかった雉美を吹き飛ばして壁に叩きつける緑祁。
「姐さん! だ、大丈夫?」
「緑祁を、何とか説得しろ!」
今、完全にコントロールしなければかなりマズいことが起きる。それを察知した雉美は峰子に命じた。
「緑祁くん、ちょっと」
「うるさいぞ!」
「ひええ!」
今度は鉄砲水で廊下に洗い流す。
「香恵は誰にも渡さない! 僕だけのものだ! この手に入れて、永遠に僕のものに!」
完全に正気を失った緑祁は、客間の扉を突き破って廊下に出て、
「香恵を手に入れる。香恵はどこだ? どこに隠した? 返せ!」
叫ぶ。香恵は夕食の時に自分で出て行ったのだから、この岩苔大社にいるわけがない。それを理解できていないのは、幻覚汚濁が思考に悪影響を及ぼしているからだろう。
言うならば緑祁の心は、頭脳の情報を理解していない。そして彼の体を動かしているのは、心の方だ。言い換えるなら、タガが外れている状態である。
「これが、この青年の……心の闇、か……!」
心の暴走は時として人の本性を現す。心に隠された暗部が露呈するのだ。
人は誰でも悪魔を心に飼っている。緑祁の場合は、寂しくも自分が正しいと信じる悪魔だ。孤独が育てた心の隙間が、香恵のことをひたすらに求めている。そして正しいと信じる心が、やってはいけないことをさせる。
「出せ! 香恵を出せ! 邪魔するなら、容赦はしない!」
緑祁の手のひらに、サッカーボール程度の大きさの鬼火が出現した。それを何の躊躇いもなく、天井に放った。
「うわっ! 火が! 燃える……!」
「消防に電話だ、峰子! その前に、消火器! とにかく火を消すんだ!」
天井に燃え移った炎はすぐに大きくなる。何とか消火器を手にした雉美だったが、
「香恵! 香恵! 香恵! 香恵は僕だけのものだ!」
鬼火を大量に撃ち出し、火災を大きくする緑祁。もう消火器で消せるレベルの炎じゃない。瞬く間にこの本殿の隅々までに燃え移る。
「駄目だ、逃げろ!」
「火事だ!」
岩苔大社にはスプリンクラーはない。なので炎を止めてくれる設備がない。雉美と峰子は中庭を経由して本殿から脱出。
「何だ?」
異変を感じ取ったのは、翔気である。客間から顔を出すと、廊下が既に火の海に変わっている。
「何が起きている? か、火事だああああ!」
「逃げましょう、翔気くん!」
客間に戻って、窓を突き破って逃げる。マリコは壁を透過して外に出る。
「消防、消防だ! 連絡! 俺のスマートフォンはどこだ?」
「左のポケットですよ! 右は財布でしょう?」
「そうだった!」
焦る心を落ち着かせ、翔気は消防に通報。
(熱い! 近くにいると焼ける……!)
電話をしながら、岩苔大社の境内から抜け出る翔気。
(だが、この火事の原因は何だ? どこから火が出た?)
食堂にいた育未たちも、火事に気づく。
「た、大変ですわ………」
こんな事件に遭遇してしまったせいで、顔の血の気が引いていく。
「由李! 消せない?」
「こんなに大きくなると、鉄砲水ではもう無理だ……! 逃げなければ!」
育未の腕を掴んで引っ張る由李と絢萌。だが、
「お待ちになって! 緑祁さんと翔気さんは?」
「誰でも気づくでしょ、こんなの!」
今は自分たちの身を守ることで精一杯。ハンカチで鼻と口を覆い、身を低くして煙から逃げる。食堂の隣には厨房があり、そこにある勝手口から外に出る。
他の修行僧や職員も、全員何とか脱出した。
「ねえ、あれ!」
絢萌が燃え盛る屋根の上に何かを発見した様子。指差す方向には、一つの人影が。
「あれは……殿方? 緑祁さんではないかしら……?」
「う~ん……」
香恵は悩んでいた。もう十分頭が冷えて、冷静さを取り戻している。そうなると、食堂での出来事がとても恥ずかしく幼稚なことだと自覚してしまう。
「どうしよう……。どうやって戻ればいいの……?」
誰の責任でもないのに、緑祁に怒ってしまった。そして自分は感情に任せて岩苔大社を飛び出してしまった。
「素直に謝ろう。緑祁にも、育未や由李にも! それしか解決する方法は、ないわ……」
不思議に、削られた精神面は一度怒ってしまうと元通りになっている。
ここは自分の非を認めて、誠心誠意謝罪するのだ。だから、彼女は大社に戻る。
のだが、
「………騒ぎ?」
境内の方が、何故か赤く光っている。それに、サイレンの音が鳴り響いている。よく見ると屋根の上に、夜空とは違う黒い煙がモクモクと伸びていた。
「え、何……?」
誰かがこちらに走って来る。翔気だ。
「あ、香恵!」
「翔気? 一体どうしたの?」
「火事だ! 神社が燃えてるんだ」
緊急事態だからか、彼は食堂での出来事を口にしないし気にもしていない。
「嘘でしょ? な、何で……?」
「わからない。あまり近づかない方がいい! かなり激しく燃えている!」
「でも待って! 緑祁は?」
「わからない……。逃げてると思うが、俺は見なかった」
「じゃあ、まだ中に……?」
助けに行かなければいけない。そんな衝動に駆られ近づこうとした香恵だが、
「駄目だ、それは!」
翔気が腕を掴んで離さない。
「私なら、怪我を治せるわ! 今すぐ助けに行かないと!」
「駄目だ、それは! ここは消防隊に任せるんだ! 俺たち素人が顔を突っ込んで解決できることじゃない! それに緑祁なら、きっともう脱出しているはずだ!」
「うう……。そんな……。緑祁……」
彼の言う通り、本殿には戻れない。緑祁の身を案じることしかできない自分に無力を感じ悔しがる。
「それは、姐さんの描いた通りだよ。香恵はどっか行ったけど、緑祁の方はもう目の前真っ暗!」
「そうか。ならば自然に立ち直る前に、仕掛けるぞ?」
「はい!」
二人は緑祁がいる客間に移動した。扉をノックし、
「緑祁くん、今、いいかい?」
声をかける。
「……何ですか……」
かなりトーンの低い返事だ。まだ意気消沈しているのだ。それを確認した雉美と峰子は、
「緑祁くんのことが気になってしまってね、ちょっと入らせてもらうよ」
返事を待たずに客間に入る二人。緑祁は黙って座っていた。
「香恵さんの件は驚いたけど、それはまあ置いておいて」
「………」
「おっと失礼。でもあの子も難しい時期なんだよ、私は同じ女だからわかる。でもね、頭を冷やせばすぐに冷静になれるさ。だって賢い子だから!」
「でも、ここにはいなくて……」
ここで峰子が、
「緑祁くん、キミはどうなの? 香恵さんが戻ってきたら、それだけで立ち直れる? 仲直り、できる?」
「ぼ、僕ですか……?」
ここから、二人は緑祁に悟られずに霊障を使うのだ。峰子が緑祁の手を握り、
「仲直りできなかったら、緑祁くんは香恵さんと離れ離れのまま! そんなのかわいそうです!」
毒厄を流し込んだ。その毒厄は蜃気楼を混ぜ、精神面に影響する霊障合体・
「しっかりしてください!」
心配している素振りをして、バレないように幻覚汚濁を流し込み、自分たちにとって都合の良い方向に緑祁の考えをコントロールする。
「落ち着こうか、緑祁くん? ここで怒っても悩んでも、香恵さんは戻って来ない……」
もう十分なほど、峰子は幻覚汚濁を緑祁に使った。その証拠に彼の瞳は輝きを失ってしまっている。
(ここまで来れば、後は容易い!)
ここから、言いたいことを投げかけて自分たちに従わせるのだ。言葉は時としてどんな刃物よりも鋭く、人の心を切り裂ける。
「緑祁くん、どうすれば香恵さんはあなたに振り向いてくれると思う?」
「………」
「それはね、力だよ。他の誰よりも強い力! 誰にも負けない力! それこそ、香恵さんの心を掴む最強の手!」
ではどうやってその強さを証明するのか。それも雉美は教える。
「【神代】へ、攻撃するんだ。それが一番、効率の良い証明になる! 己の力を指し示し、香恵さんの心を鷲掴め! 巨大な組織を敵に回してでも、力を見せるんだ!」
雉美も峰子も、【神代】には不満がある。霊能力者だから、大社で働いているからという理由だけで、どうして支配を受けなければいけないのか。命令されなければいけないのか。
(豊雲さんが行動を起こすなら、教えてくれればよかったのに……)
四月の出来事は、終わってから知った。事前に知っていれば、豊雲の味方ができたのにと二人は後悔している。
そして、豊雲の命を奪い野望を打ち砕いた緑祁が気に食わない。だから彼に、【神代】を攻撃させるのだ。
(【神代】にたてついた者がどんな末路を辿るのか! 緑祁、あなたが一番よくわかっているでしょうよ!)
暗黒の未来しか待っていないのである。
「【神代】はね、悪魔なんだ。何の罪のない人を大勢殺して、従わせて、支配している。それが正義なはずがない! そうは思わない?」
「きっとね、香恵さんはキミのところに戻ってきますよ! 強さをアピールすれば!」
とにかく精神面に堪える言葉を投げかけ続け、同時に幻覚汚濁も続ける。
もう十分、緑祁の心は毒された。正常な判断など、できるはずがない。
(完璧だ! これでもう、緑祁は私たちの下僕! 何でもやらせることができるぞ!)
言われた通りに動くだけの奴隷が完成した、と二人は思った。
だが、
「香恵……! 香恵が欲しい!」
「……ん?」
予想外に声を出したので驚く峰子。
「違うだろう、緑祁くん? あなたの敵は【神代】……」
「香恵はどこだい……? 香恵は僕のものだ……! 誰にも渡さない…!」
様子がおかしいことに気づいた雉美は、
「ちょっと? どうなってんのよ、峰子?」
「おかしい……? 何で勝手に喋ってるの、この人……! 今、自我は封印して……」
峰子も、何が起きているのかわかっていないのだった。
「香恵、香恵、香恵! 僕だけのものだ!」
しかし軌道修正を図る。
「そ、そうだね、緑祁くん。香恵さんを取り戻すためには、何をすれば……」
「僕が直接取り戻す! 邪魔するヤツはみんな邪魔だ、みんな排除だ……!」
が、それを全く聞き入れない緑祁。
「待てってば、緑祁! いいか、あなたがすべきことは……」
「僕がすることは……香恵を僕のものに!」
「違うんだって! そうじゃなくて……」
「黙れ!」
旋風を使い、自分に掴みかかった雉美を吹き飛ばして壁に叩きつける緑祁。
「姐さん! だ、大丈夫?」
「緑祁を、何とか説得しろ!」
今、完全にコントロールしなければかなりマズいことが起きる。それを察知した雉美は峰子に命じた。
「緑祁くん、ちょっと」
「うるさいぞ!」
「ひええ!」
今度は鉄砲水で廊下に洗い流す。
「香恵は誰にも渡さない! 僕だけのものだ! この手に入れて、永遠に僕のものに!」
完全に正気を失った緑祁は、客間の扉を突き破って廊下に出て、
「香恵を手に入れる。香恵はどこだ? どこに隠した? 返せ!」
叫ぶ。香恵は夕食の時に自分で出て行ったのだから、この岩苔大社にいるわけがない。それを理解できていないのは、幻覚汚濁が思考に悪影響を及ぼしているからだろう。
言うならば緑祁の心は、頭脳の情報を理解していない。そして彼の体を動かしているのは、心の方だ。言い換えるなら、タガが外れている状態である。
「これが、この青年の……心の闇、か……!」
心の暴走は時として人の本性を現す。心に隠された暗部が露呈するのだ。
人は誰でも悪魔を心に飼っている。緑祁の場合は、寂しくも自分が正しいと信じる悪魔だ。孤独が育てた心の隙間が、香恵のことをひたすらに求めている。そして正しいと信じる心が、やってはいけないことをさせる。
「出せ! 香恵を出せ! 邪魔するなら、容赦はしない!」
緑祁の手のひらに、サッカーボール程度の大きさの鬼火が出現した。それを何の躊躇いもなく、天井に放った。
「うわっ! 火が! 燃える……!」
「消防に電話だ、峰子! その前に、消火器! とにかく火を消すんだ!」
天井に燃え移った炎はすぐに大きくなる。何とか消火器を手にした雉美だったが、
「香恵! 香恵! 香恵! 香恵は僕だけのものだ!」
鬼火を大量に撃ち出し、火災を大きくする緑祁。もう消火器で消せるレベルの炎じゃない。瞬く間にこの本殿の隅々までに燃え移る。
「駄目だ、逃げろ!」
「火事だ!」
岩苔大社にはスプリンクラーはない。なので炎を止めてくれる設備がない。雉美と峰子は中庭を経由して本殿から脱出。
「何だ?」
異変を感じ取ったのは、翔気である。客間から顔を出すと、廊下が既に火の海に変わっている。
「何が起きている? か、火事だああああ!」
「逃げましょう、翔気くん!」
客間に戻って、窓を突き破って逃げる。マリコは壁を透過して外に出る。
「消防、消防だ! 連絡! 俺のスマートフォンはどこだ?」
「左のポケットですよ! 右は財布でしょう?」
「そうだった!」
焦る心を落ち着かせ、翔気は消防に通報。
(熱い! 近くにいると焼ける……!)
電話をしながら、岩苔大社の境内から抜け出る翔気。
(だが、この火事の原因は何だ? どこから火が出た?)
食堂にいた育未たちも、火事に気づく。
「た、大変ですわ………」
こんな事件に遭遇してしまったせいで、顔の血の気が引いていく。
「由李! 消せない?」
「こんなに大きくなると、鉄砲水ではもう無理だ……! 逃げなければ!」
育未の腕を掴んで引っ張る由李と絢萌。だが、
「お待ちになって! 緑祁さんと翔気さんは?」
「誰でも気づくでしょ、こんなの!」
今は自分たちの身を守ることで精一杯。ハンカチで鼻と口を覆い、身を低くして煙から逃げる。食堂の隣には厨房があり、そこにある勝手口から外に出る。
他の修行僧や職員も、全員何とか脱出した。
「ねえ、あれ!」
絢萌が燃え盛る屋根の上に何かを発見した様子。指差す方向には、一つの人影が。
「あれは……殿方? 緑祁さんではないかしら……?」
「う~ん……」
香恵は悩んでいた。もう十分頭が冷えて、冷静さを取り戻している。そうなると、食堂での出来事がとても恥ずかしく幼稚なことだと自覚してしまう。
「どうしよう……。どうやって戻ればいいの……?」
誰の責任でもないのに、緑祁に怒ってしまった。そして自分は感情に任せて岩苔大社を飛び出してしまった。
「素直に謝ろう。緑祁にも、育未や由李にも! それしか解決する方法は、ないわ……」
不思議に、削られた精神面は一度怒ってしまうと元通りになっている。
ここは自分の非を認めて、誠心誠意謝罪するのだ。だから、彼女は大社に戻る。
のだが、
「………騒ぎ?」
境内の方が、何故か赤く光っている。それに、サイレンの音が鳴り響いている。よく見ると屋根の上に、夜空とは違う黒い煙がモクモクと伸びていた。
「え、何……?」
誰かがこちらに走って来る。翔気だ。
「あ、香恵!」
「翔気? 一体どうしたの?」
「火事だ! 神社が燃えてるんだ」
緊急事態だからか、彼は食堂での出来事を口にしないし気にもしていない。
「嘘でしょ? な、何で……?」
「わからない。あまり近づかない方がいい! かなり激しく燃えている!」
「でも待って! 緑祁は?」
「わからない……。逃げてると思うが、俺は見なかった」
「じゃあ、まだ中に……?」
助けに行かなければいけない。そんな衝動に駆られ近づこうとした香恵だが、
「駄目だ、それは!」
翔気が腕を掴んで離さない。
「私なら、怪我を治せるわ! 今すぐ助けに行かないと!」
「駄目だ、それは! ここは消防隊に任せるんだ! 俺たち素人が顔を突っ込んで解決できることじゃない! それに緑祁なら、きっともう脱出しているはずだ!」
「うう……。そんな……。緑祁……」
彼の言う通り、本殿には戻れない。緑祁の身を案じることしかできない自分に無力を感じ悔しがる。