第9話 侍狩り(1)

文字数 3,790文字

「フフフ、源之丞め……つくづく運のいいやつよ」


 土橋左門は斬り合いからただ一人逃げおおせ、林の中にあった無人の堂に身を潜ませていた。先ほどの戦いで負った傷を確かめる。左の二の腕が裂けていた。かすり傷だと思っていたが、案外深い。


「それにしても……」


 先ほど目にした源之丞の技を思い返す。あれが「忍術」の動きか――道場では目にかかれない類の技だ。これまでに斬り合ったどんな相手とも違う。実用を追及され、敵の虚をつき生き残ることだけを目的とした武技――どこぞの間抜けな道場主たちが語る美辞麗句などを、越えた美しさがそこにはあった。

 源之丞とは同僚という立場ではある。しかし、その技を目にしたことはなかった。忍術を遣うというのも、刺客の命を受けてから知ったことだ。だが以前から、源之丞がなんらかの武技を遣うことは見抜いていた。兄の早世で家督を継いだ凡才のように振舞ってはいたが、身に纏う雰囲気が他の者とは明らかに違う。

 左門は雨戸を透かして外を見た。空の向こうに「雲」がそびえているのが見える。胸の内にこみ上げてくる興奮が、もはや抑えきれなくなっていた。


 ――荒れるぞ、天下が。


 左門の口元に笑みが浮かぶ。

 建前と虚飾の坩堝(るつぼ)と化していた江戸という場所を、あの雲が吹き飛ばしてくれた。顔色を読み、万事が意味のわからない儀式で、その手順を踏むことだけが求められる侍の世界。なにも考えず、ただしきたりに従う連中だけがなぜか上に行く――そんな間抜けどもの(みやこ)が、消え失せた。

 左門は腰の剣を帯から外した。なにが武士の魂だ――旗本が剣を振るうことなど、江戸では許されない。町人から無礼を働かれたとて、斬り捨てでもすれば咎めを受けるのはこちらだ。

 これは武士の魂などではない、ただの暴力だ――と、左門は思う。そしてそれが、本来の姿で輝くときが来た。


「……源之丞よ、貴様も俺と同じだろう?」


 剣は鞘に納めてこそだなどと、老人どもはしたり顔で言う。だが、そんなものくそくらえだ。剣は抜き放ち、血を浴びてこそ美しい。そう、解き放たれた源之丞の技のように――

 ――と、不意に外から物音がした。

 左門は息を潜め、戸板の隙間から外の様子を伺う。塗傘に脚絆姿の武士が、尻もちをついているのが見えた。肩から血を流している。


「……よ、よせっ!」


 尻もちをついたまま、武士が後ずさる。だが次の瞬間、戸板の死角から襲来した刃が、武士を貫いた。



「……っはぁ……ッ!!」


 声にならない悲鳴があがり、左門は目を見張った。そして刃が引き抜かれ、武士の身体が崩れ落ちた。その身体を踏みにじるように、何者かが姿を現す。

 巨躯である。そして、異装でもあった。山伏の着るような装束に、派手な肩衣や毛皮、剃らずに真っすぐと肩のあたりまで下がる髪。その中に浮かぶ白い、端麗で小さな顔――


「……!」


 異装の男と、左門の目が合った。左門は戸板から離れ、後ずさる。しかし、次の瞬間には戸板が乱暴に開き、男が堂の中に踏み込んできた。


「ここにもいたか、侍が……」


 異装の男は手にした長剣――それは柄も刃も、異様に長く、そして真っすぐだった――を突き出しながら、言った。


「ならば、狩らねばならんな」


 左門の目前に、白刃が煌めいた。

 * * *

 源之丞たちは、横浜から東海道を西に少し戻り、保土ヶ谷宿に辿り着いていた。

 「雲」に呑み込まれていない場所としては、最も江戸に近いのがこの宿場町ということになる。東海道の東の要所として、物資も人も充実している。今朝方、江戸に向かう時には足早に通り過ぎただけだったが、今回の事変において、この宿場町は重要な拠点となるはずだった。


「苅部清兵衛に会わねばならん」


 宿場町の東端、江戸方見附の辺りで新之助が言った。


「江戸と連絡が取れぬ今、この辺りで一番影響力の大きい存在があの男だ。町人ではあるが……」


 苅部清兵衛――源之丞でもその名は知っている。保土ヶ谷宿の本陣を預かる家の当主が、代々襲名する名だ。神君家康公直々に保土ヶ谷の本陣・名主・問屋(といや)を拝命したという苅部家は、町人身分でありながらこの一帯の実質的な支配者だといえる。

 その男と会おうという。それはつまり、大局的な行動を起こそうということに他ならない。しかし――


「その……葛野様」


 源之丞は言葉を選びながら、新之助に語り掛けた。新之助は振り向き、にかっと笑う。


「新之助でよい。そなたの方が年上じゃ」

「え……? いや、それは……」


 源之丞が言葉を濁しなら隣の彦右衛門を見ると、こちらは諦めたように頭を振っていた。新之助は期待を込めた目でこちらを見ている。


「え……と、では……新之助……どの?」


 迷いながらそう言うと、新之助は嬉しそうに頷く。もしかして、からかわれているのだろうか――そう思いつつも、源之丞は言葉を継ぐ。


「その……新之助殿はこれから、どうするおつもりなのでしょう? つまり、このような異常な事態の中で……」


 本物かどうか迷いながら話すため、口調がおかしくなった。だが、源之丞はどうしても確認しておきたかったのだ。つまり、(本人の言うことを信じるなら)徳川御三家の人間とはいえ、紀州の人間である新之助が、なにをしようとしているのか?

 新之助は立ち止まり、源之丞の方へ振り向いた。その顔からはいつもの笑みが消えている。


「どうするか、ではなく、どう()るか、だな」

「どう在るか……?」

「このまま、この事態が続いても、またどこかで情勢が変わったとしても……この先、どのようなことになろうと、そこでどう在るかを決めておかねばならん。そうすれば自ずと『どうするか』が決まる」

「……はあ」

「雨が降れば傘を差さねばならんが、差さずに濡れるという姿で在りたいなら、そうすべきだ」


 新之助の言葉はほとんど自らに言い聞かせるかのようだった。

 源之丞は面食らっていた。それは新之助が、師とほとんど同じことを言ったからだ。


「斬り合いでは、自分が何者か定まっていない奴から死ぬ」


 源之丞の師匠はそう言っていた。


「勝気に(はや)れば力が入り、視野が狭まって隙を晒す。敵の出方に合わせては間に合わぬ。自分が何者で在るかを考えよ。その闘いのあと、彼我がどんな世界に在りたいかを決めておけ。そうすれば自ずと、やるべきことは決まる。どうせ忍術は敵を斬る技ではないのだからな」


 枯れたような小男の師匠に、源之丞はついに一度も勝てなかった。その師匠も三年ほど前に亡くなった。墓はあの「雲」の中だ。

 新之助は再び、踵を返して歩き出しながら呟くように言う。


「……武士と生まれたからには、しきたりを守り、受け継ぐことを求められる。だが、世の中が変わった時、どう在るべきかを誰が決めてくれるのであろうな?」


 源之丞は新之助の後を追いながら、周囲の町並みを眺める。保土ヶ谷宿には足止めされた旅人たちが多くいるようだが、町は不穏な静けさに包まれていた。道に出た人々が「雲」を見上げたり、小声で何かを囁き合ったりしている。この者たちも源之丞と同じ、自分がどうするべきかわからずにいるのだろう。

 ほどなく、本陣が見えて来た。主に参勤交代の大名などが宿泊する本陣は、その宿場町自体の中枢を兼ねることが多いが、ここ、保土ヶ谷の本陣もまた、苅部家が名主(なぬし)問屋(といや)を兼ねている。それは江戸の大名屋敷もかくやという豪華な建物だった。

 ちょうど、屋敷の中から何人かの武士が出てきたところだった。何人かの侍を引き連れた、立派な身なりの初老の武士だ。源之丞はその顔に見覚えがあり、声を挙げた。


「……若狭守(わかさのかみ)様?」


 源之丞の声に、初老の武士が振り返る。


「なんだ? どこの者か」

「これは、ご無礼を(つかまつ)りました」


 源之丞は頭を下げ、名乗る。


「それがしは旗本小普請組、美濃部源之丞にござります。若狭守様には以前、お目通りをしたことが」


 若狭守――道中奉行・井上但興(ただおき)であった。若狭守は源之丞の顔を見直し、ふん、と鼻を鳴らした。


「美濃部の小倅か。江戸にはいなかったのだな」

「はっ……命を受け、京都に行っており申した」

「そうか」


 さほど興味もなさそうに言う若狭守に、源之丞は顔を上げる。


「失礼ながら……若狭守様はなにを?」

「小田原へ視察へ行っておったところだ。どうも、江戸には帰れぬようだな」

「御意……」


 若狭守は忌々しげに「雲」を見た。


「わしはこれから、代官所へ行ってくる。兵を集めねばならん」

「兵を……?」

「江戸があのようになれば、不逞の輩が現れるやもしれぬ。警戒をする必要があろう。わしは東海道を預かる身であるからな」


 若狭守は本陣の屋敷を振り見る。


「苅部にもその旨、協力をするように申したのだが……あの狸め」


 そう言って若狭守は顔を歪め、屋敷を睨みつけた。


 ――この方は、幕臣で在ろうとしているのだな。

 源之丞は内心でそう思う。新之助の方を見れば、少し離れたところでニヤニヤと笑いながら見ている。若狭守は新之助と彦右衛門をちらりと見たが、特になにも反応はしない。


「……とにかく、これは幕府の一大事。東海道を預かる者として、やれることはやらねばならん」


 そう言って若狭守は踵を返し、立ち去った。


「……中でなにがあったのでしょうな」


 彦右衛門が呟くと、新之助が肩をすくめる。


「まあ、大体想像はつくがなあ」


 そう言いながら、新之助は屋敷の中へと向かった。
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