第5話 柳生新陰流
文字数 3,175文字
この当時、東海道には宿場町ごとに継飛脚や伝馬が整備され、情報伝達網が確立されていたという。現代のようにメール一本というわけにはいかなくとも、数日あればかなり遠い藩にも情報が到達したらしい。先の赤穂浪士討ち入り事件のきっかけとなった、松の廊下の刃傷事件――浅野内匠頭が旗本高家・吉良上野介に江戸城殿中で斬りつけた変事に際しては、浅野内匠頭の治める播磨の国(現代の兵庫県)の赤穂藩にまで早駕籠が飛び、約六日ほどでその一報が伝えられたというから、かなりのものだ。
「江戸に異変あり」――新之助たちが箱根で「雲」を目にしてから数日の内には、その報せは各国の大名たちの知るところとなっていた。
「……それで、その情報は一体、どこからの話?」
片肌を脱いで弓に矢をつがえながら、少年が言った。弓越しに的を見据えるその瞳は怜悧に輝き、口元には笑みさえ浮かべている。
少年から離れ、庭の片隅に膝をついた初老の男が、その問いに答えて口を開く。
「我ら柳生の手の者が報せたものにございます」
「つまり、江戸からの報せじゃない、っていうことだよね」
そう言った後、少年はつがえた矢を無造作に放った。矢は空を駆け、的へと飛び――その中央に刺さっていた矢を、弾き飛ばした。
「お見事」
座敷の奥から、女が声をかける。
「また腕を上げたようですのう、中納言殿」
「ふふ、弓は不得手でしたが、どうも今日は調子がいいようです、母上」
少年はニヤリ、と口元を歪ませて言った。初老の男は、その表情にぞくり、とするものを感じる。
「兵庫」
少年は弓を降ろし、振り向いて言った。
「お前はどう思う?」
「……まだなにもわかりませぬ。しかしながら」
兵庫、と呼ばれた男――柳生兵庫助厳延 は、顔を上げ、言葉を継ぐ。
「なにかあれば、ここ尾張には幕府からの報せが真っ先に届きまする。今に至るまでそれがないということは、恐らく……」
「そんなことはわかってるんだよ」
少年は一瞬、その怜悧な目で柳生兵庫助を見据える。兵庫助は思わず息を呑んだ。若干十五歳にして、この眼力――尾張新陰流・道統第八世の兵庫助をして、心胆を寒からしめる殺気。
「僕が訊きたいのはね、もしも幕府が
兵庫助の心臓が早鐘を打った。それは、考えないようにしていた可能性――いや、考えてはいけない可能性だった。かつてなにもない沼地に神君家康公が築き上げ、全武士の頭領として、日本 の中枢として君臨する幕府が、江戸ごと消失する――考えるだけでも天に唾するようなものだ。
「もしそうなったら、尾張 がその代わりになるってことで……いいと思う?」
しかし目の前の少年は、それこそ些事だと言わんばかりに飄々と、話を進める。
もちろん、それは少年の立場としては当然果たすべき務めである。徳川御三家が筆頭・尾張徳川家――その当主である尾張中納言・徳川吉通なれば、江戸にもしもがあった時のことを、遠慮なしに考えることができる――
(本当に、そうだろうか?)
兵庫助はそれ以上に、この少年藩主の言動に底寒い思いがするのだ。異変の報せに眉ひとつ動かさず、「尾張が代わりを務める」という話をすぐに、さらりと口にできるものだろうか?
兵庫助は横目で、吉通の母親・お福の方を見た。兵庫助とほとんど年齢が変わらぬのに、東海一と称えられたその美貌は一向に衰えない。その妖艶な笑みは兵庫助に向けられていた。
「……あの『雲』が晴れ、江戸が無事に姿を現したときのことをまず、考えねばなりませぬ」
兵庫助はやっとの思いで口を開いた。
「下手なことをすれば、幕府に弓を引いたことにもなりかねませぬ。諸藩の大名たちも、滅多なことは致しますまい、と存じますれば」
「保守的だなぁ。まあ仕方ないか」
吉通はそう言って笑い、弓を置いた。
「木剣を。二本だ」
そう告げると、側小姓が木剣を二本捧げ持つ。吉通はそれを手に取り、片方を兵庫助に差し出した。
「一手、指南願おう」
「はっ……」
兵庫助は差し出された木剣を手にして庭へと進み出、それを吉通へと向け構えた。
「中段の位 ……基本に忠実だね」
楽しそうにそう言う吉通は、片手に木剣を提げたまま立っていた。構えていないわけではない。敵のいかなる動きに対しても、千変万化にその姿を変え、迎え撃つ――「無形 の位」である。
「……自ら彼 のようにせんとする気持ちを封じ、自然なる流れに身を任せて、臨機応変に対応することが、剣には肝要」
まずは情勢を見極め、しかる後にあるべき勝ちを取るべし――倒すのではなく、敵を大いに働かせ、自らは居ながらにして勝つ。殺人の技ではなく、活人の剣こそが柳生の極意。だからこそ、家康公はこれを天下を治める道に通ずると見出し、将軍家の指南役としたのだ。常なる太平の世のためには、意に反する者を打ち倒す力だけではままならない。
「……どうかな」
吉通はそう呟いて笑みを浮かべ――そして片手に持った木剣を高々と天に掲げた。
「……なにを………」
兵庫助がその構えに応じようとした瞬間、吉通が踏み込んだ。
「ちえええぇぇぃ!!」
裂帛の気合と共に、その剣が振り降ろされる。雷 の如きその斬撃を、兵庫助は受ける――
――カッ!
受けた、と見えた瞬間、振り降ろされたはずの剣が、兵庫助の喉元にあった。吉通はまた、ニヤリと口元を歪める。
「千変万化に受けられるのなら、千変万化に攻めることだってできる。自ら仕掛け、敵の行動を狭め、
兵庫助は戦慄した。受けのために剣を
吉通は木剣を降ろし、踵を返した。
「大名たちはまあいい。その『雲』と……それに京の動きを引き続き探っておいてよ」
「はっ……!」
立ち去る吉通の後ろ姿を見送りながら、兵庫助は鳥肌を抑えられなかった。
尾張柳生新陰流・道統九世、徳川吉通。若くして徳川御三家の筆頭・尾張中納言の地位でもありながら、その剣は既に兵庫助を凌いでいる。兵庫助の伯父であり師でもあった不世出の達人・柳生連也斎の剣を、色濃く受け継いでいるのはむしろ吉通だ。
剣だけではない。吉通は学問にも兵法にも、並々ならぬ才を示している。いずれ名君となるだろう、と城内では喜ぶ声も多い。しかし――
「……よろしくお願いしますよ、兵庫殿」
お福の方が庭まで降りてきて、兵庫助に声をかけた。
「特に京の方は……例の件、ぜひにも握っておかねばならぬ」
「心得ております、お福様」
兵庫助は頭をさらに下げた。
「
「そう、その通りじゃ」
お福の方は袖口を手にやり、笑う。
「中納言殿はただひとり生き残った先代のお館様の子……天を統べる器を持つ運命の子なのですからね」
お福の方はその美貌をほとんど恍惚とさせながら言った。
「強く、賢く、美しい者は、それを正しく使う務めがござろう?」
黙って頭を垂れる兵庫助に、お福の方は顔を寄せて笑い、振り返って歩き去った。
「江戸に異変あり」――新之助たちが箱根で「雲」を目にしてから数日の内には、その報せは各国の大名たちの知るところとなっていた。
「……それで、その情報は一体、どこからの話?」
片肌を脱いで弓に矢をつがえながら、少年が言った。弓越しに的を見据えるその瞳は怜悧に輝き、口元には笑みさえ浮かべている。
少年から離れ、庭の片隅に膝をついた初老の男が、その問いに答えて口を開く。
「我ら柳生の手の者が報せたものにございます」
「つまり、江戸からの報せじゃない、っていうことだよね」
そう言った後、少年はつがえた矢を無造作に放った。矢は空を駆け、的へと飛び――その中央に刺さっていた矢を、弾き飛ばした。
「お見事」
座敷の奥から、女が声をかける。
「また腕を上げたようですのう、中納言殿」
「ふふ、弓は不得手でしたが、どうも今日は調子がいいようです、母上」
少年はニヤリ、と口元を歪ませて言った。初老の男は、その表情にぞくり、とするものを感じる。
「兵庫」
少年は弓を降ろし、振り向いて言った。
「お前はどう思う?」
「……まだなにもわかりませぬ。しかしながら」
兵庫、と呼ばれた男――柳生兵庫助
「なにかあれば、ここ尾張には幕府からの報せが真っ先に届きまする。今に至るまでそれがないということは、恐らく……」
「そんなことはわかってるんだよ」
少年は一瞬、その怜悧な目で柳生兵庫助を見据える。兵庫助は思わず息を呑んだ。若干十五歳にして、この眼力――尾張新陰流・道統第八世の兵庫助をして、心胆を寒からしめる殺気。
「僕が訊きたいのはね、もしも幕府が
消失
していたらどうなるか、っていう話さ」兵庫助の心臓が早鐘を打った。それは、考えないようにしていた可能性――いや、考えてはいけない可能性だった。かつてなにもない沼地に神君家康公が築き上げ、全武士の頭領として、
「もしそうなったら、
しかし目の前の少年は、それこそ些事だと言わんばかりに飄々と、話を進める。
もちろん、それは少年の立場としては当然果たすべき務めである。徳川御三家が筆頭・尾張徳川家――その当主である尾張中納言・徳川吉通なれば、江戸にもしもがあった時のことを、遠慮なしに考えることができる――
(本当に、そうだろうか?)
兵庫助はそれ以上に、この少年藩主の言動に底寒い思いがするのだ。異変の報せに眉ひとつ動かさず、「尾張が代わりを務める」という話をすぐに、さらりと口にできるものだろうか?
兵庫助は横目で、吉通の母親・お福の方を見た。兵庫助とほとんど年齢が変わらぬのに、東海一と称えられたその美貌は一向に衰えない。その妖艶な笑みは兵庫助に向けられていた。
「……あの『雲』が晴れ、江戸が無事に姿を現したときのことをまず、考えねばなりませぬ」
兵庫助はやっとの思いで口を開いた。
「下手なことをすれば、幕府に弓を引いたことにもなりかねませぬ。諸藩の大名たちも、滅多なことは致しますまい、と存じますれば」
「保守的だなぁ。まあ仕方ないか」
吉通はそう言って笑い、弓を置いた。
「木剣を。二本だ」
そう告げると、側小姓が木剣を二本捧げ持つ。吉通はそれを手に取り、片方を兵庫助に差し出した。
「一手、指南願おう」
「はっ……」
兵庫助は差し出された木剣を手にして庭へと進み出、それを吉通へと向け構えた。
「中段の
楽しそうにそう言う吉通は、片手に木剣を提げたまま立っていた。構えていないわけではない。敵のいかなる動きに対しても、千変万化にその姿を変え、迎え撃つ――「
「……自ら
まずは情勢を見極め、しかる後にあるべき勝ちを取るべし――倒すのではなく、敵を大いに働かせ、自らは居ながらにして勝つ。殺人の技ではなく、活人の剣こそが柳生の極意。だからこそ、家康公はこれを天下を治める道に通ずると見出し、将軍家の指南役としたのだ。常なる太平の世のためには、意に反する者を打ち倒す力だけではままならない。
「……どうかな」
吉通はそう呟いて笑みを浮かべ――そして片手に持った木剣を高々と天に掲げた。
「……なにを………」
兵庫助がその構えに応じようとした瞬間、吉通が踏み込んだ。
「ちえええぇぇぃ!!」
裂帛の気合と共に、その剣が振り降ろされる。
――カッ!
受けた、と見えた瞬間、振り降ろされたはずの剣が、兵庫助の喉元にあった。吉通はまた、ニヤリと口元を歪める。
「千変万化に受けられるのなら、千変万化に攻めることだってできる。自ら仕掛け、敵の行動を狭め、
相手をあるべき姿へと成さしめる
……それこそが『無形』の姿」兵庫助は戦慄した。受けのために剣を
上げさせられた
兵庫助を、吉通にとっての「あるべき姿」へと一瞬で追い込む技――相手を支配する剣。それは君主の剣ではなく、覇者の剣だ。吉通は木剣を降ろし、踵を返した。
「大名たちはまあいい。その『雲』と……それに京の動きを引き続き探っておいてよ」
「はっ……!」
立ち去る吉通の後ろ姿を見送りながら、兵庫助は鳥肌を抑えられなかった。
尾張柳生新陰流・道統九世、徳川吉通。若くして徳川御三家の筆頭・尾張中納言の地位でもありながら、その剣は既に兵庫助を凌いでいる。兵庫助の伯父であり師でもあった不世出の達人・柳生連也斎の剣を、色濃く受け継いでいるのはむしろ吉通だ。
剣だけではない。吉通は学問にも兵法にも、並々ならぬ才を示している。いずれ名君となるだろう、と城内では喜ぶ声も多い。しかし――
「……よろしくお願いしますよ、兵庫殿」
お福の方が庭まで降りてきて、兵庫助に声をかけた。
「特に京の方は……例の件、ぜひにも握っておかねばならぬ」
「心得ております、お福様」
兵庫助は頭をさらに下げた。
「
あの女
が生きているとすれば……ことこの事態においては、さらに重要な意味を持つ話になって参りますゆえ」「そう、その通りじゃ」
お福の方は袖口を手にやり、笑う。
「中納言殿はただひとり生き残った先代のお館様の子……天を統べる器を持つ運命の子なのですからね」
お福の方はその美貌をほとんど恍惚とさせながら言った。
「強く、賢く、美しい者は、それを正しく使う務めがござろう?」
黙って頭を垂れる兵庫助に、お福の方は顔を寄せて笑い、振り返って歩き去った。