第16話 継ぐのは誰か
文字数 3,545文字
「いやあ、びっくりしましたわ。そこの巫女さんが急に来て逃げろなんていうもんでね」
馬を降り、上がり込んだあばら家の中。やっと人心地のついた様子の苅部清兵衛は、肥えた腹を振るわせてふぅっ、と大きな息を吐いた。
浜辺近くに建つそのあばら家の中は荒れていた。あの「雲」が出る前から無人だったようだ。漁の時期にだけ使う家屋なのかもしれない。新之助たちは外に馬を繋ぎ、日暮れ前に見つかったこの家に上がり込んだのだった。
「屋敷の外に出たところで、あの輩が町の人間を集めるのが見えて……こりゃいかん、と隠れて逃げてたら、なんとかお糸たちに会ってね……伝馬を奪って逃げてたってぇわけで」
源之丞は部屋の隅に座っている芳乃を見た。新之助たちが箱根関で出会ったという渡り巫女。確か、お糸の寺に滞在していたと聞いていたが――
「それもまた『託宣』によるものかね?」
彦右衛門が芳乃に向かって尋ねる。芳乃は黙って首を横に振った。
「ではなぜ苅部殿を救いに?」
「……来るのがわかったから」
「あの連中がやって来るのが? それでは、あの連中が何者か知っていたのか」
「いいえ」
「ならばなぜ逃がそうと?」
「わたくしは、あの連中が来るのを、苅部様にお知らせしなければと思っただけで……」
彦右衛門がどう尋ねても、どうも要領を得ない。源之丞は新之助に向かって小声で尋ねる。
「……そんなに見事だったので? あの娘の託宣というのは」
「ああ、それは見物だった」
新之助は芳乃を見ながら答えた。
「しかし、それが当たるかどうかはまだ、わからないのでは……その、大地が焼け落ち、『王』が現れる、などと」
「当たらないならその方がよい話だろう?」
「や、それはそうですが」
新之助は源之丞の方を振り返り、笑う。
「あの者が苅部殿を救い出したのは事実だ。ならば託宣を信じる理由にはなる」
「……当たらない方がよい内容でも?」
「最悪の事態を想定し、事に当たらねばな。あの手のお告げというのは、その心構えをさせるためにあるのだろう」
新之助の口元は笑っていたが、その目の奥の光に源之丞は、どこか酷薄さを感じて言葉を呑んだ。
「………しかし、なんだってんだ、あの連中は」
忌々しげに息を吐き出しながら、賭場で源之丞と勝負を繰り広げた斜視の男――名は権蔵というらしい――が言った。
「人様の町に乗り込んできて好き勝手やりやがって! あの宿場は俺たちが守ってきたってのに……!」
権蔵は歯をぎりぎりと噛みしめていた。源之丞は、清兵衛と権蔵を見比べる。清兵衛が保土ヶ谷宿の治安を守っていると評した権蔵たち、地元の侠客――彼らが今回、あの「破人の衆」とやらに対抗できなかったことを、責めるわけにはいくまい。代官所の侍たちだって手もなく殺されていたのだ。相手が悪すぎる。
「侍に随分と恨みがあるようだった」
源之丞が言うと、彦右衛門がふむ、と頷く。
「幕府に不満を持ち、転覆を企む不貞浪人はどこにでもいるな。まったく疎ましい!」
「……不貞浪人にしては、腕が立ちすぎる」
そう言うと、彦右衛門は黙ってしまった。代官所で出会ったあの鼠色の男の技を、彦右衛門はその身で味わっているのだ。
「それに……周到過ぎる」
新之助が源之丞のあとを引き取って口を開く。
「源之丞殿の話によれば、彼奴らは町の人々を扇動し、侍に敵対をさせようとしていたという。浪人崩れの野盗風情が、そのような真似はするまい。それに……」
新之助はそこで少し黙り、そして振り返った。
「芳乃殿」
少女が無言で顔を上げる。
「そなたは、あの『雲』を予言できた者はいない、とそう言ったな?」
「……いないとは申しておりません。人の身で鳥の未来は見えぬと申し上げました」
「では、あの者たちが『鳥』か?」
新之助の顔は笑っていなかった。芳乃は無言でそれを見つめ返す。
場に重い空気が立ち込めたまま、静けさだけが過ぎた。源之丞は新之助の言いたいことを理解していた――保土ヶ谷宿を襲った者たちは、少なくとも二十人。それも、あれだけの手練れが揃った集団だ。今の今まで潜み続けたあれほどの者たちが、この変事に際し一気に姿を現し、江戸近くの宿場を襲う――ただの野盗であるはずがない。もし、あの「雲」の出現を予期していた者がいたとすれば――
ガラッ、という戸口の音が沈黙を破った。
「戻ったよ! 食い物わけてもらえた!」
お糸と、一緒について来た清兵衛の手代が駕籠をぶら下げ、家の中に入ってきた。
「ほら、シラスだよこんなに。これで酒でもあれば最高なんだけどなぁ」
「シラス……?」
新之助が露骨に嫌な顔をすると、お糸が目を丸くする。
「なに
「い、いやその……あの目が少々な……見られているようで」
「なんだとぉ!? 贅沢だな侍ってのは……わかった! あたしら庶民のご馳走、どうあっても味わわせてやるから待ってな!」
そう言って土間に立ったお糸の背を見ながら、新之助は目を白黒させていた。
「観念なされるのですな、新之助様。好き嫌いはようござらん」
「まったくだ! 喰わねぇとデカくならねぇからな」
彦右衛門と権蔵に立て続けに言われ、新之助はぶすっと黙りこくってしまった。
* * *
その、夜。
新之助は外に出て、浜を挟んで向こう側の「雲」が月明かりに照らされる様を眺めていた。
それは、対岸の陸と天とを繋いでそびえる柱だった。まるで、日本 の地が、天から提げられたその柱で括りつけられたようにも見える。だとすれば、天下の命運は再度、天に委ねられたとでもいうのだろうか――
「……新さん?」
背後から声がかかり、新之助は振り返った。戸口にお糸が立っている。
「寝ずの番でもしようっての? それじゃ……」
「や、なんとなく起きてみただけだ。月が美しいしな」
「……そう?」
そう言ってお糸は、新之助の近くへ歩み寄って来た。新之助はふっ、と息をつく。
新之助はこの女性 にまだ、自分の身分を明かしていない。源之丞に明かしたのは、あれほどの手練れを手っ取り早く味方に引き入れるためだった。お糸や芳乃もまた、味方として置いておきたい人物には違いないが――それなら多分、浪人のままがいい。
「……あたし、気になってることがあって」
お糸が「雲」を見ながら言う。新之助は隣に立ったお糸の横顔を見た。大きな目の中に波から跳ねた光と月の光が入り込み、きらきらと揺らめいていた。新之助はその問いかけに応じる。
「なんだね?」
「もし……もし万が一、江戸の将軍様に万が一のことがあった場合」
お糸の目は「雲」に真っすぐと据えられていた。新之助は黙ってその言葉の先を待つ。
「……次の将軍は、誰になるのかな?」
「ふむ」
新之助は顎に手を当て、少し考えた。
「……本来であれば、次期将軍は先の甲府徳川家当主、家宣様であったはず。だが……確か家宣様は今、江戸の藩邸におられたはず………」
お糸が新之助を見た。新之助は言葉を継ぐ。
「だとすればまず、紀州藩主・徳川綱教が後継候補に挙がる。元々そういう話もあったのだと聞くからな」
徳川綱教は新之助の実の兄である。二人の父・光貞はすでに隠居し、綱教に家督を譲っていた。新之助は飽くまでも他人事のように話を続ける。
「他の候補としてはまず、尾張中納言・徳川吉通。それに水戸藩主・徳川綱條様か、その子、吉孚殿……といったところか」
新之助は、自らの顔から笑みが消え失せていることに気が付いていない。お糸がその横顔を見ていた。
「新さん、随分詳しいんだねえ」
「……ん? ああ、まあ……」
新之助はお糸にそう言われて、初めて自分が真剣に考え込んでしまっていたことに気が付いた。慌てていつもの通りの柔和な表情を作る。が、お糸は気にした様子もなく、「雲」に視線を移した。
「その中から……」
お糸がまた問いを投げる。
「次の将軍を、
新之助は黙ったまま、「雲」に目をやった。
* * *
「決まっておろう。将軍を決めるのは禁裏 じゃ」
皴と烏帽子を揺らしながら、一条兼輝は言った。五十という歳の割には、その姿は随分と老いて見える。皴と染みを白粉で隠したその奥で、瞳だけが爛々と紅く燃えていた。
「東国の刀猿どもが、いつの間にかつけ上がりよって。もともと将軍など臣下に過ぎぬ。此度のこと、よい薬でおじゃろう」
御簾の向こう側で、男が平伏する。兼輝は男の姿など目にも入らぬ様子で、言葉を続けた。
「仙洞様の宿願、きっと果たしてくれるのじゃろうなぁ。ああ、まったくご苦労なことでおじゃる」
あらぬ方向を向いてそう告げる兼輝の言に、平伏していた男が顔を挙げた――そこに現れたのは、装束こそ違えども、保土ヶ谷宿を襲ったあの牛頭丸と同じ顔であった。
馬を降り、上がり込んだあばら家の中。やっと人心地のついた様子の苅部清兵衛は、肥えた腹を振るわせてふぅっ、と大きな息を吐いた。
浜辺近くに建つそのあばら家の中は荒れていた。あの「雲」が出る前から無人だったようだ。漁の時期にだけ使う家屋なのかもしれない。新之助たちは外に馬を繋ぎ、日暮れ前に見つかったこの家に上がり込んだのだった。
「屋敷の外に出たところで、あの輩が町の人間を集めるのが見えて……こりゃいかん、と隠れて逃げてたら、なんとかお糸たちに会ってね……伝馬を奪って逃げてたってぇわけで」
源之丞は部屋の隅に座っている芳乃を見た。新之助たちが箱根関で出会ったという渡り巫女。確か、お糸の寺に滞在していたと聞いていたが――
「それもまた『託宣』によるものかね?」
彦右衛門が芳乃に向かって尋ねる。芳乃は黙って首を横に振った。
「ではなぜ苅部殿を救いに?」
「……来るのがわかったから」
「あの連中がやって来るのが? それでは、あの連中が何者か知っていたのか」
「いいえ」
「ならばなぜ逃がそうと?」
「わたくしは、あの連中が来るのを、苅部様にお知らせしなければと思っただけで……」
彦右衛門がどう尋ねても、どうも要領を得ない。源之丞は新之助に向かって小声で尋ねる。
「……そんなに見事だったので? あの娘の託宣というのは」
「ああ、それは見物だった」
新之助は芳乃を見ながら答えた。
「しかし、それが当たるかどうかはまだ、わからないのでは……その、大地が焼け落ち、『王』が現れる、などと」
「当たらないならその方がよい話だろう?」
「や、それはそうですが」
新之助は源之丞の方を振り返り、笑う。
「あの者が苅部殿を救い出したのは事実だ。ならば託宣を信じる理由にはなる」
「……当たらない方がよい内容でも?」
「最悪の事態を想定し、事に当たらねばな。あの手のお告げというのは、その心構えをさせるためにあるのだろう」
新之助の口元は笑っていたが、その目の奥の光に源之丞は、どこか酷薄さを感じて言葉を呑んだ。
「………しかし、なんだってんだ、あの連中は」
忌々しげに息を吐き出しながら、賭場で源之丞と勝負を繰り広げた斜視の男――名は権蔵というらしい――が言った。
「人様の町に乗り込んできて好き勝手やりやがって! あの宿場は俺たちが守ってきたってのに……!」
権蔵は歯をぎりぎりと噛みしめていた。源之丞は、清兵衛と権蔵を見比べる。清兵衛が保土ヶ谷宿の治安を守っていると評した権蔵たち、地元の侠客――彼らが今回、あの「破人の衆」とやらに対抗できなかったことを、責めるわけにはいくまい。代官所の侍たちだって手もなく殺されていたのだ。相手が悪すぎる。
「侍に随分と恨みがあるようだった」
源之丞が言うと、彦右衛門がふむ、と頷く。
「幕府に不満を持ち、転覆を企む不貞浪人はどこにでもいるな。まったく疎ましい!」
「……不貞浪人にしては、腕が立ちすぎる」
そう言うと、彦右衛門は黙ってしまった。代官所で出会ったあの鼠色の男の技を、彦右衛門はその身で味わっているのだ。
「それに……周到過ぎる」
新之助が源之丞のあとを引き取って口を開く。
「源之丞殿の話によれば、彼奴らは町の人々を扇動し、侍に敵対をさせようとしていたという。浪人崩れの野盗風情が、そのような真似はするまい。それに……」
新之助はそこで少し黙り、そして振り返った。
「芳乃殿」
少女が無言で顔を上げる。
「そなたは、あの『雲』を予言できた者はいない、とそう言ったな?」
「……いないとは申しておりません。人の身で鳥の未来は見えぬと申し上げました」
「では、あの者たちが『鳥』か?」
新之助の顔は笑っていなかった。芳乃は無言でそれを見つめ返す。
場に重い空気が立ち込めたまま、静けさだけが過ぎた。源之丞は新之助の言いたいことを理解していた――保土ヶ谷宿を襲った者たちは、少なくとも二十人。それも、あれだけの手練れが揃った集団だ。今の今まで潜み続けたあれほどの者たちが、この変事に際し一気に姿を現し、江戸近くの宿場を襲う――ただの野盗であるはずがない。もし、あの「雲」の出現を予期していた者がいたとすれば――
ガラッ、という戸口の音が沈黙を破った。
「戻ったよ! 食い物わけてもらえた!」
お糸と、一緒について来た清兵衛の手代が駕籠をぶら下げ、家の中に入ってきた。
「ほら、シラスだよこんなに。これで酒でもあれば最高なんだけどなぁ」
「シラス……?」
新之助が露骨に嫌な顔をすると、お糸が目を丸くする。
「なに
新さん
、もしかして、シラス嫌いなの?」「い、いやその……あの目が少々な……見られているようで」
「なんだとぉ!? 贅沢だな侍ってのは……わかった! あたしら庶民のご馳走、どうあっても味わわせてやるから待ってな!」
そう言って土間に立ったお糸の背を見ながら、新之助は目を白黒させていた。
「観念なされるのですな、新之助様。好き嫌いはようござらん」
「まったくだ! 喰わねぇとデカくならねぇからな」
彦右衛門と権蔵に立て続けに言われ、新之助はぶすっと黙りこくってしまった。
* * *
その、夜。
新之助は外に出て、浜を挟んで向こう側の「雲」が月明かりに照らされる様を眺めていた。
それは、対岸の陸と天とを繋いでそびえる柱だった。まるで、
「……新さん?」
背後から声がかかり、新之助は振り返った。戸口にお糸が立っている。
「寝ずの番でもしようっての? それじゃ……」
「や、なんとなく起きてみただけだ。月が美しいしな」
「……そう?」
そう言ってお糸は、新之助の近くへ歩み寄って来た。新之助はふっ、と息をつく。
新之助はこの
「……あたし、気になってることがあって」
お糸が「雲」を見ながら言う。新之助は隣に立ったお糸の横顔を見た。大きな目の中に波から跳ねた光と月の光が入り込み、きらきらと揺らめいていた。新之助はその問いかけに応じる。
「なんだね?」
「もし……もし万が一、江戸の将軍様に万が一のことがあった場合」
お糸の目は「雲」に真っすぐと据えられていた。新之助は黙ってその言葉の先を待つ。
「……次の将軍は、誰になるのかな?」
「ふむ」
新之助は顎に手を当て、少し考えた。
「……本来であれば、次期将軍は先の甲府徳川家当主、家宣様であったはず。だが……確か家宣様は今、江戸の藩邸におられたはず………」
お糸が新之助を見た。新之助は言葉を継ぐ。
「だとすればまず、紀州藩主・徳川綱教が後継候補に挙がる。元々そういう話もあったのだと聞くからな」
徳川綱教は新之助の実の兄である。二人の父・光貞はすでに隠居し、綱教に家督を譲っていた。新之助は飽くまでも他人事のように話を続ける。
「他の候補としてはまず、尾張中納言・徳川吉通。それに水戸藩主・徳川綱條様か、その子、吉孚殿……といったところか」
新之助は、自らの顔から笑みが消え失せていることに気が付いていない。お糸がその横顔を見ていた。
「新さん、随分詳しいんだねえ」
「……ん? ああ、まあ……」
新之助はお糸にそう言われて、初めて自分が真剣に考え込んでしまっていたことに気が付いた。慌てていつもの通りの柔和な表情を作る。が、お糸は気にした様子もなく、「雲」に視線を移した。
「その中から……」
お糸がまた問いを投げる。
「次の将軍を、
誰が決める
のかな?」新之助は黙ったまま、「雲」に目をやった。
* * *
「決まっておろう。将軍を決めるのは
皴と烏帽子を揺らしながら、一条兼輝は言った。五十という歳の割には、その姿は随分と老いて見える。皴と染みを白粉で隠したその奥で、瞳だけが爛々と紅く燃えていた。
「東国の刀猿どもが、いつの間にかつけ上がりよって。もともと将軍など臣下に過ぎぬ。此度のこと、よい薬でおじゃろう」
御簾の向こう側で、男が平伏する。兼輝は男の姿など目にも入らぬ様子で、言葉を続けた。
「仙洞様の宿願、きっと果たしてくれるのじゃろうなぁ。ああ、まったくご苦労なことでおじゃる」
あらぬ方向を向いてそう告げる兼輝の言に、平伏していた男が顔を挙げた――そこに現れたのは、装束こそ違えども、保土ヶ谷宿を襲ったあの牛頭丸と同じ顔であった。