第8話 新之助と源之丞

文字数 2,977文字

「紀州の、松平……?」


 思わず、源之丞は眉を寄せて首を傾げた。つまり、この若い男は、徳川御三家のひとつ、紀州徳川家の御曹司だと名乗っているのだ。が――


「そしてこちらが、家臣の有馬彦右衛門だ」


 源之丞の顔色を無視して、新之助は勝手に話を進めていた。


「江戸に用があってここまで来てみたものの、このようなことになってしまって……いやはや、まったく驚いたな」

「新之助様! それよりもなんですかこの男たちは!? まさか、斬り合いをしたのではありませんでしょうな!?」

「私は剣を抜いていないよ。殴り倒しただけだ」

「余計に危ないではないですか!」


 その口ぶりを聞く限り、とりあえずこの武士が家臣だというのは本当らしい。


「……それがしが危ないところを、助太刀をしていただいたのだ。おかげで助かった」


 源之丞が言うと、彦右衛門は訝しながらも黙り、主君の方を見た。新之助は得意げな顔をしたが、これは的外れな反応だろう。


「それよりも」


 源之丞は彦右衛門の方に向かって言う。こちらの方が話が通じそうだ。


「その……本当なのですかね……? こちらの……御方、が徳川の……」

「そ、それはですな……」


 彦右衛門は困って、新之助と源之丞を交互に見る。新之助はからからと笑った。


「まあ、どちらでもよいではないか」

「……はあ……」


 源之丞は態度を決めかねていた。もし名乗りが本当なら、今の源之丞の態度は無礼どころの騒ぎではない。すぐにでも平伏しなければ、この場で斬り捨てられても文句は言えないのだ。とはいえ、こんな(ラフ)な格好で、家臣一人を連れただけで、こんなところをうろうろしている男が、まさか――


「それより、其処許(そこもと)は?」

「あ、ああ……」


 源之丞はとりあえず名乗ろうとする。だが相手の身分が曖昧なので、これも非常にやりづらい。


「それがしは旗本小普請組、美濃部家当主・美濃部源之丞高重(たかしげ)と申す者にござる。お役目にて京へと行っておりましたが、江戸に戻る最中にて……」

「先の刺客は、そのお役目と関係が?」


 新之助が鋭く突っ込んだ。源之丞は口をつぐみ、その顔を見る。垂れ気味の人の好さそうな――御曹司だと言われれば、確かに苦労を知らぬ顔だな、とも思われるような――その目の奥に、油断のならない光があった。


「……申し上げられませぬ」


 これは相手の身分に関わらないことだった。なにしろ、源之丞の帯びているのは時の将軍・徳川綱吉の即用人、柳沢吉保からの密命であるのだ。例えそれが紀州徳川家の御曹司であろうと、他藩の者に言えるはずもない。


「そうか、ならばよい」


 新之助は特にこだわりを見せることもなく、またにかっと笑う。


「それよりも先の技、あれは忍術だろう。しかも相当な手練(てだれ)だ。美濃部家と言えば甲賀流か?」

「お詳しいですな」


 忍術の技は本来、目上の者に対しても滅多に見せるものではない。仕方のない状況ではあったが、家名から流派まで当てられたことに源之丞は憮然とした。新之助は気にせず話を続ける。


「逃げた男は顔見知りかね?」

「ええ、まぁ……」


 探りを入れられていることには気付いていた。源之丞は言葉を選ぶ。


「あやつは土橋左門。それがしと同じく、小普請組の旗本にござる」

「なるほど、旗本同士の喧嘩となれば、これはただでは済むまいな」

「……っ!」


 ――源之丞は絶句した。新之助の言う通りである。事が露見して、幕府の評定所に持ち込まれれば、両成敗で双方の家がお取り潰しになることさえあり得る。

 源之丞にとってみれば、これは喧嘩どころか、身にかかる火の粉を払っただけである。それも、役目を受けそれを果たすためだ。そして左門にとってもそれは同じ。実のところ、これは幕府の上層における暗闘が表に現れたに過ぎない。だからこそ、露見しそうになれば源之丞たちの首など、簡単に飛ぶだろう。


「……とはいえ」


 新之助は「雲」を見上げた。


「江戸がこの様子では、それもどうにもならんか……」


 源之丞もまた「雲」を見た。新之助の言う通りだ。

 源之丞たち武士の身分は、江戸の存在なしにはあり得ない。幕府の軍事力を背景に、侍は帯刀を許され、民から年貢を取り立てる。もしその中枢が消失したら、武士など貧弱な一個人に過ぎない。


「周りを見て回りましたが、地の果てまで果てしなく続いておりますな」


 彦右衛門が口を開いた。源之丞がそれに応じる。


「……箱根の峠から見た限りでは、武蔵野がほとんど覆われているようでございました」

「ほう、源之丞殿も箱根からあれを見たか?」

「ええ、一昨日の朝に」

「それは奇遇。ではすぐ近くにいたのだな。箱根関で見事な啖呵を切った女性(にょしょう)と、巫女の託宣を見たかのう?」

「……? いえ、見ておりませぬが」

「それは惜しいことをした。見ものだったぞ、あれは」


 新之助はそう言って、満足気に顎を撫でた。妙な男だ――と源之丞は思う。だが、腕は立つし頭も切れるようだ。油断のならない男には違いないだろう。当面、害意がないことは信用してもよさそうではあるが――


「さて……それで源之丞殿は、これからどうするね?」

「……え?」


 不意に問われて、源之丞は素っ頓狂な声を出した。新之助は言葉を継ぐ。


「私としては、江戸に入れるのかどうか、確かめてみたいのだが……」

「ああ、それなら先ほど試しました」

「ほう?」


 横から彦右衛門が口を挟む。


「入ったのか? あの中に」

「ええ、それで剣を失いました」


 源之丞は折れた剣を見せ、言った。


「ふむ、これは……」


 彦右衛門は新之助の方を見る。新之助はそれに対して頷き、源之丞を見た。


「源之丞殿、私たちと一緒に来ないか? 『雲』の中の話も詳しく聞きたい」

「…………」


 一瞬、警戒する源之丞に、彦右衛門が言う。


「今のところ、あの『雲』の中に入ったのは恐らく、其処許ただ一人。今後のことを考えても、一緒にいてもらう方がよい」

「しかし……」


 新之助はまだ戸惑っていた。この若い侍とその家臣らしき男――正直なところ、まったく得体が知れない。紀州徳川の御曹司だなどと、まともに信じられるはずもなかった。騙りとだとしても大仰に過ぎる。害意がないとしても、そんなことを言う者と一緒にいれば、きっとまた面倒なことになる。

 訝し気な源之丞を見て、新之助が口を開く。


「刺客に狙われているのだろう? ならば、私たちと一緒の方が安全ではないか」

「うむ、まあ……ですが……」

「……勝手に死なれては困る、と言っている」


 言葉を濁す源之丞の顔に突然、新之助の鋭い視線が刺さった。


「お主に選択権はない、と思ってもらおう。これは日本(ひのもと)の危機なのだ」


 その全身から放つ覇気に、源之丞は戦慄したと言っていい。そして、少なくともこの若い侍が、生まれながらの君主であることを直観的に悟った。
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