第15話 脆くて硬いもの

文字数 3,114文字

 柳生兵庫助は焦っていた。江戸からの情報が入って来ないのだ。

 第一報がもたらされてより、一週間ほどが経とうとしていた。あの「雲」の中に、幕府がまだ健在だとすれば、なにしかしらの連絡があるところだ。だが、それもない。それどころか、江戸近辺の動きがまったく伝わって来ないのである。

 既に、柳生の密偵を江戸に向けて放っている。何人かで行動している密偵たちは、現地につけばすぐに一人を返すか、或いは別の手段で連絡を寄こすはずだ。それさえも、ない。

 かつてない事態だと言えた。先の赤穂浪士討ち入り事件でも、またかつての由井正雪の乱においても、大小の変事に際して裏柳生の情報網は迅速に実態を掴み、尾張にそれをもたらしてきたのだ。

 御三家筆頭格である尾張徳川は、将軍家に次ぐ家格を認められている。将軍家に世継ぎがなかった場合、次期将軍として男子を後嗣に出すことになる。

 そしてその一方で、諸藩大名のお家騒動や不穏分子の蠢動などに裏で介入し、幕政の汚れ役を引き受けてきたという立場でもある。裏柳生の剣客、密偵、忍術遣いが、幕府百年の歴史を影で支えてきたという自負が、兵庫助にはある。

 ならば、今回の異変に際してもやることは同じだ。如何なる事態になっても対応が可能なよう、情報を掴んでおくのが兵庫助の務めである。それが新陰流の掲げる活人剣、並びに、将軍家御指南役としての柳生の果たすべき使命だと確信している。

 そして――


「兵庫殿」


 甘い声と匂いに振り返ると、そこには艶やかな装いの女が立っていた。


「これはお福様……」


 兵庫助は振り返り、頭を下げる。


「かしこまらずとも、そのままでよい」

「は……」


 お福の方はふんわりと笑う。尾張藩主・徳川吉通の実母であり、御年四十になろうというその肌は、艶めかしい香りを周囲に放つかのようだ。


「やはり、江戸は沈黙したままなのですね」

「……畏れながら」

「兵庫助殿のせいではない。あれは天の成すところでありましょう」


 お福の方は袖で口元を隠し、言葉を継いだ。


「そう、あれは天の差配です。吉郎が世に出よ、とのね、フフ……」


 吉郎、とはお福の方の子、尾張中納言・徳川吉通のことである。お福の方は人のいないところでは、藩主をこの幼名で呼ぶ。


「……滅多なことは申されますな」


 兵庫助としては、まだ江戸の幕府が健在だという前提で行動せざるを得ない。叛意と受け取られかねない発言は危険だった。

 この未曽有の事態に、予断や期待を持って行動することは身を滅ぼす。間違えば家の存亡に関わるかもしれない、これは危うく微妙な局面なのだ。


「気の小さいことよのう……愛い奴じゃ……」」


 お福の方は兵庫助ににじり寄り、顔を近づけた。兵庫助は息が詰まるのを感じる――お福の方の手が、兵庫助の股間に触れていた。


「……まだ明るい。控えなされ」

「わかっておる。今宵まで我慢するとしよう。フフ……」


 甘い吐息と共に、その言葉が頬に触れるのを兵庫助は感じた。お福の方は身体を離し、またふんわりと笑うと踵を返し、立ち去った。

 兵庫助はため息をついた。お福の方の色香に惑っている自覚はある。だが、それでなにが悪いとも思っていた。主君の御母堂の望みを叶えるのは当然ではないか。

 侍が働くのは忠誠心や理屈だけのことではない、と兵庫助は思っている。戦場にて命を賭け、お互いを助け合うほどに信を置き、心を許す誰かのためにこそ、その命を賭し身を粉にする。それは戦国の世から続く兵法者の倣いだ。


「兵庫助様」


 別の声がして、兵庫助は振り返る。そこには吉通の側近、奥田弥次郎が膝をついていた。


「どうした、弥次郎?」


 兵庫助は平静を装い、返事を返す。先のお福の方とのやり取りを見てはいまい。また、見ていたとしても、この奥田は気にも留めないだろう。それくらい、およそ感情というものが見受けられないのがこの男だった。中納言吉通の一番の側近であり、吉通が死ねと言えばなんの(てら)いもなく死んで見せる――そういう男だ。


「お耳に入れたいことがございます」

「なんだ、申せ」

「はっ……」


 奥田弥次郎は立ち上がり、兵庫助に近寄った。大声では言えぬことなのだろう。


「京から遣いの者があり……密書が届きました」

「京の……どこからだ?」

「右大臣殿でございます」

「なに……?」


 ここで右大臣と言えば、一人しかいない。藩主・吉通の正室である輔姫の父、九条輔実のことである。

 江戸に変事があった以上、京の公家、および朝廷の動きは警戒すべき事柄だった。密偵は既に何人も潜っている。そして縁戚関係にある九条右大臣は、尾張にとっては公家内部の重要な情報源だ。

 その右大臣が、内密に事を伝えて来たとすれば、それは――


「……霊元上皇派になにか、動きが?」


 奥田は無表情で頷いた。

 * * *

「脆いモンだなぁ、侍ってのは」


 袴をつけた肉塊と化したそれを前に、半裸の男が言った。両の腕は入れ墨に覆われ、腕輪のようなものをやたらとつけている一方、眉も髪も剃り上げているという風体である。


「いざって時に刀を振るうのが仕事じゃないんかね、こいつらは」

「今、まさにその刀を振るいに来たのだろう」

「柳生だろこいつら? 将軍家御指南役の名流が、こんな程度とはがっかりだナァ」


 半裸に入れ墨の男はそう言いながら、手にした短刀を死体にもう一度刺し、捻じり抉った。

 飛隼(ひはや)はその様子を尻目に、周囲の気配を探っていた。倒したのは侍だけではない。忍術遣いと見える者もいた。侍側に(くみ)した忍術遣いにも、それなりに遣う者がいるようだ。保土ヶ谷で戦ったあの男もそうだったが――


「……これからどんどん侍が入って来る。忙しくなるな」

「宴の準備、ってことだな」


 半裸の男が立ち上がり、へらへらと笑った。


「笑っている場合ではないぞ、蜃鬼(しんき)。次の的は大きい」

「わかってるさぁ。そのために今、牛頭丸(ごずまる)様が頑張ってるんだろ?」


 蜃鬼は侍の遺体からはぎ取った刀を手の中で弄び、その刃を確かめる。


「俺たちは言われた通りに動くさ……いまいち、なに考えてるかわかんねぇ人だけどな」

「牛頭丸様には牛頭丸様の考えがおありだ。疑っても仕方はない」

「もちろんだともよ。これでも俺はあの人を認めてるつもりだぜェ?」

「ならいい」


 飛隼がそう言うと、蜃鬼は肩をすくめた。飛隼は踵を返して歩き出しながら、思う――「破人の衆」はそもそも一枚岩ではない。徳川の世になって後、各地で細々と技を伝えて来た者たちの寄せ集めなのだ。

 首魁である牛頭丸の呼びかけに応じ、「侍なき世」を作るために集まった者たちではあるが――その忠誠心は、貧弱な侍たちの身体よりもさらに脆いかもしれない。

 蜃鬼もそうだが、最近仲間に加わったあの男――土橋とかいう侍など、ここ一番で信頼がおけるかどうか怪しいものだ、と飛隼は思う。以前、牛頭丸にその旨を進言したこともある。だが――牛頭丸はその時、飛隼の言を一笑に付した。


「信頼や忠誠心などという、目に見えないものを信じるから、裏切りが出る。人の善なる心に頼るなど、さも貧しいことよ。土地を切り分け、与える恩賞がなくなった貧乏侍どもの方便だな」


 牛頭丸がその時、心底嫌悪をするような表情を浮かべていたのを飛隼は憶えている。


「誰も支配などせぬ。我らは大地の律に従うのみ。我が気に入らなければ殺す。お前たちも、気に入らなければ我を殺せばよい。それが大地の民の生き方であろう?」


 ――今のところ、牛頭丸の作ったこの一味は上手く機能しているように思われる。そしてそれは、飛隼にとっても居心地のよいものだった。


「……早く次の侍を殺したいな」


 飛隼はそう呟いたが、それは蜃鬼には聞こえなかったようだ。
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