第2話 忍術遣いの箱根越え
文字数 3,647文字
その日、旗本・美濃部源之丞は朝早くに三島宿を発ち、箱根の峠へと向かっていた。早朝を選んだのは襲撃に備えたためだ。
「箱根八里」と言われる箱根越えは、言うまでもなく東海道往還で最大の難所だ。同時に、京から江戸までの道中で、最も襲撃に適した区間でもある。両脇を森に囲まれた山道は身を隠す場所には事欠かない上に、標的を絞りやすい。
電話などはおろか、写真などもない時代である。密命を帯びた源之丞のような者に、追手を仕掛けるのもそう簡単ではなかった。顔を知らない者に人相書きを持たせ、後ろから追わせても到底見つけられるものではないし、見つけたとしても人違いになる可能性が高い。
だから京から追手がかかっているとすれば、早馬を飛ばして先回りし、源之丞の顔を知る者を刺客として迎え撃たせることになる。もっとも確実なのは、どこかの宿場町で張り込んで源之丞を見つけ、その次の道中に先んじて待ち伏せることだ。だとすれば江戸に近く、脇道のない箱根峠に的を絞るのが一番確実――源之丞が刺客ならまず、そうする。
ここまでの道中、刺客に見られたかどうかの確証はないが、それでも用心に越したことはない。狭い峠道で、他の旅人たちもいては警戒がしにくいのだ。だからこそ、人通りの少ない早朝を選んだのだが――結果的には、この判断が正しかったことになる。今、源之丞は早朝の澄んだ空気の中、右前方の木立の合間にわずかな気の乱れを感じとっていた。
(どう来るか……?)
数瞬、源之丞は迷ったが、歩みを止めずに歩き続けた。
気配の消し方から見て、相手は忍術遣いだろう。だとすれば、この戦いは
一歩、一歩、山道を踏みしめ、相手の間合いに近づく。源之丞の歩みは平静を保っていたが、その意識は深く丹田に落ち、感覚は広く開いていた。
先に動けば、負ける――忍術遣いの戦いでそれは定石だ。正々堂々の戦いではない。目的のためにあらゆる手段を辞さない、虚と機の奪い合い。我慢できずに仕掛ければ、相手に忍 の戦いだ。当然、相手は源之丞もまた忍術遣いであることをわかっているだろう。だとすれば――
――ヴァッ
突然、背後で殺気が舞い踊った。
瞬間、源之丞は背後からの刺客に目もくれず、前方へと駆け出す。ここまでは読み通り――もし源之丞が背後の奇襲に反応すれば、前方の敵に
駆けながら鯉口を切る。前方から覆面の男が姿を現し、手槍を構えて源之丞の方へ躍り出る。ここからはどちらが先でも後でもない、五分の即興戦――
「てあぁぁぁぁーっ!」
源之丞は裂帛の気合を放ちながら――抜いた脇差を前方へと投げた。
「ぬっ!?」
敵は咄嗟に、手槍でそれを払う――
――カッ!
次の瞬間、源之丞が放った棒手裏剣が、覆面の男の眉間に刺さっていた。まずは、一人。あとは――
手裏剣を打つため立ち止まった源之丞の背後に、迫る殺気の塊。策を読まれどちらかが倒れても、残った一人がその背後を取る――振り向いて反応すればその後手を取られ、振り向かなければそのまま斬られる。
「……っ!」
源之丞は背後に、
一瞬、遅れて自分の身体を背後に向ける。そこには、大きな隙を晒した敵がいた。振り向きざまに剣を抜く源之丞の姿――それを錯覚し、その動きに反応をしてしまった敵を、源之丞は抜き打ちに斬り上げた――
「二人、か……」
血を拭い、剣を納めた源之丞はひとり、呟いた。恐らくは、越前守・真鍋詮房の放った刺客――ならばきっと、これで終わりではない。
だが、源之丞の関心はそれだけではなかった。早朝からなにか、得体のしれない胸騒ぎが渦巻いているのだ。刺客の存在はその埒外である。
第六感――「情報」が戦術の大きな要素を占める忍術遣いにとって、それは重要な感覚だ。事の仔細や大小までは見通せなくても、そう感じるからには、それはなにかの因果の内。山勘や占術の類とも違う。己の感覚を研ぎ澄ませ、わずかな音と空気の色から因果の帰結を読み解いてきた――その鍛錬の時間が告げる、確かな実感。
美濃部家は今でこそ旗本に名を連ねているが、元々は甲賀の出である。天正の昔、本能寺の変のあと、神君家康公が堺から三河へ脱出した――いわゆる「神君伊賀越え」の手助けをして以降、徳川家に直参として仕えた。以来百年に渡り、少碌ながら忠義を尽くしている家柄だ。
だが、徳川幕府の支配する太平の世にあって、忍 の技が求められることなど皆無である。実際、源之丞の兄も忍術は学ばず、むしろ学問に熱心だった。源之丞は部屋住みの気楽さで武芸にその身を打ち込み、甲賀衆の長老から忍術を学んだ。兄が病で死に、家督を継ぐことになったのは迷惑だとさえ思う。だから、此度の密命は正直、源之丞の肩には重かった。
だがその一方で――自らが鍛え、磨いてきた技を振るう機会には、身体の芯が打ち震えるような思いがするのも確かだ。
「忍の術は混沌の域に属するものよ」
昔、太平の世に忍の技を伝えることについて、源之丞が師に問うたことがあった。
「そして太平の世というは、天下に秩序が勝る世のこと。うつろう世の理 を人の理の中に封じ、変化を禁ずる一種の呪法であるな」
「呪法……?」
「左様。神君家康公は大層な呪術をこの天下に施したものよ」
師が白髪を揺らし、言う言葉に源之丞は首を傾げる。師は乾いたその身体を揺らし、柔らかく笑った。身体の強さを基本とする剣術などと違い、忍の技の遣い手はこうした、油断のならない柔らかさに満ちている。源之丞はそんな師に向かい、さらに問う。
「つまり、忍の技はこの太平の世の埒外であると?」
「少し違うな。混沌と秩序……陰と陽とは相反するのではない。相交じりあい、お互いを補うのだ」
そこで師は真剣な目つきになった。
「……なれば、混沌を知ることは秩序を知ること。世の理を知り、その圧に耐え、そしてその中で自在に動くことよ。だからこそ、これを『忍 』の術という。打ち破るのではないゆえにな」
「忍ぶ術……でありますか」
「ま、なんとなく頭の片隅に引っ掛けとくとええ。わしも完全に理解しとるわけではない」
そう言ってまた、師は柔らかく笑った。
(混沌の技が求められる時、か……)
改めて峠道を登りながら、源之丞はそんなことを考える。同時に、なぜ今このようなことを思い出しているのか、不思議でもあった。
しかし――源之丞は雑念を振り払う。今はなによりも、無事に江戸に帰りつかねばならない。この密命を果たせば、きっと今より高い役に取り立てられるだろう。なにしろ、時の将軍・徳川綱吉の側用人、老中よりも高い権威を誇る美農守・柳沢吉保の密命なのだ。
百石そこそこの木っ端旗本の家など継いでも迷惑なだけだが、大身旗本ともなれば話は別だ。老いた母にも楽をさせてやれるだろう。なにより――この肩に乗った密命の重さを担ぎ遂げたかった。自分が武士に生まれたその意味を問われているように、源之丞には思えたのだ。
源之丞は気を取り直し、箱根の峠へと歩く。相変わらず胸騒ぎは収まらないが――だからと言って、行動しないわけにはいかない。心構えをした上で、やるべきことをやる。それがなにより肝要だ。
しかし――
「……妙、だな」
峠道を踏みしめる一歩ごとに、それはもはや胸騒ぎではなく、はっきりとした違和感となっていった。
襲撃とその後始末に時間を取られ、既に日も高くなってきている。歩き続けてもう峠も近い。後ろから追い抜く者はいないとしても、江戸側から誰か歩いて来てもよさそうなものだ。源之丞が前日に宿を取った三島宿より、峠を越えたところにある箱根宿の方がずっと峠に近い。
それが――ここまで誰一人、峠道を下って来る者がいない。たまたまと言えばそれまでかもしれない。だが、季節は旅に向いた春先である。伊勢参りに向かう人どころか、早馬ひとつすれ違わないのはやはり不思議だった。
――なにかが、起こっている。
空気がそう告げていた。忍びとして鍛えた源之丞の感覚が、なにか――とてつもなく大きな「なにか」を、捉えていた。気が急くばかりに源之丞の足は早まり、終いには半ば駆け出していた。
箱根の峠に辿り着くと、それまでの森道が少し開けて広い場所になる。旅人はそこでひと息つき、富士の山を眺めたり、はるか江戸の方を見晴るかして旅路を思う。
旅姿の男女が何人か、そこにいた。だが、しばしの休息を楽しんでいるという様子でもない。ほとんどの者は呆然とある方向を眺め、中には跪いて手をあわせ、祈りを捧げる者もいる。
一体、何事か――峠に立った源之丞は、彼らが眺めている方向に目をやった――
「……なんだ、あれは……?」
源之丞はそこで、「雲」を目にした。
「箱根八里」と言われる箱根越えは、言うまでもなく東海道往還で最大の難所だ。同時に、京から江戸までの道中で、最も襲撃に適した区間でもある。両脇を森に囲まれた山道は身を隠す場所には事欠かない上に、標的を絞りやすい。
電話などはおろか、写真などもない時代である。密命を帯びた源之丞のような者に、追手を仕掛けるのもそう簡単ではなかった。顔を知らない者に人相書きを持たせ、後ろから追わせても到底見つけられるものではないし、見つけたとしても人違いになる可能性が高い。
だから京から追手がかかっているとすれば、早馬を飛ばして先回りし、源之丞の顔を知る者を刺客として迎え撃たせることになる。もっとも確実なのは、どこかの宿場町で張り込んで源之丞を見つけ、その次の道中に先んじて待ち伏せることだ。だとすれば江戸に近く、脇道のない箱根峠に的を絞るのが一番確実――源之丞が刺客ならまず、そうする。
ここまでの道中、刺客に見られたかどうかの確証はないが、それでも用心に越したことはない。狭い峠道で、他の旅人たちもいては警戒がしにくいのだ。だからこそ、人通りの少ない早朝を選んだのだが――結果的には、この判断が正しかったことになる。今、源之丞は早朝の澄んだ空気の中、右前方の木立の合間にわずかな気の乱れを感じとっていた。
(どう来るか……?)
数瞬、源之丞は迷ったが、歩みを止めずに歩き続けた。
こちらが気が付いていることを、相手に気づかれない方がいい
。気配の消し方から見て、相手は忍術遣いだろう。だとすれば、この戦いは
後手の取り合い
になる。一歩、一歩、山道を踏みしめ、相手の間合いに近づく。源之丞の歩みは平静を保っていたが、その意識は深く丹田に落ち、感覚は広く開いていた。
先に動けば、負ける――忍術遣いの戦いでそれは定石だ。正々堂々の戦いではない。目的のためにあらゆる手段を辞さない、虚と機の奪い合い。我慢できずに仕掛ければ、相手に
情報
を与える。情報を得れば、その情報を利して勝つ。それが――ヴァッ
突然、背後で殺気が舞い踊った。
瞬間、源之丞は背後からの刺客に目もくれず、前方へと駆け出す。ここまでは読み通り――もし源之丞が背後の奇襲に反応すれば、前方の敵に
後手
を取られ、致命的な隙を晒す。活路はただ、前方のみ。駆けながら鯉口を切る。前方から覆面の男が姿を現し、手槍を構えて源之丞の方へ躍り出る。ここからはどちらが先でも後でもない、五分の即興戦――
「てあぁぁぁぁーっ!」
源之丞は裂帛の気合を放ちながら――抜いた脇差を前方へと投げた。
「ぬっ!?」
敵は咄嗟に、手槍でそれを払う――
これで後を取った
。――カッ!
次の瞬間、源之丞が放った棒手裏剣が、覆面の男の眉間に刺さっていた。まずは、一人。あとは――
手裏剣を打つため立ち止まった源之丞の背後に、迫る殺気の塊。策を読まれどちらかが倒れても、残った一人がその背後を取る――振り向いて反応すればその後手を取られ、振り向かなければそのまま斬られる。
情報の量
において絶対的に不利な状況――!「……っ!」
源之丞は背後に、
気
を放った。一瞬、遅れて自分の身体を背後に向ける。そこには、大きな隙を晒した敵がいた。振り向きざまに剣を抜く源之丞の姿――それを錯覚し、その動きに反応をしてしまった敵を、源之丞は抜き打ちに斬り上げた――
「二人、か……」
血を拭い、剣を納めた源之丞はひとり、呟いた。恐らくは、越前守・真鍋詮房の放った刺客――ならばきっと、これで終わりではない。
だが、源之丞の関心はそれだけではなかった。早朝からなにか、得体のしれない胸騒ぎが渦巻いているのだ。刺客の存在はその埒外である。
第六感――「情報」が戦術の大きな要素を占める忍術遣いにとって、それは重要な感覚だ。事の仔細や大小までは見通せなくても、そう感じるからには、それはなにかの因果の内。山勘や占術の類とも違う。己の感覚を研ぎ澄ませ、わずかな音と空気の色から因果の帰結を読み解いてきた――その鍛錬の時間が告げる、確かな実感。
美濃部家は今でこそ旗本に名を連ねているが、元々は甲賀の出である。天正の昔、本能寺の変のあと、神君家康公が堺から三河へ脱出した――いわゆる「神君伊賀越え」の手助けをして以降、徳川家に直参として仕えた。以来百年に渡り、少碌ながら忠義を尽くしている家柄だ。
だが、徳川幕府の支配する太平の世にあって、
だがその一方で――自らが鍛え、磨いてきた技を振るう機会には、身体の芯が打ち震えるような思いがするのも確かだ。
「忍の術は混沌の域に属するものよ」
昔、太平の世に忍の技を伝えることについて、源之丞が師に問うたことがあった。
「そして太平の世というは、天下に秩序が勝る世のこと。うつろう世の
「呪法……?」
「左様。神君家康公は大層な呪術をこの天下に施したものよ」
師が白髪を揺らし、言う言葉に源之丞は首を傾げる。師は乾いたその身体を揺らし、柔らかく笑った。身体の強さを基本とする剣術などと違い、忍の技の遣い手はこうした、油断のならない柔らかさに満ちている。源之丞はそんな師に向かい、さらに問う。
「つまり、忍の技はこの太平の世の埒外であると?」
「少し違うな。混沌と秩序……陰と陽とは相反するのではない。相交じりあい、お互いを補うのだ」
そこで師は真剣な目つきになった。
「……なれば、混沌を知ることは秩序を知ること。世の理を知り、その圧に耐え、そしてその中で自在に動くことよ。だからこそ、これを『
「忍ぶ術……でありますか」
「ま、なんとなく頭の片隅に引っ掛けとくとええ。わしも完全に理解しとるわけではない」
そう言ってまた、師は柔らかく笑った。
(混沌の技が求められる時、か……)
改めて峠道を登りながら、源之丞はそんなことを考える。同時に、なぜ今このようなことを思い出しているのか、不思議でもあった。
しかし――源之丞は雑念を振り払う。今はなによりも、無事に江戸に帰りつかねばならない。この密命を果たせば、きっと今より高い役に取り立てられるだろう。なにしろ、時の将軍・徳川綱吉の側用人、老中よりも高い権威を誇る美農守・柳沢吉保の密命なのだ。
百石そこそこの木っ端旗本の家など継いでも迷惑なだけだが、大身旗本ともなれば話は別だ。老いた母にも楽をさせてやれるだろう。なにより――この肩に乗った密命の重さを担ぎ遂げたかった。自分が武士に生まれたその意味を問われているように、源之丞には思えたのだ。
源之丞は気を取り直し、箱根の峠へと歩く。相変わらず胸騒ぎは収まらないが――だからと言って、行動しないわけにはいかない。心構えをした上で、やるべきことをやる。それがなにより肝要だ。
しかし――
「……妙、だな」
峠道を踏みしめる一歩ごとに、それはもはや胸騒ぎではなく、はっきりとした違和感となっていった。
襲撃とその後始末に時間を取られ、既に日も高くなってきている。歩き続けてもう峠も近い。後ろから追い抜く者はいないとしても、江戸側から誰か歩いて来てもよさそうなものだ。源之丞が前日に宿を取った三島宿より、峠を越えたところにある箱根宿の方がずっと峠に近い。
それが――ここまで誰一人、峠道を下って来る者がいない。たまたまと言えばそれまでかもしれない。だが、季節は旅に向いた春先である。伊勢参りに向かう人どころか、早馬ひとつすれ違わないのはやはり不思議だった。
――なにかが、起こっている。
空気がそう告げていた。忍びとして鍛えた源之丞の感覚が、なにか――とてつもなく大きな「なにか」を、捉えていた。気が急くばかりに源之丞の足は早まり、終いには半ば駆け出していた。
箱根の峠に辿り着くと、それまでの森道が少し開けて広い場所になる。旅人はそこでひと息つき、富士の山を眺めたり、はるか江戸の方を見晴るかして旅路を思う。
旅姿の男女が何人か、そこにいた。だが、しばしの休息を楽しんでいるという様子でもない。ほとんどの者は呆然とある方向を眺め、中には跪いて手をあわせ、祈りを捧げる者もいる。
一体、何事か――峠に立った源之丞は、彼らが眺めている方向に目をやった――
「……なんだ、あれは……?」
源之丞はそこで、「雲」を目にした。