第1話 江戸が消えた日

文字数 3,535文字

 その日、人々が江戸の方角に目にしたものについて、どう語るべきか。

 例えば、現代に生きる人に「高さ1000~1500m」と言えば、東京スカイツリーの倍以上もある巨大さがすぐに思い浮かぶだろう。

 しかし、江戸の時代には飛行機で空を飛んだ人もいなければ、写真やビデオなどといった記録媒体(メディア)もない。現代の人であれば当たり前に目にしているようなもの――航空写真のひとつも見たことのない人々が、それを想像できただろうか?

 ましてや半径30kmという大きさを、その頭の中でイメージできる者など皆無だっただろう。

 つまり、それを脳内に描けるのは、実際に全体像をその目にした者だけということになる。例えばその日の朝、箱根峠から江戸の方角を眺めていた着流し姿の男などがそうだ。

 武士としては優し気な顔立ち。陶器のように滑らかな肌と、浪人風の装束との落差(ギャップ)が見る者に強い印象を残す。しかしその少し垂れ気味の目は、今この世界に起こっていることを見逃すまいと見開かれていた。


「新之助様」


 歩み寄って来てそう声をかけた武士の方は、袴をきちんと身に着けていた。着流しの男はそちらを振り見て、ゆったりと声をかける。


「彦右衛門、そっちはどうだね?」

「はっ、やはり昨晩まではなにごともなかったようですな」

「では、今朝方急に現れたと……ふうむ……」


 新之助、と呼ばれた若い男は顔を戻し、

を見た。彦右衛門もまた、そちらに目をやる。

 箱根の峠から、北東。

 その地平の彼方に、巨大な――箱根の峠からはっきりと見えるほど、途方もなく巨大な、雲の柱があった。ちょうど日本橋から眺める富士の山のように巨大で、そして異様なその光景――それは地の果てを覆い隠すようにして、ちょうど江戸のあたりをすっぽりと包んでいた。


「ただの雲……であるわけがないな」

「ええ、まったく左様ですな」


 彦右衛門がせかせかと新之助の呟きに応じる。その目は落ち着きなく周囲を見回していたが、一方の新之助はじっとその「雲」を見据える。

 箱根の峠から江戸までは二十里以上。しかしこの日のように天気がよければ、東海道の先に広がる平野がかなり見渡せる。その奥に、「雲」はその巨大な存在感を主張する。なにしろ、大地から垂直にそびえ立っているのだ。尋常のものであるはずがなかった。春のよく晴れた空の下にあることが、その異様さを余計に際立たせる。


 新之助たちの周囲には、箱根を往来する人々が足を止めていた。呆然としている者、不安そうな顔でなにごとかを囁きあう者、中には跪いて祈りを捧げている者もいる。

 時は宝永元年、西暦で言えば1704年。江戸に幕府が開かれてから、100年。

 この先年、江戸では大きな地震(なえ)――後に言う元禄地震のあったばかりである。江戸の町とその周辺には、まだその爪痕が残っているらしい。さらにその前年には、後年に言う忠臣蔵、すなわち赤穂浪士の討ち入り事件もあった。元禄文化の華やかなりしその裏で、得体のしれない不安感もまた、世に蔓延している。

 今、この峠にいる者たちのほとんどは、これから江戸へ向かうか、または江戸から来た者だろう。江戸には家族や友人もいる――それは新之助も同様だ。

 電話もない時代である。江戸の町がどうなっているのか、今の新之助たちが知る手立てはない。


「まるで、江戸が壁の中に籠ってしまったようだな」


 ふと、新之助は口にした。不意を突かれた彦右衛門が、不思議そうな顔を新之助に向ける。新之助は「雲」に目を向けたまま、話を続ける。


「天岩戸の伝説を知っているか?」

「はあ……それはもちろん、存じておりますが……」

「天照大神が岩戸の奥へと隠れ、世界は闇に包まれる……最後には神々が天照大神を引っ張り出しはしたが、しかし……」


 訝げな顔の彦右衛門に、新之助は目を向けた。


「天から太陽が消え、闇に包まれている間……人々はどのように暮らしていたのであろうな?」

「……それは……」


 ――不吉な発想だった。あの「雲」がなんなのかはわからないが、もし万が一、なんらかの天変地異に江戸が見舞われ、将軍綱吉以下、天下を治める中枢機能が失われたら――

 新之助は顔を上げ、また呟く。


「天照が再び岩戸から現れたとき、世はそれより以前のままであっただろうか?」


 彦右衛門は黙っていた。新之助の目には、広がる平野が、海が、街道と町が――そしてその中に現れた雲の柱が、映る。

 神君家康公が江戸に幕府を開いてから百年。曲がりなりにも徳川の世は盤石を保っている。しかし絶えず変化する世に、あちこちで綻びが出始めているのも、また事実。人々の暮らしは豊かになり、商人たちの経済が活性化して、一介の町人までも芸能や遊興に耽っていた元禄の世――それは太平の世で侍が力を失いつつあることと、表裏一体でもあったのだ。

 幕府は、日本(ひのもと)はこれから、変わっていかねばならない。それは新之助や彦右衛門たち、若い世代がこれから立ち向かうべき未来として、ここ箱根の山から見渡すべきものだったはずだ。

 その変化がまさか、このような形で訪れるのだとしたら――新之助は眼下に広がる景色に奥歯を噛んだ。


「……まだなにもわかっておりませぬ。憶測でものを語るのはお控えなされ」


 彦右衛門が呼吸と共にそう言葉を吐き出す。それを聞いて、新之助はふっと力を抜いた。


「……そうだな。やはり行ってみるしかないか」

「行ってみる……と? 江戸へ?」

「元々そのつもりだったのだ。別に不都合はあるまい」

「し、しかし! なにが起こっているかわからんのですぞ!」

「ならばどうする? 紀州へ帰るか?」

「い、いや! ですが……!」


 彦右衛門の返事を待たず、新之助は歩き出していた。彦右衛門は慌ててその後を追う。


「大体ですな! 曲がりなりにも一藩の藩主のあなた様が、このように気軽に出歩いては……」

「だからお主がついて来ているのだろう? それに、藩主と言っても名目だけの部屋住みよ」

「しかし、松平の家格に相応しいお振舞いというものがですな……」

「世のことを広く知る方がいい、と加納には言われた。ならばこれは絶好の機会ではないか」

「ああもう! あの狸野郎め!」


 彦右衛門――有馬彦右衛門氏倫は、同僚の悪態をつきながらこの若くて行動的な主君の後について歩く。この主君こそ、新之助こと松平頼方、後に八代将軍・徳川吉宗として数々の変革を成し遂げた名君の、若き日の姿である。
 
 * * *

 この雲の柱を別の場所から見ていた者がある。

 その男は、六尺に迫る大柄な身体を真っすぐにして、大岩の上に立っていた。

 異様な風体だと言っていい。山伏の着るような篠懸(すずかけ)を身に纏っていたが、その上には結袈裟でなく、朱地に金糸と黒い梵天房をあしらった肩衣を羽織り、腰には黒地の帯と金色の毛皮を巻いていた。月代(さかやき)はおろか髷すら結わず、真っすぐ垂れ下がった髪は肩のあたりで切り揃えられている。


「現れたな……あれが『常世(とこよ)の井戸』か」


 男の口元が笑った。その出で立ちと巨体にも関わらず、その顔は秀麗そのものだった。白い肌の中に刀で斬れ込みを入れたような、その長く鋭い目元は、江戸をすっぽりと包むように現れた雲の柱をしっかりと見据えている。


牛頭丸(ごずまる)様」


 そう呼ばれて男が振り向くと、岩の上にひらり、と飛び乗ってきた者がいる。牛頭丸、と呼ばれた男に比べ、こちらは全身鼠色一色――身に纏った粗末な衣だけでなく、短く刈り込んだ髪までも灰色だった。その下には、痩身ながら筋肉に覆われ引き締まった身体。地味な装いは、その身ひとつで充分との矜持なのかもしれない。

 牛頭丸は頷き、再び「雲」の方へと目をやる。


「見よ、飛隼(ひはや)……あれが不自然なる地、江戸だ。宇宙(あめのした)の干渉を排し、張り巡らされた結界の中、築かれた(みやこ)。大地から因果を切り離し、人の城として作り上げられた地が、百年に渡り日本(ひのもと)の中枢に君臨した……その末にあれがある」


 飛隼、と呼ばれた男が顔を上げる。


「……貧しさに喘ぐ民から富を吸い上げ、享楽に乱れ堕落した町。大地から離れ生きようとする者どもに、裁きの時が来たのでございます」

「然り」


 牛頭丸のその美しい顔に、高揚の色が浮かぶ。


「過ぎたる月日も、行く末も、すべては一塊の(ことわり)なり。この常なる(しゅ)に覆われし天下を、正しき常世と成すべき時ぞ」

「……すべて、整うておりますれば」


 鼠色の男の言葉に牛頭丸は振り向き、岩の下を見た。そこに、十名ほどの者が立っている。年齢も出で立ちもバラバラだったが、しかし皆一様に牛頭丸を見上げ、その言を待ち構えていた。

 牛頭丸はその顔を見回し、そして静かに、その口を開いた。


「行こう……我らの大地を取り戻すために」


 雲の柱を背後に背負うように、牛頭丸はそう告げた。
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