ちょっとだけ愚痴らせて

文字数 4,364文字

「ねぇ、ちょっとだけ愚痴らせてよ」
「えっ?」

 カフェのカウンターで注文した珈琲とアボカドシュリンプのサンドイッチを受け取って席につくと、開口一番そう言われた。
 時刻は昼過ぎ、夏の暑さから逃げ込んだ店内はそこそこに込み合っていた。浅く座った椅子は妙につるりと冷えている。この窓際の奥まった2人用の席に目をくれる者は誰もいない。奥側の座席に座ったことを後悔した。出口がない。その愚痴とやらが終わるまで出られそうにない。
 向かいの机の上にはジンジャーエールと5種のフルーツサンドが綺麗に並べられ、紙包装を破られたばかりのストローが神経質そうにそのグラスに突き刺さる。

「ねぇ、聞きたい……?」

 その持って回った言い方がよけい癪に障る。
 聞かない、という選択肢はあるえんだろうか。最初に返事をしたのが失敗だった気がする。しばらく無言を貫いていても、すでにその話題から逃れられなかった。
 腰まである長い黒髪の隙間からチラリとこちらを眺め上げる切れ長の瞳。鼻も高くて唇は薄くニッと口角を上げている。全体的に化粧の薄いその風貌はどこか高慢で、もともと人の話を聞かないんだろうなという空気に溢れていた。
 ようは私はそこで挫けてしまったのだ。何もかもが面倒になって。

「……聞きたい」
「だよねだよね。あのね、彼氏がさ、浮気したんだよ」

 さも面白そうにその口からこぼれ落ちるのは、私が最も嫌な話題の一つ。それにどう転んでも納得しないやつだ。
 ため息を隠して軽く頷くと満足した様子で話は続く。後はもう無言で相槌でも打ちながらサンドイッチを齧るしか無い。せっかく美味しいお店でちょっと奮発したのに台無しだ。

「それでね、浮気相手は私の知らない女。でもなんつーの? 私はその女の気持ちもわからなくもないっていうか」
「そう」
「だって私の彼氏は超かっこいいもん。そうでしょう?」
「はぁ」

 一体それ以外なんと答えればいいというんだ。

「でもやっぱり許せないかな。だって、だってね。私の彼氏だし。そう思わない?」
「そう……ですね」
「でしょでしょ?」

 女は嬉しそうにニコリと笑った。けれども改めて直視したその目はどこかフラフラと揺れて合わせることが出来ない。なんだかとても居心地が悪い。そこからは彼氏がどのくらい素晴らしいかとか、どこにデートに行ったのかっていう話が夢遊病のように続く。女は一方的に話しながらもフルーツサンドもジンジャエールも私が食べるより早く消費し、ますます会話のスピードは増す。そしてそれは私がサンドイッチを食べ終わるまで続いた。
 漸く話を切り上げるきっかけができた

「あの、私そろそろいかなくっちゃ」
「まだ大丈夫、お昼休み終わるのって1時でしょ? まだ30分くらいあるじゃない」
「でも」
「ああ、ごめんね、私ばっかり愚痴っちゃって。なんか聞いて欲しい話あったら聞くよ? もう『友達』じゃない」

 『友達』、という言葉に困惑する。
 けれどもそんなことより気にかかる事がある。その『彼氏』という人物がやけに自分が知っている人間に似ている。その行動やデートコースも私といったことがあるものばかり。そして『友達』にかけられた言葉も私にかけられた言葉とだいたい同じだった。
 有り体に言うと、今私が別れようと思っている彼氏と同じ。
 そうすると彼氏は目の前の『友達』と私を二股をかけてたってことだろうか。でも仮にそうだったとしても、私は別れてしまうわけだから、もう関係ない。
 そう言い切ってしまうことを躊躇する程には、その『友達』のどこかドロリと濁った目線はじっと私を釘付けていた。

「特にないよ」
「そう、じゃあ満足してるんだ」
「満足?」
「ええ、彼氏さんと」
「そういう、わけじゃ」
「へぇ。何が不満なの? 教えてよ」

 目の圧力が強くなる。その表情はもう欠片も笑ってはいなかった。
 ここまでくると、確信めいてくる。
 彼氏は確かにこの『友達』と私を二股にかけているのだろう。私は争いは好きじゃないからあんまり言い返したりはしないけれど、この女の面倒くさいもって回った迂回路のような会話に辟易していた。

「ようは和則(かずのり)があなたと浮気、いえ、二股をかけてたってことでしょう? 私は今始めてそのことを知ったの。だけど私はもともと今日和則と別れ話をする予定だった」
「へぇ。そうだったんだ。何が気に入らなかったの?」
「何か隠し事してそうなこと。まさか浮気、いえ、私のほうが浮気だったのかもしれないけれど、ちょっとしたことでコソコソ誤魔化す感じが嫌だったの」
「ああ、そうなの。そのくらい許してあげても良かったのに。それに浮気なんてこれが初めてじゃないんだし」
「そうなの?」

 和則はスマホがなるとわざとらしく慌てたりお風呂までスマホを持ち込んだり、時間を妙に気にしたりしていた。どうかしたのと尋ねてもなんでも無いと言う。特に最近おかしな挙動が多かった。私には信じられないけれど、二股をかける人間、というのは一定いるらしい。和則もそのタイプなんだろう。少し腹が立ってきた。

「そんな人だなんて思わなかった。ありがとう、教えてくれて」
「どういたしまして。そっか。別れるつもりだったんだ。じゃあ余計なことしちゃった、かな」

 急に声のトーンが落ちる。なんだか少し意気消沈したような。その代わりにザワザワと周辺の音が戻ってきた。周囲でがたがたと席を立つ音が続く。もう12時45分。だいたいの会社で昼休みが終わる時間だ。
 私もそろそろ戻らないと。

「あのね、そう。和則。そうだ和則だった」
「うん?」
「いや、彼氏の名前だよ。あんまり名前で呼んだことなくってさ」
「そう」
「私ね……その」

 『友達』は言いづらそうに視線を左右に揺らす。
 先程のどこか自信に溢れた問い詰めるような声音とは一転、同じ人物かと思うほどその声は妙に弱々しく聞こえた。そして今度は上目遣いで私を見上げる。

「あの、私ね、あなたに謝らないといけないことがあって」
「私に……?」
「ええ、その、昨日和則はあなたの家に泊まったでしょう?」
「ええ、まぁ。どうして知ってるの?」
「それはまぁ、和則のスマホにGPSのトレースソフトを入れているからどこにいるかなんてわかるのよ」

 トレースソフト?
 そういえば位置情報を勝手に転送するようなアプリがあると同僚も言っていた。そうすると私と和則のデートなんかも全部筒抜けだったっていうこと?
 それは……ものすごく気持ちが悪くはあるれども、確かにそれほど浮気性ならそういう考えになってもおかしくは、ないのかもしれない。いやでも、っていうことは私の自宅を知っているっていうこと?

「それで今朝、私あなたの家を尋ねたの」
「え……」
「ピンポンって押したら和則が入れてくれて」
「ちょっと待って、勝手に入れたの? 和則が?」
「いや、私も凄い怒っててさ、結構無理に入り込んだ自覚はあって……でもさ、彼氏が他の女の家に泊まってたらそりゃ怒るでしょう?」

 それは……怒るだろうけれどもそういう問題ではないでしょう?

「いや、でも」
「そんなことよりさ、謝らないといけないことがあって」

 不法侵入より謝らないといけないこと……?
 けれども家には和則がいて開けたのだろうから不法侵入では、ないのか? それにしても。
 そんな葛藤があって次の言葉をそのまま聞き流してしまった。

「え、今何て」
「その、和則殺しちゃった。ごめん。てへ」
「殺し……た?」

 目の前の『友達』はまるでキッチンに会ったコップを落として割ったかのように言う。その言いように寒気がする。『友達』は妙に照れたようなはにかんだ顔で両手のひらを謝るように私にすり合わせる。

「ごめんネ」
「ちょ、ちょっと待って」
「お部屋汚しちゃったけど許して。だって『友達』でしょう?」
「『友達』も何も私とあなたは今ここで初めて会ったばかりなのよ!」

 私の大声になんだなんだと周囲の視線が集まる。
 ええと、冗談、冗談だよね。頭は混乱の極みだ。
 えっと、たしかに今朝、和則は私の部屋にいた。そもそも昨日の夜の不審な行動が決定的になって。スマホを見せろと言って拒否されて。それなら別れるから私物は全部持っていけと言い捨てて私が先に出た。鍵はポストに入れてと言って。

「えぇ。だって、同じ人を好きになったんだから『友達』でしょう? それに今たくさんお話したし」
「何その理屈。それよりあの、本当に? 本当に和則を?」
「う、うん。その、本当にごめんなさい!」
「ということは、今、私の家には和則の死体があるの?」
「うん、そう、本当に。あの、ごめんなさい。死体の片付けは手伝うから」
「手伝うも何も!」

 また大きい声が出そうになってあわてて自分の口を塞ぐ。
 なんだか頭がくらくらする。うまく息ができない。めまいがする。なんだ? 本当になんなんだ?

「あの、顔が赤いよ。大丈夫」
「大丈夫、も、なに。も」
「とりあえず会社が終わったらまた落ち合いましょう。和則をなんとかしないと」
「鍵、は、どうし、て」
「ああ。鍵なら持ってきたの。ほら、返すわ」
「ヒッ」

 その予備の鍵はベトリと乾いた茶色の液体が付着していた。
 でも確かに私の家の鍵と同じ形。本当に、本当に?
 でも、でもこの人の言うことが本当だとしたら、今私の家には和則の死体がある?
 このままこの人がいなくなったら、その死体を私はどうしたらいいの?
 通報? 私の家に死体があるって?
 必ずその死体は誰が殺したんだっていう話になる。鍵を持っているのは私、だけ。
 それに私たちは確かに昨日も言い争っていた。アパートの壁はそれほど分厚くは、ない。アリバイ? アリバイはある、会社に出社したんだから。でも、それにしたってその直後にこの女が家にきたのなら、そんなのは誤差、よね。
 この女の居所は掴んでおかなければ。

「いえ、その鍵は持っておいて、それより連絡先を交換しましょう?」
「連絡先……?」
「私たちは『友達』だもの! 連絡先くらい知っておかないとおかしいでしょう?」
「そうね、わかった。これ」

 スマホのQRコードを差し出す女の瞳は最初と同じようにまたドロリと濁っていた。
 新規登録する時に気づく。

「あの、あなたの名前は……?」
「私? 私は有佳(ゆか)。よろしくね」
「ゆ、か。私の名前は」
「さゆりさんよね。知ってるわ」

 そう言って有佳はニコリと私を見た。
 そういえばうっすら思い出した。昨日彼氏と口論した時、ストーカーに付きまとわれていると言っていた。私はいつもみたいに口からでまかせというか、ただのいいわけだと思っていた。
 まさか。この有佳が……?
 背中にぞわりと悪寒が走る。
 目の前に右手が差し出される。

「な、に?」
「握手。友達の。これからもよろしくね」

 そういった有佳はまた、にこりと笑った。

FIN
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