のろいねこ:夕暮れの2500字

文字数 2,674文字

 ねぇ、聞いたことある? あの噂。
 噂?
 そう、のろいねこの噂。
 のろいねこ? 何それ。
 誰かを殺したいという思いを込めて呪文を唱えるとのろいねこがやってきて、契約するとその人を殺してくれるの。でもね、のろいねこは呪い殺したいと思われてる人のところに来るんだって。
 えっ何それ? どういうこと?
 つまり、つまりだよ。仮にのろいねこがあなたのところに来るとする。ということは、あなたを呪い殺したいって思っている人がいるってこと。のろいねこはあなたの望みを叶えたら、次はあなたを殺したい人のところに行って契約して、あなたを殺しに来るってこと。
 ちょっと待って、意味がわからない。それなら契約しなければいいじゃない。
 そう思うよね。でもね。

◇◇◇

 目の前には世界の終わりのような夕焼けが広がっていた。ここなら見つからないと思って山奥の廃校舎まで逃げてきた。
 その屋上で映る世界は2色だけ。給水塔とその向こうの山は真っ黒な闇に落ち、それより上は何も翳ることのない世界の叫びを表したような鮮烈なオレンジ色。そのオレンジ色の中、給水等の黒の上に片耳の欠けた猫のシルエットが追加される。

 嘘……。

 あれは、あのシルエットはのろいねこ。
 もともとは登録した誰かのあとをひたすら追いかけるだけの、探偵や警察が使用する追跡用ロボットだった。
 でもそれに誰かが呪いをかけた。『殺したい』という匂いを追跡する呪いを。それからその思いを実行するためにのろいねこがターゲットと一定距離内に近接した時に致死毒を噴霧する首輪を。

 にゃあ。

 だめだ、絶体絶命だ。私はのろいねこにターゲッティングされている。
 私の中が絶望に満ちていく。

◇◇◇

 のろいねこが初めて私の前に現れたのは3日前だ。私にはどうしても許せない人間がいた。江夏春生(えなつ はるお)。私の婚約者を轢き殺して逃げた運転手。すぐに救急車を呼べば助かっていたと聞いた。
 婚約者のいなくなった薄暗い部屋で虚無感や喪失感、恨みがどろどろとコールタールのように積み重なっていく。江夏は今拘置所だ。どんなに重くても、人1人を殺したくらいじゃ数年で出てくる。許せない、憎い、殺してやりたい、そんな思いが増幅する。だから思わず、致死の思いを込めて記憶の断片に引っかかっていたのろいねこを呼び出す呪文を唱えた。

 にゃあ。

 不意にそんな音が聞こえて窓を見ると、少し隙間が開いていてそれがいた。
 正直信じていなかった。気晴らしだった。ただの噂だと思っていた。だけど私の口から溢れ落ちたその言葉はどこからともなく耳の欠けたそれを呼び寄せた。

 まさか。そう思った。その呪文はただの『起動』。ただそれだけ。でも確かに目の前にいる。壊れた片耳から機械の破片が飛び出した、薄汚れた黒猫。

『ユーザー登録ヲシテクダサイ』

 登録、ユーザー登録。思わず私は自分の名前をつぶやく。

『ターゲット登録ヲシテクダサイ』
「えな……」

 ターゲット。そこで私は我に帰った。これはのろいねこ。駄目だ、登録すると私が次のターゲットになる。
 ふと壁を見ると、婚約者の写真の他に両親や友人の写真もかかっていた。思い止まる。江夏を殺したいと思ってはいたけど自分が死ぬのは違う。婚約者は私にとって大事な人だったけど、私には家族や友人もいて、彼らは婚約者を失った私をずっと慰めて今も支えてくれている。私が死ぬと彼らが悲しむ。婚約者の死に十分な悲しみの淵にいた私はそれが痛いほどよくわかった。だからそう、すぐには割り切れなかった。

「保留」

 そう呟くといつのまにかのろいねこは私の前からいなくなっていた。幻覚? そう、そうに違いない。その時はそう思って、ほっと息をついた。

◇◇◇

 燃え盛る炎の中心のようなオレンジ色の空から見下ろすのろいねこに絶望した。私はターゲットになっていて、その解除はターゲット指定をしたユーザーでないと無理だ。呪いが私を殺す。逃れられない。
 のろいねこはしなやかに給水塔から降り立ち、ひたひたと近づく。
 ユーザー? そうだ。

「コマンド」

 のろいねこは動きを止めた。
 私は3日前にのろいねこと会ってからのろいねこを調べた。厳密には同機種の仕様書を。このタイプの追跡ロボは機密保持のため、指令の度にユーザー登録を行い、指令が終わればユーザー登録ごと追跡情報は削除される。私は3日前に登録はしたけどまだ指令をしていない。つまり登録は解除されていない。ユーザー権限が行使できる。
 
「履歴開示」
『ユーザー2 コマンド1 ユーザー名ハ……』

 表示に驚愕する。私をターゲットに指定した者は江夏春生。まさか。何故。
 私はふいに遠い昔に友達と話した記憶を思い出した。

ーーそう思うよね。でもね。契約しなくてものろいねこは次のユーザーを探しに行くだけなんだ。だから、次のユーザーがあなたを呪うかもしれないよ。

 そうだ、たしかにあの子はそう言っていた。
 つまり、私が保留にした後のろいねこは江夏のもとに行った。そして江夏はユーザー権限で履歴を開示した。おそらく唯一記録されたユーザーが私であり、コマンドが未入力であることに気がついた。
 江夏は私の名前を知っている。被害者の婚約者として。だから自分が殺されると思ってその前に私を……。あるいは単に私が猫を放って自分を殺そうとしたと思ったのかもしれない。
 そうか、そういうことか。そもそも私が江夏を殺そうと願ってのろいねこを呼んだんだ。

 のろいねこは私を見上げる。私はコマンドをキープしたままのろいねこに触れると、ねこはそのまま私の手を舌で舐めた。この機種はターゲットにロボだと気づかれないよう普通の猫のように振る舞う。この子は本来、人を追跡する機能しかない。なのにそれに誰かが呪いをかけた。そう考えると、少し哀れだ。この子も人を殺したいわけじゃない。

「ターゲット 江夏春生」

 私はそう宣言してコマンドを解除した。途端、機能が再開して首輪から毒ガスが散布された。
 こののろいねこの呪いはコマンドが解除または終了した瞬間、最後のユーザーを殺したいと思っている者のもとにのろいねこをいざなう呪いだ。ターゲットの死亡によってコマンドは終了する。だから私が死んで江夏の履歴が消去されれば、私の履歴だけが残る。死んだ私を殺しにこようとする人はいない。だから、お前の呪いももうこれでおしまい。
 私は薄れゆく意識の中でのろいねこの頭を撫でると、のろいねこはにゃぁと鳴いた。

 数日後、江夏春生は独房で毒殺された姿で見つかった。狭い独房では抵抗することも不可能だったに違いない。
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