ハロー・ママ・グッバイ:入れ替わる6500字

文字数 6,564文字



 冷たい。左耳をドアにぴたりとつけて外の音を探る。
 ゴォゴォと自分の血液が流れる音が骨を伝わって聞こえてくる。ハァハァという自分の浅い呼吸音が頭蓋骨を伝って左耳から、そして空気を伝って右耳から聞こえて煩い。そんなものを聞いている余裕はないのに。
 集中して意識を向けるとかすかに響くドン、ドンという音がゆっくりと近づいて来る。恐怖の音。拳が汗でじとりと湿る。あの分厚い靴下を履いて階段を一歩ずつ登って来る足音。1秒に1つの足音。その音がする度に心臓がビクリと跳ね上がり恐ろしさに皮膚がざわめく。あたかも皮膚の下を虫が這いずり回るようなおぞましさ。
 足音はもうドアの前。恐怖で呼吸が止まりそうだ。叫びだしそう。逃げ出したい。けれども逃げ出すわけにはいかない。いざとなったらこのドアが開かないよう体で押し止めなければいけないから。向こうはこのドアの鍵をもっているんだから。

武信(たけのぶ)、朝ごはんどうするの」

 扉の向こうから聞こえた声に体の緊張は最高潮に達する。血圧が上がりすぎて首筋や耳の中が高炉のように熱い。ドクドクと心臓の拍動音が頭の中に響き渡る。肩がガクガク震える。ともすれば崩れ落ちそうな膝を掌で押さえる。

「ぃ、いらない」

 頭を少しだけドアから少し離して声がなるべく震えないよう喉に力を込めて、ようやく小さな声でそう答える。ドアから少し離れて聞こえるように。体はドアにピッタリつけたまま。全てが凍りつく時間。

「仕方ないわね」

 無限のように感じる沈黙に耐えた後、ようやくその声がして、またドン、ドンと足音がゆっくりと遠ざかる音を耳が捉えてようやくほっと息を吐く。その途端膝の力は全て抜けてドアの前にペタリと座り込み、全身から湧き出た汗でパジャマがびっしょりと濡れた。掌が真っ白になっている。また貧血だ。震える手で常備している鉄分多めの野菜ジュースを飲んで健康補助食品をかじる。

 これが、俺の毎日の朝の風景。
 俺は何故だか母さんが怖い。とてつもなく怖い。だから母さんがパートに行くまで部屋から出られない。8時20分に母さんが家を出る。そこから俺は急いで部屋を出て学校に走る。遅刻ギリギリ。

 いつから怖くなったかは明確に覚えている。
 俺が小学4年の10月3日。
 やけに早朝に目が覚めて喉が渇いてリビングに向かうと恐ろしいものがいて気絶した。
 その日は多分学校は欠席したのだと思う。それから俺は俺を心配で様子を見に来る母さんを見かけるたびに気絶した。その日は最悪だった。ずっと母さんが枕元にいた。恐怖で心臓が止まるかと思った。実際止まりかけたんだと思う。体中の体液が出尽くしてカラッカラで震えも止まらず夜半に入院した。よく覚えてないけど救急車に乗ったのは多分あれが初めてだ。

 入院後も母さんが1人で見舞いに来ると俺の症状が劇的に悪化したから母さんは出禁になった。俺には父さんと姉さんがいてそれとなく母さんと何かあったのか聞かれたけど、あれは母さんじゃない恐ろしいものだということしか答えられなかった。
 母さんに何かされたのかと聞かれたが、そんな事実自体はないから否定した。本当に何かされたわけではなく、ただただその存在が恐ろしかっただけだから。
 俺についた病名は不安症とパニック障害だった。

 その後、他の誰かと一緒にいるのであれば母さんへの恐怖が少し安らぐことに気がついた。きっと他に人がいれば酷いことはされないだろうという思い。
 人がいるならば、母さんが振り上げて振り下ろす包丁がゴトンとなる音がしても肩がびくりと震えるのを体中の小さな痙攣に留められる程度、目の前から視線を受け止めると奥歯がガチガチ鳴り始めそうになるのをなんとか噛み締めて我慢できる程度にギリギリ留まる範囲には。だから夕飯時でも父さんか姉さんが一緒にいるならだいぶマシで、ビクビクしながらも表面上は普通の家族のように暮らすことができるようになった。

 それが中学に入ってしばらくたった時で、今はそれから4年経ってる。そんな形で生活は安定し、家族の中ではきっと俺はもうすっかり治ってあの時は何か突発的におかしくなったんだろうということでカタがついている。けれどもあの時の様子があまりにも尋常じゃなかったから、父さんも姉さんも再発を恐れてなるべく俺と母さんを2人にさせないようにしてくれている。母さんも俺の部屋の鍵を持ってるけど無理に入ろうとすることはない。

 ひょっとすると尋常じゃなく恐ろしく感じるだけで本当はそれほど恐ろしいものではないのかもしれない。なぜだか俺がそういう風に感じてしまうだけなんだ。お医者さんもそう言っていた。それに入院したあの日以降、母さんから何かされたことはない。けれども頭と経験ではそう納得できてもそんな理屈は母さんと2人になるかもしれないと思った瞬間、心の底から吹き上がる根源的な恐怖によって木っ端微塵になる。

 こんな話ができるのは学校のスクールカウンセラーさんだけだった。小学校の頃は母さんが怖いと友達に言っても馬鹿にされるだけだったし、中学以降は親が怖いとは言い出せなかった。
 三者面談の時の俺の様子が変だと気づいた担任からカウンセリングを勧められた。家ではいつものことだから家族は慣れていたのかもしれないけど、客観的にみると俺の母さんに対する態度はやはりおかしいらしい。緊張でそれどころじゃないから自分的にはよくわからないけど。

島根(しまね)君の症状だとやはり一度受診したほうがいいんじゃないかな。私は話を聞くことしかできなくて、薬の処方はできないんだ。島根君はきちんとした治療が必要なレベルだと思う。もし良ければ私からお父さんに連絡するけど」
「いえ、大丈夫です。本当になにかあるわけじゃないし父と姉に心配かけたくないので」
「そう? 本当に困ったら言ってね」

 カウンセリングは少し頭の整理ができて有意義だった。
 何が怖いのか。
 これまで考えることを避けていたけど、小学4年の10月3日に俺は何かを見て、それを歪んだ形で認識したんだ。それが何時だったのかは覚えていないけどまだ外は薄暗かった。ごとん。包丁の音。それがたまらなく恐ろしい。台所で母さんが何かをしていた。多分何かの下拵えで肉か魚を切っていて、手とかに血がついていて、外が薄暗くてなんだかその雰囲気が相まって恐ろしかったんだと思う。頭はそれで少し納得した。それから振り返った母さんの目が。母さんの表情はどうだっただろうか。思い出そうとすると脂汗が滲んで頭がくらくらしてくるからよくわからない。でもきっとそういう、なんでもないことのはずだ。
 でも心は相変わらずで、あれはそんな理屈がつくようなシロモノではなくてもっとずっとおぞましいものだと思い返すたびに悲鳴をあげていた。けれども俺はその頃にはもう叫び続ける心に蓋をする行為に慣れてしまっていた。

 今日は俺の18の誕生日だ。
 夕方学校から帰る途中の坂の上から眺めた夕焼けは真っ赤で少しどす暗く、なんだかこの世の終わりのように見えた。俺は放送部に所属していてなんだかんだ理由をつけて家に帰るのを遅らせている。母さんと鉢合わせしないように、少なくとも父さんか姉さんのどちらかが家にいる時間に帰れるように。
 でも今日は家で誕生会をするから早く帰れと言われている。18にもなってと断ったが、父さんと姉さんがやけに乗り気で断りきれなかった。帰りたくない。母さんがいる家にいたくない。毎日そう思っているのに早く帰る今日はいつにも増して苦痛だ。家に近づくほどに歩みはノロノロと遅くなるけれども、結局家に着いてしまった。
 恐る恐る玄関を開けると父さんの靴も姉さんの靴もない。失敗した。外で待っていればよかったか。

「武信、帰ったのね?」

 恐怖の音がする。この家で2人きり。その事実を認識した瞬間、全身から汗が噴き出た。ヤバイヤバイヤバイ。頭に反して心が絶叫するのに蓋をして悲鳴を上げる関節を無理やり動かしのろのろと靴を脱ぐ。喉の奥から聞こえない叫びを上げながらもつれる足で急いでリビングを通り過ぎて自室に逃げ帰り急いで鍵をかけてベッドに倒れる。そして自分の呼吸がとんでもなく早くなっていることに気がついた。背中がガチガチに固まって痛い。

 今、この家には俺と母さんしかいない。そう思うと息の仕方を忘れたみたいに息苦しく喉からゼェゼェという音がした。乾く。机の上に出しっぱなしにしていたスポーツドリンクを一口飲むと、呼吸は少し治ったけどかわりに耳鳴りと目眩が激しくなって意識を失った。

◇◇◇

 どのくらい時間がすぎたのか、床の感触で目が覚めた。明るいリビングの床。LEDの見慣れたライトが目に入る。あれ、なんでリビングに。朦朧とする頭で立ち上がろうとすると体が動かない。

「こんばんは」

 あれ? 目の前に俺がいる。なんだ俺は寝ぼけているのか?

「こんばんは。聞こえますか」

 妙に機械的な話し方をする。そしてハッと思い出す。それより母さんは!? と思って左右を見回そうとしたけどやはり体は動かない。

「何が」
「よかった。聞こえましたね。母さん、起きました」

 母さん? その響きに体がびくりと跳ね上がる、気がした。そして少し離れたところから恐怖の音が響き渡る。あの分厚目の靴下で一歩一歩、どん、どんと近づく音が。
 脂汗をにじませ奥歯を噛み締めながらなんとか逃れようとしたけれどもかろうじて動いたのは口と目だけだった。首、頚椎から下は動かない。頭もピクリとも動かない。つまり、逃げられない、その事態にひどく焦り、額から耳にかけて汗が筋になってだらだらと何本も流れ落ちる。そしてとうとう視界の端に母さんが映り込んだ。いつもと同じ少し微笑んだ、恐怖で心臓が張り裂けそうになる笑顔。俺はヒュッと息を吸い込み、吐き方を忘れた。
 まて、今は他に人がいるから大丈夫だ。他に、俺、が?

「起きたのね」
「お話をしましょう」

 目の前の俺。無表情の俺。これはなんだ。ドッペルゲンガー? でも俺を助けてくれるもの? 混乱を極める俺の頭に目の前を俺はさらに語りかける。

「話はできませんか?」

 じっと俺を観察する目。ふいに目の前に伸びてくる指。その指はそのまま俺の左目にねじ込まれて鈍い痛みと共に一瞬意識が飛び、気がついたら激しく頭が波打っていることといつも聞こえてきた心の声と同じような叫びがひっきりなしで口から上がり続けているのに気がついて、その瞬間世界をふたつに割るようなバリバリとした痛みが俺の頭を揺さぶって火のついたマッチでも突っ込まれたかのように沸る左目の熱さに胃が痙攣して頭を横に向けることもできないまま逆流してきた胃液と昼食の残りがコプコプと軌道を塞いで溺れる呼吸の苦しさでまた意識が朦朧として鼻の奥が胃酸で焼ける強烈に酸い香りで意識が揺り戻される。
 いつのまにか母さんが俺の口に管を突っ込み内容物が吸い上げられて苦しさが少しずつ収まってきたのを痛みで摩耗しすぎた頭でぼんやりと感じた。

「痛みを取り除きました」

 無機質な声にふと左目の痛みが薄らいでいることに気づく。頭が酷くぐらぐらする。ぼんやりとした熱さのほかは歯医者で麻酔をした時のように感覚がぼやけていて気持ちが悪い。さっきまでの痛み、それは酷く現実感を伴っていたのに痛みというのは薄れてしまえばすぐに現実かどうかよくわからなくなってしまう。けれどもその痛みが刻んだ記憶は実際の痛みと異なるイメージに変換されて恐怖とともにさらに強烈に俺の脳裏に焼き付いている。痛いのは、嫌だ。直前の記憶で目の前の俺に対して恐怖がせり上がる。逃げようと思っても体が動かず更に目の前がブレていく。
 そうだ、この恐怖。これは母さんに感じていた恐怖と同じもの。目の前の俺のすぐ左には母さんがいた。同じ表情で。グッ、フハッ、ハッ、ふぁっ。忘れていた呼吸が押し出される。なんで。頭の中がぐるぐる回る。俺は母さんにはひどいことをされていないはずなのに。

「母……さん?」
「なぁに、武信」
「母さん、武信は私です」
「そうだったわね、ごめんなさい」
「な、んで」

 そういえば父さんと姉さんは……。

「父さんと姉さんはいません。母さんが誕生日に私と2人きりで仲直りをしたいと話したので、父さんと姉さんは今日はおばあちゃんの家に泊まります」
「なっ!? なんで!?」
「2人に話したら少し躊躇ってたけど、私がどんなに武信のことを思っているか話したら最後には応援してくれたわ」
「ありがとうございます、母さん」

 そういえば今日誕生会をすると聞いた時、2人は妙にうきうきしていた。嘘だ!? 2人が俺と母さんを2人きりにするはずがない。でも、俺は、俺は、2人を心配させたくなくて、でもギッガッァ
 頭の中をこねくり回されるような感覚があってフツリフツリと意識が飛ぶ。いや、『ような』じゃなくて本当にこねくり回されている。俺の左目に刺さった目の前の俺の人差し指の第二関節が動いているのが残された右目から見える。再び嘔吐感がせり上がり、口に挿入された管が逆流する胃液を吸い上げた。

「何、を」
「こうやって記憶を取り出しています」
「や、め」
「やめて、痛い。おかしいですね、痛みはないはずなのですが」
「武信、そういうものなのよ。肉体的な痛みとは別に精神的な痛みを感じうるものなの」
「不思議ですね、母さん」
「な、ん」
「理由? 私、いえ、俺のためです。武信がいなくなるとみんな困りますよね? だから記憶を移しているんだ」

 目に突き刺さった指先からも伝導する先ほどより少しだけ流暢になった、けれども抑揚のない声はさらに俺に混乱をもたらす。

「お、れ? な、ま」
「お前じゃなくて俺が武信なの。わかる?」

 頭が働かないながらも無意識に歯を噛み締めようとして、歯がガチリと口の中の管に当たってアルミを噛んだような機械的な味がじわりと広がる。

「それは無理だから諦めて」
「あ」
「うん、『母さん』も俺と同じ。あれ? 見てるのに見てないことになってんの?」
「ああ、一時的にその記憶を塞いだのよ。だから気にする必要はないのに精神が気にしてしまっているのね。不思議だわ」
「ああ、そういうこと」

 見た? 何、を。

「これ」

 視界に下腕が映る。切断された腕。見覚えのある傷。小さい頃にカップ麺を作ろうとしてお湯をこぼしたときの火傷。そこに記憶の底のゴトンという音が重なった。力を込めて大きな物を切断する、音。ゴトン。9年前の小学4年の10月3日に見たもの。包丁が振り上げられて、無造作に振り下ろされたものは母さんの足。母さんが母さんに解体されている姿。それがあたかも今目の前で見えているように鮮明に浮かび上がって戦慄する。9年分のカットしていた記憶が生々しく再生され、思わず頭がガタガタと強く揺れた。

「あ、あ」
「じゃあ私はお風呂で続きをやってくるわね」
「お願い、母さん」
「お?」
「今母さんはお風呂で下半身を解体してるんだ。細かくしないと捨てられないから。ほら」

 ぎ、ゥ。
 左目に刺さった指がさらに押し込められて側頭部の方に曲がり、指先が眼窩に引っかかってゆっくりと頭が持ち上がった。喉がひどく引き攣れれて重いまま頭が持ち上がる。
 ひ、い、あ
 俺の首から下はどろりと垂れた内臓につながっていた。
 ゆ、め。これは夢。こんな姿で生きているはずがない。内蔵の重さを支える骨格も横隔膜も筋肉も何もなく、だらりと喉から直接つながった胃腸や肺がその重さで食道や気道を地面に引き下げる。重力で、喉が苦しい。

「や、だ」
「ごめんね、もう少しかかるから」
「な、んで」
「体は2つもいらないから。ああ父さんと姉さんはまだもとのままだよ」
「ど」
「18才ってキリがいいんだよね。これ以上大きくならなくてもおかしくないから体を頻繁に取りかえる必要がなくなるじゃん。それにほら、そろそろ春休みじゃない? 進学すると友達も新しくなるからさ」

 俺、に、な、る?

「まあそうだけど、でも外から見れも変わらないから大丈夫だよ。母さんも直接見たお前以外は気がついてないでしょ? 安心して、俺はちゃんと母さんと仲良くなるから」

 そ、んな。

「さてと、こんなものかな、じゃあさようなら」

ワンクリックで応援できます。
(ログインが必要です)

登場人物紹介

登場人物はありません

ビューワー設定

文字サイズ
  • 特大
背景色
  • 生成り
  • 水色
フォント
  • 明朝
  • ゴシック
組み方向
  • 横組み
  • 縦組み