第7話 縁は異なもの
文字数 4,448文字
ダイナ・ワシントンが歌うジャズのスタンダードナンバーに『縁は異なもの』という邦題を付けたのはいったい誰だったのだろう?
智が二十六歳の誕生日を迎える三日前、日課のトレーニングを終えたぼくは、ネットサーフィン中に、ソウル・R&B専門の音楽チャットルームを偶然見つけ、恐る恐る入室した。
キーボードを打つスピードがあまり速くないので、数年前にチャットを初めて体験したときは早々に退散した。何しろその頃は電話回線でインターネットに繋いでいたから、その料金は高速道路を走るタクシーのように刻々と加算され、精神的にも経済的にもプレッシャーが高かった。それ以来チャットとは縁がなかったが、インターネットが速く安くなったことで、ハードルはかなり下がっていた。
入室していたメンバーへの自己紹介だけは済ませたが、その後は常連メンバーによる音楽と無関係な話が延々と続いていた。
慣れないチャットで話題を切り出すタイミングも見つけられず、そろそろ退室しようとしたとき、ようやく常連メンバーの一人が本来のテーマを語りはじめた。
>JBs 「いま何か聴いてる? 因みにワシはメイシオ・パーカーの『ファンク・オーバーロード』だが 」
>Takeshi 「エリカ・バドゥのライブ」
>Shiho 「EW&F(アース・ウィンド・アンド・ファイアー)のヴェルファーレ・ライブ。毎度お馴染みだけど」
> - Lilyさんが入室しました -
>Lily 「ただいま」
>Takeshi 「リリーちゃん、こんばんは」
>Shiho 「おかえりりー」
>Hide 「ヴェルファーレのEW&Fは俺も行ったよ」
ぼくもようやく話に加われそうだった。
>JUN 「ボクも行きましたよ」
>Lily 「JUNさん、はじめまして。HideさんもJUNさんも、あのライブに行ったなんてうらやましいです。私は行く予定だったけど、行けなくなって友だちに譲ったので」
言いたいことは山ほどあったが、タイプが追いつかない。そのうえ、新しく入室した人に挨拶しなければと思ったら指が固まった。
>Hide 「立ち見だから疲れたけどね。w」
>Shiho 「その日、ヴェルファーレで運命の出会いがあったんだ」
>Lily 「そうそう」
>Takeshi 「何それ?」
>JBs 「ワシは知ってる」
>Lily 「ライブのあと、Satoshiがヴェルファーレの前でドラマーに声かけられたの」
あまりの展開に焦るばかりで、ぼくはどうタイプして良いか判らず、半ばパニック状態になっていた。
>Takeshi 「EW&Fのドラマーならフレッド・ホワイト?」
>Shiho 「ソニー・エモリーだけど、そうじゃなくて」
>Hide 「誰?」
>Shiho 「 有村純。その人がSatoshiのファンク愛を目覚めさせたんだ」
自分の名前がタイプされたことを嬉しく思うと同時に、こんなプライベートなことが公の場で語られてしまうのか——と、インターネットに恐ろしさを感じていた。
> - to-doさんが入室しました -
>Lily 「to-doさん、おひさ」
>to-do 「こんばんはー」
>JBs 「おかえり」
>Hide 「有村純って誰? 青山純なら知ってるけど」
>Takeshi 「青純と有純?」
>to-do 「ドラマーの話? 僕もドラムやってるけど、有純は玄人受けするタイプだよね」
>Shiho 「スネアの音一発でソウルを感じさせる貴重なドラマーだってPunkが言ってた」
>Hide 「そのPunkって誰さ?」
>Shiho 「Punkadelic」
>Hide 「ファンカデリックじゃなくパンカデリックか。(笑)微妙なネーミングセンスだな」
>JBs 「有村純はテクニシャンじゃないけど、日本人には珍しくグルーヴィーな良いドラム叩くよ」
>JUN 「どうもありがとう。確かに神保さんや菅沼さんみたいなテクニシャンじゃない」
やっと話に入って行けたが、はたして素性を明かしてしまって良いものかぼくはまだ迷っていた。
>to-do 「はじめまして>JUN」
>Shiho 「JUNは今日が初チャットだって」
>JUN 「皆さんはじめまして。チャット初心者なのでお手柔らかにお願いします」
>Lily 「みんなのテンポに合わせなくても大丈夫ですから、どうぞ自分のペースで」
>JUN 「じゃアフタービート気味で」
>Takeshi 「アフタービート(笑)」
>JBs 「さっきの『どうもありがとう』がちょっと気になっているワシ。テクニシャンじゃないなんて言ってしまってよかったのか?」
>JUN 「すみません。有村です」
>JBs 「やっぱりそうきましたか。失礼なこと言って申し訳ない。mm」
>Shiho 「え〜?」
>Takeshi 「なんじゃそりゃ〜〜!」
>Lily 「うっそー!」
ぼくが素性を明かしたことで、チャットルームは大騒ぎになってしまった。
いきなり画面上に別のウィンドウが開いて面食らったが、それはLilyからのプライベートチャットだった。
>Lily 「呼び捨てしちゃってごめんなさい!」
>JUN 「全然OKです」
>Lily 「こんなことあるんですね! Satoshiって智さんのことなんですよ。私は学生時代からの親友の百合です。よろしくお願いします」
誰もいない一人暮らしの部屋で、ぼくは「やった!」と大声で叫んでいた。予想もしなかったハプニングに、まだ智と会えたわけでもないのに嬉し涙が溢れてきた。
>JUN 「こちらこそよろしくお願いします」
>Lily 「まさか話に聞いてたご本人がチャットに来るなんてビックリ! それにしても、智さんがここの常連ってどうしてわかったんですか?」
>JUN 「智ちゃんが常連だなんて知らなかったし想像もしなかった」
>Lily 「えー? ホントですか?」
>JUN 「ぼくはチャット初心者だし、ここは偶然見つけたんですよ」
>Lily 「ウソみたいなホントの話? そんなことってあるんですね」
>JUN 「こういうのも縁なのかな?」
>Lily 「縁って智さんがよく言います。そうそう、実は今週の土曜日にオフ会があるんです」
>JUN 「22日? 彼女の誕生日の二日後ですね」
>Lily 「すごい! 覚えてるんですね。やっぱり本物の純さんだ。そのバースデーパーティーです。一応サプライズにして女子だけのオフ会ってことになってるんですけど、もし来てくれたら智さん感激しますよ」
智が再会を喜んでくれるなら、どうして今まで連絡してくれなかったのだろう? いくらでも調べる方法はあったのに――とぼくは少し寂しさを感じていた。
>Lily 「今、Satoshiが来ました! 後で詳細送りますね。基本は女子会だけど、純さんは大丈夫」
チャットルームでは騒ぎが再燃していた。
> - Satoshiさんが入室しました -
>Satoshi 「こんばんは」
>takeshi 「待ってたよ!」
>JBs 「真打ち登場だね」
>shiho 「なんてこった! 涙が出てきちゃったよ(ToT)」
>JUN 「智ちゃんこんばんは。お久しぶりです」
ぼくが何気なく挨拶すると、即座にプライベートチャットでLilyから注意を受けた。
>Lily 「すみません。本名はなしでお願いします」
ぼくは慌ててメインのウィンドウに打ってしまった。
>JUN 「ごめんなさい。あ、すみません、さとしさん」
>Satoshi 「JUNさん、こんばんは。はじめまして」
>shiho 「そんなよそよそしい挨拶でいいの?」
>JBs 「しーーー(二人は密かにチャット中?)」
プライベートチャットのウインドウがもう一つ開く。今度は智からだった。
>Satoshi 「ほんとに純さん?」
>JUN 「智ちゃんひさしぶり。もう会えないかと思ってた」
>Satoshi 「わたしはきっと会えるって予感してましたけど、こんな形は予想外です」
>JUN 「二度目の奇跡かな?」
>Satoshi 「二度目?」
>JUN 「一度目はボーイズ・II・メン」
>Satoshi 「あー、そうでした! やっぱり本物(笑)」
>JUN 「そう言えば、ぼくが智ちゃんを目覚めさせたって?」
>Satoshi 「そうですよ! あの時わたしジェームズ・ブラウン苦手って言いましたよね。でも、純さんに会ったことがきっかけで大学のR&Bサークルに入って、友だちからいろいろ教えてもらったんです」
>JUN 「なるほど。そういうことがあったんだ」
>Satoshi 「はい。去年のヴェルファーレのJB(ジェームズ・ブラウン)も行きましたよ!」
>JUN 「ボクは仕事で行けなかった」
>Satoshi 「それは残念。今はJBもアレサも好きですが、わたしが一番好きなのはマーヴィン・ゲイ。それとプリンス」
少し間があった。僅か十数秒のことだったが、その時間が限りなく長く感じられた。夢ならどうか醒めないで欲しい――と願いながら、ぼくは両の掌を合わせていた。
>Satoshi 「今、Lilyから聞きました。ごめんなさい。純さんのことネタにしてたわけじゃないんです。ここのチャットを主催してる友だちが話してたら部屋で知れ渡ってしまって」
>JUN 「最初はビックリしたけど」
>Satoshi 「気を悪くされたらごめんなさい」
>JUN 「そんなことない。逆に覚えててくれて嬉しいよ」
ぼくが必死にキーボードと格闘している間に、彼女はチャットルームのウィンドウでも会話を進めている。かなり手慣れているように見えた。
>JUN 「智ちゃんがチャットって少し意外だな」
>Satoshi 「そうですか? チャットだと読めないから気が楽なんです」
チャットだと読めない? ――チャットに慣れない自分には、智の言う意味がよくわからなかった。
>Satoshi 「純さんのコンサート、何度か行かせていただきましたよ」
うそだろう?――とぼくは舌打ちした。こっちはずっと智のことを探していたのに。
>JUN 「楽屋に来てくれたらよかったのに」
>Satoshi 「私なんかがノコノコ訪ねていったら失礼だと思って」
>JUN 「とんでもない。今度ちゃんと招待するから必ず来て」
>Satoshi 「はい、ありがとうございます。楽しみにしてます」
どうやら夢ではない。ぼくは深く深呼吸をして息を整えた。
>JUN 「ちょっと早いけど、誕生日おめでとう」
>Satoshi 「嬉しい! 覚えててくれたんですね」
>JUN 「実はプレゼントがあるんだ」