第5話 ララは愛の言葉

文字数 5,278文字

 ぼくたちは歩き始めたが、「一杯だけですよ」という彼女の言葉を上の空で聞いていた。
 学生の頃よく行った馴染みの店は、いつの間に閉店したのか跡形もなく消え去っていた。六本木は変化の渦中にあって、かつてよく歩いた通りには知らない店が何軒も並んでいる。仕方なく、外から見てなんとなく感じの良さそうな店を選んで中に入った。

「何がいい?」とぼくは訊ねる。
「お酒は苦手だったから、あまり知らなくて……。何かおすすめはありますか?」
「ビールでもOK?」
「あまり苦いのでなければ」
「じゃコロナかな?」とすぐに注文した。
 目の前に小さなボトルが二本並んだが、彼女は飲み口に刺さったグリーンライムに戸惑っているようだった。
「こういうの初めて?」
「はい」
「こうやってギューッと絞りながらボトルの中に落とすんだ」
 実演して見せると、彼女は器用に真似ている。
「そうそう、上出来」と言うと、ぼくはボトルを手に持った。
「それじゃ。喜寿の誕生日を祝って、乾杯!」
 軽く当てたつもりだったが、カチンとガラスの音が辺りに響いた。
「ありがとうございます」
 彼女は照れくさそうにまだ瓶を手に持っている。
「こうやってラッパ飲みするんだ」と言って、ぼくはボトルを傾けた。
「これがメキシカンスタイル」
 おっかなびっくりボトルを口にくわえたその仕草が可愛く、ぼくの本音が漏れた。
「意外と遊んでないんだね」
「去年、滋賀から出てきたばかりですから」
「滋賀ってどこだっけ?」
 地理が苦手なぼくは間抜けな質問をした。そのうえ、もし北陸? 山陰?――などと訊いてしまったら呆れて答えてくれなかったかもしれない。
「大津です。でも琵琶湖の畔じゃなくて比叡山の中腹」
 彼女の説明で、日本列島のどの辺りかはなんとなくわかったが、琵琶湖はイメージできても、ぼくは比叡山のことも知らなかった。
「『ひえいざん』ってなんだか寒そうだね」
「冬は寒いですよ。ほんとに」

「そういえば、まだ名乗ってなかったね」とぼくが言うと、彼女はすかさず先に名乗ってくれた。
「わたしは智です。上智の智の字一文字で(とも )
「もしかして、上智の学生さん?」と訊ねると、隠すこともなく「はい」と答える。
「わかりやすい例えでよかった。ぼくは純。純粋の純」
「純さんもわかりやすい。お互い男女で名前を交換しても大丈夫そうですね」と笑う口元には女らしい色気が感じられ、年齢以上に魅力的な子だとぼくは思った。
「大学生なんだね。さっき携帯電話は仕事用って言ってたけど?」
「アルバイトなんですけど、バイトって言うと片手間みたいなので、私はいつも仕事って言います」
「どんな仕事?」
「英語圏の人に日本料理や日本文化を紹介する通訳兼ガイドみたいなこと」
「面白そうだね。それで、なんかファッションセンスとか垢抜けてるのか」
「垢抜けてる? 大学では超地味ですよ? 今日のスタイルだって、友達からカラスとか九官鳥って言われちゃいました」
「コーディネートとか色使いのセンス。立ち姿が決まってたんで最初モデルさんかと思った」
「わたしが?」と彼女は大きな目をさらに大きく見開いた。
「そう。よく美人って言われるでしょ?」
「ぜんぜん! 目は奥二重だし、顔も地味でしょ? 滋賀も関西圏だから向こうにいた時はほんとに目立たない子でした」
 地味なんてとんでもない! ぼくが会った中で一番の美人だよ——と思ったが、口には出さなかった。奥二重とは言われるまで気づかなかったが、関西育ちにしてはイントネーションが標準語に近い。
「そういえば、関西出身にしては訛りがないね?」
「出身は東京なんです。滋賀は母の故郷で、小六まで中野にいました」
「なるほど」とぼくは納得した。生粋の関西育ちだった母とは子供の頃の環境が違うわけだ。
「でも、数年離れてただけで東京がずいぶん変わっててびっくりしました」と彼女は言う。
「中野だったらこの辺りほどは変わってないと思うけど?」
「六本木ってそんなに変わったんですか?」
「変わったというより昔とはまるで違う街。土地開発の最盛期って言ったらいいかな? 近々森ビルが大きな施設を建設する話もあるし、なんか世紀末って感じがする」
 ぼくは知ってる限りのボキャブラリーを駆使して語ったが、何か変なことを言っただろうか? ――と少し心配になった。
「バブルが崩壊しても資産価値はあまり下がらないんですね。この辺りの地価相場って今どのくらいですか?」と質問された。
 答えるだけの知識を持ち合わせていなかったぼくは、質問には答えずに「大学は何学部?」と訊ねた。
「法学部の二年です」と答えた彼女は、地価相場の質問を諦めてくれたようだった。
 続けて質問しようと思ったが、肝心な資格試験の名前が思い出せない。
「将来は弁護士になるの?」と言ってしまった。法律家には検事や判事だっているはずなのに。
「最初はそのつもりで法律学科を選んだんですけど、司法試験はハードルが高いから違う方向に進むと思います」と言う。
 そうだ司法試験だった――と気づく間もなく、彼女は語った。
「いわき市の岩城市長とか、ちょっと歯切れの悪い退陣になりましたけど細川元総理とか、先輩には政治家もいるので、どちらかと言ったら今は政治の方に関心があります」

 智が優秀な大学生なら、ぼくは出来の悪い中学生レベルだな――と少し劣等感を感じたが、形勢逆転のチャンスを狙って、自分が一浪したことで気づいたことを口にしてみた。
「ところで、二十一で大学二年ってことは、東大とか一橋とか、国立を目指して浪人したとか?」
「鋭いですね」と彼女は笑った。
「ごめんね。余計なこと聞いたかな」
「いいえ。隠すことじゃないので」と彼女は言う。「高校の時アメリカに一年留学したので、大学は一年遅れて入ったんです」
「なるほど、そういうことか。アメリカはどこに?」
「フィラデルフィア」
 やっと自分の得意分野に持ち込めるチャンスが到来した。
「奇遇だな。今日のドラマーとはフィラデルフィアのコンサートで知り合ったんだ」
「へぇ? それじゃ、向こうですれ違ってたかもしれないですね」
「二年前だよ」
「残念。私が向こうにいたのは三年前まで」

「今日のドラマーのソニーだけど、もうすぐ彼のシグネチャー・スティックが出るらしいんだ」
「シグネチャー・スティック?」と言ったあと、彼女はすぐに理解したようだ。
「ドラムのスティック? それにサインが刻印されてるってことですか?」
「そうそう。売れっ子になるとメーカーが作ってくれる」
「純さんは?」
「十年早いかな? ぼくはソウルミュージックが大好きだけど、まだ本物のファンク・グルーヴにはほど遠いからね」
「本物って、どんな感じですか?」
「例えばキング・カーティスやアレサ・フランクリンのバックで叩いてるバーナード・パーディーとか、ジェームズ・ブラウンのバックバンドJBズのクライド・スタブルフィールドやジョン・ジャボ・スタークス」
「ジェームズ・ブラウンってあの『セックスマシーン』の人?」
「そう。パーディーも何曲かジェームズ・ブラウンのバックで叩いてるけど、ジャボ・スタークスはまさにその『セックスマシーン』のドラマー」
「わたしはああいうの苦手です」と彼女は言う。
 ぼくは話題を変えることにした。

 フィラデルフィアといえばフィリーソウル。ミュージシャンにとっては定番だ。
「ところで、フィラデルフィアのソウルは甘くて都会的なイメージだよね。フィリーソウルって君たちの世代でも言う?」
「ホストファミリーのお父さんが昔のレコードをたくさん持っていて、いろいろ聴かせてくれました」
「オージェイズとかスタイリスティックスとか?」
「スタイリスティックス! それと、なんてグループか忘れちゃったけど、ファミリーがみんなで歌うの」と、智は控えめに歌い始めた。
「ララララ・ララララー・ミーンズ……」途中からぼくも「アーイ・ラーブ・ユー」と一緒に歌いだしてしまい、周囲の注目を浴びてしまった。
「その歌大好き!」
「デルフォニックスだね」とぼくは教えてあげた。
「白人だけど、ホール&オーツとかトッド・ラングレンもフィラデルフィアだよね」
「ホール&オーツも売れてましたけど、私の高校ではボーイズ・II・メン(BoyzⅡMen)が凄い人気でした」
「今はこっちでも人気だよね」
 ぼくがそう言うと、まるでタイミングを計ったように、彼らのヒット曲『オン・ベンデッド・ニー(On Bended Knee)』が店内に流れはじめた。
「これ、そうだよね?」
「純さんのリクエスト?」
「まさか」
 偶然ではない目に見えない力が働いたように感じた。
「テレ……なんていうんだっけ? 『スター・ウォーズ』のフォースみたいに物を動かす念力みたいなの」とぼくは言った。
「テレキネシス。でも違いますよ。そんな能力持ってないし」
「それじゃ、ただの偶然か……」
「不思議ですね」
 しばらく静かに耳を傾けていた智はこう言った。
「ぼくが犯した過ちを全て許してくれ。お願いだから帰ってきて――そういう台詞ですよね」
「そうだね」
「純さんはこういう気持ちになったことあります? 例えば別れた彼女に対して」
 いきなり訊ねられてぼくは少し動揺したが、それほどの過ちは犯していないはずだった。
「ないかな? これから先は判らないけど」
「それならよかった」と言うと、彼女は優しい笑みを浮かべた。

「こういう曲も好きですけど、私はジャズが好きです。あんまり難しいのはわからないけど」
「例えば?」とぼくは質問した。
「好きなのはピアノ。ビル・エヴァンスとか、それからチック・コリア。最近知ったんですけど、ミシェル……あ、思い出せない」
「カミロ?」とヒントを出す。
「じゃなくて、えーとフランス人の……」
「ルグラン?」と言ったが、それも違ったようだった。
「もしかして、ペトルチアー二?」
「そうそう!」と彼女は嬉しそうに大きく頷く。
「ミシェル・ペトルチアーニです」
「良いセンスしてるね」

 ぼくはすっかり智に魅了された。
 今夜どれだけ近づくことが出来るだろう?――と思いながら、コロナのボトルが空になったタイミングで声を掛けた。
「二杯目は何がいい?」
 少し間を置いて「一杯の約束」と智は小声で言う。
「うそでしょ?」と漏らしたぼくの声は少し上ずっていた。
「さっき、そう言ったじゃないですか」と彼女は軽く抗議する。
「まだ一杯も飲んでないよ。これ一本だし」
 ぼくは子供のような屁理屈を言ってしまった。
「そう来ましたか」と智は少し困った顔をしている。
「まぁ、一杯は言葉の綾ってことで」と取り繕ったが、「ごめんなさい」と頭を下げられた。
「まさか、ほんとに?」と言うぼくに、彼女は「ほんとにほんとにごめんなさい」と頭を下げるばかりだった。

「まいったなぁ。それじゃまた日を改めて」と言いながら、ぼくはペーパーナプキンを二枚テーブルの真ん中に置いた。
「ここにお互いの名前を書こう」
 上着のポケットから取り出したボールペンで「有村純」と書いた。
「ありむらじゅんさん」と素直に読んでくれて一安心する。
 ボールペンを渡すと、彼女は「渡来智」と書いた。小学校の同級生に同じ名字の子がいたから、ぼくは「わたらいともさん」と読んだ。
「嬉しい! 『ワタライ』って読んでくれたの初めてです。高校の時は『トライさん』って言われたり、『トライサトル』とか、酷いときは『ワタリライチ』って読まれて、いったい誰?って」
 ぼくは笑いながら「それじゃ、その下に電話番号を」と言ったが、彼女は何も書かずにボールペンを置いた。
 そのペンを取って、「じゃ、ぼくから書くよ」と自分の名前の下に書こうとした途端、ぼくの手元から小さな紙片が取り上げられる。
「お互い連絡先は交換しないっていうのはどうですか?」
 彼女はペーパーナプキンを持ったまま、真っ直ぐこちらを見つめている。
「どうして?」
 大人げなく狼狽(うろた)えていたぼくは、ずいぶん情けない男に見えたことだろう。
「もし縁があれば必ずまた逢える……そう思えませんか?」
 智の目は本気だった。

 翌日になって、なんであんな提案を受け入れてしまったんだろう——と、ひどく後悔した。

                 〇

 目の前にお薦めの創作料理が運ばれてきたが、木の皿に木のナイフとフォークのようなものが載せられている。しばらく香りを堪能したが、どうやって食べ始めたら良いか判らず、ぼくは戸惑っていた。
「ぱっと見て、どう手を付けたら良いかわからないと困りますよね。あとで料理長に進言しておきます」
 言うが早いか、智は手際よく取り分けてくれた。

 彼女に再会してまだそれほど経っていないのに、ぼくはすっかり心を許していた。こうして顔を合わせること自体が四半世紀の中でたった三回というのに、なぜ彼女のことをこれほど身近に感じるのだろう?――と思いながら、自分の目に狂いは無かったという自信にも似た安堵と、どこかでボタンを掛け違ってしまった無念さに満ちた後悔が、心の内を行き交っていた。
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