第8話 比叡おろし

文字数 7,021文字

 いつの間にかシャンパングラスは片付けられ、智がプロデュースしたという大吟醸の日本酒がなみなみと注がれたグラスを冷やで傾けている。
「純米酒、ぼくの酒だ」と酔った勢いで独り言を漏らし、智に苦笑された。
 身体中にアルコールが染み渡って心地よく、隣には夢にまで見た女性がいる。

「滋賀のどこにいたんだっけ?」とぼくは訊いた。「比叡山の麓?」
「大津の比叡平。比叡山の中腹です」
「比叡平……あれ? 前に聞いたような気がする。そこから京都は近いの?」
「そうだ、京都行こう! と思って山の斜面を登ったら、もう京都」と言って智はぼくを笑わせた。
「大津の駅より京都大学や銀閣寺の方が近いくらい」
「そう言えば、今は東山に住んでるんだってね」
「三十三間堂の近くですよ。比叡平まではクルマで三十分くらい」

 智の横顔を見つめていたら、「純さんの視線が痛い」と智は笑った。
 それでもぼくは見つめ続けた。
「肌が綺麗だって褒められない?」
「それが本当なら、この日本酒のおかげかも」と言う京訛りのアクセントがまるでテレビのCMみたいで、ぼくは吹き出しそうになる。
 智はぼくの気持ちをはぐらかそうとしているのか? それも悪い気はしないが、初めて会ったあの日から彼女に弄ばれているように感じることがある。

 ふと目を落とすと、細身の割に肉付きの良い太腿が裾から半分覘いている。
 滑らかな白い肌をじっと眺めていたら、智は「恥ずかしい」と言ったが、さりとて腿や膝を何かで隠すわけでもない。
 ちょっとした出来心で左の掌をそっと膝の上に乗せてみたら、意外にも彼女は( あらが)わずに「冷たいでしょ」と言う。
「そうだね」と頷きながら、ぼくは膝から足首にかけて軽くマッサージした。
「少しは温かくなった?」と言いながら、今度はふくらはぎを少し強く揉んでみる。調子に乗って腿の下に手を這わすとやんわりと押し返された。

「『比叡おろし』って歌、知ってます? 松岡正剛先生が書いた曲」と智は唐突に言う。
「松岡正剛って、編集工学や『千夜千冊』の?」
「そう」と智は短く答え、ぼくの耳元でささやくように歌いはじめた。
「うちは比叡おろしですねん……」
 目を閉じて甘くハスキーな歌声に耳を預けているうちに、智が比叡おろしなら雪にされても本望だ――と、そんなふうにさえ思えてきた。
 酔いに任せて掌を膝から裾の中へ這わせていくと、「この手も雪にしちゃいますよ」と手の甲をぴしゃりと叩かれ、ぼくは我に返った。

 そのとき、まるでタイミングを計ったように二人の女性が店を訪れ、智は小さく右手を挙げて親しそうに挨拶する。
 一人に見覚えがあったが、なかなか思い出せなかった。
「百合さんは覚えてますよね。いま東京のオフィスを切り盛りしてもらってるんです」と説明されて漸く思い出した。
 智の誕生会の幹事をしていた百合だった。
「彼女には純さんと会うことをお話ししたんです」という言葉どおり、こちらを見て会釈してくれたので、ぼくも向き直って会釈を返した。
 すぐに思い出せなかったのも無理はない。ずいぶん体型が変わっていたから、道ですれ違ってもきっと気づかなかったろう。
 もう一人は百合の娘だと言われても疑わないくらい若い子だった。
「あの子は大学の後輩で、妹と同じ字を書いて(けい)さん。でも年は妹というより娘みたい」と智は言う。
「すごく可愛いでしょ?」
 確かに可愛いし美人かもしれないが、ぼくには若い頃の……いや今目の前にいる智のほうがずっと美しく魅力的に見えた。

                 〇

 チャットルームを退室したあと、百合からメールが届いた。
 誕生会は智に伏せてあるので、表向きはチャットルームの「オフ会」だという。同じ週の二日後なら伏せても意味がないように思えたが、こちらは便乗するだけなのでツッコミを入れる筋合いはない。その日は夕方から仕事の打合せが入っていたので、若干の罪悪感を感じながら、先方に頼んで予定を前倒ししてもらった。それでも打合せは長引いてしまい、ぼくが会場のイタリアンレストランに到着した時は、待ち合わせの時間を少し過ぎていた。
 そこに智の姿はなかった。百合によると急用で来れなくなってしまったという。五年越しの再会がお預けになってしまったことで、魂が抜けていくほどの脱力感を感じた。ぼくがこの席にいる必要があるのだろうか?――と居心地の悪さを感じながら、智抜きでの誕生会は文字通りの「オフ会」となって、女子三人に囲まれる形で再開した。

 百合と志穂はチャットルームですでに「知り合い」になっていた。志穂は学部は違っても智たちと同期だという。もう一人の怜子さんは志穂の高校時代の親友と言うから、三人は揃って智の一歳下になる。

「志穂は大学でソウル・R&Bサークルを主宰してたんです」
「へぇ? それで、あのチャットルームを?」
「そう。智さんとは百合の紹介で」と志穂は言う。
「二人は同期なのに、智ちゃんには敬語使うんだね」とぼくは言った。
「学部もゼミも一緒だったから、私は智って呼び捨てにしてたんですよ。でも、一つ年上の智さんが私のこと『百合さん』って呼ぶから、いつの間にかこちらも」と百合が答えてくれた。
「わたしも同じ。智さんってそういう人だよね」と志穂も同意した。

 しばらく音楽談義が続いたが、少しアルコールが回ってきた頃から智の話題になった。
「智さんは難攻不落ですよ」と百合は言う。
「クールビューティーだもんね」と志穂が言った。
「へぇ? それはどうして?」とぼくは二人に訊ねる。
 五年前の智の笑顔や仕草を思い出しながら、あの日は感心するほど表情豊かだった智が、大学ではなぜそんなふうに呼ばれているのか不思議だった。
「チャットルームだと全然印象が違うけど、普段は男性に容赦ないって言うか、バサッと切り捨てるからでしょ? サークルの子が『智さんは切り立った崖に咲いた高嶺の花』って言ってたくらい」と志穂は言う。
「三年目から智さんと政治学のゼミを選択したんですよ。ゼミの男子はみんな、誰が智さんを攻略できるかって競ってました」
「美人だからね」とぼくは馬鹿正直に言ってしまった。
「純さんもそう思いますよね。美人だし、スタイルは良いし、遠くから見てると凄く優しそうだし」と百合が言う。
「近くで見たって優しいよ。特に私たちには」と志穂も言った。

「私は智さんと一番親しかったから、男の子はみんな私に近づいてくるんです。そうすると、智さんが言うんですよ。『あの人は百合さんにとっていい友達にならない』とか、『下心があるからあまり親しくならない方が良い』とか」
「なんだっけ? ゼミの先輩の話」と志穂は百合に促した。
「あ、そうそう。先輩が『彼女が歩いた後には討ち死にした後輩の男たちが死屍累々と連なってる』って」
 二人は爆笑し、怜子さんとぼくもつられて笑った。百合は話し続ける。
「今、議員秘書やってるその先輩は、『俺くらいじゃないと彼女は満足しない』とか言って猛アタックしたんですよ。毎日のようにメール送ったらしくって、智さんかなり困ってたんだけど。その先輩は父親が議員だったから政界とのコネクションがあって、それで彼女を食事に誘ったんです」
「智ちゃんがそういう話に乗ったの? ちょっと意外だな」とぼくは言った。
「乗ったと言うより、政治の世界や政党運営に興味があったみたいです。智さんはその頃、新聞記者みたいに政治のこと色々調べてたし」
「それで一緒に食事したんだ?」
「そう。でもその先輩ものすごく落ち込んでたんです」
 百合が話す様子を志穂は身を乗り出して聞いている。
「智さんとのデートはどうでした? って聞いたら、『ディナーの席に着いて、さぁこれからと思ったら、目と目が合って五秒で抹殺された』って」と百合が話すと、志穂はテーブルを叩きながら笑った。

「智さんは下心センサーを持ってるから」と百合は言う。
「その下心センサー、私も欲しい」と志穂が言うと、「志穂は逆の使い方するでしょ?」と百合がツッコミを入れた。
「下心のある男子を見つけて自分から近づくとか?」とぼくは言ってしまい、「ひどい」と志穂に睨まれた。
「当たらずと言えども遠からず。志穂はモテモテだったもんね」と百合は言う。
「四年間で十人だっけ?」
「十七人……」と言って志穂は舌を出した。
「信じられない。智さんはその逆で、在学中一人も彼氏がいなかったんです」と百合は言った。
「だから、あの日ヴェルファーレの前で声を掛けたミュージシャンをそんな堅物の智さんが受け入れたことが信じられないって私は思ったわけですよ」と志穂は呟いた。
「純さんには下心がなかったんじゃないですか?」とそれまで黙って聞いていた怜子さんが言う。
 志穂は確かめるようにぼくの顔をじっと見つめている。
 ぼくは何となく予感がして訊いてみた。
「もしかして、あの日智ちゃんを招待したのは志穂さん?」
「そう。百合と二人で行くつもりでチケット予約したら、その日が智さんの誕生日だって言うし、そのうえ百合も――家の用事だっけ?――行けなくなって、百合から『私の代わりに智さんを連れてってあげて』って」と志穂は言う。
「コンサートの後、智さんのお祝いするはずだったんだけど,ちょっと色々ありまして」
「それじゃ、志穂さんのおかげでぼくは智と出会えた訳だね」
「ま、そんな感じです」と志穂は言った。

「智さん、純さんと会ったときにどんな会話したんですか?」と百合に訊かれた。
「それ、私も聞きたい」と志穂も言う。
「いろんな話をしたけど、最初は『わたしはお婆さんになりたい』って、そう言ってた」とぼくが言うと、顔を見合わせ、「お婆さん?」「智さんらしい」「やっぱり彼女は大物だわ」と三人三様に反応した。
「智さん、恋愛には凄く慎重だし、私たちも詳しくは知らないんですけど、心の支えになってる男性がいるんです。でも,その人がいるから彼氏がいなくても寂しくないんじゃないかな?」と百合は話し始めた。
「私は心の支えだけじゃ満足できない」と志穂が言う。
「あなたには聞いてないから」と百合は志穂を窘めながら説明を続ける。
「かなり年上で身長一九〇センチ近い元ラグビー選手。名前が孝さんってことだけはわかってるんだけど。それ以上は教えてくれないんですよね」
「一九〇センチ近いラガーマンか。それは勝負にならないな」とぼくは本音を漏らした。
「でも純さんのことは、孝さんの次に大切に思ってるはずですよ」と百合が言う。
「じゃ、純さんは本命じゃなくてキープってこと?」と、怜子さんがおかしなツッコミを入れた。
「智さんはそういう人じゃないし」と百合は言う。
「そういう意味じゃなくて」
「ぼくはキープもされてないと思いますよ。一度会っただけだし」とは言ったが、内心穏やかではなかった。
 身長一九〇センチ近いと聞くとコンプレックスを抱いてしまう。自称一七〇センチのぼくは、実は精一杯背筋を伸ばしても一六九・五センチしかなく、もしかすると智の方が長身かもしれない。

「智ちゃんは何センチだっけ?」とぼくは訊ねてみた。
「自称一六九だけど」と聞いてホッと安心していると「絶対一七〇以上あるよね」と百合が他のメンバーに同意を求める。
「彼女は嘘が嫌いだから、一六九って言ってるのなら本当だと思うよ。顔が小さいから実際より少し高く見えるんじゃないかな?」とぼくがフォローしても焼け石に水だった。
「智さんみたいに背の高い女性は身長を低めに申告するよね。男の人はその逆だから、同じ身長だったはずの男女が靴を脱いで並ぶと女の子が高かったり……」と百合から核心を突く発言が飛び出す。
「一七〇センチってその分かれ目?」
 怜子さんから「純さんは何センチですか?」と訊かれた。
 一センチくらい盛ったところで、どうせ智にはお見通しだ。
「一六九センチ」と答えると、身長の話題はそこで終了した。
「純さんのそういう正直なところを智さんは気に入ったのかな?」と百合は言った。

 智に用意したプレゼントは、小さなカードとオリジナル・アルバムのCD、それに一枚のコンサートチケットだった。
 バッグからサンプルCDを取り出して説明する。
「この曲は彼女をイメージして書いたんだ」と最後に収めた『Σοφια』を指さした。
「私も言われてみたい」と声色を使いながら志穂が言う。
「この曲は君をイメージして書いたんだ」
 笑っていた怜子さんが急に真顔になって訊ねた。
「これ、なんて読むんですか?」
「ソピア」と百合が言うのでぼくは驚いた。
「そう、ソピア。ギリシャ語でソフィアの語源なんだ」とぼくは説明する。
「私たちの母校って言うか、それって智さんそのままじゃない? あ、そうか」と志穂が言った。「なるほどね」
「それと、これはサンタナの日本公演のチケット。今度のバンドのベーシストがサンタナと同じメキシコ系で、彼に見出されたプレイヤーだったから、前からチケットを買ってあったんだ」とぼくは説明した。チケットを買ったのはバンドの参加を迷っていたときだったから、真実は少し違ったが。
「ソウル以外も聴くんですね?」と怜子さんは意外そうな顔をした。
「純さんはジャズ・フュージョンですよね」と百合は言う。
「よくそう言われるけど、ぼくはフュージョンって言葉あまり好きじゃないんだ。仕事ではアイドルのバックでも叩いてるし、ジャンルとかカテゴリー分けって好きになれないな。ソウルでもロックでもジャズでも民族音楽でもクラッシックでも、ジャンルに拘らず何でも聴くし、仕事なら何でも叩くよ。ヘヴィメタは叩けないけど」と言いながら、ぼくは面白おかしくヘッドバンギングの真似をした。
 みんなは笑ってくれたが、ヘヴィメタル系のギタリストになった高校時代のバンド仲間には見せられない冗談だ。ごめん、バカにするつもりじゃなかった——と、ぼくは心の中で詫びた。
「小学生の頃からジャズ・ドラムを学んでたけど、高校時代はエアロスミスやクイーンも演奏したし、学園祭では顔を塗ってキッスを演ったこともあったんだ」

 バッグの中のサンプルCDはあと一枚。三人のうち誰に渡そうか迷いながら、ソロアルバムの説明をした。
「このアルバムもジャンルに括れない新しいリズムやサウンドを創りたかったから、フュージョンってことになっちゃうんだろうな。フュージョンというよりコンフュージョン?」と言って笑った。
「おかげで全然売れなかったけど」
 志穂と山下さんは揃って「聴いてみたい」と言う。
「私はちゃんと買いましたよ」と百合は言ってくれた。
 そのおかげで二人にCDを渡すことが出来たが、百合が持っているということは、間違いなく智も持っているだろう。リリースから一年も経ったアルバムだから、ケースにサインでもしておけばよかった——と今更ながら後悔する。
 翌週の金曜日に武道館に来てくれなければ、智とはしばらく会うことも出来ない。そもそもチケットが彼女の手に渡るのだろうか?
 ぼくは心配になって、念を押すつもりで言ってみた。
「コンサートだけど、もし彼女がどうしても無理だったら、無駄にならないよう誰か来てください」
「だったら百合だよね」と志穂が言う。
「いいえ。智さんには必ず行ってもらいます」と百合は言い切った。

「ちょっと待って。智さんから電話」と、百合が席を立つ。

 しばらく経ってから席に戻った百合が告げた。
「お母さん、軽いくも膜下出血だって」
 初めて知ったぼくは驚いた。
「急用ってそういうことだったの?」
「でも、もう大丈夫みたいです。週末は精密検査できないから週明けまでの入院になるけど、もう心配はないって。ただ病院で付き添ってるから今日は来れないそうです」と百合は説明した。
「二十八日は難しそうかな?」と、ぼくはお母さんのことよりコンサートを心配するようなことを言ってしまった。
「それは大丈夫。『来週の月曜か火曜に退院できるから、二十八日は必ず行きます』って智さん言ってました」と百合は安心させてくれた。
「明日、病院にお見舞い行くので、その時にCDもチケットもちゃんと渡しますね」

                 〇

 少しずつ料理をつまみながら、二人でグラスを傾けるうちに、智の頬がほんのり桜色になってきた。一瞬デジャヴのような感覚に襲われたのは、何度も見た夢のせいだろうか?
 毎晩、この顔を見ながら晩酌できる旦那さんはなんて幸せな人だろう。
 少し勇気が出てきたぼくは、思い切って訊いてみた。
「君が来れなくなったオフ会で、百合ちゃんから『智は難攻不落』って聞かされたんだ。心の支えになっている男性がいるって。一九〇センチ近い元ラガーマン?」
「孝さんのこと?」と智は少し怪訝な顔をした。
「ぼくはずっとその孝さんが君の旦那さんだと思ってた」
 しばらく考え込んでいた智は急に吹き出した。
「おかしなこと言いますね。確かにずっと支えてくれてるけど」
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