第11話 デイ・ドリーム・ビリーバー

文字数 5,796文字

 店内のBGMはR&B系のバラードか落ち着いたジャズがメインだったが、時々リクエストに応じてくれる。誰のリクエストか、あまり聴き慣れない『デイ・ドリーム・ビリーバー』が流れ始めた。オリジナルのモンキーズではなく、典型的なモータウン・ミュージックのように聴こえるが、独特のコーラスからするとフォー・トップスだろうか?
 その歌詞はまるでぼくと智みたいだ。『元気出せよ、ねぼすけ君……夢追い人のぼくとミスキャンパス』と彼らは歌う。
 智を諦めてからのぼくは、決して戻っては来ない夢を追い求めるデイ・ドリーム・ビリーバーそのものだ。

 十九年も経ってから言い訳をするのは情けないと思いながらも、ぼくは黙っていられなくなった。
「お母さんの葬儀の時に向こうから弔電送ったけど、届かなかったでしょ? ごめんね。葬祭場の住所が違っていたことに気づいたのは半年も経ってからだったんだ」
「そうでしたか。気づかなくてごめんなさい」
 姿勢を正し、丁寧に会釈しながら智は言う。
「ありがとう。お気持ちだけでも嬉しいです」
 そんなことを智に言わせたかった訳じゃない。
「今頃こんなこと言っても何も始まらないのにね。その頃からすれ違い始めたのかな?」
 目を閉じ、智は静かに祈っているようだった。

 ぼくは告白した。
「これも今更の話だけど、お母さんが亡くなった日、実は病院に行ったんだ」
 智は目を大きく見開く。その瞳に一瞬動揺の色が見えたが、ぼくは続けた。
「病室にはもう誰もいなかった。智はどこにいるかと思って病院中を探し回った。そうしたら、ロビーの片隅で泣いている姿が目に入った。でも声がかけられなかった」
 彼女はまっすぐこちらを見つめている。
「君は男性と一緒だった。長身で包容力のありそうな……ラガーマンみたいなその人の胸に顔を埋めて泣いていた」
「その人は……孝さん。渡来孝は母の弟。わたしの叔父です」
 まるで青天の霹靂に出会(でくわ)したように、ぼくは言葉を失った。
「わたしにとってかけがえのない大切な人。だから純さんにも会わせたかった」
 智の唇は少し震えているように見えた。
「母の手術中に純さんのことを相談したの。彼は『恋愛のことはわからないけど、智が信じられる相手なら何も心配はない。そんな男性が現れたことが嬉しい』って言ってくれた。なのに……」

 沈黙が闇のように辺りを包み込む。次の瞬間、店内にブライアン・マックナイトの『バック・アット・ワン(Back at One)』のイントロが流れ始めた。
 三度目の奇跡だろうか?
「今でも忘れられない曲。最近よく結婚式のキャンドルサービスに使われるけど、聞き流せるようになったのは結婚して二年くらいしてからかな?」
 智は続ける。
「LAには三度も行ったの。オフィスを訪ねたこともある。純さんが一番忙しいときだったから、しばらく帰らないって言われた。三回目の時はボストンにいるって。笑っちゃうくらいすれ違い。あの頃、もし向き合って話が出来たら誤解は解けたのに」

 かつて口説き文句代わりに用意した歌詞が、虚しく店内に響いていた。

                 〇

 LAに移って二か月。
 智が新しい勤務先のボストンに着いた日、真っ先にぼくに電話してくれた。その電話を取ったのはジェシカだった。まだ一緒に暮らしてはいなかったが、すでにそういう関係になっていた。
 翌日、智とチャットで再会したが、じれったくなったぼくは直接電話して二時間以上も会話した。
 その後、バンドの活動が軌道に乗ると、家に帰れない日が続き、智とのすれ違いが始まる。

 ボストン公演には招待したかったが、忙しさにかまけて連絡しそびれた。コンサートは大成功で、終わってから智を招待すれば良かったと後悔した。
 コンサート翌日、LAに戻ってMACを立ち上げると、久しぶりに智と繋がった。長い時間……たぶん三時間近くチャットで会話したが、智はまるでコンサート会場にいたかのようにジェシカの話ばかりしていたことを覚えている。
「もしかして、昨日来てたの?」と訊ねると「純さん招待してくれなかったじゃない」と言われ、罪悪感が胸にこみ上げてきたのが昨日のことのようだ。

 翌朝、急に智の声が聴きたくなって電話したが話し中だった。メールを送っても宛先不明で届かなくなっていて、夕方もう一度電話すると現在使われていないというメッセージが虚しく流れた。

 ストーカー対策で携帯やアドレスを変えたらしいと、後で日本にいる志穂から聞いたが、誰も新しい番号やアドレスを教えてはくれなかった。

 ぼくはずっと智と孝さんのことを誤解したまま、必死に彼女を忘れる努力をした。それでも、ジェシカと別れた後は智のことばかり考えていた。やがて、帰国したぼくは智が結婚したと人伝に知る。

                 〇

 今さらそんな話をしても自分の愚かさを増幅するだけだったが、ぼくは言わずにいられなかった。
「君が結婚するまで、ぼくはずっと君と結婚したいと思ってた。ぼくが今でも一人なのは、君がたった一人の(ひと)だったからだよ」
「もしそれが本当なら、後出しジャンケンみたい」と智は言う。
「結婚なんて時代遅れの社会制度は本当に愛し合うカップルには必要ないと思う……って、覚えてます?」
「そんなこと誰が……」と言った途端に記憶が蘇る。
「ボストンから帰った時のプライベートチャットか。それで携帯を変えた?」
 智は静かに頷いた。
「父親が全く同じことを言ってたの」
「本心じゃない。今ごろになって愚かな誤解だとわかったけど、ぼくの負け惜しみだよ」と言いながら、ぼくは額の脂汗を手の甲で拭う。
「あの頃、純さんにはちゃんと彼女がいたでしょ?」
「ジェシカのこと?」
「すごくチャーミングなベースの人。あなたが病院に来てくれたみたいに、わたしもボストンのコンサートに行ったの。お祝いにシャンパンを持ってね。でも、ステージを見ていたら二人が愛し合ってるってすぐにわかった。わたしに入り込める隙間なんかなさそうだったから、バックステージを訪ねて『おめでとう』って二人をお祝いしようと思った。サプライズでね。でも涙が止められなくて……」
 ぼくは親に叱られている子供のようにずっと下を向いていた。
「おかしい。いい年して、思い出すとまた泣けてきちゃう」
 智はハンカチで涙を拭い、しばらくすると落ち着きを取り戻して話を続ける。
「わたしは何も告げずにアパートに帰った。母の病院に来たときのあなたと同じ」
 そう言うと、智は悲しそうに微笑んだ。
「あーあ、やっぱりミュージシャンに恋なんてするんじゃなかった! って大きな声で叫んで、持ち帰ったシャンパンを飲みながら一晩泣きはらしたの。人生たった一度のやけ酒。生まれて初めて買ったドンペリを一人で全部飲んじゃった」

 ぼくが偽りの結婚観を偉そうにタイプしたのは、その翌日のことだ。

「ちょっとごめんなさい」と言って智は立ち上がる。厨房の方に入っていったまま、彼女はなかなか戻らなかった。

 智が選んだのだろうか? 出会った日に偶然かかったボーイズ・II・メンのバラード『オン・ベンデッド・ニー(On Bended Knee)』が店内に流れ始めた。
 彼らはぼくの心をそのまま読み上げるように歌う。
『……ぼくたちはどこで道を誤ってしまったんだろう?』
 同じ曲を聴きながら、二十一歳になったばかりの智は言った。
「純さんはこういう気持ちになったことあります? 例えば別れた彼女に対して」

 酔いが回っていたせいか、次第にぼくは夢と現実の区別がつかなくなってきた。

 目を閉じると、ぼくは智と二人で比叡山の展望台にいた。
 琵琶湖を眺めながら彼女はぼくに言う。
「ほんとうは純さん自身の言葉で『愛してる』って言って欲しかった」

 LAの部屋でMACのスクリーンに智のテキストが流れた。
「わたしは純さんが好きだった。奇跡的にチャットで再会できて、一緒に踊ったあの歌のOne、Two、ThreeのTwoまでは進んだのかな?」

 誰もいない学校の校舎で智は静かに語る。
「母が言うように、会社員や公務員の奥さんになれるような女じゃないって、中学生の頃からわかってた」

 智はマンションの練習室でピアノの前に座っていた。
「妹のバレーの発表会の日、風邪をひいて部屋で休んでいたら、そこに父が帰ってきた。彼はひどく酔っていて、十三歳になったばかりのわたしはあの人にレイプされたの」

 救急病院の廊下で智は言う。
「運命から逃れたくてわたしは手首を切った。でも、帰宅した母と妹に見つけられて命を助けられたの。私の入院中、全てを知った孝さんは逃げた父を探し出して殴打した。『殺すつもりだった』って彼は言ってたけど、わたしにはもうそれで十分」

 智は法廷で被告側の証人席に立っていた。
「父は嘘の証言をした。『泥酔していて妻と娘の区別がつかなかった』って。でもわたしはあの人が自分の名前を呼んでいたのをちゃんと覚えてる。殺人未遂は免れたけど、孝さんは傷害の前科がついてアスリートとしての人生を棒に振ったの」

 ソフィア祭の会場で智は言う。
「コンテスト三日前に最有力候補って言われて、急に不安になった。インターネットの掲示板に悪口や中傷が沢山書き込まれて、毎日のようにいたずら電話があった。もしミスに選ばれたらもっと注目を浴びて、きっと父のことを暴露される。そう思ったら、耐えられなくなって逃げ出した」

 ボストン・ローガン空港のロビーに智はいた。
「あなたに会いたくてボストンからLAまで三回も往復した。でも、ステージを観たときにわたしの悪い予感は確信になった。もう女としては認めてもらえないと諦めて、わたしも純さんの前から逃げたの。奪い返すくらい強い女だったらよかったのに」

 琵琶湖の畔で波打ち際を眺めながら智は語る。
「あなたに悪意がなかったことはわかってた。ただ、お互いに信念と勇気が少し足りなかったのかな。でもそれも縁。あの頃のわたしは世間知らずの子供だったから」

 智は比叡山の参道で話し続ける。
「大人になって、世の中には私よりもっと辛い思いをした女性が沢山いることを知った。今は少しでもそういう人たちの力になりたいの。もうけっして後悔したくないから、わたしは逃げない。過去からも、未来からも、自分からも、目の前にいる誰からも」

 雪の舞う延暦寺境内に尼僧姿の智は立っていた。
「これから先、あなたを必要としている人、あなたにとって守るべき人が現れたら、そのときはもう逃げないで」
 そう言い残すと智は雪になって消えていった。

 今のは幻覚だったのだろうか? それとも白昼夢? ぼくは軽く首を振る。

 智が座席に戻ってきた。厨房がよほど暑かったのか幾分汗ばんで見える。
「お待たせしてごめんなさい」と言うと、手提げ袋を二つ、ぼくに差し出した。
「こちらはお店から。こちらの小さいのは京都のお土産。お口に合うかどうかわからないけど、夫の実家は漬物屋なんです」
「ありがとう。気をつかわせてごめんね」とぼくが言うと、彼女は首を横に振る。
「わたしの方こそ。今日はありがとうございます」
 目が合ったあとやわらかく微笑むその笑顔は、試合を終えたアスリートのような爽やかさを湛えていた。

「夫からメールが来たみたい」
 スマホの画面に視線を落とす長い(まつげ)を眺めているうちに、ぼくの酔いは次第に醒めていった。
「いま丸の内のホテルで待ってるの。『何時頃にこっちに戻れる?』って」
「旦那さんとは上手くいってるみたいだね」
「おかげさまで」と答える彼女の笑顔に、ぼくは心の底から安堵した。
「ほんとは心配性なのに、私を束縛しないように気を遣ってくれてる」
「優しい旦那さんで良かった。でもこんな夜に、君みたいな美女が一人でいたら心配だと思うよ」
「またそんなこと言って」と笑いながら智は言う。
「一人じゃないでしょ? 純さんがいるから」
「ぼくと一緒じゃよけい心配だ」と冗談を言う余裕をぼくは取り戻していた。
「早く戻ってあげた方がいいんじゃないかな」
「ありがとう」と智は言う。
「今日はごめんね。少し呑みすぎた」
「こちらこそごめんなさい」と智は微笑んだ。
「『縁は異なもの味なもの』って言うでしょ? わたしたちの場合は最後のひと味が足りなかったのね、きっと」
「そうだね」とぼくは頷いた。

「最後に一つだけ質問してもいい?」と訊ねると、智は少し困った顔を見せる。
「レーサーはアーティストじゃないけど、情熱的と言うより、それ以上に危険な仕事だよね。なのに、どうして出会って二回目に結婚を決められたの?」
「インタビュー記事で読んだのね?」と言いながら智は迷っていた。
「言ってもいいのかな?」
「もう何を聞いても驚かないよ」とぼくは言った。
「彼が純さんに似てたから」
 その答えだけは予想もしなかった。写真や映像で知っている智の夫はぼくとは似ても似つかない。怪訝そうな顔を見て智は教えてくれた。
「顔じゃなくて声や仕草。それに子供みたいに正直で、ほんとうは情熱的なのにちょっと気弱で繊細な心」
 ぼくは絶句した。それまで薄々感じてはいたが、智には言葉が必要ないことをぼくはやっと理解した。彼女はぼくの心を読んでいる。
「彼、今年いっぱいで現役を引退するの。来年からは夫婦五十割引で映画でも観ながら、のんびり過ごそうか……って。でも、わたしはあちこち行ったり来たりで、あんまりゆっくりできないかな?」と智は笑う。
 智を幸せにしてくれてありがとう――と、あらためて彼女の夫への感謝の念が心の中に湧きあがる。敢えてそれを言葉にはしなかったが、もちろん彼女はぼくの気持ちをよく理解してくれたはずだ。
「京都に来る用があったら連絡してね。ちゃんと夫を紹介したいし。それにコンサートに招待してくれる約束、わたしは忘れてないから」
 そう言い残して智は去って行った。


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