第4話 喜寿の誕生日

文字数 3,691文字

 西日本を襲った未曽有の震災から三か月が過ぎ、悲劇的な地下鉄サリン事件のちょうど一か月後にあたる四月二十日。六本木のクラブ・ヴェルファーレ。いやヴェルファーレ前の路上でのことだった。
 ライブレコーディングも行われたアース・ウィンド・アンド・ファイアー(Earth,Wind&Fire)のコンサートが終了して三十分以上が過ぎていたが、バックステージを後にしてぼくが店の外に出たとき、彼女はそこに立っていた。
 メンバーの出待ちにしてはグルーピーっぽくない。ミディアムストレートの黒髪、濃いグレーのスニーカーとブラック系デニムの上下、淡いグレーのセーターに、差し色にオレンジのスカーフを巻いている。
 おしゃれな人なら避けそうなデニム・オン・デニムなのに、コーディネートが上手いのか、華やかな服装が多い中ではかえって目を惹き、すらっと背筋の伸びた立ち姿には凛々しささえ感じられた。

「誰か待ってるんですか?」とぼくは思い切って声をかけてみた。
「友だちと来たんですけど」と彼女ははにかみながら答える。もし語尾に「けど」が付いていなかったら、すぐにその場を立ち去っただろう。
「その友だちが来るまで一緒に待ってますよ。変な男に声をかけられるといけないから」とぼくは言った。
「それってナンパの手口ですか?」と彼女は視線を逸らしながら言う。
「いやいや、友だちが男性ってこともあるでしょう?」
「女性です」
 彼女は左腕に巻いた男物の腕時計に視線を移した。
「もう二十分以上待ってるんです。私なんかと一緒にいたら時間が勿体ないですよ」
「勿体ない?」
 普段ならとても言わない気障な台詞が口を突いた。
「あなたのようなステキな人と一緒にいられたらとても幸せな時間になりますよ」
 彼女は吹き出しそうになるのを必死に堪えていたが、すぐに観念したかその顔に笑みがこぼれた。
「やっぱりナンパみたい」と言いながら、目が合った途端に恥ずかしそうに下を向く。
「でも、悪意はなさそうですね」

「ただ心配なだけです。この辺りは変な(やから )も通りますから」
「変な輩って……確かに何度か声かけられました」
「そうでしょ?」と同意しながら、ぼくは心の中で小さくガッツポーズした。
「ここってふだんはディスコですよね?」と問われてぼくが頷くと、彼女は「ちょっと苦手かも」と言うので、ぼくも同意した。
「なんだかこの辺には詳しそうですね」と彼女は言う。
 ぼくは見透かされているみたいな感じがしたので正直に答えた。
「実は小学校がこの近くだったんです」
「へぇ? それじゃこの辺りは庭みたいな感じですか?」
「知らないビルや店が増えて、子供の頃とはずいぶん変わっちゃったけど」
「でも、一緒にいたら変な輩を追い払ってくれそうだし、近所の人ならもう少し付き合っていただこうかな?」と彼女は微笑んだ。
「もちろん」とぼくも笑顔で頷く。実はもう長い間近くには住んでいなかったが。

「今日は打ち上げに参加したかったけど、レコード会社のスタッフや関係者があまりに多くて。メンバーの迷惑になると思って諦めたんですよ」
 ぼくの言葉に彼女は少し驚いたようだった。
「メンバーって、今日の? 関係者の方ですか?」
「一応ミュージシャンなんです。彼らのようなレジェンドには程遠いけど、ドラマーなので」
「へぇ? すごい。私なんてまだ小娘です」
 彼女の口ぶりにぼくは思わず吹き出しそうになった。
 六本木界隈では、たまにどうみても成人にしか見えない高校生を見かけることもある。彼女はそういうタイプでなさそうだったが、もし未成年なら遅くまで連れ回すわけにはいかない。
「そんなに若いの?」とぼくは訊ねた。
「老けて見えますか?」
 彼女の意図しない問いかけに一瞬たじろいだ。
「いや、そういう意味じゃなく、大人っぽく見えたから」
「大人っぽいとか、落ち着いてるとか、よく言われます。でもそれって褒め言葉じゃないときもありますよね」
「ぼくのは、褒め言葉ととってください」
「ありがとうございます」と彼女は素直に返してくれた。

「年はいくつ……って、女性に聞いちゃ失礼かな? 未成年じゃなかったら答えなくていいですよ」
「未成年じゃないですけど、二十一って若すぎますよね」
 二十一歳なら世界中どこに行っても大人と言える年齢だ――とぼくが安心する間もなく、彼女は予想もしない言葉をぼくに投げかけた。
「わたしは早くお婆さんになりたい」
「お婆さんに?」と返した声は少し裏返っていたはずだ。
「そう。しわしわの」と言って彼女は顔をしわくちゃにする。
 ぼくは声を出して笑いながら「変なこと言うね」と返すのがやっとだった。
「だって、お婆さんだったら一人で立ってても声かけられないでしょ?」
「そうかな? ぼくなら声かけると思う」
 それは嘘じゃなかった。
「なんて声かけるんですか?」
「誰か待ってるんですか? 立ってると疲れるでしょう。家から椅子持ってきますよ」
 彼女は笑った。
「冗談じゃなく、ぼくはおばあちゃんっ子だったんですよ」
「なんとなくわかります。物心つく頃には祖父母がいなかったから、わたしはおばあちゃんに憧れがあるんです」

 ぼくは彼女を慰めるつもりで話し始めた。
「ぼくも、母の父親は生まれたときにはいなかったし、父方の祖父も小さい頃だったからあまり記憶にないな。かわいがってくれたお祖母ちゃんも小四の時に亡くなったし、母方の祖母も両親と一緒に……」
 言わなくてもいいことを口にしてしまい、ぼくは口をつぐんだ。何かを察したか、彼女はとても悲しそうな顔をしたので、仕方なくぼくは話を続けた。
「今年の震災でね。あと一週間でちょうど百箇日だけど、三人一緒だからきっと寂しくはないと思いますよ。両親はちょうど西宮の母の実家にいたんだけど、そういうのって偶々じゃなく避けられない運命かなって」
 ぼくは笑ったが、彼女はうっすらと涙を浮かべていた。
 初めて会った子にまずいことを言ってしまったと思い、明るい方向に話を向けようとぼくは訊ねた。
「まだ若いからご両親は元気でしょ?」
「母は元気ですけど、父は中学に上がったときに……」と彼女は言う。

 とんだやぶ蛇になってしまい、どう慰めて良いのか言葉を探した。他に明るくなれるような話題はないだろうか? ――と頭を悩ませていたら、またもや意表を突く質問をぶつけてきた。
「ところで、わたしがお婆さんだったらいくつくらいが良いですか?」
「六十くらい?」とぼくは咄嗟に返したが、彼女はぼくを追い詰める。
「六十歳って還暦ですよね。八千草薫さんっていくつかご存じですか?」
「たぶん六十過ぎくらいかな?」
「じゃ七十歳」
 その年代の女優さんの顔を思い浮かべながら,思いついた名前を言ってみた。
「乙羽信子さんがそのくらいかな?」
「じゃもう少し。七十七歳。古希かな?」
 亡くなった祖母が七十歳の時に「古希、古希」と言っていたのを思い出した。
「古希は七十かな?」
「あ、喜寿です。今日で七十七」と言うと、彼女は続けた。
「古希、喜寿、傘寿、米寿、卆寿、白寿……ですよね?」
「若いのによくそんなこと知ってるね」と言いながら、ぼくは本当に感心していた。
「喜寿もすぐ出てこなかったし、もっと勉強しないと」と彼女は言う。
「勉強が必要なのはぼくの方かも。大人になってから、学生時代に勉強嫌いだったことを後悔してる」
「勉強は大人になってからの方が大切だと思います」

 ぼくはつい先ほどの言葉のやりとりを思い出した。
「あれ? さっき『今日で七十七』って言った?」と訊ねたら、彼女は小さな声で「はい」と返答した。
「今日が誕生日なんだ? そりゃおめでとう」とぼくは慌てて祝う。
「でも、ぼくより五十も上か」
「逆算すると二十七ですね?」
「あとひと月半で二十八だけどね」
「双子座ですね。私は牡牛座」と言ってぼくの顔をじっと見つめる。
 目が合ったあとやわらかく微笑んで、彼女はすっと腕時計に視線を移した。
「もう来ないみたいです」
「ポケベルとか携帯電話とか持ってないの?」とぼくは訊ねた。
「仕事用の携帯電話はありますけど、向こうが持ってないから……」
 小さなバッグを開いて、中の携帯電話を確認している。
「何も着信ないし、もう諦めます」
「じゃ、喜寿のお祝いにどこかで一杯やりますか?」と思い切って誘ってみた。
「はい。一杯だけなら」と拍子抜けするほど素直な返事が返ってきた。
 あまりに物事が上手くいくと、その後のどんでん返しでガッカリすることが多い。ぼくは急に心配になった。
「ほんとにいいの? こんな大事な日に見知らぬ男と飲みに行って、彼氏に怒られない?」
「それは大丈夫。彼氏なんていませんから」
「君みたいな子に彼氏がいないのはちょっと嘘っぽいな」と思わず本音を吐いたら、「嘘は嫌いです」と本気で返され、ぼくは慌てて謝った。
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