第3話 智との再会(When Can I See You)

文字数 2,023文字

 オープンして三年というが、いつも暖簾を潜る度に新鮮な木の香りが優しく鼻腔を刺激する。約束の四十分前に来てしまったぼくは、一人いつものカウンター席で呑みはじめた。長いカウンターテーブルは半分ガラスで仕切られた座敷の奥まで続いているが、奥はカップル席らしく一度も入ったことはない。顔馴染みになったスタッフには智との待ち合わせを敢えて伝えていない。
 店内にはベイビーフェイスのバラード"When Can I See You"が流れている。その甘い歌声に耳を傾けていると、『いつになればまたあなたに会えるだろう……』と、まるで自分の心情を歌っているように思えてくる。

 彼女から少し遅れるというショートメールが入るのと殆ど同時に、新人らしい男性スタッフが声を掛けてきた。促されて席を立つと、「どうぞこちらへ」とお座敷の奥に案内される。
 座るとちょうど頭が隠れる高さの間仕切りに囲まれた、ゆったりとしたカップル席が二組分あり、その手前側にぼくは通された。どういう構造か、席に座ると店内のノイズレベルがグッと下がったように感じる。目の前は厨房に繋がるカウンターだから、完全にオープンな筈なのに、小さなプライベート空間が築かれていて、なるほどここなら周りに気兼ねすることもなくゆっくり話ができそうだ。

 記憶にある智は二十代のままで、二十年近い歳月を経た彼女は想像も出来ない。「早くお婆さんになりたい」と言っていた智は、その道の半ばでどんな中年女性になっているのだろう?
 インタビュー記事には、以前にも増して美しい智の写真が掲載されていたが、今時のデジタル画像はいくらでも加工できる。こちらが勝手に作り上げたイメージをリセットしておかなければ彼女に失礼だ——そんなことを考えていたら、記憶にあるより少し低く、落ち着いた声が耳に届いた。

「お待たせしてごめんなさい」
 斜め後ろを見上げると、サテンシルクだろうか? 光沢のある黒いワンピースが似合う、スラリとした女性が目の前に立っていた。素直に美しいと感じたのはアルコールのせいだけではないだろう。
「今日は時間作ってくれてありがとう」とこちらから礼を言う。
「こちらこそ。何度も来てくださってありがとうございます」と彼女は座椅子を下げ、「お隣失礼しますね」と静かに正座した。
「おひさしぶりです」と智はお手本のようなお辞儀をした。「お元気そうですね」
「ほんとにひさしぶり」とこちらも頭を下げると、視線の先に白い膝が映った。暦の上で春とはいえ、まだ寒い二月の上旬なのに彼女はストッキングを履いていない。
「ずいぶん薄着だけど、寒くないの?」とぼくは訊ねた。
「お店の中は温かいでしょ? コートも厚手だし、ブーツの時は素足なんです」と言い、智は照れ臭そうに笑う。「夫の好みでもあるんですけど」
 視線を同じ高さに揃えるためだろうか、「ごめんなさい。膝崩しますね」と言うと、彼女は斜めに座り直してくれた。

「ここのカウンターは面白い作りでしょ?」
「そうだね。音がここだけ違うのに感心してた」
「やっぱりブロの耳にはわかるんですね」
「今度からこの席にしようかな?」
「どなたか連れて来られるときには予約してくださいね。男性同士でもOKですから」と智は言う。
「男同士でカップル席はさすがに……。この歳で独身だとよくそう言われるけど、残念ながらそういうパートナーはいないよ」
「そういう意味でなく予約される方もいらっしゃいますよ」と向けられた笑顔が営業スマイルなのかそうでないのか、まだ計りかねていた。

「先ずは乾杯しましょう?」と智は言う。
「そうだね。もうかなり呑んでしまったけど」
「モエ・エ・シャンドンでいいですか?」と訊ねながら、十九年前の意趣返しでもあるまいし「ドンペリもありますけど」と智が言うので、ぼくは苦笑いした。
 シャンパングラスを手にしても、「智の幸せな人生に乾杯」と、月並みな文句しか出てこなかった。智もぼくに合わせて「純さんの充実した人生に乾杯」と、ぼくたちは十九年ぶりにグラスを交わした。
「お食事はまだですよね? ごめんなさい。主人が……」と言いかけて「少しだけご一緒します」と智は言い直した。メニューを指さしながら、「おすすめはこれとこれ」と料理音痴の自分にもわかるように、彼女は短く的を得た説明をしてくれ、こちらは何度か首を縦に振るだけで、あっという間にカウンター越しにオーダーは完了した。

 目が合ったあとやわらかく微笑んで、すーっと視線を移す仕草。鼻筋の通ったその横顔は二十代の頃と変わらない。
「あれから何年になる?」とわかっていながら質問した。
「十九年? でも、初めて会った年から数えると二十四年だからもうすぐ四半世紀。あの年のことは純さんが忘れるはずないでしょ?」

 タイムマシーンで旅するように当時の記憶がありありと蘇る。
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