第10話 ホワッツ・ゴーイン・オン(愛のゆくえ)

文字数 12,419文字

 マンションの外扉を開け、セキュリティーロックを解除し、智をエスコートするようにエレベーターに乗る。
 智は終始無言で、かなり緊張しているようだったが、部屋に入るなり驚きの声を上げた。
「すごい! 部屋にドラムがあるんですね」と言いながら、ぼくのほうに向き直る。
「この部屋、アメリカにいる間はどうするんですか?」
「代わりに住んでくれる?」
 冗談半分で言ってみたが、本音は一緒に住んでもらいたいくらいだった。
「まさか。とても家賃払えません」と智は笑いながら言う。
「家賃はいらないけど……ごめん、実は来月から後輩のドラマーが代わりに住むことになってるんだ」
「楽器や設備も全部そのまま?」
「向こうに持って行けないしね。帰るまで寝かしておいても勿体ないから、その間だけ使ってもらう予定。ただ、このドラムだけは買い取ってもらったけどね」
「ドラマーには理想的ですね。朝から晩まで叩けるんですよね」
「この部屋は前のオーナーがプライベートスタジオに改装してたから、完全防音の施工がしてあるんだ。こういうところじゃないとドラムは叩けないしね」と言ってスティックを渡した。
「どう、叩いてみる?」
 手に取ったスティックを見て智は驚いたようだった。
「純さんのシグネチャーモデルじゃないですか!?」
「この間出来たばかりで、まだ試作段階だけどね」
「十年早いって言ってたけど、そんなにかからなかったですね」と智は言う。
「そんなこと言った?」とぼくは頭を掻きながら、もう一度促してみた。
「智ちゃん、叩いてみたら?」
「譲ったドラムを壊しちゃったら困るでしょ?」
「ちょっとやそっとじゃ壊れないよ」と言ってぼくは笑った。「もし壊れても、もうぼくのドラムじゃない」

 智をドラムセットの前に座らせてみたが、軽く触れる程度に音を出しただけで、スティックをぼくに戻す。
「純さん、何か叩いてくれますか?」
「そうだね。リクエストはある?」
「たとえば……『ホワッツ・ゴーイン・オン(What's going on?)』? でも、その前にちょっとお願いがあるんです」
 逆立ちして叩くとか? ——と、ぼくが冗談を言おうとしたら、「ちゃんと聞いてくださいね」と言われて驚いた。智はこちらの心を読んでいるのか?
「五年前に会ったとき、本物のファンクグルーヴにはまだ……って話してくれましたよね」
「そんなこと、よく覚えてるね」
 その頃の自分のプレイを思い出す。
「あの頃は迷ってたから……」
「今、チャットルームでは純さんのグルーヴが凄いって話題になってます」
「それは嬉しい」
「そのグルーヴの秘密を教えてくれますか?」
 智に頼まれたら、断る道理はない。
「少し長くなるけどいい?」
「もちろん」
「だけど、時間は大丈夫?」と急に心配になった。「もうすぐ電車終わっちゃうけど」
「もし純さんが迷惑でなかったら」と智に言われ、彼女の覚悟を理解した。
 高鳴る心臓に、まだ早いまだ早い――と言い聞かせながら、ぼくは深呼吸する。

 息を整えて智に説明を始めた。
「ブラック・ミュージックのファンク・グルーヴって、ルーツはアフリカにあると思うんだ。それをアジア人のぼくが真似ても限界がある。例えばバーナード・パーディーそっくりに叩いても名画の贋作と同じだと思うんだ。だから自分のルーツをちゃんと探して、自分なりのファンク・グルーブを生み出さなくちゃって」
「純さんのルーツって青森ですよね?」
「あれ……前に話したっけ? 亡くなった父が青森出身だったんだ。三歳の時に祖父が亡くなって、お祖母ちゃんが東京に来てからも、夏休みになると青森に家族旅行して、毎年みんなでねぶた祭りに参加してた」
「それでアルバムの一曲目が『Nebta』なんですね」
「そうそう。そこまで判ってたら、半分は説明が終わったようなもんだね」
「残りの半分が大事ですよね? 確か、ねぶた祭りって国の無形文化財に指定されてますよね」
「よく知ってるね。じゃ、『ラッセーラッセーラッセーラッ』ってかけ声わかるよね?」と言うと智は頷いた。
「あのリズムは完全にアフタービートなんだよね。それがぼくの身体の芯に刻まれてる」

 ぼくはねぶた祭りを収録したCDを再生した。
「ねぶたは日本のリズムの中でも特有のグルーヴを持ってるんだ」
 ぼくはドラムの前に座り、スティックを握った。
「やっと純さんの生演奏が聴ける」と智は笑顔を見せる。
 はじめは意図して無機質な縦ノリで叩いてみせた。
「バスドラのパターンは太鼓と同じだけど、本物のねぶたとはノリが全然違うでしょ」
「言われてみると確かに」と智は言う。
「同じ叩き方で別の曲をやってみるよ」と鼻歌を歌いながら叩いてみた。
「『ホワッツ・ゴーイン・オン』……さっきのリクエスト」
「そう。だけどタメのないストレートなグルーヴだから面白くない」と言って、ぼくはスティックを置いた。

「智は跳人(はねと)ってわかる?」
「花笠着けて飛び跳ねてる人?」
「そうそう。実はねぶた祭りに行っても、目立ちたがりの姉はいつも踊る阿呆だったけど、引っ込み思案だったぼくはずっと見る阿呆だった」
「純さんの姿が目に浮かぶ。子供の頃はわたしと正反対だったんですね」と言って智は笑った。
「智ちゃんは踊る阿呆だった?」
「小学生までは……」と言って、彼女は一瞬下を向く。
 ぼくは元の軌道に話を戻した。
「勇気を振り絞って小三の時に一回だけ跳人になった。伯父さん——と言っても父の従兄弟だけど——その伯父さんに叱られながらコーチしてもらって、べそかきながら跳人になったんだ。次の年は祖母の喪中になっちゃったし、その後はもう青森に行かなくなって、小五の夏休みからは関西に行くようになったから、最初で最後になっちゃったけどね」
「関西はお母さんのご実家ですよね? 確か西宮」
「そう。だから、実はねぶた祭りのことはしばらく忘れてたんだ」
「純さんが飛び跳ねてる姿、わたしも見てみたかった」
「ぼくが跳んだ年って……智は二歳だよ!? でも、もし今見たら笑われるかもしれないな。子供の頃は悲惨なくらいのリズム音痴だったから」
「今はシグネチャースティックが出来るほどのドラマーなのに?」と智は言う。
「それは努力の賜……というのは半分冗談」と言ってぼくは笑った。
「誰でも身体の芯には自分のリズムを持ってると思うんだ。ただ、小さい頃のぼくは引っ込み思案でそれを表に出せなかった。実は、小学校の同じクラスにぼくと同じくらいリズム音痴だった女の子がいたんだけど、その子はダンサーになった」
「なんだか判る気がします」
「例えば、雨のレースで最下位になった少年時代のアイルトン・セナが、雨の日を選んでカートの練習をして、レイン・マスターと言われるようになったみたいに?」
「へぇ? セナってそうだったんですか」
「そうらしいよ。でも、ぼくのはそんなカッコイイ話じゃないよ。絶望的なリズム感をせめて人並みにしたいと思った母が、半ば強制的にぼくを音楽教室に通わせようとした。でも、どの楽器もピンとこなくて。母が諦めかけた頃に、音楽番組を見ていたぼくが『ドラムやりたい』と言い出したんでビックリしたみたい」
「今の純さんがあるのはお母さまのおかげですね」
「ドラムスクールは父が探してきたんだけどね」
「それじゃきっと、ご両親は今の純さんを見て喜んでますよ」
 どこで?——と言いかけて止めた。もし両親がどこかで見ていたら、きっと智のことを気に入ってくれただろう。
 智の言葉をきっかけに、忘れかけていた両親への念いが溢れてきて、ぼくは泣きそうになった。
 
「ある日、テレビでねぶた祭りの放送を見ていたら、跳人に挑戦した時の記憶が蘇ってきたんだ。子供のぼくは文字通りぴょんぴょん跳ねてただけだったけど、ベテランの跳人って着地がすごくキマッてたんだよね。それを思い出しながらテレビを見てたら、画面の中にすごく粋な跳人がいた。急いで番組を録画して、その人の着地の瞬間の足捌きを何度も繰り返し見ているうちに思いついた。これだ! って」
 智は目を輝かせながら聴いている。
「頭にアクセントがあるさっきのビートは、言ってみればぴょんぴょん飛び跳ねる子供のハネ。それに比べて、上手い跳人のハネは、跳ぶタイミングだけじゃなく、着地の瞬間に独特のタメがあるんだ。それをドラムのプレイに応用して叩いてみたら、自分の身体の芯に刻まれていたねぶたのビート、ねぶたのグルーヴが蘇ってきた」
 ぼくはスティックを握って、もう一度ねぶたのリズムを叩いて見せた。
「ね? さっきと違うでしょ。ヒットする瞬間にこの捻りを加える。これが跳人の着地にあたる。この先は企業秘密だけどね」
「確かに全然違う。ズシッと重たいですね」
「このグルーヴで『ホワッツ・ゴーイン・オン』を叩くとこんな感じ」と言って叩いてみせた。
「これです、これ! ずっと聴いていたい」
「これがぼくのネブタ・グルーヴ。このグルーヴを取り入れたら、ツアーのリハーサルやレコーディングセッションで、『良いグルーヴだね!』とか『ノリがいいね』って言われるようになったんだ」
「このことをみんなが話してたんですね。純さんのグルーヴは違うって」
「ぼくのアフタービートはアフリカにルーツを持つ人たちのファンク・グルーヴとはちょっと違う。ネブタ・グルーヴ、ネブタ・ファンクかな?」
「ネブタ・ファンク」と言ってトモは笑った。
「ソロアルバムがリリースされたとき、わかってる人はそこを評価してくれた。耳に心地良いだけの軟弱フュージョンじゃないぞって。まぁ、ネブタは一曲めのタイトルでバレバレだけど」
「想像はしましたけど、これからは純さんが叩いてる曲を聴いたら、ネブタのグルーヴでわかるかな?」
「だと嬉しいな。でも、Jポップやアイドルのバックで叩いてるときは爪を隠してることが多いからわからないかも」
 ぼくはスティックを置いた。

 五年前に智が好きだと言っていたミシェル・ペトルチアーニのCDをBGM代わりに再生しはじめた。
「去年、亡くなったの知ってる?」
「はい。これ、ブルーノート東京のライブですね。行きたかったんですけど、スケジュール調整が難しくて諦めたことを悔やんでます。まさか最後の来日になるなんて思わなかったから」
「三十六歳だったんだね。でも、彼は二十歳までしか生きられないって医者に言われてたらしいよ」
 智は何も言わずに目を閉じていた。まるで祈っているように。

 ぼくは話に夢中になって飲み物さえ振る舞っていないことに気づいた。
「ごめんね。何も出さなくて。シャンパンで良い?」
 智が頷いたので、ワインクーラーから冷えたボトルを取り出す。
「モエ・エ・シャンドンですね」と智は言った。
「ドンペリじゃなくてごめんね」と冗談を言ってみる。
「ドンペリよりもこっちのほうが好きです。シャンパンの中でこれが一番好き」
 智の返答に少し驚いた。これまでにどんな経験を重ねてきたのだろう?
「ドンペリ飲んだことあるんだ? ぼくは一杯だけ。でも味は覚えてない」と言って笑った。「酔っ払ってたからね」
 製氷室から氷を出してワインクーラーに満たすと、注いだ後のボトルに栓をしてその中に入れた。
「それにしても五年は長いよ。コロナの飲み方を知らなかった女の子がシャンパンを語るようになるんだから」
「生意気なこと言ってすみません」
「生意気なんて思わない。ただ、智の成長が嬉しいだけ」
 もしかしたら、逆に智のほうがぼくの成長に驚いているかもしれない。ぼくは言い直した。
「お互いの成長かな?」

 人生三度めの乾杯を交わし、智を促しながらソファに腰掛けると、彼女は少し離れて座った。
「君に会ったことで、ぼくの人生はずいぶん変わったと思う。正直言うと、五年前のぼくは大学出てても知識は中学生並みだったから、もっと勉強しなくちゃって思ったんだ。学生時代の百倍くらい本も読んだし」
「人生が変わったとしたら、それは純さん自身の努力」と智は言う。「純さんみたいな人が今の政治家にいたらもっと日本も変わるのに」
「そういえば、政治の方には進まなかったんだね?」とぼくは訊いた。
「日本の政治は『地盤と鞄と看板』って言われるくらい、政策よりも人やお金が中心だし、既得権にしがみついてる人が多いんです。それに政治の世界はまだまだ男性中心で、女は添えものみたいに考えている人が多いから、今はまだその時じゃないって思ったんです。とりあえず目の前の人を幸せにするビジネスを考えようって」
「なるほど。それで起業したわけか」
「まだよちよち歩きだけど、おかげさまで経営は順調ですよ」
「すごいな。ある程度の資金が出来たら今度こそ政治に打って出る?」
「うーん、それはどうかな? 政治家にならなくても、政治には誰もが関心を持つべきだし、一人の有権者として考えたり発言したりすることで政治に参加することはできますよね。夢と志を失わなければ、政治以外の方法でも世の中に貢献できることはきっとあるんじゃないかって」
「二十六歳の女の子にしては言うことがしっかりしてる。さすが、社長さん」
「……社長じゃないんですよ。会社の代表はそれなりの人にお願いしました。だからしばらくアメリカに行く計画が立てられたんです。自分が表に出るより、人を立てていった方がものごとが上手くいくって最近わかってきたし」
「ぼくも智に立てられてその気になってしまったのかな? メーカーからシグネチャースティックの話を貰ったとき、真っ先に君のことを思い出したんだ。あの時『純さんは?』って言われてその気になったからかもしれない」とぼくは笑う。
「それも純さんの努力でしょ?」
「どうだろう? 運もあると思うけど」
「運も実力のうち……」
「確かによくそう言うね」

 再会までになぜ五年もの年月が必要だったのか、ぼくは智に訊いてみたかった。
「ところで、あの日どうして連絡先を教えてくれなかったの?」
「自信がなかったんです。志穂さんの事件の直後だったし」
「事件か……」とぼくは苦笑いした。「でも、自信がなかった?」
「自分に。恋愛は苦手だし、少し怖かった」と智は言う。「ただ、もしこの縁が本物だったらきっとまた逢えるって、そんな予感はあったんです」
「実際、その予感は当たったわけか」
「はい」
「ぼくたちの縁は本物だったってことなのかな?」
「わたしはそう信じたいです」と智は言う。「縁とか運命って、人の智慧や力が及ばないところにあると思いませんか?」
「そうかもしれない」
 ぼくは両親のことを思い出していた。

 父は、震災の十日前から耐震構造の調査で関西に出張していた。
 もともと地震が少ないと言われた関西の地で、一週間後に自分がその犠牲になるとは父自身予想もしなかったろう。
 どんなに大きな地震でも倒れたことがないという五重塔の構造を確かめるために、著名な構造設計家と古都を巡っていたと通夜の晩に聞いた。調査を終えて構造家の先生と京都駅で別れたあと、父は西宮に向かったという。そこには祖母の体調がすぐれないことで、正月から帰省していた母が待っていた。
 母の実家で週末を過ごした両親は、震災の前の晩に東京に帰る予定だった。
 関西へのコンサートツアー直前だったぼくは、その日久しぶりに家に帰っていた。そこに実家に帰ると途端に関西訛りになる母から電話があった。
「連絡遅くなってごめんね。今日、お母ちゃん、あんたにとってはお祖母ちゃんな、急に熱が上がったんよ。今日まで病院がお休みやったから、明日連れてくことになったの。お父さん、明日も休み取ってるっていうんで、今夜もう一晩泊まって明日の夕方帰ることにしたから、純とはすれ違いね。夕飯作れなくて悪いけど、冷蔵庫にあるもの温めて適当に食べておいて」
 それが最後に聞いた母の言葉だった。テレビを見ながらビールを飲んでいたという父とは結局何も話さなかった。

「震災の前の晩ね……」とぼくは話し始めた。
 智は祈るようにじっと聴いている。
「おふくろとは最後に電話で話したけど、親父とは何も話せなかった」
 言葉に出すと、忘れかけていた感情が胸に込み上げてくる。
「おふくろがぼくの音楽教室のことで困り果ててたときに、何も言わずにジャズスクールを探し回ってくれたんだ。ある日、テーブルにパンフレットが置いてあって、『これどうしたの?』って訊いたら、『いくつか寄ってみて話を聞いたけど、一番対応がしっかりしてたところのを上にしておいた』って」
 溢れそうになる涙を、智に悟られないようぼくは必死に堪えていた。
「これ、音楽教室よりずっと高いよってぼくが言ったら、親父は心配するなって顔でニコッと笑った。そんな男だった。もっともっと話したかったのに……」
「純さん、辛いときは泣いてもいいんですよ」
 智に言われた途端、堰が切れたように涙が流れ始めた。両親が亡くなって五年間一滴も流さなかったのに、よりによって智の前で――と自分の弱さを呪いながら、ぼくは溢れ出る涙を必死に拭った。
 いつの間にかそっと寄り添うように隣に座り、ハンカチを差し出す智の顔を見上げると、彼女も頬を濡らしている。
 ぼくは疑問をそのまま言葉にした。
「人の運命って神や仏が決めるのかな?」
「運命はその人の生き方が決めるっていう話もありますけど、素晴らしい生き方をしていた人に限って早く召されていく……それを神様が天国に連れて行ったって言う人もいます。でも、耐えられないほど辛い試練に出会ったとき、人は神様や仏様を信じることで越えていけたって。だから、神仏はもっと身近な存在かもしれませんね」
「それじゃ、神仏は試練を与える存在じゃなく、ぼくたちの味方ってことか」
「そう考えたほうが救いがあると思いませんか?」

 ぼくは店を出る直前に智が話そうとしていたことを思い出した。
「そういえば、さっき何か言いかけたよね。お父さんのこと?」
 智はしばらく沈黙していた。
「亡くなったお父さんも建築関係だったの?」とぼくは続けて訊いた。
「亡くなったって……そう思われるような言い方をしました」と言って智は頭を下げた。
「嘘が嫌いって言いながら、ごめんなさい」
 再び視線を下に落とし、躊躇(ためら)いがちに話し始めた。
「父はアルコール依存症でした。普段はとても優しかったんです。知識も豊富でユーモアもあって。でも、泥酔すると人が変わって、母を怒鳴りつけたり。ひどいときは暴力をふるうんです。父のそんな姿を妹の(めぐみ)には見せたくなかったから、父が酔っていたときは、いつも妹をピアノの練習室に連れて行って……。母は自分が傷つけられても、『お父さんはお酒を飲むと人が変わるけど、あなたたちには優しいから』ってずっと父のことを庇ってました。でも、私が中学に上がった年に父は、わたし……」
 一瞬言葉を詰まらせたが、智はすぐに涙を拭って話し続けた。
「あの人は……家族を傷つけて出て行って。それでわたしたち三人は母の生まれ故郷の滋賀に越したんです」と言いながら、智は唇を震わせていた。
 なぜか、ぼくの頭には彼女が父親に襲われるシーンが浮かんだ。
「辛いこと思い出させてごめん」と、そっと智の肩に手を置く。
「ごめんなさい。辛いのは純さんも同じなのに……」
 智はゆっくり顔を上げた。
「父は美大で教鞭を執っていて、そこそこ知られた建築家でした。教え子だった母は情熱的なところに惹かれたそうです。でも、『情熱は両刃の剣』って母は言いました。あなたには平凡でも優しい人をわたしが必ず見つけるからって」
「それで、会社員か公務員だったんだ」と言ったら、智は頷いた。
「パッショネ—ション(Passionation)はやぶ蛇だったね」
 ぼくの言葉には応えず、智はじっと音楽に耳を傾けていた。

「このスピーカーすごく良い音がしますね」
「スタジオモニターだからね」とぼくは言った。「フィンランド製なんだ」
「このグラスも」と言って、智は手に持っているシャンパングラスを目の高さまで持ち上げた。
「イッタラですね。イッタラとかマリメッコとか、わたしはフィンランドのデザイン好きだし、映画も好きです」
 お気に入りのシャンパングラスがフィンランド製だとぼくは初めて知った。フィンランドの映画は以前に観たことがあったが、どこか暗い印象があった。でも、智と一緒だったらイメージも変わるかもしれない。
「LAから帰ったら一緒にフィンランドに行こうか」
「フィンランドには行ってみたいけど、その前にこのスピーカーでプレゼントの曲を聴かせてくれますか? ヘッドフォンでしか聴いたことがないから」

 智のリクエストに応えて、ぼくはCDチェンジャーにソロアルバムをセットし、最後の曲『Σοφια』を選択して再生ボタンを押す。
 曲が流れ始めると、智は立ち上がって二本のスピーカーの真ん中に立ち、奏でられる音にしばらく聴き入っていた。
「まるで楽器がそこにあるみたい。あらためて聴くとすごく品の良い曲」
「智をイメージして書いたから」と言いながら、ぼくもソファを離れた。
「わたしのイメージにしては綺麗すぎますよ。純さんは私を美化してる。ほんとのわたしを知ったらこんな曲は絶対書かないと思う」
「君はこの世で出会った人の中でいちばん綺麗だよ。見た目も綺麗だと思うけど、それ以上に心に濁りや嘘がない」
 歯の浮くような台詞かもしれないと思いながらも、ぼくはストレートに伝えた。
「名は体を表すっていうけど、ぼくにとって君は智慧の女神そのものなんだ」
 しばらく目を閉じていた彼女はゆっくりと瞼を開いた。
「わたしの名前は父が付けました。純さんの言う智慧の女神から取ったそうです。妹のメグミは智慧の『慧』だから、二人でワンセット」
 視線を逸らし、窓の外の夜景を見つめる智の表情は深い憂いを秘めていた。

 グラスに二杯目のシャンパンを注ぎ、ボトルに栓をして、アイスバケットに戻すと、立ったままもう一度乾杯した。
「人生四度目の乾杯?」と言う智の頬はほんのりと桜色に染まっていた。
「明日はまたサヨナラなのが悔しいな」と言うと、ぼくはため息をついた。
「LAはダメになっちゃったけど、近いうちにわたしもアメリカに行くと思います。たぶんボストンかサンフランシスコ」
「シスコだったらいいけど。東海岸じゃなかなか会えないね」
「必ずまた会えるってわたしは信じてます。どちらにしても、もし向こうに行ったら真っ先に純さんに連絡しますね」
「ありがとう。LAで待ってるよ」

 リモコンでCDを切り替えると、ぼくは智の目の前に立った。
「残念ながらぼくは詩が書けないし、歌も歌えない」
 真っ直ぐ彼女の目を見つめながら続ける。
「でも、この曲は今のぼくの気持ちそのままなんだ」
 リモコンのボタンを押すと、予め用意してあった『バック・アット・ワン(Back at One)』のイントロが流れはじめた。
「ブライアン・マックナイトのこの曲、大好き……」と智は呟く。
 甘い歌声の歌い出しに合わせ、ぼくは部屋の照明を切り替えた。
「ディスコみたい」と智は照れくさそうに笑う。
 もし爆笑されたら照明を明るくしようと考えていたが、そこまで心配する必要はなかったようだ。こちらが照れててどうする? 勇気を出そう——と自分で自分の背中を押した。
「一緒に踊ってくれる?」
 戸惑いがちの智の手を取って、ぼくは少し強引に身体を引き寄せた。
 初めは腰が引けていた彼女も少しずつ寄り添い、ゆっくりとリズムに身を委ねながら、歌詞に合わせて「ワン」「トゥー」「スリー」と軽くステップを踏む。
 曲が終わっても、ぼくは智の手を離さなかった。
「純さん、ちょっとやり過ぎですよ」
 智の頬にうっすらと涙が見えた。それを親指でそっと拭って頬にキスをすると、ぼくは彼女を強く抱きしめる。智の息づかいが背中に回した腕に伝わり、二人の鼓動が一つのリズムを刻み始めたように感じられた。
 潤む瞳を見つめながら唇にキスしようとしたそのとき、智の人差し指がぼくの唇に触れた。
「ちょっと待って。少しだけ」と言うと、智は腕の中をすり抜けた。
「ごめんなさい。わたし汚れてるから……」
 智は懇願するように言う。
「シャワー借りてもいいですか? 今日、急いで駆けつけたから汗かいちゃって」
 智はまったく汗臭くなんかなかったが、ぼくは言われるままにバスルームに案内した。


 シャワーの音を合図にバスルームのドアを開け、未使用の一番綺麗なタオルを服や下着が丁寧に畳まれていた脱衣かごの上に置いた。
「バスタオルはかごの上に置いておくね」
「ありがとう」と中から声が聞こえた。

 噂の元ラガーマンのことは杞憂だったと胸をなで下ろし、初めて経験した夜のように、ぼくはドキドキしながら寝室のベッドを整えた。
 BGMには彼女が最初に好きだと言っていたビル・エヴァンスの名盤を選び、控えめなレベルで再生し始めた。
 しかし、二曲目の『ワルツ・フォー・デビー(Waltz for Debby)』に続いて、三曲目の『デトゥアー・アヘッド(Detour Ahead )』が始まっても智はシャワーから出てこなかった。
 四曲目の『マイ・ロマンス(My Romance )』が流れ始めた頃、確信は少しずつ不安へと変わっていった。
 恋愛は苦手——と智は言っていた。直前になって怖くなったんじゃないだろうか? まだ迷っていて、シャワーを浴びながら頭を冷やしているのだろうか?

 心配になってバスルームの様子を伺いに寝室を出たとき、テーブルに置かれた智の携帯電話が振動音を立てていることに気づいた。呼び出しは長く続いていたが、男のぼくが出てはまずいだろうと、しばらく放置していたら鳴り止んだ。
 しかし、一分もしないうちに再び着信があり、恐る恐る覗き込むと窓に「MEG」と表示されている。胸騒ぎがして、ぼくは振動する携帯を持ってバスルームの外からノックした。シャワーの音で智は気づかない。
 ドアを開けて洗面に入り、声をかけた。
「MEGって妹さんじゃない? さっきから何度か電話が鳴ってるけど」
「すぐ出ます」と言うが早いか、智は濡れた身体でドアを半分開けて脱衣かごの上のバスタオルを手に取った。
 小ぶりだが形の整ったバストがぼくの位置からはっきり見えた。しかし、彼女はそんなことを気にする素振りも見せず、手早くタオルを身体に巻きつけて「ありがとう」と携帯を受け取る。
 慌てて出したバスローブを智の肩にかけながら、ぼくは彼女の裸よりも、いつもは男物の腕時計に隠れている左手首の傷跡が気になった。

「とにかく落ち着いて。今からそっちに向かうから」
 電話の向こうの妹を励ましながら智は細々と指示を伝えている。どうやら母親が緊急入院したらしい。
「孝さんには私から連絡するけど、メグからも連絡しておいてね」
「母が倒れて救急搬送されたんです」と言いながら、彼女は急いで衣服を整えた。
 入院先は日赤病院とのことだったが、終電の時間はとっくに過ぎている。
「クルマで送っていこうか?」
 智はバケットに刺さったシャンパンボトルを見ながら返答した。
「運転は無理でしょう? タクシーで行きます」
「ぼくも一緒に……」と言いかけたが、「だいじょうぶ」と制止された。
「出発直前に迷惑掛けられないから、純さんはここにいてください」
 手早く準備を済ませて玄関を出た智を追いかけ、ぼくは大通りまで出てタクシーを捕まえ、彼女を見送った。

 その夜は一睡も出来なかったが、一晩中連絡はなく、早朝に送ったメールにも返信がなかった。
 いても立ってもいられなくなったぼくは、帰ったらいつでも出発できるように玄関に荷物を並べると、酔いが醒めた頃を見計らって、愛車のアルファロメオで病院に向かう。午前中に業者に手渡す予定だったから、それが最後のドライブだった。

 土曜日の朝とあって病院は静まりかえっていた。
 受付で「渡来」と告げると病室を教えてくれた。しかし、駆けつけたときはすでに片付けられた後で、病室はもぬけの殻だった。ナースセンターで訊ねると、霊安室に移動したという。家族のことを訊いたら、霊安室か病院のどこかにいるはずとのことだった。
 まだそれほど時間は経っていないはずだったが、霊安室には誰の姿もなく、ぼくは智の姿を求めて病院中を歩き回った。

 両親を同時に失ったぼくは、誰よりも智の心に寄り添えるはずだった。彼女に会えたら、強く抱きしめて悲しみで張り裂けそうなその心を受け止めよう――そう思いながら智の姿を探した。しかし、院内を一周しても見つけることが出来ず、もう一度霊安室に戻ろうとしたとき、通りかかったロビーの向こう側に智の後ろ姿を見た。
 大柄な男性の胸に顔を埋め、智は声を震わせながら嗚咽していた。その背中を優しく抱いている男性こそが孝さんだと、ぼくにはすぐわかった。二人の間に自分など到底踏み込めない世界を見てしまったぼくは、声を掛けるのを躊躇(ためら)った。前夜の喜びや期待感は、心の中で音を立てるように崩れ去っていった。

 智はぼくが来たことには気づいていないはずだった。
 自動車ディーラーとの約束の時間も迫っていたし、どうせもうすぐ日本を離れなければならない――そう自分に言い訳しながら、智に背を向け、ぼくは逃げるように病院を後にした。

 愛車を手放し、自宅に寄ってタクシーで空港に向かうちょうどそのときに、智からのメールを受信する。
「出発前のお忙しいときにすみません。今朝、母が亡くなりました」
 孝さんのことで混乱していたぼくは、しばらく呆然と画面を見つめていた。空港から智の携帯に電話することも出来たが、彼女の声を聴くのが……いや、真実を知るのが怖かった。
 長い時間をかけてお悔やみの言葉と余所余所しい励ましの文句を打ち込んだぼくは、空港からメールを送信するとすぐに機中の人となった。

 その後、智の友人たちからのメールで通夜葬儀の連絡を受け、LAから小金井の葬祭場に宛てて弔電を打った。

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