第9話 二度目の乾杯

文字数 6,439文字

 日本武道館でのサンタナの来日公演はLAに発つ前日だった。
 待ち合わせに指定した田安門で待っていると、智から「母の病院の診察に時間がかかって、待ち合わせに遅れそうです。開演に間に合わなくても必ず行きますので、時間になったら席で待っててください」と携帯にメールがあった。
 それでも、ぼくはぎりぎりまで待っていた。

「ごめんなさい、遅くなって」
 智は息を切らせながら、急ぎ足でやってきた。
「お母さんはどう?」
「もうだいじょうぶ。今は家で休んでます」
 その言葉にぼくは胸を撫で下ろす。
「まだ間に合うけど、少し急ごう」
 ぼくが智の右手を握ると、彼女は握り返してくれた。
「今日はありがとうございます。慌ただしい再会になってしまってごめんなさい」
 明日の夕方には日本を離れてしまう。智はコンサートが終わったら母親のところに帰るかもしれない……そう考えたら、この瞬間が掛け替えのない貴重な時間に思えた。

 二人で列の最後尾に並んだ。
「この間はほんとにすみません。ドタキャンになっちゃって」
「大変だったね。今日も診察だったんでしょ? ずいぶん時間がかかったみたいだけど」
「先生が緊急オペだったらしくて、それで待たされたんです。母はたいしたことなかったんですけど」
「それならよかった。それで、医者はなんて?」
「検査で小さな動脈瘤が見つかったので、いずれ手術が必要って。でも今は痛みもすっかり治ったので家で落ち着いてます」と智は笑顔を見せる。
 気づいたら彼女は手元にチケットを持っていて、ぼくたちの手は離ればなれになっていた。

 その日は、偶然来日していたエリック・クラプトンが飛び入りでステージに上がり、武道館全体が劇的な瞬間を目にしたオーディエンスの熱気に包まれた。
 終演後、ぼくたちは九段下の駅に向かう興奮気味の観客たちの中にいた。
「今日はありがとうございます。サンタナもクラプトンも、いままでちゃんと聴いたことなかったけど、すごく良かったです」
「ぼくも興奮したよ。まさかクラプトンが出てくるとは想像しなかったし……」

 智の来訪を期待してマンションの部屋は入念に準備を進めていたが、全てが無駄になることも覚悟していた。
「ところで、智ちゃんはこの後すぐ帰るの?」
「妹も早く帰るし、母に話したら『自分のことは気にしないで行ってらっしゃい』って」と智は少しはにかみながら答える。
「それじゃ二杯めの乾杯しようか?」とぼくは提案した。
「神楽坂まで歩くけどいい?」
「もちろんいいですよ。でも二杯め?」
 一瞬不思議そうな顔をしたが、すぐに気づいて智は笑った。
「あ、コロナの次の一杯ですね?」

 九段下から歩いて神楽坂に向かう途中、もう一度手を握ろうとしたら、彼女は右手に紙袋を掴んでいたのでぼくは諦めた。
「あの時会えなかった友だちとは、その後どうなりました?」と少し他人行儀な口調で訊いてみた。志穂に直接訊ねればわかったことだったが。
「あの日のコンサートは友だちからのプレゼントで、終わった後にお祝いしてくれる予定でした」
「それであそこで待ってたんだね」
「でもその前にちょっとした事件があって」
「事件?」
「友だち……あれ? 純さん会ってますよね。志穂さんのこと。彼女がその頃つきあってたボーイフレンドはミュージシャンで、プロのベーシストだったんですけど、偶然あの会場にいたんです」
 土曜日の会話を思い出し、十七人のうちの一人か——と思いながら、「そのベーシストと消えちゃった?」とぼくは訊いた。名前を聞けば、知り合いかもしれなかったが敢えて訊かなかった。
「そうだったらいいんですけど、他の女性と来てたんです。仕事だって言ってたのに」
「それで鉢合わせしたんだね」
「鉢合わせなんて甘いものじゃなくて。フロアでキスしてるところに遭遇しちゃった」
 その状況を想像したぼくは「うわー、そりゃ大変だ」と呟いた。志穂のあの性格ならきっと修羅場になったことだろう。

「彼女には言ってたんです。志穂さんはミュージシャンとは付き合わないほうがいいって」
「そうかな? 彼女にはお似合いな気がするけど」
「ああ見えて志穂さんは一途だから。ミュージシャンよりもう少し落ち着いた人の方が向いてるって思えたんです」
 智はこちらを見る。バツが悪そうにぼくは言った。
「ミュージシャンより落ち着いた人……って、ぼくもミュージシャンだ」
 智は笑いながら「はい」と答えた。
「ぼくはそういうことは出来ないよ。今は特定の彼女もいないし、酒もほどほど。タバコはやめたし、クスリやハッパもやらない」
「ハッパとかクスリとか、そういう会話が出てくる時点でやっぱりミュージシャンです」と一刀両断に切り捨てられた。
「そう言われると身も蓋もないけど、カリフォルニアからの旅行者はみんなやってるでしょ?」
「それ! ほんとに大変なんですよ。『皆さんお願いですから日本にいる時はやらないで』って」
「向こうとは感覚が違うからね」とぼくは言う。
「法律も」と智は付け加えた。

「そういえばLAには行かなくなったって?」と話題を振ってみる。
「よく知ってますね」と智は驚いていた。
「百合ちゃんから聞いた」とぼくは正直に答える。
「契約してた会社が倒産しちゃったんです」と聞いて合点した。どうりで連絡が取れなくなったはずだった。
「残念だな。向こうで逢えると思ったのに……」
「純さんは明日から?」
「そう。便は夕方だけどね」
「そんな時に、私と一緒に遊んでて大丈夫ですか?」
 智はこちらの顔を覗き込む。
「準備はもう全部終わってるから」
「よかった。それで、現地にはいつまで滞在予定ですか?」
「売れなかったら二〜三か月」と笑いながらぼくは答えた。
「もし売れたら?」
「売れたらずっと向こうにいるかも」
「売れる売れないの基準って?」と智は訊く。
「ビルボードのジャズチャートで三十位以内だったら売れた方になるかな?」とぼくは答えた。
「R&Bじゃなくてジャズなんですね」
「そう、ブルーノート・レーベルってジャズの老舗と契約したからね」
 決まったばかりのバンドユニットの名前を、ぼくは真っ先に智に伝えたかった。
「名前も決まったよ。パッショネ—ション(Passionation)って言うんだ」
「情熱ですか……」
 喜んでくれると思った智の表情に笑みはなく、その醒めた反応にぼくは少し驚いた。

 話しながら歩いていたら、あっという間に馴染みの店の前に着いてしまったが、まだ智の好みも訊いていなかった。
「こういう店でもよかった?」
「もちろん! 純和風は好きですよ。旅行者の人も喜ぶし」
 ホッとしながら、ぼくはお願いした。
「でも、あんまり広めないでね」
「安心してください。こういうお店はあまり騒がない少人数のときだけなので」
 暖簾を潜って席に着いた途端、何も言っていないのに「とりあえず生ビールですね?」と智は言う。それに合わせて、ぼくは名物の「ねぎま鍋」と「ドジョウの唐揚げ」を注文した。
「五年ぶりの再会と二十六歳の誕生日を祝って!」
 ぼくたちは二度目の乾杯をした。
 五年前、「あまり苦いのでなければ」と言っていた智は、辛口のビールが注がれた中ジョッキを美味そうに傾けていた。

 ぼくは、なぜ自分が薬物に手を出さないかを熱く語った。なぜそんな話を始めたのか自分でもよくわからないが、きっとどんなことでも智には理解して欲しかったのだろう。
「『アルタードステイツ』って映画知ってる? 発音は『オルタード』の方が近いけど」
「観たことないです」
「主人公は学者だけど、アイソレーションタンクって真っ暗な密室で水に浮かんで、自然由来の薬物でトリップして生命の起源を探る。そのうちに自分自身の肉体に変化が現れて元に戻れなくなっていくんだ。最後まで話すとネタバレになるけど」
「なんだか難しそう」
「ケン・ラッセルってイギリスの監督。映像は衝撃的だけど、そんな難しい映画じゃないよ。ただ、高校時代のぼくにはどんなホラー映画より怖かった。それで、薬物には絶対手を出さないって心に決めたんだ。でも、面白いことに一緒に映画を見たバンド仲間は逆に虜になっちゃって、良質なクサを求めて世界を旅して、三回も警察に捕まった。三度目に逮捕されたときはほんの少し所持してただけみたいだけど」
「日本は警察も検察も厳しいですから」と智は言う。
「ミュージシャンって、薬やアルコールで人生ダメにする人多いでしょ。ぼくみたいに意思の弱い人間は、手を出したらきっと立ち直れないと思うんだ。それなら最初からやらないほうが賢いと思う」
「純さんの意志が弱いとは思わないけど……」

「今日、飛び入りでステージに立ったクラプトンも一時期ずいぶん危なかったみたいだけど、彼は立ち直ってから依存症の回復を助ける治療センターを立ち上げて、その役員をしてるんだ」
「どうやってそのセンターを立ち上げたんですか? 例えば資金とか……」
 智に質問されたが、ぼくは詳しいことは知らなかった。
「確か自分のギターを大量にオークションに出して、その収益で始めたって何かで読んだ気がする」
 言ってしまってから、話題になったオークションより先にセンターは開設されていたことを思い出し、口に出そうとしたら智はフォローしてくれた。
「今度、自分でも調べてみますね」
「もしかしたら、順序が逆だったかな? オークションとセンターの立ち上げ」
 彼女はにっこり微笑みんだ。
「良い意味での富の分配ですね。ただ断ち切るだけじゃなくて、自分が苦しんだ経験をそうやって活かせる人って素敵です。彼みたいに立ち直った人は本当に偉いと思いますけど、でもミュージシャンには亡くなった人もたくさんいますよね」
「そうだね。チャーリー・パーカーやコルトレーンもそうだし、ジミヘンとかジャニスとか。マーヴィンもそうだったよね」
「彼は違います」と即座に訂正された。
「そういう時期もあったみたいですけど、立ち直って……それから父親に撃ち殺されたんです」
「そうだった、ごめん」と言いながら、智が一瞬見せた険しい表情にぼくは驚いていた。
「智はマーヴィンのファンだったね」と取り繕ったが、彼女には知ったかぶりは通用しないと思い知った。

「こんなこと言ったら、亡くなったアーティストのファンには怒られるかもしれないけど、アルコールでも薬物でも、依存症になる人ってきっと自分が一番可愛いんです。何か生み出すためには、周りに迷惑かけたり、身近な人の信頼を壊しても自分は許させるって思い込んで、甘えてる人もいると思う。私の父も依存症みたいなものだったから……」と智は語る。
「亡くなったお父さん?」と言いかけたら、遮るように質問された。
「さっき、彼女いないって言ってましたけど、もちろん付き合った人はいますよね?」
「三十三だしね。誰とも付き合ったことがないって言ったら嘘になる」
「綺麗な人もたくさん? モデルさんとか」
「ミスソフィアとか?」と振ってみた。
「あー知ってたんですね」
 智はバツが悪そうに下を向いた。
「どうして辞退したの? 君のような人こそミスに選ばれて欲しかったのに」
「ミスコンとか縁がなかったし、絶対にあり得ないと思ってたんですけど、百合さんたちに推薦されてファイナリストに選ばれてしまって」
 そのおかげで智ちゃんの姿を毎日拝めた――と言おうとしてぼくは飲み込んだ。雑誌に掲載された写真をクイックテイクというデジタルカメラで撮影して、毎日のようにMACで眺めていたなどと知られたら、気味悪く思うに違いない。

「今なら話せますけど、わたしにとっては忘れたい過去でした」と智は話し始めた。
「最初に辞退すればよかったんですけど、ずっと迷ったままいろんなメディアで紹介されて、いつ逃げ出そうかって……」と言いながら、智は一瞬下唇を噛む。
「推薦してくれた友達や、応援してくれた妹や母たちを喜ばせたくて一度は覚悟を決めたつもりだったのに、コンテストが近づくにつれて怖くなって。三日前に辞退して周りの人たちに迷惑かけてしまいました」
 何があったんだろう?――と訊ねる間もなく、智は前を向いた。
「でも、過去を消すことは出来ないから、わたしは振り返らないことに決めたんです。ファイナリストとしてメディアに紹介されたことも、開き直って逆に利用させてもらったら、起業のための資金作りに少し役立ちましたし」
「なるほど」とぼくは頷いた。

「会社を一年で辞めたのも起業のため?」
「純さんはなんでも知ってるんですね」と智は少し驚いていた。
 まさか、会社まで訪ねていったとは、とても言えなかった。
「入社したときは、短くても三年は働くつもりだったんですけど、コンテストを辞退したことが会社で噂になって。妻子ある男性と不倫してたとか、相手は大学教授だったとか、もう根も葉もない噂ばかり。そういう誤解や偏見って、跳ね返すのにもの凄くエネルギー使うんです。それなら今しかないと思って退職して、起業を前倒ししました」
「意外と男っぽいというか、男前だよね」
「男前って」と言って笑った。「その褒め言葉は好きかも」
 志穂が「クールビューティー」と言っていた意味が少しわかったように感じた。
「だから、見かけ目当てだったり、ミスコンのファイナリストと思って近づいてくる男は苦手なのかな」
「わたしは母から、あなたは平凡な会社員か公務員と結婚しなさいって言われてました」
「そりゃまた保守的だね。と言っても、実はぼくは会社員と公務員の子供だけど」
「へぇ? そうなんですね。ちょっと意外です」
「父親は中堅の建設会社のサラリーマンで、母親は兵庫県庁の職員だったんだ。たまたま父が建築申請の手続きで県庁に行った時に大事な手帳を忘れて、見つけた母が父の宿泊先に届けた。それが縁でゴールインというわけ」
「ステキな話」
「そう? ごくありきたりな出会いで、なんとも平凡な家庭だったけどね」
「平凡が一番です。同じ建築関係でも、父は………」と智が言いかけたその時に、ちょうど店の従業員から「何か飲み物お持ちしましょうか?」と声をかけられた。
 気づくとジョッキが空になっていた。

「今日も一杯……なんてことないよね?」とぼくが言うと智は笑っている。
「このすぐ近くなんだけど、ボクの家に来る?」と思い切って誘ってみた。
「いつも近所なんですね」と彼女は笑う。
「あー、六本木……」とぼくは頭を掻いた。もう正直に告白するしかなかった。
「実はあの時はもう住んでなかった」
「わかってましたよ」と智に言われてドキッとした。
「うーん、でもどうしよう」と彼女はまだ迷っていた。
 襲ったりしないから——と冗談を言おうとして飲み込んだ。そんなことを言ったらぶち壊しだ。
「話の続きはどうかな?」と言ってみたら、智は素直に頷いた。
 途端にぼくの胸は高鳴り、血圧と心拍数が五十パーセント以上は上昇した。
 ぼくが「お勘定」と言うと、智は「割り勘で」と言う。
「これも誕生日のお祝いだから」と言ってやっと納得してもらって支払いを済ませ、ぼくたちは店を出た。

「美味しいケーキの店があるんだ」と言った後で、とっくに閉店していることに気づいた。
「あ、もう閉まってるか。何か他に好きな物ある? 誕生日から一週間以上経っちゃったけど」と言うぼくの声は、かなり上擦っていたに違いない。
「今ご馳走していただいたのでもう十分ですから、あんまり気を遣わないでください」と言う彼女の方がよほど落ち着いていた。「今日のコンサートもそうだし、CDも頂いたから」
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