第一部 山猫:(8)混乱

文字数 2,257文字

翌日、モルは意識を回復した。そして、王妃直付の武官に就任した事を告げられた。当然、それはモルにとって嬉しい事でもなんでもなかった。モルの頭は、チナがどうなったか、それだけで一杯だった。話によると、チナは宮殿からは抜け出したが、都の外壁より外へは出ていないと言うことだった。

その後暫くの間、チナの情報はなかったのだが、急に、都の中で鶏泥棒が現れたと言う噂が出た。モルは、これがチナの仕業と察し、鶏泥棒の出た辺りを探りに出かけた。そして、横路で、何人もの町人が誰かを袋叩きにしているのを見掛けた。モルは、すぐにそれがチナだと分かった。チナは何も服を着ておらず、地面の上でぐったりしている。モルは、チナが動きの取りにくい宮殿の衣服を自分で脱いでしまったのだろうと想像した。

今や武官の身なりをしているモルは、すかさず町人たちを止め、チナに寄り添って様子を伺った。チナは意識を失ってはいるが、まだ微かに息をしている。町人たちはびっくりして聞いた。
「お役人様! 何をしてるのですか? これは、薄汚い鶏泥棒です。私達の大事な財産を盗んで食べているのです。化け猫です!」
「待って下さい。この人には大変な事情があるのです。いま一時、時間を下さい」

その内に、騒ぎの話を聞いた王妃が護衛兵を連れて駆けつけた。
「モル、ここで何をしているのだ?」
王妃は、初めは不審な顔をしていたのだが、何かに気がついたように言った。
「まさか、あの時。この野生児がわたくしを殺そうとした時、そなたが間に入って、わたくしを守ったのだと思っていた。どうやら、それは間違いのようだな。そなたが守ったのは、わたくしではなく、この野生児だったのだな。この野生児に王妃殺しの罪をきせないために、自分の命をかけてまで......」
「そ、そういう訳では......」
「言い訳は無用だ。それに、それだけではあるまい。おそらく、お前はこの野生児と......。だが、そんな事は、もうどうでも良い。二人共殺してしまえ」

すると、いつの間にやって来たのか、今度は、セマが前に進み出て王妃に言い寄った。
「王妃様、その野蛮な山猫は殺して構いませんが、モルはお助け下さい。王妃様の命を救ったのは事実です。そして、モルは......、私の許嫁なのです」
「いや、わたくしを助けた理由が気に食わない。殺せ」
「王妃様! お待ち下さい。つい先程、私は、王妃様が案ずべき秘め事を知りました。何年か前の事です。それを明かしてもよろしいのですか?」

これを聞くと、確かに何か気になることがあるようで、王妃は「待て!」と言ってから、セマを近くに呼び寄せて小声で話し始めた。
「セマ、例え、そなたがどんなに重要な秘め事を知っていても、その口が封じられてしまえば、役には立つまい」

「王妃様、そうはいきません。私の他にもう一人、同じ事を知っている者がいます。今も、ここから遠くない所で、様子を伺っています。例え私の口を封じたとしても、その者がその秘め事を都中に広めることが出来るのです」
「何だと!」
「そして、その者が口外しないための条件というのは、私の命ではなく、モルの命です。もし王妃様がモルを殺したなら、都中の者が王妃様の秘め事を知ることになるでしょう」
王妃は周りの人だかりを見回してから言った。
「う〜、そなたは見掛けによらず、ずる賢い女だ」

王妃は、猫の目のような変転に戸惑いが隠せなかった。それでも決心して大声で命令した。
「野生児は殺せ。モルは助けよ」
これを聞いて、今度はモルが大慌てで叫んだ。
「王妃様、いけません。もしチナを殺すのであれば、私も一緒に死にます」

これを聞くと、今度はセマが苛立って、モルとセマの部落の言葉で言った。
「モルや! 私が折角あなたの命を助けてあげようとしているのに! どうしてそんなに、その山猫が大切なのか?!」
「セマ、チナの事を見下すな。立派な人間だ! 俺の命を何度も救ってくれたのだ。それに......、それに、今だから言おう。チナと俺は、すでに、めおとの仲だ!!」

これを聞くと、セマは狂った様相で懐から小刀を取り出し、それを自分の首に当てた。
「私の許嫁のモルよ、何という事を! 私は、あなたの約束を本気にして、宮殿に入れるように計らってやった。それなのに、この仕打ちは何なのだ! 私は自分の命を掛けてもあなたを守り、あなたに嫁ぐ事を決めていたのに。それが叶わないなら、こうするしかない」
そして、周りの全員に聞こえるように、次の部分だけこの王国の言葉で言い放った。
「この苦しみは、輪廻として永遠に続くだろう!」

モルは、慌てて言った。
「セマ、死ぬな! 騙して本当に済まない。他に手がなかったのだ。そして、お前にはまだまだ先がある。どうか俺の事は忘れて幸せになってくれ!」
次の瞬間、セマは自分の首を斬りつけ、鮮血が飛び散った。モルはやりどころのない悲しみと苦しみで、そのままチナの上にうずくまった。

長いこと沈黙が続いた。王妃は、モルを殺してしまいたかったが、どうしてもセマの言った秘め事の件が気になっているようだった。それで、思案の末、こう言った。
「モルに荷車を一台与えよ。そして、モルがその野生児を連れて安全に都から出られるように見守りたまえ」
武官が荷車を引いてきた。モルは、チナを優しく抱き上げ、静かにその荷車に乗せた。それから、自分の服をすべて脱いで、そっとチナの上に掛けた。そして、ゆっくりと荷車を引き始めた。ひっそりとした都の路上には、荷車の動いていく音だけが響いていただが。
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