第一部 山猫:(3)谷底

文字数 2,655文字

どのくらいの時間が経ったのか、モルは死んでないことに気がついただが。体中が痛く、身動きが取れない。それでも、岩だらけの谷底に居ることが分かった。目だけを動かして周りを見ようとしたがゴロゴロとした岩しか見当たらなかった。そうしている内にまた眠ってしまった。

次にモルが目を覚ましたのは、腕の傷口に激しい痛みを感じた時だった。それは、傷自体の痛みではなく、傷口に水を注いだ時に激しくしみるような痛みだった。目を開けると、なんとチナがモルの腕をペロペロと舐めている。動物が傷口を舐めることは知っていたが、チナの行為には、痛みを忘れるほど驚いた。兎に角、チナも助かったのだった! モルは涙が出てきた。同時に、チナも泣いている様子が見えた。まれに見る、チナの人間らしい表情だった。

この時、モルは思った。あんなに危険で難しい状況の中で、チナはどうすべきかを考えたに違いない。動物並みにすばしっこいチナ一人だったら、おそらく盗賊の間をぬって逃れることは簡単だったろう。それなのに、モルを助ける唯一の可能性として、わざとモルを谷底に突き落として自分もその後を追ったとしか思えない。チナには人間らしい判断力がある。いや、人並み以上かも知れない。そして、何より、命を救ってくれた事に感謝した。

その後、モルがチナの様子を伺うと、やはり、相当な怪我をしている。服を着ていないため、体中血だらけで、四つん這いで動いている。それでも、モルの所まで這いつくばって来たのだった。油断はしていられない。二人共早く回復しない限り、この谷底で一生を終える事になるだろう。モルは誓った。これからは、自分がチナの事を守ると。

その晩、二人共その場で身動きもせずに寝た。翌朝、チナはまだ死んだように寝ていた。モルは、力を振り絞って辺りを見回してみると、少し離れた所に荷車から転げ落ちたと思われる包が一つある事に気がついた。そこまで這いつくばって行き、中を見た。この時のモルの感激は計り知れなかった。中には、乾燥肉と漬物があったから。そして、すぐそこの、せせらぎまで行けば、水はいくらでもある。

モルの体には力が溢れてきた。必死になって、包をチナの横たわっている所まで運んだ。そして、チナの目が覚めると、食べ物を差し出した。チナは、まだガツガツ食べるだけの元気はなかったが、モルが与えた切れ端を少しずつ口に入れた。

そのまま、二人共ほとんど身動きもせずに、回復を待った。相当時間は経ったが、やっと歩けるようになった。この時、モルは自分から凄い悪臭がしている事に気がついた。初めてチナに出会った時に嗅いだような匂いだった。それで、せせらぎの水で体を洗った。その後、横で眺めていたチナの体も洗ってあげた。チナは、無表情のままではあったが、何かを思い出しているようでもあり、全く嫌がらなかった。

さて、チナとしては、部落で捕まって以来、オリから出て自由に行動出来るのは、これが初めてだった。モルは、チナがどういう行動をするのか、想像が出来なかった。それでも、どうやら二人で何とか生き延びなければならないという事は了解しているようだった。

チナは言葉を喋れないので、意思疎通の第一歩として、モルはチナの感情表現に注目した。平常時、チナは平然としていて、めったに表情変化を見せない。それでも、モルをペロペロしながら泣いているところを見たし、モルが誤ってチナの足を踏んでしまった時は、怒ったように両手でバタバタとモルを叩いた事もあった。しかし、それ以外、もっと複雑な感情表現というものは見受けられなかった。

それからもう一つ、モルはチナに言葉を教えようとしてみた。ところが、チナの発声はアーとか言うだけで、自由にいろいろな種類の音を出せないようだった。おそらく、発声器官が発達することがないまま成長してしまったのだろう。言語を話す機能にしても、言葉に反応する聴覚にしても、発達すべき時期を逃してしまったに違いないと思った。

それでも、モルとチナは何とか共同生活を続けた。モルは、岩陰に、木の枝と包の布を使って簡単な屋根を付け、寝場所をこしらえた。チナは崖っぷちに生えている木々になる小さな赤い実を集めて来て、二人で食べた。また、木の枝で投げ矢を作り、せせらぎに水を飲みに来た鳥を捕らえた。せせらぎを少し下流に行くと、池があり、そこには大きくはないが、魚がいることも分かった。それも、やはり矢を使って捕まえた。その他、これは二人共我慢しないと食べられなかったのだが、ゴボウのような、草の根っこさえ食用にした。

モルが調理のために火を起こすと、チナは全く怖がっている様子はなかった。モルは思った。野生動物のように、もし火を使う生活を全くしたことがなかったら、怖がるはずだ。つまり、チナは、少なくとも一時は他の人間と暮らしていたのではないか? また、日々の活動をするのに邪魔になるようで、チナは長い髪の毛をいろいろな形に結ぶようになった。モルには、これも誰かに習ったのではないかと思われた。

この谷底、両側はどうやっても登れない断崖絶壁、せせらぎの上流もすぐに険しい崖に突き当たる。この谷底から抜け出すには、せせらぎの下流に行くしかないと思われた。モルは、少し元気が出てきた時に、チナを誘って下流に向かおうとした。ところが、どうしたことか、チナは行きたがらない。何やら恐れているような様子で、駄々っ子のようにモルを引き留めようとする。

モルとしては、チナを置き去りにすることは出来ないが、このままここに居る訳にも行かないと思った。それで、チナが理解できない事は百も承知で、ゆっくりと状況を説明し、自分の計画を話してみた。
「チナ、俺はこれから下流に行ってみる。人里について食料を手に入れたら、すぐに戻って来る。それから、一緒にここを出よう」

チナは相変わらず一緒に行こうとはしなかったが、モルはチナにもう一度言い聞かせてから、決心して一人で下流に向かった。チナは何かを怯える様な表情で、池のあたりで留まった。その少し先は、薄暗い森の様になっている。両側は、依然として断崖絶壁だ。その森を見つめると、モルでさえ何だか不吉な予感がしたが、勇気を振るって森の中へと進んだ。

最初、森の中は静まり返っていた。ところが、それ程経たない内に、動物の走ってくる足音と、ハァハァとした動物の息遣いが聞こえ始め、モルはあっという間に数匹の狼に襲われた。狼はしきりにモルの手足に噛み付いてきた。モルは物凄い恐怖に襲われた。
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