第二部 猫姫:(3)旅

文字数 2,322文字

都の見える丘を後にした二人は、一日中歩いて、古びた宿屋にたどり着いただて。
「指南、これは随分と粗末な建物だが、崩れたりはしないだろうか?」
「お姫様、御心配は御無用です。そう見えても、これでなかなか、百年程も平気なようですから。屋根を見てご覧なさい。あれだけ立派な苔は、相当長いことかかって出来たものです」
「なるほど。それには気が付かなかった」

部屋に入ると、指南が言った。
「お姫様、宮殿を出てから、宿を取るのは初めてございます。まずは、湯にでも浸かって来てはいかがでしょうか?」
「それはいい考えだ。指南、一緒に来て体を流してくれるか?」
指南は慌てた。
「お姫様、それは出来ません。いくら何でもあっしは男ですから」
「構わん。兎に角来てくれ」

指南は仕方なく言われるまま姫について湯場まで行った。姫はさっさと服を脱ぐと、当たり前のように言った。
「早く流せ」
指南は、片手で目を覆いながら、手ぬぐいで手早く姫の背中を流した。
「お姫様、前はご自分でどうぞ」
「いや、指南がやってくれ。自分で流したことはない」
「し、しかし、お姫様、これからは俗世界で暮らさなければなりません。ご自分で体を流せないと何かと不都合があるかと」
「流石は、指南だ。よく頭が回る。では、やってみよう」

その後、宿屋の入り口に設けてある茶屋で夕食が出されるのを待った。
「指南、この宿屋は確かに古いようだ。この掛け軸には、かなり前に中国からの使者が滞在したと書いてある。年号からすると......、確かに百年以上前ではないか」
「ほ〜、お姫様は漢字が読めますか。それに、歴史の教養もお有りで」

「宮殿では毎日毎日、読み書きに歴史と、何の役にも立たない知識ばかり叩き込まれた。わたしには、もっと他の事の方が楽しかったのだが」
「例えば、どんな?」
「宮殿の中を散歩するとか......」
「ほ〜、優雅ですな」

出された食事は粗末なものだったが、姫には初めての物ばかりであった。
「皿の数は少ないが、どれも良い風味ではないか。おにぎりがないのが残念だが」
「おにぎりは、旅の最中に食べるのが一番です。明日の昼はおにぎりにしましょう」
「それから、指南の飲んでいるのは、酒か?」
「左様で」
「わたしにも飲ませてくれ。宮殿では、飲ませてくれなかった。母上は甚だ厳しかったから」
姫は一瞬泣きそうになったが、酒への好奇心で持ち直した。

「ところで、お姫様はお幾つですか?」
「指南、おなごに歳を聞くのは失礼ではないのか?」
「これはこれは。ひょっとして、宮殿では飲酒年齢とか言うものがあったのではないかと思いまして」
「何を言うか。ここは宮殿ではないから、宮殿の決まりは通用せぬ。それに、わたしより位の高い者は皆亡くなってしまった」
この時も、姫は悲しさを堪えている様子だったが、持ちこたえた。
「つまり、このわたしこそ、この国の王位継承の第一位ではないか。そのわたしの命令だ。酒を飲ませよ」

指南は仕方なく姫に味見をさせた。そして、思った。すると自分は王国の第一位の側近と言うことになるだろうか? さて、姫は酒を口に含むと随分と渋い顔をした。
「宮殿では、皆、喜んで飲んでいたから、もっと美味しいものかと思っていた。おそらく......、まだ飲みが足りないのだろう」
そう言うと、姫は続けざまにぶがぶと飲んでみせた。仕舞にはへべれけになっていまい、指南が部屋まで担いで行かなければならなかった。

翌朝、姫は起き上がる事が出来なかった。
「指南、どうにも気持ちが悪い。もう口から出すものはないはずなのに、出したい気持ちばかりがする。わたしは一生酒は飲まないことにする」
「お姫様、それは名案でございます。兎に角、仕方がないので、今日は、ここで休みましょう」
「わたしはとても歩けないが、籠と従者を用意してくれれば、出発できよう」
「申し訳ありませんが、ここではそう言うものは......」

数日の休息後、二人は宿屋を後にした。暫く歩いていくと姫がボソッと言った。
「どうやら二日酔いは治ったが、なんだかとても悲しい。こんなにいい天気なのに、心苦しい。あぁ、もう出来ないことは分かるが、それでも宮殿に戻って皆に会いたい。皆とかくれんぼでもしたい」
「かくれんぼとは、あの、子供の遊びのでございますか?」
「そうだが。どうしてだ? そうだ! それに、丁度良い。あそこに、あばら家がある。指南、二人でかくれんぼをしよう!!」

指南は、その場で目をつむって百まで数えさせられた。その間に、姫はどこかに隠れると言う。
「お姫様、百まで数えました。今から探しに行きますよ〜」
指南は、姫があばら家に隠れているに違いないと思い、すぐにそこまで行って、中を覗いてみた。猫の子一匹いなかった。それで、そのあばら家の中と周りを徹底的に調べた。どこにも姫の姿はなかった。この時やっと、姫は裏をかいたのだと気がついた。

「お姫様、どこですか? いい加減出てきて下さい」
「指南、こっちだ。早う来い」
その声は後ろの草むらの中から聞こえた。指南はやれやれと思いながらも声のした辺りまで来ると、思い切って草むらをかき分けた。姫は居なかった。
「お姫様、どこですか? いつの間に逃げたのですか?」

「指南、今度はこっちだ」
声は全く別の方から聞こえた。
「お姫様、まるで猫の様にすばしっこくて、隠れるのが上手でございますなぁ」
「宮殿では、わたしの事を密かに『猫姫』と呼んでいたそうな」

指南が声のする方へ行く度に、姫はどんどんと遠くに逃げ隠れていった。そのまま、随分と長いことかくれんぼが続いた。次に指南が草薮から顔を出すと、眼の前には泳げるほどの川が流れていた。そして、川辺に姫の服が脱ぎ捨てられてあるのが見えた。
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