第二部 猫姫:(2)脱出

文字数 2,558文字

「案内人のお方、名は何と申すか?」
「お姫様、あっしの名前なんぞ、大事な事ではございません。まぁ、あっしは、人の指南役という意味で、『指南』と呼ばれたりしますがね」
「そうか、では、わたしも指南と呼ぶことにしよう。ところで指南、どうしてこんなに急いで歩かなければならないのか?」
「それはですね、景色のとても良いところがあるのですが、少し遠いのです。夜通しせっせと歩いて、そこで、朝日を見る計画です」
「流石に指南役だけあって、よく考えてあるではないか。楽しみだ」

姫は眠さも忘れて夜通し歩き通しただて。その末に着いた所は小高い丘で、そこからは、星空の端に丁度登りだした朝日が見えた。
「指南、これは凄い! わたしはこんなに美しい景色を見たのは生まれて初めてだ!!」
「お姫様、それは、ようございます」

その後、そこで持参の弁当を食べ、暫く休息することにした。
「ところで、ここには床が用意されていないが、どうやって休めば良いのか?」

指南は、何とも面倒くさい事を言う姫だとは思ったが、平静を装って答えた。
「なるほど、流石はお姫様でいらっしゃる。そこで、お休みの仕方ですが......、今回は折角外出できたので、やはり、自然と親しむのが一番と思います。因みに、宮殿で耳にしたところでは、お姫様は、宮殿では、薮の中でも池の中でも自由に振る舞っていたと聞いておりますが。ここは、自然に恵まれた所でございます。どうぞ、ゆっくりと地面と直接触れ合って見てはいかがでしょうか?」
「そうか。それでは、そうやって休んでみよう」

二人共一寝入りした後、姫はあくびをしながら言った。
「あ〜、よく寝た。宮殿の床より、疲れていることの方が良く眠れるのだな」
それから、遠く四方を眺め回した。そして、ある方向を向いた時に、怪訝な顔をした。
「指南! あそこに煙の様なものが見えるが、何か? もしかして、あれは、わたしたちの宮殿ではないか?」
「お姫様、今まで言えなかった事があります。実は......」
指南は状況を説明した。

事実を知ると、姫は泣き出し、指南を両手で叩きながら言った。
「なんてことを! なんてことを!!」
指南はどう対応していいか分からなかった。姫は狂った勢いで叫び続けた。
「母上は、わたしだけ宮殿から逃がせて、死んでしまったのか! みんな死んでしまったのか!! わたしも一緒に死んだほうが良かったのに!!!」
姫はその場で一日中泣き通した。

指南はと言うと、実は、ここで姫を置き去りにして逃げるつもりであったのだが、姫の様子を見ていたところ、あまりに哀れだったので、姫が落ち着くまでは一緒に居てやろうと言う気になった。それに、この任務を授からなかったら、今頃自分も政変の犠牲になっていた事は間違いない。そういう意味では、この姫が命の恩人という事なのかとも思った。

「お姫様、悲しいことは良く分かります」
「分かるわけがないであろう。指南の母上は、こんな形で亡くなってしまったりはしなかったであろう」
「お姫様、それは確かです。ただ、あっしのお母は、あっしのことを、借金取りに売り飛ばしたような人間でございます。それに比べると、王妃様の決断は大変に尊いと言えます」

状況は全く変わらないまま、数日が過ぎた。このままでは二人共餓死してしまうと恐れ、指南は方策を考えた。
「お姫様、あっしら、何か食べないと死んでしまいます」
「わたしは死んでも構わない。いや、もう死にたい。指南、どこへでも好きな所へ行くがよい」

これを聞いて、指南は、しめた! と思った。姫の許しが出たではないか。それで、姫が寝入ってから音を立てずにその場を去った。慌てて丘を下っていく途中、暗闇で見えなかった石につまずき転んだ。立ち上がると、目の前に王妃が立ちふさがっていて、睨みをきかせている。ドキッとして、よくよく目をこすると、実は誰も居なかった。

指南は思った。やっぱり。あっしは王妃の霊に見張られているようだ。ここであの無知な姫をほったらかしにしたら、ほんとに地獄に落ちるかも知れない。もう少し我慢してやれ。あんな姫だって、落ち着けば、どこか遠い国の王子にでも嫁入り出来るかも知れない。それで、一番近い商い処まで行って食べ物を仕入れて、姫の所に戻って来た。

翌朝、指南は出来るだけ優しく姫に声をかけた。
「お姫様、とても特別な食べ物を仕入れて来ましたよ。美味しいものですから、是非お召し上がり下さい」
その言い方が効いたのか、姫は起き上がり食べ物を手に取った。
「指南、これは何と言うものだ? こんなに味の良いものは食べたことがない!」
「あの、お姫様、それは、おにぎりと言うものです」
「そうか、宮殿でもこういう高級品を出すべきだったのに」

二人は丘の上の木の下で何日も過ごした。その後、姫は少し元気を取り戻したようだった。
「指南、確かに、もう起こってしまった事は変えられない。わたしはこれからどうしたら良いのだ? 指南は人の指導をする事が多いと言っていたではないか。どうか、このわたしに、これからどうしたら良いか教えてくれないか?」

これを聞いて、指南は悪い気はしなかった。実際、今までに一度も指南に教えを求めた者など居なかったのだから。
「えへん、お姫様、恐縮でございます。それでは、よく考えてからあっしの考えをお伝えします」

暫く経ってから、指南がおもむろに言った。
「お姫様、お姫様はずっと宮殿の中だけで生活されてきました。そのため、外界の俗世界の事は全くご存知ではありません。それなのに、これからは、この俗世界で生きていかなければなりません。それ故、世の中の事を少しずつ学んでいくのが良いかと存じます」
「なるほど。流石に指南役だけのことはある。どうして、そんなに素晴らしい考えが浮かぶのだ? 今となっては、わたしが頼れるのは指南一人だけだ。頼むから、ずっとわたしの側に居ておくれ」

これを聞くと、指南は何とも言えない気分になった。今まで一匹狼の盗人として、数々の悪行を働いてきて、一度も人に頼られた事などない。それが、急に、一国一姫の唯一頼れる人間になった訳だ。
「お姫様、ご心配なく。あっしがずっとお姫様のお世話を致します。では、明日ここから出発して、お姫様が安心して暮らせるところを探す旅に出ることにしましょう」
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