或る侍の半生 後編
文字数 3,561文字
炎上する塔を目指し、駆ける。
時は寛永。妖忌は京の町を脅かす阿羅漢殺しを追っていた。
宝刀を求めて数百年、西へ東へ飛びまわり、人と妖と斬り結び、妖忌の手には今、楼観剣の一振りと確かな腕前がある。しかし未だに宝刀は戻らず、干し草の中の針を探すような旅は続いていた。
もはやこの獲物にも期待などしていない。奉行に突き出して路銀の足しにするのが関の山だろう。そうしてまた次の外れを掴むための道に就く。繰り返される徒労は確実に妖忌の心を擦り減らしていた。
現場に足を踏み入れる。騒ぎは既に炎と共に境内を覆い尽くし、火消しや捕方の声が妖忌のいる裏手まで聞こえてくる。
少し進むと、一人の坊主がほうほうの体で逃げてきた。道を開けようとした妖忌だったが、次の瞬間、坊主はどこからともなく現れた剣客の一刀を背中に受けて倒れた。
剣客は刀の血を落としながらこちらに向き直る。笠越しの視線は確かに妖忌の姿を捉えている。
「阿羅漢殺しと見受ける」
妖忌が抜く。
「いかにも」
剣客が構える。
飾り気のない短刀。だがその刀身に宿る煌きを見たとき、妖忌はそれが自分の追い続けた宝刀、主より賜りし白楼剣であることを確信した。
長い旅の終わりを前に、深い感慨を覚えながら、妖忌は最後の戦いに向けてそれを気迫へと変える。
「斬る」
一閃。必殺のつもりで放ったそれは空を切った。
後ろへ飛びのいた剣客は地を蹴り返し、踏み込みに転じる。
だが妖忌の反応は速く、返す刀の牽制で辛くも己の間合いを守る。
再び訪れた膠着の中で、妖忌の重い口角がわずかに上がった。気の遠くなるような長い旅の中、強者との邂逅だけが彼に生を実感させる。この感覚もこれで最後かと思うと、少し寂しくもあった。
ふと、剣を取り返した後のことを考えた。必ず戻ると誓った屋敷は、既に跡形もない。案外いまと変わらず流浪の旅を続けることになるのだろうか? 侍としての死に場所を探すのも悪くない。だが、本当に最後まで剣に生きることになった人生に空しさを感じている自分もいた。
感傷が妖忌の意識に揺らぎを来たしたのを、剣客は見逃さなかった。鋭い踏み込みで両者は肉薄する。
袈裟懸けに上体を反らす。くの字に折り返す足刈りを飛び越える。
続く振り下ろしを手刀で逸らすと、その手で敵の顔に裏拳を叩きこむ。怯んだ隙に蹴りだして距離を放す。
剣客は蹴られるに任せて一旦退こうとした。だが妖忌はそのまま詰め寄り、正中線へと縦一文字に斬り下ろす。剣客が咄嗟に横軸の動きを見せた結果、致命の一撃は肩口に食い込み、利き腕を切り落とすに終わった。
落ちた腕に握られた白楼剣を拾い上げる。刀を突きつけて脅すと、抵抗を諦めた剣客は鞘を差し出した。
白楼剣を納める。余韻に浸るのも束の間、追手の一人が到着した。黒服の女だった。
「彼岸の死神です。ご協力に感謝します」
深々と頭を下げた後、死神が続ける。
「彼の身柄はこちらで預かります。剣もこちらで回収します」
死神が受け手を出すと、妖忌は剣を後ろへやった。
「断る。この剣は儂のものだ」
「そうはいきません。我々にはそれの管理責任があります」
それから少しの説明と押し問答があったが、妖忌の気はそう長くなかった。
「知ったことか。それならお前を殺してでも奪い取るぞ」
妖忌が剣に手をかけると、死神はしばらく困った後で苦し紛れに答えた。
「分かりました、それでは上にかけあってみます。その代わり、処遇が決まるまでの間は何があってもその剣を抜かないと約束してください」
「……」
「これが最大の譲歩です。今は貴方と戦いたくありません。お願いします」
妖忌が渋々それを承諾すると、死神はもう一度深く頭を下げ、剣客を連れてどこかへ消えた。
それから一両日中に妖忌の所には彼岸の使いが、今度は数人でやってきた。
是非曲直庁へ連れられた妖忌はそこで交渉の末、白楼剣の所有を認められた。ただし、それには条件があった。それは直庁の監視が届くよう、その下部組織へ配属されることである。
もはや現世に執着する理由も無い。自由が奪われることに抵抗はあったが、老いと疲れに満ちた身を落ち着けるための場所が得られることを思えばそれも悪くない話だろう。
妖忌はこうして冥界は白玉楼、西行寺幽々子のもとへと向かった。
そこで彼が目にしたのは、かつて仕えた屋敷だった。色味や植え込みに僅かな違いはあったものの、屋根の形も建物の並びも、何もかもが脳裏に焼き付いた光景とそのまま同じである。
そして彼を待っていたのは、忘れもしない、かつて涙を飲んで別れた兵衛尉殿の娘だった。叶わぬと諦めていた再会に万感の思いを募らせる妖忌だったが、彼女の口から最初に出た言葉は、「初めまして」だった。
妖忌は地獄からまた別の地獄へ送られる囚人のように、次の責めを受けることとなった。
蘇る懐かしい日々の記憶は乾ききった妖忌の心に沁みわたる。彼女を想う気持ちは以前にも増して募るばかりだというのに、時間が、忘却が、あらゆる断絶が妖忌を拒んだ。何気ない仕草にかつての面影を見つけては、大人びた表情によってその同一性は反証される。そのたびに妖忌はここが自分の知るかつての屋敷でないことを痛感するのだ。
妖忌は鋏をとり、庭に手を入れた。白壁を塗り直し、砂利を入れかえた。屋敷はかつての姿を取り戻したが、それは幽々子という不可逆の変化を際立たせるばかりだった。
妖忌は幽々子に意図して冷たくあたった。それはかつての彼女が忘れられない故のことである一方、それに加えて妖忌にはこの愛という感情が人類に課されたある種の呪いのようにさえ思えていた。
これ以上の重荷を背負うことが厭だった妖忌は、確かに存在する愛を押し殺した。二人は同じ屋根の下に暮らしながら、日に二、三言と交わさないことも珍しくはなかった。
さて、妖忌は白玉楼に勤めてからも何度か顕界へ出向くことがあった。その時のことである。藪の中で一人の女が賊に襲われていた。
賊を斬り伏せた妖忌はそれから女を送り届けた。人里の入り口で別れようとすると、しかし女は妖忌を引き止めた。賊に襲われたとき、一緒にいた夫が女を捨てて逃げたのだという。夫の所へはもう戻れない。どうか嫁にしてくれ、と女は妖忌に縋りついた。
無理な相談である。妖忌の所在は冥界に、心は兵衛尉殿の娘にある。妖忌は初め、女の頼みを断った。だがなおも食い下がる女の必死な様を見れば見るほど、情が移る。そして思い出すのは、いつかの自分の姿だった。
あのとき行き倒れるよりほかなかった自分は、見ず知らずの他人の優しさによって命を繋いだ。次は自分が与えようという考えが起こった。もっとも、その後を押したのは凡人故の正義欲と、身を縛る古き愛からの解放だったが。
結局、妖忌は無い袖を振ることになった。冥界へ連絡を寄越すこともなく、人里外れの空き家に居を構えて二人での暮らしを始めた。
半ば仕方のない事とはいえ、こうなった以上生半可なことはできない。妻との初めての夜を前に、妖忌は白楼剣を抜いた。兵衛尉殿の娘を想う気持ちを断ち切らねば、妻への不義となってしまう。迷いを断ち切るため、妖忌は自らに白楼剣を突き立てた。
するとあろうことか、妖忌の身体から漏れ出した魂は完全に離れることなく彼に付き従うようになった。白楼剣というまったくもって公正な陪審員によって下された判決は、引き分けである。妖忌が迷いを抱いたまま一線を越えようとしていることは、客観的に立証されてしまったのだ。
さて、これより先の彼の心情を仔細に語ることはできない。というのは、この話の語り部がこの時に切り出された半霊だからである。
妖忌は結局半霊を、迷いを抱えたままに妻を受け入れた。
数日と経たぬうちに、妖忌の住まいは是非曲直庁の使いによって包囲された。「冥界へ戻れ」との通達である。
妖忌は死神たちを相手に剣を抜いた。鬼神の如き戦いぶりを見せた妖忌であったが、精鋭を相手に多勢に無勢。妖忌は妻の目の前で組み伏せられ、喉元に剣を突きつけられた。死神は「やむを得ぬ場合は殺害を許可されている」と明かした。
結局、妖忌は再び白玉楼へ勤めることとなった。妻へは仕送りと手紙を寄越すばかりで、それ以来一度も顔を合わせていない。
それから何十年も経って、白玉楼に妖夢が届けられた。
妖忌は妖夢を十歳まで育てた後、白楼剣によって半霊と袂を分かち、冥界を後にした。
時は寛永。妖忌は京の町を脅かす阿羅漢殺しを追っていた。
宝刀を求めて数百年、西へ東へ飛びまわり、人と妖と斬り結び、妖忌の手には今、楼観剣の一振りと確かな腕前がある。しかし未だに宝刀は戻らず、干し草の中の針を探すような旅は続いていた。
もはやこの獲物にも期待などしていない。奉行に突き出して路銀の足しにするのが関の山だろう。そうしてまた次の外れを掴むための道に就く。繰り返される徒労は確実に妖忌の心を擦り減らしていた。
現場に足を踏み入れる。騒ぎは既に炎と共に境内を覆い尽くし、火消しや捕方の声が妖忌のいる裏手まで聞こえてくる。
少し進むと、一人の坊主がほうほうの体で逃げてきた。道を開けようとした妖忌だったが、次の瞬間、坊主はどこからともなく現れた剣客の一刀を背中に受けて倒れた。
剣客は刀の血を落としながらこちらに向き直る。笠越しの視線は確かに妖忌の姿を捉えている。
「阿羅漢殺しと見受ける」
妖忌が抜く。
「いかにも」
剣客が構える。
飾り気のない短刀。だがその刀身に宿る煌きを見たとき、妖忌はそれが自分の追い続けた宝刀、主より賜りし白楼剣であることを確信した。
長い旅の終わりを前に、深い感慨を覚えながら、妖忌は最後の戦いに向けてそれを気迫へと変える。
「斬る」
一閃。必殺のつもりで放ったそれは空を切った。
後ろへ飛びのいた剣客は地を蹴り返し、踏み込みに転じる。
だが妖忌の反応は速く、返す刀の牽制で辛くも己の間合いを守る。
再び訪れた膠着の中で、妖忌の重い口角がわずかに上がった。気の遠くなるような長い旅の中、強者との邂逅だけが彼に生を実感させる。この感覚もこれで最後かと思うと、少し寂しくもあった。
ふと、剣を取り返した後のことを考えた。必ず戻ると誓った屋敷は、既に跡形もない。案外いまと変わらず流浪の旅を続けることになるのだろうか? 侍としての死に場所を探すのも悪くない。だが、本当に最後まで剣に生きることになった人生に空しさを感じている自分もいた。
感傷が妖忌の意識に揺らぎを来たしたのを、剣客は見逃さなかった。鋭い踏み込みで両者は肉薄する。
袈裟懸けに上体を反らす。くの字に折り返す足刈りを飛び越える。
続く振り下ろしを手刀で逸らすと、その手で敵の顔に裏拳を叩きこむ。怯んだ隙に蹴りだして距離を放す。
剣客は蹴られるに任せて一旦退こうとした。だが妖忌はそのまま詰め寄り、正中線へと縦一文字に斬り下ろす。剣客が咄嗟に横軸の動きを見せた結果、致命の一撃は肩口に食い込み、利き腕を切り落とすに終わった。
落ちた腕に握られた白楼剣を拾い上げる。刀を突きつけて脅すと、抵抗を諦めた剣客は鞘を差し出した。
白楼剣を納める。余韻に浸るのも束の間、追手の一人が到着した。黒服の女だった。
「彼岸の死神です。ご協力に感謝します」
深々と頭を下げた後、死神が続ける。
「彼の身柄はこちらで預かります。剣もこちらで回収します」
死神が受け手を出すと、妖忌は剣を後ろへやった。
「断る。この剣は儂のものだ」
「そうはいきません。我々にはそれの管理責任があります」
それから少しの説明と押し問答があったが、妖忌の気はそう長くなかった。
「知ったことか。それならお前を殺してでも奪い取るぞ」
妖忌が剣に手をかけると、死神はしばらく困った後で苦し紛れに答えた。
「分かりました、それでは上にかけあってみます。その代わり、処遇が決まるまでの間は何があってもその剣を抜かないと約束してください」
「……」
「これが最大の譲歩です。今は貴方と戦いたくありません。お願いします」
妖忌が渋々それを承諾すると、死神はもう一度深く頭を下げ、剣客を連れてどこかへ消えた。
それから一両日中に妖忌の所には彼岸の使いが、今度は数人でやってきた。
是非曲直庁へ連れられた妖忌はそこで交渉の末、白楼剣の所有を認められた。ただし、それには条件があった。それは直庁の監視が届くよう、その下部組織へ配属されることである。
もはや現世に執着する理由も無い。自由が奪われることに抵抗はあったが、老いと疲れに満ちた身を落ち着けるための場所が得られることを思えばそれも悪くない話だろう。
妖忌はこうして冥界は白玉楼、西行寺幽々子のもとへと向かった。
そこで彼が目にしたのは、かつて仕えた屋敷だった。色味や植え込みに僅かな違いはあったものの、屋根の形も建物の並びも、何もかもが脳裏に焼き付いた光景とそのまま同じである。
そして彼を待っていたのは、忘れもしない、かつて涙を飲んで別れた兵衛尉殿の娘だった。叶わぬと諦めていた再会に万感の思いを募らせる妖忌だったが、彼女の口から最初に出た言葉は、「初めまして」だった。
妖忌は地獄からまた別の地獄へ送られる囚人のように、次の責めを受けることとなった。
蘇る懐かしい日々の記憶は乾ききった妖忌の心に沁みわたる。彼女を想う気持ちは以前にも増して募るばかりだというのに、時間が、忘却が、あらゆる断絶が妖忌を拒んだ。何気ない仕草にかつての面影を見つけては、大人びた表情によってその同一性は反証される。そのたびに妖忌はここが自分の知るかつての屋敷でないことを痛感するのだ。
妖忌は鋏をとり、庭に手を入れた。白壁を塗り直し、砂利を入れかえた。屋敷はかつての姿を取り戻したが、それは幽々子という不可逆の変化を際立たせるばかりだった。
妖忌は幽々子に意図して冷たくあたった。それはかつての彼女が忘れられない故のことである一方、それに加えて妖忌にはこの愛という感情が人類に課されたある種の呪いのようにさえ思えていた。
これ以上の重荷を背負うことが厭だった妖忌は、確かに存在する愛を押し殺した。二人は同じ屋根の下に暮らしながら、日に二、三言と交わさないことも珍しくはなかった。
さて、妖忌は白玉楼に勤めてからも何度か顕界へ出向くことがあった。その時のことである。藪の中で一人の女が賊に襲われていた。
賊を斬り伏せた妖忌はそれから女を送り届けた。人里の入り口で別れようとすると、しかし女は妖忌を引き止めた。賊に襲われたとき、一緒にいた夫が女を捨てて逃げたのだという。夫の所へはもう戻れない。どうか嫁にしてくれ、と女は妖忌に縋りついた。
無理な相談である。妖忌の所在は冥界に、心は兵衛尉殿の娘にある。妖忌は初め、女の頼みを断った。だがなおも食い下がる女の必死な様を見れば見るほど、情が移る。そして思い出すのは、いつかの自分の姿だった。
あのとき行き倒れるよりほかなかった自分は、見ず知らずの他人の優しさによって命を繋いだ。次は自分が与えようという考えが起こった。もっとも、その後を押したのは凡人故の正義欲と、身を縛る古き愛からの解放だったが。
結局、妖忌は無い袖を振ることになった。冥界へ連絡を寄越すこともなく、人里外れの空き家に居を構えて二人での暮らしを始めた。
半ば仕方のない事とはいえ、こうなった以上生半可なことはできない。妻との初めての夜を前に、妖忌は白楼剣を抜いた。兵衛尉殿の娘を想う気持ちを断ち切らねば、妻への不義となってしまう。迷いを断ち切るため、妖忌は自らに白楼剣を突き立てた。
するとあろうことか、妖忌の身体から漏れ出した魂は完全に離れることなく彼に付き従うようになった。白楼剣というまったくもって公正な陪審員によって下された判決は、引き分けである。妖忌が迷いを抱いたまま一線を越えようとしていることは、客観的に立証されてしまったのだ。
さて、これより先の彼の心情を仔細に語ることはできない。というのは、この話の語り部がこの時に切り出された半霊だからである。
妖忌は結局半霊を、迷いを抱えたままに妻を受け入れた。
数日と経たぬうちに、妖忌の住まいは是非曲直庁の使いによって包囲された。「冥界へ戻れ」との通達である。
妖忌は死神たちを相手に剣を抜いた。鬼神の如き戦いぶりを見せた妖忌であったが、精鋭を相手に多勢に無勢。妖忌は妻の目の前で組み伏せられ、喉元に剣を突きつけられた。死神は「やむを得ぬ場合は殺害を許可されている」と明かした。
結局、妖忌は再び白玉楼へ勤めることとなった。妻へは仕送りと手紙を寄越すばかりで、それ以来一度も顔を合わせていない。
それから何十年も経って、白玉楼に妖夢が届けられた。
妖忌は妖夢を十歳まで育てた後、白楼剣によって半霊と袂を分かち、冥界を後にした。