人里にて
文字数 5,325文字
夕闇が人里を包みこむ。通りを行き交う人々は各々の家路に就き、次々と姿を消してゆく。
辺りがすっかり静まり返ったころ、橋の上に小さく丸まるようにして座る幼い少女の姿があった。
やがてそこに一人の女が通りかかり、少女の顔を覗きこんだ。
「嬢ちゃん、もう夜だよ」
少女は抱え込んだ膝に顔をうずめ、女と目を合わせようとしない。
「早く帰らないと、親御さんが心配するよ」
「……ないよ」
少女はぼそりと呟いた。
「帰る場所なんか、どこにもないよ。お父さんもお母さんも、妖怪に殺されちゃったから」
「そうか……。そいつぁ嫌なことを聞いちまったねえ」
女はばつの悪そうな様子でそう言った。
「ついてきなよ。飯、食ってないんだろ? 嬢ちゃん、名前は何ていうんだい?」
「妖夢。魂魄妖夢」
「そうか……。そいつぁ嫌なことを聞いちまったねえ」
女はばつの悪そうな様子で繰り返した。
人里を縦断する目抜き通りは煩いほどの活気に満ちていた。長かった冬が終わり、住人たちの活動は数日前と比べても目に見えて分かるほどに盛んになっている。柳の葉は色づき、道沿いを流れる運河も雪解け水によって水かさを増している。
妖夢は賑わう通りの一本向こう、人通りの少ない橋の上に佇んでいた。
孤独を味わうのはいつぶりだろうか? 古く曖昧な記憶を辿りながら、妖夢は水面に映る自分の顔に向けて深く溜め息を吐いた。
《随分と応えているな》
水面が答えているはずもなく、妖夢は半霊の方を振り返る。
「そりゃ応えるよ。情けないというか、不甲斐無いというか、なんというかもう……。ああ、ダメ。死にたい」
妖夢は橋の欄干にだらりともたれ掛かり、飛び込むような形で手を広げた。
《冗談のつもりならセンスがないな》
「割と冗談って気分でもないからね」
水面に映った顔が、力なく笑う。
「あなたはいいよね。フワフワ浮かびながら横から口出しするだけでいいんだから」
《随分な言い草だな。誰のせいで巻き添えを食ったと思っている?》
「別に誰もついてこいなんて言ってないし」
《私だって好きでついてきたわけじゃない。お前のような間抜けはこっちから願い下げだ》
妖夢は鉛のような上体を持ち上げて半霊に向き直った。
「何それ? じゃあ聞くけどね、あなたが私の立場だったら、あの時どうしていたっていうのよ?」
《それは……確かに私も腹が立った。今の幽々子様との距離感について、思うところがないといえば嘘になる。お前をけしかけてしまったことも事実だ。だが私ならもう少し思慮のある行動をしたはずだ。第一、主に牙をむくなんて士道不覚悟も……》
「あーはいあーもういいです私が悪うございましたどうせ私は腑抜けで間抜けで底抜けの馬鹿ですよ」
叩きつけるようにそう言うと、再び欄干にもたれた妖夢はそれきり半霊に答えることを止めた。やがて叱責に疲れた半霊が折れ、気怠い沈黙だけが残った。
しばらくの間、妖夢は遠くの雲が風に流されて形を変えていくのをぼんやりと眺めていた。茫洋たる前途から来る悩みを先延ばしに、午後の緩やかな時間だけがただ流れてゆく。
そうしていると、どこかで聞いたことのある調子外れな声がした。
「出たな、いつかのぼうれい剣士!」
渋々ふり返ると、初めて顕界に来たときに遭遇した魔法使いの少女が大げさな構えを取っている。
妖夢は何も見なかったことにして視線を空に戻した。しかし、少女は妖夢の真横まで寄ってきて同じポーズを取りなおす。
「出たな、いつかのぼうれい……」
「うるさーい」
妖夢は頬杖を突いたまま、空に向かって言葉を飛ばすような投げやりさで言った。
「ここであったが百年目。さあ、この前の決着をつけようぜ」
少女が妖夢の肩を揺さぶる。それでも体を起こそうとしない妖夢だったが、次第に橋の木材が軋みはじめると無反応でもいられなくなった。
「ああもう。いいよ、あなたの勝ちで。今そんな気分じゃないから放っといてよ」
少女の手を払い、逃げるように歩きだす妖夢。
「あっ、こら待てよ。どこに行くんだ?」
答えに窮した妖夢は十字路の中央に立ち止まった。
「……行く場所なんか、どこにもないよ」
少女に背を向けたまま答える。口にしてみると、その現実は嫌でも目の前に突きつけられた。俯いた妖夢には自分の足元しか見えていなかった。今にも泣きだしそうな沈鬱な顔を、誰にも見られたくなかった。
そのとき、後ろから手を掴まれた妖夢は慌てて振り返った。見ると、少女が妖夢の手を掴んでぐいぐいと反対の方向に引っ張っている。
「あ、ちょっ……何?」
「まあまあ、いいからいいから」
少女に引かれるがまま、もと来た橋を渡った。少女は手近にあった団子屋の店先の席まで来ると、妖夢の肩に手を回して無理やり隣に座らせる。
「おばちゃん、あん団子二本」
「あいよ」
勝手に注文を終えると、少女は居心地悪そうに目を伏せていた妖夢に話しかけた。
「そういえば、名前がまだだったな。私は霧雨魔理沙 。お前は?」
「何なのよ?」
「そうかそうか。よろしくな、なんなの」
「何のつもりかって聞いてるの。何? また私のことを馬鹿にしにきたの?」
魔理沙と名乗った少女は白い歯を見せて笑った。
「バーカ。違うって」
調子の狂うやつだな、と妖夢は心中で漏らす。
「何となく、面白そうだと思ったから話が聞きたくなっただけだ。お前、この前のなんなのとは別人みたいなしおらしさじゃないか。何かあったなら聞かせてくれよ」
魔理沙は受け取った団子の一本を妖夢の前に突き出した。
相も変わらず図々しいやつだと思いながら、妖夢は内心で救われたような気分でもあった。
実に今朝白玉楼を出てからというもの、妖夢は半霊以外の誰とも口を利いていない。知った顔と出会わぬよう、馴染みの店から足を遠ざけていたためだ。
妖夢は透明人間にでもなったかのような孤独を感じていた。この世界の誰一人として、自分を必要としていない。そんな考えに頭を支配されていた。
そこに響いた魔理沙の声が、繋がれた手が、深い孤独の海に沈みかかっていた妖夢の心を繋ぎ止めてくれたような気がしたのだ。
団子を奪い取るように受け取る。
「魂魄妖夢」
「へ?」
「私の名前。なんなのじゃなくて、魂魄妖夢よ」
「へー、変な名前だな。じゃあよろしくな、へんなの」
妖夢は魔理沙の食べようとしている団子を喉の奥へと押しこんだ。
それから妖夢は自分の境遇や今の心境を語った。
魔理沙のわざとらしいほどに適当な相槌には多少の苛立ちも覚えたが、もとより仲良くする必要もないと思えば後は野となれ山となれ、穴の中に秘密を吐露する理髪師のような気分で余すことなくすべてを打ち明けられた。
「へー。いろいろと大変なんだな」
「なんか、すっごい雑に流された気がするんですけど」
「逆に何を期待していたんだよ? 私は話が聞きたいだけだと言ったはずだぜ」
「う……そうだったね」
「まああれだ。聞いてて退屈しない程度には面白かったぜ。私から言うことがあるとしたら、そうだな……巫女に負けるのはこの辺じゃよくあることだから気にするな」
「何それ?」
魔理沙は徐に立ち上がった。
「何でもない。ただこの幻想郷には巫女は負けてもいい人類って言い伝えがあるだけだ。さ、食べたなら行けよ。ここは私が払っとくから」
魔理沙が勘定をしようと店員を呼んだのを見て、妖夢は慌てて財布を探した。
「いいよ、私も払う」
そう言って妖夢が幽々子にもらった小判を取り出すと、店の女は驚いたような顔をした。魔理沙はすぐに妖夢の手を押し返すと、その場を取り繕いながらさっさと一人で勘定を済ませてしまった。そしてそのまま先刻のように妖夢を引っ張り、人気のない路地裏へと連れこんだ。
「お前、ちょっと財布の中身を見せてみろ」
妖夢は警戒心をあからさまに見せながら「嫌だ」と言った。
「いいから見せろって。手元にある全財産、ここに出してみろ」
「嫌だ。泥棒でもするつもり?」
「はぁ? 私は人の物を盗ったことなんて一度もないぜ」
妖夢はじっと魔理沙の目を見つめた。
「いや、やっぱり信用できない。だったらあなたの財布も私に預けてよ」
「……分かったよ」
魔理沙の財布には手の込んだ星の刺繍が施されていた。当人とのギャップに思わず吹き出しそうになった妖夢だが、魔理沙が「笑ったら殺す」とでも言わんばかりの目でこちらを睨んでいるのに気づいて何とか堪えた。
魔理沙は妖夢の財布を検めると、「うわー、やっぱり」と言ってそれを投げ返した。
「お前、多分それじゃこの先お団子の一本も買えないぜ」
「そんな馬鹿な。これは私の十年分の賃金だって……」
「だろうね。十年分で十枚、一枚で一年分。いいとこのお屋敷で働くお前の年収だ。ここじゃ三年は遊んで暮らせるぜ。そんな大金を出されて、釣りが用意できる店なんてそうそうあると思うか?」
「あ……」
妖夢は自分の金銭感覚が如何にお粗末なものだったかを実感した。そしてまた幽々子の優しさを思い、複雑な気分になった。
「はぁ……仕方ないな。おい、行くぞ」
魔理沙はすでに妖夢の手を引いていた。
「行くって、どこに?」
「両替屋だよ。私の気が変わらないうちに、さっさとしろ」
妖夢を引っ張る魔理沙の手は、少し乱暴だった。
両替屋は白壁の立派な建物だった。妖夢も一度中を覗いたことはあるが、説明を聞いてもいまいち仕組みが理解できないまま「よく分からないことをしているところ」という認識を持っていた。
魔理沙に言われるままに座敷の上の男と天秤を挟んで向かいあい、その上に金を乗せる。何やらややこしい表を見せられながら、魔理沙の口利きに任せて金を預ける。男が奥へ引っ込み、それからしばらく時間が経った。
「ねえこれ、本当に大丈夫?」
「さあ。もしかしたら狐にでもつままれたのかもな」
「狐はそんなことしないと思うけどなぁ」
「分からないぜ。意地の悪い飼い主が裏に控えていたら?」
「……するかも」
折しも開け放たれた店の戸口から一匹の子猫が入ってきて妖夢の足元にすり寄った。しばらく戯れていたが、男はまだ帰ってこない。
「……ちょっと、どうなってるのよ?」
「大丈夫だよ。ちょっと多いから手間取ってるだけだ。ここは老舗だから、ちょろまかすような奴は雇っていないはずだ。安心しろ」
するとようやく男が戻ってきた。何やらその後ろには二人の男がついてきている。
最初にいた男が妖夢の相手をする一方、残りの二人は魔理沙の方へ向かっていった。
「おお、ほんまや。霧雨の嬢ちゃんやんか。久しぶりやけど、元気にしとったか?」
「あ、ええ、それなりには」
男たちに捕まった途端、魔理沙はさっきまでの態度が嘘だったかのように大人しくなった。
「今年でええと、いくつになるんやったか。確か、十四か?」
「アホ。十五や。うちの子と同い年」
「ああ、そうやったそうやった。どや?嬢ちゃん。そろそろ外でええ男でも見つけたか?」
「いえ、そのうちおいおい……」
「気ぃつけや。ボーっとしとったら十代なんかアッちゅう間やで」
「ええ……そうですね」
魔理沙は妖夢の両替が終わったのを見ると、先刻よりさらに強い力で妖夢の腕を掴んだ。
「あの、今日は友達がいるのでそろそろ……」
「え、いいよ。私なら気にしないで……痛たたたっ!」
魔理沙が今日一番の力で手首を締めつける。
「そうか。またいつでもゆっくりしていきや」
「はい、ありがとうございました」
魔理沙は逃げるように妖夢を連れて店を飛びだした。白壁を見つめる表情が苦々しい。
「はぁ……だから嫌だったんだよ」
「えっと、よく分からないけどごめんね」
「気にするな。私が勝手に連れ込んだんだ。まあ、見なかったことにしてくれると助かる」
妖夢はこの奇妙な少女の事情を詮索したい気持ちが無いでもなかった。破天荒な彼女が見せた意外な一面に、妙な親近感を覚えたのだ。
しかしきっと答えてくれないだろうという諦めと、彼女との関係に積極的になることへの躊躇いがあった。先月の諍いを引きずっているというのもあるが、それ以前に妖夢は白玉楼を出るまで同い年の相手と会話したことがなかったのだ。
気まずい沈黙の中で妖夢が次の言葉を探していると、通りの方から聞こえる声が少しずつ大きくなってきた。
「逃げろー!妖怪が火を出したぞー!」
向こうから怯えた様子の住人たちが逃げてくる。彼らの来た方向を見ると、揺らぐ空気の中に黒煙が上りはじめていた。
辺りがすっかり静まり返ったころ、橋の上に小さく丸まるようにして座る幼い少女の姿があった。
やがてそこに一人の女が通りかかり、少女の顔を覗きこんだ。
「嬢ちゃん、もう夜だよ」
少女は抱え込んだ膝に顔をうずめ、女と目を合わせようとしない。
「早く帰らないと、親御さんが心配するよ」
「……ないよ」
少女はぼそりと呟いた。
「帰る場所なんか、どこにもないよ。お父さんもお母さんも、妖怪に殺されちゃったから」
「そうか……。そいつぁ嫌なことを聞いちまったねえ」
女はばつの悪そうな様子でそう言った。
「ついてきなよ。飯、食ってないんだろ? 嬢ちゃん、名前は何ていうんだい?」
「妖夢。魂魄妖夢」
「そうか……。そいつぁ嫌なことを聞いちまったねえ」
女はばつの悪そうな様子で繰り返した。
人里を縦断する目抜き通りは煩いほどの活気に満ちていた。長かった冬が終わり、住人たちの活動は数日前と比べても目に見えて分かるほどに盛んになっている。柳の葉は色づき、道沿いを流れる運河も雪解け水によって水かさを増している。
妖夢は賑わう通りの一本向こう、人通りの少ない橋の上に佇んでいた。
孤独を味わうのはいつぶりだろうか? 古く曖昧な記憶を辿りながら、妖夢は水面に映る自分の顔に向けて深く溜め息を吐いた。
《随分と応えているな》
水面が答えているはずもなく、妖夢は半霊の方を振り返る。
「そりゃ応えるよ。情けないというか、不甲斐無いというか、なんというかもう……。ああ、ダメ。死にたい」
妖夢は橋の欄干にだらりともたれ掛かり、飛び込むような形で手を広げた。
《冗談のつもりならセンスがないな》
「割と冗談って気分でもないからね」
水面に映った顔が、力なく笑う。
「あなたはいいよね。フワフワ浮かびながら横から口出しするだけでいいんだから」
《随分な言い草だな。誰のせいで巻き添えを食ったと思っている?》
「別に誰もついてこいなんて言ってないし」
《私だって好きでついてきたわけじゃない。お前のような間抜けはこっちから願い下げだ》
妖夢は鉛のような上体を持ち上げて半霊に向き直った。
「何それ? じゃあ聞くけどね、あなたが私の立場だったら、あの時どうしていたっていうのよ?」
《それは……確かに私も腹が立った。今の幽々子様との距離感について、思うところがないといえば嘘になる。お前をけしかけてしまったことも事実だ。だが私ならもう少し思慮のある行動をしたはずだ。第一、主に牙をむくなんて士道不覚悟も……》
「あーはいあーもういいです私が悪うございましたどうせ私は腑抜けで間抜けで底抜けの馬鹿ですよ」
叩きつけるようにそう言うと、再び欄干にもたれた妖夢はそれきり半霊に答えることを止めた。やがて叱責に疲れた半霊が折れ、気怠い沈黙だけが残った。
しばらくの間、妖夢は遠くの雲が風に流されて形を変えていくのをぼんやりと眺めていた。茫洋たる前途から来る悩みを先延ばしに、午後の緩やかな時間だけがただ流れてゆく。
そうしていると、どこかで聞いたことのある調子外れな声がした。
「出たな、いつかのぼうれい剣士!」
渋々ふり返ると、初めて顕界に来たときに遭遇した魔法使いの少女が大げさな構えを取っている。
妖夢は何も見なかったことにして視線を空に戻した。しかし、少女は妖夢の真横まで寄ってきて同じポーズを取りなおす。
「出たな、いつかのぼうれい……」
「うるさーい」
妖夢は頬杖を突いたまま、空に向かって言葉を飛ばすような投げやりさで言った。
「ここであったが百年目。さあ、この前の決着をつけようぜ」
少女が妖夢の肩を揺さぶる。それでも体を起こそうとしない妖夢だったが、次第に橋の木材が軋みはじめると無反応でもいられなくなった。
「ああもう。いいよ、あなたの勝ちで。今そんな気分じゃないから放っといてよ」
少女の手を払い、逃げるように歩きだす妖夢。
「あっ、こら待てよ。どこに行くんだ?」
答えに窮した妖夢は十字路の中央に立ち止まった。
「……行く場所なんか、どこにもないよ」
少女に背を向けたまま答える。口にしてみると、その現実は嫌でも目の前に突きつけられた。俯いた妖夢には自分の足元しか見えていなかった。今にも泣きだしそうな沈鬱な顔を、誰にも見られたくなかった。
そのとき、後ろから手を掴まれた妖夢は慌てて振り返った。見ると、少女が妖夢の手を掴んでぐいぐいと反対の方向に引っ張っている。
「あ、ちょっ……何?」
「まあまあ、いいからいいから」
少女に引かれるがまま、もと来た橋を渡った。少女は手近にあった団子屋の店先の席まで来ると、妖夢の肩に手を回して無理やり隣に座らせる。
「おばちゃん、あん団子二本」
「あいよ」
勝手に注文を終えると、少女は居心地悪そうに目を伏せていた妖夢に話しかけた。
「そういえば、名前がまだだったな。私は
「何なのよ?」
「そうかそうか。よろしくな、なんなの」
「何のつもりかって聞いてるの。何? また私のことを馬鹿にしにきたの?」
魔理沙と名乗った少女は白い歯を見せて笑った。
「バーカ。違うって」
調子の狂うやつだな、と妖夢は心中で漏らす。
「何となく、面白そうだと思ったから話が聞きたくなっただけだ。お前、この前のなんなのとは別人みたいなしおらしさじゃないか。何かあったなら聞かせてくれよ」
魔理沙は受け取った団子の一本を妖夢の前に突き出した。
相も変わらず図々しいやつだと思いながら、妖夢は内心で救われたような気分でもあった。
実に今朝白玉楼を出てからというもの、妖夢は半霊以外の誰とも口を利いていない。知った顔と出会わぬよう、馴染みの店から足を遠ざけていたためだ。
妖夢は透明人間にでもなったかのような孤独を感じていた。この世界の誰一人として、自分を必要としていない。そんな考えに頭を支配されていた。
そこに響いた魔理沙の声が、繋がれた手が、深い孤独の海に沈みかかっていた妖夢の心を繋ぎ止めてくれたような気がしたのだ。
団子を奪い取るように受け取る。
「魂魄妖夢」
「へ?」
「私の名前。なんなのじゃなくて、魂魄妖夢よ」
「へー、変な名前だな。じゃあよろしくな、へんなの」
妖夢は魔理沙の食べようとしている団子を喉の奥へと押しこんだ。
それから妖夢は自分の境遇や今の心境を語った。
魔理沙のわざとらしいほどに適当な相槌には多少の苛立ちも覚えたが、もとより仲良くする必要もないと思えば後は野となれ山となれ、穴の中に秘密を吐露する理髪師のような気分で余すことなくすべてを打ち明けられた。
「へー。いろいろと大変なんだな」
「なんか、すっごい雑に流された気がするんですけど」
「逆に何を期待していたんだよ? 私は話が聞きたいだけだと言ったはずだぜ」
「う……そうだったね」
「まああれだ。聞いてて退屈しない程度には面白かったぜ。私から言うことがあるとしたら、そうだな……巫女に負けるのはこの辺じゃよくあることだから気にするな」
「何それ?」
魔理沙は徐に立ち上がった。
「何でもない。ただこの幻想郷には巫女は負けてもいい人類って言い伝えがあるだけだ。さ、食べたなら行けよ。ここは私が払っとくから」
魔理沙が勘定をしようと店員を呼んだのを見て、妖夢は慌てて財布を探した。
「いいよ、私も払う」
そう言って妖夢が幽々子にもらった小判を取り出すと、店の女は驚いたような顔をした。魔理沙はすぐに妖夢の手を押し返すと、その場を取り繕いながらさっさと一人で勘定を済ませてしまった。そしてそのまま先刻のように妖夢を引っ張り、人気のない路地裏へと連れこんだ。
「お前、ちょっと財布の中身を見せてみろ」
妖夢は警戒心をあからさまに見せながら「嫌だ」と言った。
「いいから見せろって。手元にある全財産、ここに出してみろ」
「嫌だ。泥棒でもするつもり?」
「はぁ? 私は人の物を盗ったことなんて一度もないぜ」
妖夢はじっと魔理沙の目を見つめた。
「いや、やっぱり信用できない。だったらあなたの財布も私に預けてよ」
「……分かったよ」
魔理沙の財布には手の込んだ星の刺繍が施されていた。当人とのギャップに思わず吹き出しそうになった妖夢だが、魔理沙が「笑ったら殺す」とでも言わんばかりの目でこちらを睨んでいるのに気づいて何とか堪えた。
魔理沙は妖夢の財布を検めると、「うわー、やっぱり」と言ってそれを投げ返した。
「お前、多分それじゃこの先お団子の一本も買えないぜ」
「そんな馬鹿な。これは私の十年分の賃金だって……」
「だろうね。十年分で十枚、一枚で一年分。いいとこのお屋敷で働くお前の年収だ。ここじゃ三年は遊んで暮らせるぜ。そんな大金を出されて、釣りが用意できる店なんてそうそうあると思うか?」
「あ……」
妖夢は自分の金銭感覚が如何にお粗末なものだったかを実感した。そしてまた幽々子の優しさを思い、複雑な気分になった。
「はぁ……仕方ないな。おい、行くぞ」
魔理沙はすでに妖夢の手を引いていた。
「行くって、どこに?」
「両替屋だよ。私の気が変わらないうちに、さっさとしろ」
妖夢を引っ張る魔理沙の手は、少し乱暴だった。
両替屋は白壁の立派な建物だった。妖夢も一度中を覗いたことはあるが、説明を聞いてもいまいち仕組みが理解できないまま「よく分からないことをしているところ」という認識を持っていた。
魔理沙に言われるままに座敷の上の男と天秤を挟んで向かいあい、その上に金を乗せる。何やらややこしい表を見せられながら、魔理沙の口利きに任せて金を預ける。男が奥へ引っ込み、それからしばらく時間が経った。
「ねえこれ、本当に大丈夫?」
「さあ。もしかしたら狐にでもつままれたのかもな」
「狐はそんなことしないと思うけどなぁ」
「分からないぜ。意地の悪い飼い主が裏に控えていたら?」
「……するかも」
折しも開け放たれた店の戸口から一匹の子猫が入ってきて妖夢の足元にすり寄った。しばらく戯れていたが、男はまだ帰ってこない。
「……ちょっと、どうなってるのよ?」
「大丈夫だよ。ちょっと多いから手間取ってるだけだ。ここは老舗だから、ちょろまかすような奴は雇っていないはずだ。安心しろ」
するとようやく男が戻ってきた。何やらその後ろには二人の男がついてきている。
最初にいた男が妖夢の相手をする一方、残りの二人は魔理沙の方へ向かっていった。
「おお、ほんまや。霧雨の嬢ちゃんやんか。久しぶりやけど、元気にしとったか?」
「あ、ええ、それなりには」
男たちに捕まった途端、魔理沙はさっきまでの態度が嘘だったかのように大人しくなった。
「今年でええと、いくつになるんやったか。確か、十四か?」
「アホ。十五や。うちの子と同い年」
「ああ、そうやったそうやった。どや?嬢ちゃん。そろそろ外でええ男でも見つけたか?」
「いえ、そのうちおいおい……」
「気ぃつけや。ボーっとしとったら十代なんかアッちゅう間やで」
「ええ……そうですね」
魔理沙は妖夢の両替が終わったのを見ると、先刻よりさらに強い力で妖夢の腕を掴んだ。
「あの、今日は友達がいるのでそろそろ……」
「え、いいよ。私なら気にしないで……痛たたたっ!」
魔理沙が今日一番の力で手首を締めつける。
「そうか。またいつでもゆっくりしていきや」
「はい、ありがとうございました」
魔理沙は逃げるように妖夢を連れて店を飛びだした。白壁を見つめる表情が苦々しい。
「はぁ……だから嫌だったんだよ」
「えっと、よく分からないけどごめんね」
「気にするな。私が勝手に連れ込んだんだ。まあ、見なかったことにしてくれると助かる」
妖夢はこの奇妙な少女の事情を詮索したい気持ちが無いでもなかった。破天荒な彼女が見せた意外な一面に、妙な親近感を覚えたのだ。
しかしきっと答えてくれないだろうという諦めと、彼女との関係に積極的になることへの躊躇いがあった。先月の諍いを引きずっているというのもあるが、それ以前に妖夢は白玉楼を出るまで同い年の相手と会話したことがなかったのだ。
気まずい沈黙の中で妖夢が次の言葉を探していると、通りの方から聞こえる声が少しずつ大きくなってきた。
「逃げろー!妖怪が火を出したぞー!」
向こうから怯えた様子の住人たちが逃げてくる。彼らの来た方向を見ると、揺らぐ空気の中に黒煙が上りはじめていた。