白玉楼階段の幻闘
文字数 5,851文字
「まあ世の中にはそういう話もあるのよ、妖夢」
幽々子は羊羹に楊枝を入れながら言った。
「そうですね。可哀想ですが、博士のご冥福をお祈りするばかりです」
妖夢は空になった自分の湯呑みに急須から茶を注ぐ。
「あら、祈られちゃった。私、頑張らないと」
「いや、ここには来ませんよ。架空の人物ですから」
あれから数日、妖夢はほぼ毎日人里に通っていた。
新しい刺激に触れた妖夢は自分に旺盛な好奇心が備わっていることを知った。屋台や見世物などはもちろん、里に暮らす人々の生活の何もかもが珍しく、妖夢の耳目を大いに愉しませた。そして夕方になって帰ってくると、土産を食べながらその日に見聞きしたことをこうして幽々子に話すのだ。
今日も先ほどまでは通りでやっていた人形劇の話をしていたところである。ある英国紳士が凶悪な第二の人格によって身を亡ぼす話だ。
「冗談よ。頑張らない頑張らない」
「そんなに堂々とサボられても困ります。どこかの死神じゃないんですから」
妖夢は最後の一切れの羊羹を食べようとして、それが無くなっていることに気付く。
「そいつぁ聞き捨てならないねえ」
役者のような台詞に振り向くと、いつの間にかそこには女がいた。
赤毛の女は長身で体格がよく、この寒さにもかかわらず半袖の服を着崩している。
右手に楊枝を持った女は羊羹を口に含んだまま続けた。
「まあ聞きな。蟻の中には働きもんと怠けもんってのがいる。だけどね、怠けもんたちがいなくなっちまうと、その巣が立ち行かなくなるって話だ。なんでも日頃からどいつもこいつも働いてちゃ組織が疲弊するんだと。何が言いてぇかってな、あたいはサボってるように見えていざというときのために力を蓄えてるってこった」
妖夢は女を睨んだ。
「小町さん、あなたただの船頭ですよね? いざというときって何ですかね? 船でも沈めるつもりですかね? いろいろと蓄えすぎなんじゃないですかねぇっ!」
「きゃん!」
小町と呼ばれた女は飲み込むと同時に腹を強く抓まれてむせかえる。
「馬鹿野郎。船頭つってもお前ぇ、こちとら三途の川の一級案内人だぞ。いざ人手が足りないとなりゃ、溜まり溜まった魂ぜんぶ彼岸彼方までぶん投げてやらぁ」
「船、関係ないじゃないですか!彼岸じゃそんな雑な仕事が許されるんですか?」
「心配ねぇって。どこも案外適当なもんだよ。客に舟を漕がせるウチの先輩、書類に「全略」って書いて左遷されてきた新顔、変なTシャツを売りはじめる観光部、そんなもんに金つっこんで船の修理費を渋る経理部……あと、書類を溜めこむ冥界の管理者とかな」
幽々子の皿からはいつの間にかまだ三つも残っていた羊羹が消え去っている。
「あらやだ。私はいざというときのために書類を溜めこんでいるだけよ」
「……幽々子様、お願いですから同じレベルで話さないでください」
妖夢はいたたまれない気分で主人を諫める。
「それで、今日は催促でもしに来たのかしら?」
「いやあ、まさかまさか。お姫さんのご尊顔を拝しにきただけだよ。それと、ここの綺麗な庭をね。それにしても、ここは妙に温かいねえ」
春を集めはじめてから数日、すでにはっきりと分かるほど顕界との間には温度差ができており、桜の蕾も増えてきた。
しかしその一方で、妖夢は肝を冷やした。
この女の名は小野塚小町 。死神であり、彼岸は三途の川にて死者の魂を運ぶ船頭だ。
川を渡った先には是非曲直庁 という裁判機関があり、閻魔大王の判決のもとに冥界、地獄、天界への魂の振り分けを担っている。死神たちは皆この是非曲直庁に所属する、言うなれば閻魔の手先である。故に、幽々子の計画について知られるわけにはいかない。
妖夢がまごついていると、幽々子が口を開いた。
「妖夢が春を集めてきてくれたのよ、顕界から」
「ゆ、幽々子様ぁ?」
何の躊躇いもなく秘密を暴露する幽々子。妖夢は開いた口が塞がらないといった様で二人のやり取りを見ているしかなかった。
「へぇ。春を集める、ねえ。そんなことができるもんかい。あたいにも教えてほしいもんだ」
「ふふふ、企業秘密よ」
「ちぇ。しかし、こいつぁいいや。これから毎年やるのかい?」
「さあ、どうでしょう。楽しみにしているといいわ」
「いやあ、持つべきものはいい得意先だねえ」
妖夢は自分の心配が杞憂であったことを思い知る。
この死神、再三言われている通りのサボり魔である。渡し守の仕事を適当に放り出しては人里で遊びまわっているようで、気まぐれで白玉楼に顔を出すのもいつものことだ。
そして彼女は告げ口をするような無粋な死神でもなければ、公務のために秘密の楽園を手放すような殊勝な死神でもない。
「そりゃそうと妖夢。お前さん顕界に行ったんなら、人里には寄ったかい?」
「誰かさんに土産を取られたばかりですよ」
「へえ、そうか。寄ったのか」と小町は何か一人で納得したようにうなずいた。
「まあそう根に持ちなさんな。近いうちに人里の面白い場所を教えてやるから」
すると妖夢は初めて小町の方に体を向けた。
「どんな場所ですか?」
「そうだな、やっぱり一番は賭場だろうねえ」
「じゃあいいです」
妖夢は呆れた様子で体を戻した。
「つれないねえ。博打を知らないたぁ、人生の半分は損してるよ」
「まだまだ半人前ですから」
「相変わらず妖夢は硬いねえ」
小町は大げさに肩をすくめてみせる。
「いや、まあこれでも爺さんが出ていってすぐの頃よりはあか抜けてきたもんか。こりゃ先が楽しみだ」
「心配しなくても小町さんみたいにはなりませんよ」
そうは言いつつも、妖夢は小町にどこか憧れている節があった。幼いころから修行一筋の妖夢にとって、顕界の土産話を持ってくる小町はその奔放な振る舞いと相まってエキゾチックな魅力を持っていた。面倒見のいい小町のことを、妖夢は年の離れた姉のように慕っていた。
ところが家督を継いでからというもの、妖夢は小町を小馬鹿にした態度を取るようになった。魂魄家の家長としての自覚が、この怠け者に同じることを許さないのだ。あるいは負けず嫌いな妖夢が勤勉さをもって小町に対抗しようとしているのかもしれない。
しかし、この張り合いは決まって不毛な結果に終わるのであった。
「はっはっは、泣き虫妖夢がよく言ったもんだ」
「む、昔の話を持ち出すなんて、卑怯です!」
「あたいに言わせりゃ五つも十五も変わりゃしないよ」
「むぅ……やっぱり小町さんはずるいです」
妖夢が拗ねてそっぽを向いたのを見ると、幽々子が助け舟を出した。
「まあまあ、妖夢も毎日人里のことはちゃんと楽しんでいるじゃない。それにね、小町。この子も飛べるようになったり魔法使いと戦ったり、いろいろ成長しているのよ」
「ほー。それは面白そうな話だねえ。その話、詳しく聞かせてくれるかい?」
それから顕界での出来事を話しているうちに日が暮れ、小町は帰っていった。
「それにしても、冷や冷やしましたよ」
妖夢は盆を棚の上にしまおうと踵を浮かせた。
「小町さんだからよかったようなものの」
「小町だから言ったのよ」
得意げに言ってのける幽々子に、妖夢は呆れた。
「はぁ。何といいますか、私の周りはみんなどうしてこう緩い方々ばかりなのでしょうね?」
「ね。困ったものね」
「いや、あなたもですよ?」
「きゃっ。怒られちゃった」
幽々子はわざとらしく縮みあがった。
「まあでも、今回に限ってはそれに感謝するばかりですね。幻想郷の方からもしばらく苦情は来ないでしょうから」
「寝坊助さまさまね」
二人は知人の寝顔を想像し、悪い笑みを浮かべた。
幻想郷の管理者は幽々子と旧知の仲であり、この白玉楼にも足繁く通っている。しかしそれは冬を除いてのことだ。
彼女には冬眠の習慣がある。春を盗むということは、同時に彼女の目覚まし時計を盗むようなものである。
「でもそうね、もし私たちの邪魔をする者がいるとしたら、それはきっと巫女でしょうね」
「博麗 の巫女、ですか」
妖夢も話には聞いている。幻想郷の管理者たる知人の曰く、彼女がブレインなら相方の巫女は実働部隊。異変解決と妖怪退治のプロフェッショナルだそうだ。結界があるといっても、妖夢のような例外がいる以上はここも絶対に安全とは言えない。
「大丈夫ですよ」
妖夢は力強く胸を叩いた。
「魂魄家の名にかけて、幽々子様の身は私がお守りします!」
「あらあら。それじゃ、頼りにしているわね」
健気に胸を張る妖夢に、幽々子は微笑みながら答えた。
それから二カ月ほど過ぎたある夜のことだった。
妖夢はどこかで物音がしたような気がして、いつもより幾らか早く目を覚ました。枕元の時計を掴んで左目を擦った妖夢はもうひと眠りしようかと少しだけ迷ったあと、諦めて布団をたたむ。
今から庭の手入れを済ませて顕界へ出たのでは、流石にまだ少し寒い。着替えながら時間の潰し方を考えていた妖夢はやがて体を軽く慣らすと、念のために屋敷を見回ることに決めて刀を手に部屋を出た。
物取りの類とは無縁の場所だ。おおかた物でも落ちたのだろう。でなければ主人が起きだしているのだろうか? しかしそんな妖夢の見当とは裏腹に、屋敷にこれといった変化はない。
こうなると臆病な妖夢は徹底的に確認せずにはいられなくなって外へ出た。
有明の月を西の空に頂き、桜花は爛漫と咲き乱れている。
まず西行妖のことを考えた妖夢は裏庭へ出たが、変化は見られなかった。この咲かない桜は妖夢の努力の甲斐あってか最近になってようやく花開いたが、五分咲きのあたりからなかなか前に進まないでいる。
屋敷の周りをぐるりと一周して何もないことを確かめると、正門を開けて外の様子を見る。果てしなく続く石段は春霞に包まれ、中ごろまでしか見通しが利かない。
だが妖夢の目はその彼方にぼんやりと見える人影を捉えた。ゆっくりと石段を登ってくる人影は、徐々にその姿を鮮明にする。
妖夢よりも頭半分ほど背の高い少女だ。冬の夜空を飛んできたとは思えないほどの軽装だが、鮮やかな紅白の装束を見た妖夢は全てを合点して鯉口を切った。
「博麗の巫女と見受ける」
少女が歩みを止めることはない。
黒い瞳と目を合わせた妖夢は不思議な感じを懐いた。少女の瞳に宿る光からは刺すような闘気が感ぜられるが、しかしその一方でそこには何も見ていないかのような無関心さが同居しているのだ。この無関心さに虚無感や頽廃感は毫も無い。限りなく奔放な、それでいてあらゆる干渉を拒絶する気高さ。周りの空気から浮き上がるような、侵し難い神聖さ。喜びも悲しみもまだ知らない、嬰児のような純粋さである。
少女は両手を広げると、袖を垂らしながら蝶のように宙に浮いた。その周りを囲むように御札が漂う。さも当然のように行われるそれを見て、妖夢は理解した。なるほど彼女は世界にそれを許されているのだ、と。
楼観剣を握る手に力が籠る。階段を下りる足が徐々に速まる。
「先手必勝!」
妖夢は階段を蹴り、跳びかかった。少女は半回転して身を躱しながら妖夢に向き直る。妖夢は踊り場を着地点に定めて受け身を取った。
すると少女の背後から妖夢の後を追って半霊が突進した。少女は抉るような打撃に体を押し込まれる。
妖夢は飛来する少女を両断せんと構えた。しかし間合いに入る直前で少女が身を翻し、妖夢の一振りは牽制で飛ばされた御札を切り裂く。
少女が距離を取る間に妖夢は半霊に乗り、仕切り直しとなった。
距離を詰めようとする妖夢に対し、少女は光弾を撃ちだす。撒き散らされた光弾は弾幕となり、妖夢の行く手を阻んだ。
妖夢は森での一戦を思い出した。
この巫女は魔法使いよりも遅いうえ、妖夢の飛行も幾らか精度が上がっている。しかし、四方からの弾幕は密度が段違いだ。回避を反射神経に任せて突進するが、ある程度の距離まで詰めたところで必ず抜け道が見つからなくなってしまう。
妖夢はそこで一旦突破を諦めた。冷静に策を練る魂胆である。
弾幕が疎らになるところまで距離を取ろうと速度を緩める。
しかし、そのとき妖夢は後ろからも弾が来ていることに気づいた。同心円状に発射された弾幕は途中で停止、逆行しているのだ。てんで勝手に飛んでいるように見えて、その実は内から来る弾と外から来る弾が交差しているのである。進まば無限地獄、退かば叫喚地獄といったところだろうか。
元よりどうあっても退くつもりのない妖夢だったが、改めて覚悟を決めた。こうなればあの巫女を斬らねば助かる道はない。
更なる観察を続けるうち、妖夢はとうとうこの弾幕の穴を発見した。迷わず半霊を駆る。
弾幕の中からそれに気づくのは困難だったが、この弾幕は同心円であって球でない。同じ高度を飛んでいる二人の上下数メートルを囲む、平面的な円なのだ。
妖夢はその巨大な開口部に位置取り、そして少女をめがけて半霊を飛び降りた。
「上だあぁっ!」
妖夢は少女の頭を唐竹割にしたかに見えた。しかし少女は先ほどまでの浮遊とはうって変わって俊敏に、残像を残しながらその場を離れる。
少女を目で追うよりも早く、妖夢は気付いてしまった。自分が今いる場所、直前まで少女がいた場所は弾幕の中心である。
時間の流れがひどく遅く感ぜられた。桜花に紛れ舞う光球は輝きを増し、薄紅色の霞に滲んで視界を覆う。妖夢の意識はそこで途切れた。
石段の上に倒れる妖夢を、上弦の月が冷ややかに見つめていた。
幻想郷の片隅、山間の街道に人気は無い。時折通りかかる獣の足跡さえ、またすぐに雪が消してしまう。それだけ。本当に、ただそれだけの光景だ。
深々と降る雪。無限のように続く静寂。
ゴトリ、と音がした。路傍では古びた祠が長い冬の積雪に耐えかねて崩れていた。
雪が降っている。
雪が深々と降っている。
幽々子は羊羹に楊枝を入れながら言った。
「そうですね。可哀想ですが、博士のご冥福をお祈りするばかりです」
妖夢は空になった自分の湯呑みに急須から茶を注ぐ。
「あら、祈られちゃった。私、頑張らないと」
「いや、ここには来ませんよ。架空の人物ですから」
あれから数日、妖夢はほぼ毎日人里に通っていた。
新しい刺激に触れた妖夢は自分に旺盛な好奇心が備わっていることを知った。屋台や見世物などはもちろん、里に暮らす人々の生活の何もかもが珍しく、妖夢の耳目を大いに愉しませた。そして夕方になって帰ってくると、土産を食べながらその日に見聞きしたことをこうして幽々子に話すのだ。
今日も先ほどまでは通りでやっていた人形劇の話をしていたところである。ある英国紳士が凶悪な第二の人格によって身を亡ぼす話だ。
「冗談よ。頑張らない頑張らない」
「そんなに堂々とサボられても困ります。どこかの死神じゃないんですから」
妖夢は最後の一切れの羊羹を食べようとして、それが無くなっていることに気付く。
「そいつぁ聞き捨てならないねえ」
役者のような台詞に振り向くと、いつの間にかそこには女がいた。
赤毛の女は長身で体格がよく、この寒さにもかかわらず半袖の服を着崩している。
右手に楊枝を持った女は羊羹を口に含んだまま続けた。
「まあ聞きな。蟻の中には働きもんと怠けもんってのがいる。だけどね、怠けもんたちがいなくなっちまうと、その巣が立ち行かなくなるって話だ。なんでも日頃からどいつもこいつも働いてちゃ組織が疲弊するんだと。何が言いてぇかってな、あたいはサボってるように見えていざというときのために力を蓄えてるってこった」
妖夢は女を睨んだ。
「小町さん、あなたただの船頭ですよね? いざというときって何ですかね? 船でも沈めるつもりですかね? いろいろと蓄えすぎなんじゃないですかねぇっ!」
「きゃん!」
小町と呼ばれた女は飲み込むと同時に腹を強く抓まれてむせかえる。
「馬鹿野郎。船頭つってもお前ぇ、こちとら三途の川の一級案内人だぞ。いざ人手が足りないとなりゃ、溜まり溜まった魂ぜんぶ彼岸彼方までぶん投げてやらぁ」
「船、関係ないじゃないですか!彼岸じゃそんな雑な仕事が許されるんですか?」
「心配ねぇって。どこも案外適当なもんだよ。客に舟を漕がせるウチの先輩、書類に「全略」って書いて左遷されてきた新顔、変なTシャツを売りはじめる観光部、そんなもんに金つっこんで船の修理費を渋る経理部……あと、書類を溜めこむ冥界の管理者とかな」
幽々子の皿からはいつの間にかまだ三つも残っていた羊羹が消え去っている。
「あらやだ。私はいざというときのために書類を溜めこんでいるだけよ」
「……幽々子様、お願いですから同じレベルで話さないでください」
妖夢はいたたまれない気分で主人を諫める。
「それで、今日は催促でもしに来たのかしら?」
「いやあ、まさかまさか。お姫さんのご尊顔を拝しにきただけだよ。それと、ここの綺麗な庭をね。それにしても、ここは妙に温かいねえ」
春を集めはじめてから数日、すでにはっきりと分かるほど顕界との間には温度差ができており、桜の蕾も増えてきた。
しかしその一方で、妖夢は肝を冷やした。
この女の名は
川を渡った先には
妖夢がまごついていると、幽々子が口を開いた。
「妖夢が春を集めてきてくれたのよ、顕界から」
「ゆ、幽々子様ぁ?」
何の躊躇いもなく秘密を暴露する幽々子。妖夢は開いた口が塞がらないといった様で二人のやり取りを見ているしかなかった。
「へぇ。春を集める、ねえ。そんなことができるもんかい。あたいにも教えてほしいもんだ」
「ふふふ、企業秘密よ」
「ちぇ。しかし、こいつぁいいや。これから毎年やるのかい?」
「さあ、どうでしょう。楽しみにしているといいわ」
「いやあ、持つべきものはいい得意先だねえ」
妖夢は自分の心配が杞憂であったことを思い知る。
この死神、再三言われている通りのサボり魔である。渡し守の仕事を適当に放り出しては人里で遊びまわっているようで、気まぐれで白玉楼に顔を出すのもいつものことだ。
そして彼女は告げ口をするような無粋な死神でもなければ、公務のために秘密の楽園を手放すような殊勝な死神でもない。
「そりゃそうと妖夢。お前さん顕界に行ったんなら、人里には寄ったかい?」
「誰かさんに土産を取られたばかりですよ」
「へえ、そうか。寄ったのか」と小町は何か一人で納得したようにうなずいた。
「まあそう根に持ちなさんな。近いうちに人里の面白い場所を教えてやるから」
すると妖夢は初めて小町の方に体を向けた。
「どんな場所ですか?」
「そうだな、やっぱり一番は賭場だろうねえ」
「じゃあいいです」
妖夢は呆れた様子で体を戻した。
「つれないねえ。博打を知らないたぁ、人生の半分は損してるよ」
「まだまだ半人前ですから」
「相変わらず妖夢は硬いねえ」
小町は大げさに肩をすくめてみせる。
「いや、まあこれでも爺さんが出ていってすぐの頃よりはあか抜けてきたもんか。こりゃ先が楽しみだ」
「心配しなくても小町さんみたいにはなりませんよ」
そうは言いつつも、妖夢は小町にどこか憧れている節があった。幼いころから修行一筋の妖夢にとって、顕界の土産話を持ってくる小町はその奔放な振る舞いと相まってエキゾチックな魅力を持っていた。面倒見のいい小町のことを、妖夢は年の離れた姉のように慕っていた。
ところが家督を継いでからというもの、妖夢は小町を小馬鹿にした態度を取るようになった。魂魄家の家長としての自覚が、この怠け者に同じることを許さないのだ。あるいは負けず嫌いな妖夢が勤勉さをもって小町に対抗しようとしているのかもしれない。
しかし、この張り合いは決まって不毛な結果に終わるのであった。
「はっはっは、泣き虫妖夢がよく言ったもんだ」
「む、昔の話を持ち出すなんて、卑怯です!」
「あたいに言わせりゃ五つも十五も変わりゃしないよ」
「むぅ……やっぱり小町さんはずるいです」
妖夢が拗ねてそっぽを向いたのを見ると、幽々子が助け舟を出した。
「まあまあ、妖夢も毎日人里のことはちゃんと楽しんでいるじゃない。それにね、小町。この子も飛べるようになったり魔法使いと戦ったり、いろいろ成長しているのよ」
「ほー。それは面白そうな話だねえ。その話、詳しく聞かせてくれるかい?」
それから顕界での出来事を話しているうちに日が暮れ、小町は帰っていった。
「それにしても、冷や冷やしましたよ」
妖夢は盆を棚の上にしまおうと踵を浮かせた。
「小町さんだからよかったようなものの」
「小町だから言ったのよ」
得意げに言ってのける幽々子に、妖夢は呆れた。
「はぁ。何といいますか、私の周りはみんなどうしてこう緩い方々ばかりなのでしょうね?」
「ね。困ったものね」
「いや、あなたもですよ?」
「きゃっ。怒られちゃった」
幽々子はわざとらしく縮みあがった。
「まあでも、今回に限ってはそれに感謝するばかりですね。幻想郷の方からもしばらく苦情は来ないでしょうから」
「寝坊助さまさまね」
二人は知人の寝顔を想像し、悪い笑みを浮かべた。
幻想郷の管理者は幽々子と旧知の仲であり、この白玉楼にも足繁く通っている。しかしそれは冬を除いてのことだ。
彼女には冬眠の習慣がある。春を盗むということは、同時に彼女の目覚まし時計を盗むようなものである。
「でもそうね、もし私たちの邪魔をする者がいるとしたら、それはきっと巫女でしょうね」
「
妖夢も話には聞いている。幻想郷の管理者たる知人の曰く、彼女がブレインなら相方の巫女は実働部隊。異変解決と妖怪退治のプロフェッショナルだそうだ。結界があるといっても、妖夢のような例外がいる以上はここも絶対に安全とは言えない。
「大丈夫ですよ」
妖夢は力強く胸を叩いた。
「魂魄家の名にかけて、幽々子様の身は私がお守りします!」
「あらあら。それじゃ、頼りにしているわね」
健気に胸を張る妖夢に、幽々子は微笑みながら答えた。
それから二カ月ほど過ぎたある夜のことだった。
妖夢はどこかで物音がしたような気がして、いつもより幾らか早く目を覚ました。枕元の時計を掴んで左目を擦った妖夢はもうひと眠りしようかと少しだけ迷ったあと、諦めて布団をたたむ。
今から庭の手入れを済ませて顕界へ出たのでは、流石にまだ少し寒い。着替えながら時間の潰し方を考えていた妖夢はやがて体を軽く慣らすと、念のために屋敷を見回ることに決めて刀を手に部屋を出た。
物取りの類とは無縁の場所だ。おおかた物でも落ちたのだろう。でなければ主人が起きだしているのだろうか? しかしそんな妖夢の見当とは裏腹に、屋敷にこれといった変化はない。
こうなると臆病な妖夢は徹底的に確認せずにはいられなくなって外へ出た。
有明の月を西の空に頂き、桜花は爛漫と咲き乱れている。
まず西行妖のことを考えた妖夢は裏庭へ出たが、変化は見られなかった。この咲かない桜は妖夢の努力の甲斐あってか最近になってようやく花開いたが、五分咲きのあたりからなかなか前に進まないでいる。
屋敷の周りをぐるりと一周して何もないことを確かめると、正門を開けて外の様子を見る。果てしなく続く石段は春霞に包まれ、中ごろまでしか見通しが利かない。
だが妖夢の目はその彼方にぼんやりと見える人影を捉えた。ゆっくりと石段を登ってくる人影は、徐々にその姿を鮮明にする。
妖夢よりも頭半分ほど背の高い少女だ。冬の夜空を飛んできたとは思えないほどの軽装だが、鮮やかな紅白の装束を見た妖夢は全てを合点して鯉口を切った。
「博麗の巫女と見受ける」
少女が歩みを止めることはない。
黒い瞳と目を合わせた妖夢は不思議な感じを懐いた。少女の瞳に宿る光からは刺すような闘気が感ぜられるが、しかしその一方でそこには何も見ていないかのような無関心さが同居しているのだ。この無関心さに虚無感や頽廃感は毫も無い。限りなく奔放な、それでいてあらゆる干渉を拒絶する気高さ。周りの空気から浮き上がるような、侵し難い神聖さ。喜びも悲しみもまだ知らない、嬰児のような純粋さである。
少女は両手を広げると、袖を垂らしながら蝶のように宙に浮いた。その周りを囲むように御札が漂う。さも当然のように行われるそれを見て、妖夢は理解した。なるほど彼女は世界にそれを許されているのだ、と。
楼観剣を握る手に力が籠る。階段を下りる足が徐々に速まる。
「先手必勝!」
妖夢は階段を蹴り、跳びかかった。少女は半回転して身を躱しながら妖夢に向き直る。妖夢は踊り場を着地点に定めて受け身を取った。
すると少女の背後から妖夢の後を追って半霊が突進した。少女は抉るような打撃に体を押し込まれる。
妖夢は飛来する少女を両断せんと構えた。しかし間合いに入る直前で少女が身を翻し、妖夢の一振りは牽制で飛ばされた御札を切り裂く。
少女が距離を取る間に妖夢は半霊に乗り、仕切り直しとなった。
距離を詰めようとする妖夢に対し、少女は光弾を撃ちだす。撒き散らされた光弾は弾幕となり、妖夢の行く手を阻んだ。
妖夢は森での一戦を思い出した。
この巫女は魔法使いよりも遅いうえ、妖夢の飛行も幾らか精度が上がっている。しかし、四方からの弾幕は密度が段違いだ。回避を反射神経に任せて突進するが、ある程度の距離まで詰めたところで必ず抜け道が見つからなくなってしまう。
妖夢はそこで一旦突破を諦めた。冷静に策を練る魂胆である。
弾幕が疎らになるところまで距離を取ろうと速度を緩める。
しかし、そのとき妖夢は後ろからも弾が来ていることに気づいた。同心円状に発射された弾幕は途中で停止、逆行しているのだ。てんで勝手に飛んでいるように見えて、その実は内から来る弾と外から来る弾が交差しているのである。進まば無限地獄、退かば叫喚地獄といったところだろうか。
元よりどうあっても退くつもりのない妖夢だったが、改めて覚悟を決めた。こうなればあの巫女を斬らねば助かる道はない。
更なる観察を続けるうち、妖夢はとうとうこの弾幕の穴を発見した。迷わず半霊を駆る。
弾幕の中からそれに気づくのは困難だったが、この弾幕は同心円であって球でない。同じ高度を飛んでいる二人の上下数メートルを囲む、平面的な円なのだ。
妖夢はその巨大な開口部に位置取り、そして少女をめがけて半霊を飛び降りた。
「上だあぁっ!」
妖夢は少女の頭を唐竹割にしたかに見えた。しかし少女は先ほどまでの浮遊とはうって変わって俊敏に、残像を残しながらその場を離れる。
少女を目で追うよりも早く、妖夢は気付いてしまった。自分が今いる場所、直前まで少女がいた場所は弾幕の中心である。
時間の流れがひどく遅く感ぜられた。桜花に紛れ舞う光球は輝きを増し、薄紅色の霞に滲んで視界を覆う。妖夢の意識はそこで途切れた。
石段の上に倒れる妖夢を、上弦の月が冷ややかに見つめていた。
幻想郷の片隅、山間の街道に人気は無い。時折通りかかる獣の足跡さえ、またすぐに雪が消してしまう。それだけ。本当に、ただそれだけの光景だ。
深々と降る雪。無限のように続く静寂。
ゴトリ、と音がした。路傍では古びた祠が長い冬の積雪に耐えかねて崩れていた。
雪が降っている。
雪が深々と降っている。