Girl tn the sky
文字数 6,764文字
妖夢は無辺の闇の中を歩いていた。
白玉楼の長い石段を下りると、驚くことにその下には何もなかった。自分たちの住居がぽっかりと闇の中に浮かんでいるのを見て、妖夢は言い知れぬ恐怖を覚えた。
足元に広がる闇は限りなく黒く、一歩踏み出すたびに飲まれてしまいそうな感覚に陥る。自分がまっすぐに進んでいる保証はどこにもなく、平衡感覚だけが頼りだ。
やがて自分の降りてきた石段すら見えなくなり不安がいっそう高まったその時、ようやく行く手にぼんやりとした光が見えてきた。急いで駆けよると、そこには確かに巨大な方陣が描かれている。これが主人の言っていた冥界と顕界の境ということで間違いはないだろう。
恐る恐る片足を入れてみる。押し返される感覚はなく、足は結界を抜けて妖夢の目に見えないところで地面を探している。慌ててバランスを整えて足を戻す。靴の側面には僅かに雪がついていた。
指で取ってみると、半分だけの感覚から伝わる冷たさはそれが自分の知る雪と同じものであることを伝えている。
妖夢は刀が鞘走らぬよう下げ緒を結ぶと、心の準備をするために一呼吸の間を置いた。
分かっていても、地面に向かって飛び込むのは怖い。小さく三歩後ろに下がって助走をつけると、妖夢は目を閉じたまま結界へと身を投げた。
一拍……二拍……地面との衝突がいやに遅い。違和感はすぐに浮遊感へと変わる。全身に風を感じながら、妖夢は目を開けた。
真っ暗闇だった視界は一転して白に包まれていた。
眼下に広がる棚田と、そこからほど近い集落。その両側を囲むように森と竹林が広がっている。遠く四方を囲む山々のなか、一際大きな山が目を引いた。そしてそれらすべてが等しく純白の雪化粧を纏っているのだ。
冷たい風に研ぎ澄まされた妖夢の五感の全てが、この新たな世界との邂逅を強く感じていた。重力に従って落ちる身体。その何倍ものスピードで、心がこの世界へと引き寄せられる。
恐怖はない。そして意識は世界と接触して溶けあい、あらゆる束縛から解放された。
「今なら、飛べる!」
イメージの翼が、妖夢に力を与えた。妖夢の求めに答えるようにうねり、形を変える半霊。扁平な楕円形をとった半霊に飛び乗ると、妖夢は空を飛んでいた。
「やったあ!」
妖夢の初めての飛行を祝福するかのように、連山の間から太陽が顔を出した。朝日は溶けだした雪に染みこんで輝き、黄金色の夜明けが広がってゆく。来光に心を洗われる妖夢の頭上を、彼方へと急ぐ雁の群れが追い越した。
ゆっくりと高度を下げるにつれ、すれ違う景色はスピードを上げてゆく。枯れた木々の伸ばす手に捕まりそうな、ギリギリの高さで空を滑る。
やがて森を抜けた先に開けた空間を認めると、妖夢は柔らかな新雪の上に降りたった。冬の澄んだ空には雲一つないが、遥か上空の冥界はもう見えない。
振り返ると、森が広がっている。上空からは気がつかなかったが、葉が落ちているといっても木立ちの間の視界は悪く、奥の様子は窺い知れない。
浮かれていた心を落ち着ける。野獣や物の怪の類が出ないとも限らない。いつでも抜けるよう警戒しながら、妖夢は白い森へと足を踏み入れた。
樹氷に覆われた白い森の中へと分け入ること数分、せせらぎの音が妖夢を誘った。
凍てついた小川の畔には一輪の花が咲いている。屈みこんで雪を払ってやると、薄紅色の花びらが顔をのぞかせた。しばらくその花を見つめていた妖夢だったが、しかしすぐにもの悲しげな表情とともに立ち上がる。
「ごめんね」
妖夢はそう言って鞄から一本の扇子を取り出す。藤色の扇子が送る風を浴び、花は綻び散るその花弁を預けた。そして花弁は何かに引かれるように空へと昇ってゆく。
「向こうでまた会いましょう」
花びらを見送る妖夢の足元で、枯れた花は眠りにつくように地に伏した。
そのとき、妖夢の背後から近づいてくる者の気配があった。
「幽霊の正体見たり、ってか?」
茂みを飛び越えて近づいてくるのは、妖夢と同じくらいの年恰好をした少女だ。
どう見ても東洋人の顔立ちをしているにもかかわらず、髪は金なら瞳も金。エプロンを着たままその上から羽織る黒い上着、大きな帽子と手にした箒は典型的な魔女のそれである。
妖夢は身構えた。
「誰?」
「私は普通の魔法使いだぜ」
その言葉は妖夢の警戒を解く効果を持たない。
「何の用?」
「そりゃこっちの質問なんだけどな。まあいい、教えてやるぜ。この森は私の庭みたいなもんだ。その庭に怪しげな術を使って花を枯らす奴が入ってきたら、どんな気分だと思う?」
妖夢にとってこれ以上にないほど分りやすい喩えだ。決まっている。自分なら見つけ次第即刻排除する。手塩にかけた庭を荒らされたとなれば、実に面白くない気分だ。
しかし目の前の少女は白い歯を見せながらニカリと笑い、妖夢に向けて手を広げた。
「面白そうだからちょっかい出してみるか、ってな!」
その言葉とともに少女の手から光弾が撃ちだされた。咄嗟に身をかわした妖夢。川向こうの木の幹が折れてその威力を物語る。
「いろいろと無茶苦茶だ!」
妖夢はどこから突っ込みを入れていいか分らなかった。マイペースな主人と理不尽な師匠のおかげで振り回されることに慣れているつもりでいた妖夢だったが、顕界にきて早々にこれは認識を改めねばなるまいと思い知ることとなった。
「話は通じないようね」
「話が早いみたいだな」
妖夢は楼観剣を握り、体を大きく使って長大なそれを一息に引き抜いた。
少女が小さく口笛を吹く。その余裕が癪に障った妖夢は切っ先を相手に向けた。
「貴女のことはよく分からないけど、一つだけ知っていることがある。自分の庭を大切にしない奴に、碌な奴はいない。それだけで十分だ」
妖夢の殺気が高まる。
「とりあえず、斬る!」
身を屈めたままの突進。素早い横薙ぎ。渾身の一振りはだが、寸でのところで空を切る。足元に積もる雪が踏み込みを鈍らせているのだ。
見ると、少女は箒に乗って空を飛んでいた。
「ちゃんばらに乗るつもりはないぜ。悔しかったら追いついてみろよ、足無し幽霊!」
妖夢に背を向けて森の奥へと飛び去る少女。
冷静になればこの時点で森を去るという選択肢もあったが、挑発されたまま逃げ帰れるような妖夢ではなかった。
足が利かないとあれば、別の足を使うだけだ。
「行こう。半人半霊を馬鹿にしたこと、後悔させてやる」
妖夢は半霊に飛び乗り、少女の後を追った。
前方から光弾が飛来する。なんとか小回りを利かせて回避すると、少女の後ろ姿が見えてきた。初速より遅い。わざと追いつかせているのは明らかだ。
「遅かったな。逃げたかと思ったぜ」
「あなたと一緒にしないで。冥界の剣士は敵に背中なんて見せない」
「知るか。そんな教え、私の魔導書には載ってないぜ」
木々の合間を縫う飛行の最中、妖夢の揺れ動く視界は少女の手に握られた何かを捉えた。
「魔法使いの流儀を教えてやるよ。いいか……?」
身の危険を直感した妖夢は全力で半霊の頭を持ち上げて高度を上げる。
「弾幕は火力だぜ!」
直後、妖夢の真下を極太の光線が通り抜けた。
進路上の木々は嵐の後のように倒れ、小川のような轍が地面を深々と抉っている。
「こ、殺す気か!」
「細かいこと言うなよ。すでに死んだような顔してるくせに」
妖夢は激憤した。必ずこの阿婆擦れ女を晒し首にせねばならぬと決意した。
「……命のやり取りがしたいのなら、乗ってやる。二倍ほどお前の分が悪い賭けになるが、文句はないな?」
「悪いな。私は代償を払わない主義だぜ!」
少女が逃げ、妖夢が追う。再び逃走劇が始まった。
妖夢の飛行はまだ拙く、木々と弾幕の合間を抜けるので精いっぱいだ。対する少女はそんな妖夢を嘲笑うかのように距離を詰めさせては離すのだ。
妖夢が血走った眼で飛んでいると、前方から何かが飛来する。握りこぶしのような白い塊は妖夢の顔面にぶつかり、霧散した。雪玉だ。
視界が閉ざされる中、少女の下卑た笑い声が響く。激痛が走るが、執念が妖夢を動かし続けた。その一方、冷たい雪に冷やされた妖夢の頭には冷静さが戻っていた。冷静な怒り、いかにしてあの女を殺すかという建設的な打算である。
相手は飛び道具を持っていて、自分には無い。近接戦闘になれば古びた箒など一刀両断だが、向こうに応じる気は無い。追いつこうにも飛行速度の差は歴然。走ろうにも足元には積雪。これではいつまで経っても追いつく筈がない。
妖夢は己の半霊と足元の雪を恨めしそうに見つめた。するとそこである考えが去来した。
「速度が落ちてきたぜ。いっぱいいっぱいなんだろ?」
少女の煽りを受け、全速力で突進する妖夢。急な加速によって二人は肉薄し、ついに楼観剣の間合いに迫る。
しかし次の瞬間、合わせて打ち込まれた大玉の光弾が妖夢の腹に直撃する。半霊から落ちた妖夢の体は真後ろに吹き飛び、木に背中を打ちつけて止まった。
それまでの気迫はどこへやら、妖夢が立ち上がる様子はなかった。
それを見た少女は少し怯えたような顔をしながら、箒の向きを変えて妖夢へと迫る。
そのとき少女の下の雪が不自然にうねり、盛り上がった。否、それは雪ではない。白い大きな塊は、先ほどまで妖夢が乗っていた半霊である。
半霊は勢いよく箒を突き上げてへし折ると、そのまま少女を空高く打ち上げた。少女は木々を見下ろす高さから垂直落下し、雪に人型の穴を開ける。
起きあがった妖夢が背中を踏みつけると、「ぐえ」という蛙のような声が漏れてきた。
「安心して、命以外は奪わないから。冥界では丁重におもてなししてあげる」
少女は何やら怒鳴りたてているようだが、雪がその台詞を白く塗りつぶす。
「いざ、切り捨て御免」
冥界の剣士は刀を大きく振り上げた。瞳に宿した光を消し、そっと目を閉じる。
そして妖夢は少女に折り重なるように雪中に倒れた。
「おーい」
妖夢の眠りに無遠慮な声が割り込んできた。
「おーい、起きろ」
目を開ける。徐々に鮮明になる視界の中央に、憎たらしい少女の顔が形成された。
「やっと起きたか。おい幽霊。お前の言ってた冥界ってのはこんなに狭いのか?」
どうやらここは屋内のようだ。板張りの天井に障子にふすま。背には畳の感触。白玉楼と同じ日本家屋のようだが、この部屋には見覚えがない。体を起こしてみると、少女も妖夢も粗末な着物に身を包んでいる。
「大体、何でお前が私と同じ布団で寝てるんだ? 冥界じゃそういうおもてなしをするのか?」
現状を把握しようと懸命に思考を巡らせるが、少女の軽口が気に障って考えが纏まらない。
妖夢は堪らず少女に向き直った。
「はくしょん!」
怒鳴りつけようと息を吸い込むと、代わりにくしゃみが出た。
妖夢は体の底からの冷えに気づいた。そして森での一戦と、自分が雪中に倒れたことを思い出す。
「……んにゃろう、続きがしたいならやってやるぜ!」
少女は青筋を立て、妖夢の頬を思いきり引っ張った。妖夢も負けじと少女の髪をふん掴む。すると少女はその力を利用して妖夢の鼻に頭突きを食らわせた。雪玉の痛みが残る妖夢がのけぞると、少女はそのまま妖夢を押し倒して馬乗りになった。だが妖夢はこれを力任せに振り落とす。
取っ組みあいの喧嘩の最中、部屋の障子が勢いよく開いた。
「うるさいぞ!」
男の姿を見た二人は赤くなり、慌てて掴みあいで乱れた服を正した。
話によると妖夢たちは拾われたらしい。森で薪を拾っていた男があの後すぐに二人を発見し、近辺の人里にある自宅まで運んんだのだという。
男は先ほどとは打って変わって鷹揚な態度で二人の世話をする。
「今日はもう遅い。具合も悪いだろうから、遠慮せんと泊まってけ」
寝込んでいる間に時間が経ったようで、既に日が傾いている。
妖夢が迷っていると、少女は何かを思い出したように慌てて立ち上がった。
「悪い、おっさん。私はやりかけの用事があるから帰るぜ。ありがとな」
仕返しが済んでいないことを思い出すが、少女は妖夢が止めるよりも早く支度を済ませて出ていってしまった。後を追うことも考えたが、怒りを蒸しかえすだけの気力は残っていなかった。
「嬢ちゃんはどうする?」
「えっと、私は……」
妖夢は日が落ちる前に帰ろうと思ったが、冬の夜空を遥か天空まで登る余力は残っていない。とはいえ幽々子を心配させるわけにもいかなければ、これ以上世話になるのも気が引ける。結論の出ないまま俯いていると、腹の虫が妖夢に代わってぐぅ、と大きな声で返答した。
「ははは、素直な子だ。構わんよ、ちょうど今から飯だ。食ってけ食ってけ」
「そんな。お礼もできないのに、悪いです」
すると二人の会話に口を挟む者があった。
「大丈夫だよ。うちは今、お金持ちだから」
奥の台所から粥を持ってきたのは、妖夢の半分ほどの歳ごろの娘だ。
「お金持ち?」
「このまえ変な恰好した女中さんが来てね、薪をすごく高く買ってくれたの」
「こら、あまりそういうことを人に言わないの」
奥から母と思しき声が聞こえる。娘は妖夢に軽く笑顔を向けると、奥へと引っ込んでいく。
「まあ、なんだ。そういうこったから気にすんな」
「えっと……では、お言葉に甘えさせていただきます。ありがとうございます」
妖夢は丁寧に頭を下げて粥を持ち上げる。匙が無いことに気づいた男が奥に伝えた。
暫しの沈黙。やがて耐えかねた妖夢がおもむろに口を開く。
「可愛い娘さんですね」
「おう、自慢の一人娘だ」
するとちょうど匙を持ってきた娘の顔を見て、男は続けた。
「そうだ、礼なら今夜こいつに昔話でも聞かせてやってくれ」
「そうですね……分かりました。あまり面白いものは知りませんが」
妖夢が答えると、娘は目を輝かせた。
「やった。楽しみにしてるね、侍のお姉ちゃん」
「お、お姉ちゃん?」
妖夢は慣れない響きに狼狽しながらも、どこか照れくさそうな様子だった。
「それじゃあ、始めるね」
「うん」
「時は元弘。えっと、まあ今から何百年も前の話だよ。その年は流行り病でたくさんの人が死んでしまった年でした。人々が悲しんでいると、都の御殿に一羽の鳥がやってきます」
「鳥さん?」
「でもこの鳥は普通の鳥ではありません。この鳥は妖怪の鳥、怪鳥だったのです」
「妖怪は分かるよ。怖くて悪い奴ら!」
「鋭い嘴と爪、蛇の姿の尻尾に、それからこの鳥は人間の顔を持っていました。そして人間の声で鳴くのです。毎晩毎晩大きな声で、『いつまで……いつまで……』と。ある晩、誰かが姿を見にいくと、怪鳥は病気で死んだ人たちの屍体を食べていました」
「怖いよ、お姉ちゃん」
「都の人たちも怯えていました。そこで侍を呼ぶことにしました。この侍は弓の名手で、目に見えるものなら何でも撃ち落とせると言って怪鳥退治に向かいます」
「それで、どうなったの?」
「侍が御殿に着くと、空が黒い雲に覆われて雷が鳴り始めます。やがて都じゅうに響く大きな声とともに雲の中から怪鳥が現れ、侍をめがけて降りてきました。侍は弓を構えると、弦をいっぱいに引き絞って放ちます。すると矢は怪鳥の喉を貫き、怪鳥は地面に落ちました。以来、都の人々が怪鳥の声に震えることはなくなりましたとさ。めでたしめでたし」
「やったね。凄いね」
「気に入ってもらえた?」
「うん。ありがとう」
「どういたしまして」
「お姉ちゃんはこの話、誰に聞いたの? お母さん? お父さん?」
「えーと……お母さん……から……かな……」
「ふーん。あっ!ねえねえ、お姉ちゃんも妖怪退治とかできるの? 剣でズバーって!」
「もちろん。悪い妖怪はお姉ちゃんがみんな斬っちゃうよ」
「そっか。じゃあ私、もう妖怪なんか怖くない!」
「でも、あんまり危ないところに行っちゃだめだよ。妖怪とか不審者とか、いろいろいるから。お父さんにもちゃんと言っといてね。一人しかいない、大事なお父さんなんだから」
「…………」
「……って、もう寝ちゃったか」
白玉楼の長い石段を下りると、驚くことにその下には何もなかった。自分たちの住居がぽっかりと闇の中に浮かんでいるのを見て、妖夢は言い知れぬ恐怖を覚えた。
足元に広がる闇は限りなく黒く、一歩踏み出すたびに飲まれてしまいそうな感覚に陥る。自分がまっすぐに進んでいる保証はどこにもなく、平衡感覚だけが頼りだ。
やがて自分の降りてきた石段すら見えなくなり不安がいっそう高まったその時、ようやく行く手にぼんやりとした光が見えてきた。急いで駆けよると、そこには確かに巨大な方陣が描かれている。これが主人の言っていた冥界と顕界の境ということで間違いはないだろう。
恐る恐る片足を入れてみる。押し返される感覚はなく、足は結界を抜けて妖夢の目に見えないところで地面を探している。慌ててバランスを整えて足を戻す。靴の側面には僅かに雪がついていた。
指で取ってみると、半分だけの感覚から伝わる冷たさはそれが自分の知る雪と同じものであることを伝えている。
妖夢は刀が鞘走らぬよう下げ緒を結ぶと、心の準備をするために一呼吸の間を置いた。
分かっていても、地面に向かって飛び込むのは怖い。小さく三歩後ろに下がって助走をつけると、妖夢は目を閉じたまま結界へと身を投げた。
一拍……二拍……地面との衝突がいやに遅い。違和感はすぐに浮遊感へと変わる。全身に風を感じながら、妖夢は目を開けた。
真っ暗闇だった視界は一転して白に包まれていた。
眼下に広がる棚田と、そこからほど近い集落。その両側を囲むように森と竹林が広がっている。遠く四方を囲む山々のなか、一際大きな山が目を引いた。そしてそれらすべてが等しく純白の雪化粧を纏っているのだ。
冷たい風に研ぎ澄まされた妖夢の五感の全てが、この新たな世界との邂逅を強く感じていた。重力に従って落ちる身体。その何倍ものスピードで、心がこの世界へと引き寄せられる。
恐怖はない。そして意識は世界と接触して溶けあい、あらゆる束縛から解放された。
「今なら、飛べる!」
イメージの翼が、妖夢に力を与えた。妖夢の求めに答えるようにうねり、形を変える半霊。扁平な楕円形をとった半霊に飛び乗ると、妖夢は空を飛んでいた。
「やったあ!」
妖夢の初めての飛行を祝福するかのように、連山の間から太陽が顔を出した。朝日は溶けだした雪に染みこんで輝き、黄金色の夜明けが広がってゆく。来光に心を洗われる妖夢の頭上を、彼方へと急ぐ雁の群れが追い越した。
ゆっくりと高度を下げるにつれ、すれ違う景色はスピードを上げてゆく。枯れた木々の伸ばす手に捕まりそうな、ギリギリの高さで空を滑る。
やがて森を抜けた先に開けた空間を認めると、妖夢は柔らかな新雪の上に降りたった。冬の澄んだ空には雲一つないが、遥か上空の冥界はもう見えない。
振り返ると、森が広がっている。上空からは気がつかなかったが、葉が落ちているといっても木立ちの間の視界は悪く、奥の様子は窺い知れない。
浮かれていた心を落ち着ける。野獣や物の怪の類が出ないとも限らない。いつでも抜けるよう警戒しながら、妖夢は白い森へと足を踏み入れた。
樹氷に覆われた白い森の中へと分け入ること数分、せせらぎの音が妖夢を誘った。
凍てついた小川の畔には一輪の花が咲いている。屈みこんで雪を払ってやると、薄紅色の花びらが顔をのぞかせた。しばらくその花を見つめていた妖夢だったが、しかしすぐにもの悲しげな表情とともに立ち上がる。
「ごめんね」
妖夢はそう言って鞄から一本の扇子を取り出す。藤色の扇子が送る風を浴び、花は綻び散るその花弁を預けた。そして花弁は何かに引かれるように空へと昇ってゆく。
「向こうでまた会いましょう」
花びらを見送る妖夢の足元で、枯れた花は眠りにつくように地に伏した。
そのとき、妖夢の背後から近づいてくる者の気配があった。
「幽霊の正体見たり、ってか?」
茂みを飛び越えて近づいてくるのは、妖夢と同じくらいの年恰好をした少女だ。
どう見ても東洋人の顔立ちをしているにもかかわらず、髪は金なら瞳も金。エプロンを着たままその上から羽織る黒い上着、大きな帽子と手にした箒は典型的な魔女のそれである。
妖夢は身構えた。
「誰?」
「私は普通の魔法使いだぜ」
その言葉は妖夢の警戒を解く効果を持たない。
「何の用?」
「そりゃこっちの質問なんだけどな。まあいい、教えてやるぜ。この森は私の庭みたいなもんだ。その庭に怪しげな術を使って花を枯らす奴が入ってきたら、どんな気分だと思う?」
妖夢にとってこれ以上にないほど分りやすい喩えだ。決まっている。自分なら見つけ次第即刻排除する。手塩にかけた庭を荒らされたとなれば、実に面白くない気分だ。
しかし目の前の少女は白い歯を見せながらニカリと笑い、妖夢に向けて手を広げた。
「面白そうだからちょっかい出してみるか、ってな!」
その言葉とともに少女の手から光弾が撃ちだされた。咄嗟に身をかわした妖夢。川向こうの木の幹が折れてその威力を物語る。
「いろいろと無茶苦茶だ!」
妖夢はどこから突っ込みを入れていいか分らなかった。マイペースな主人と理不尽な師匠のおかげで振り回されることに慣れているつもりでいた妖夢だったが、顕界にきて早々にこれは認識を改めねばなるまいと思い知ることとなった。
「話は通じないようね」
「話が早いみたいだな」
妖夢は楼観剣を握り、体を大きく使って長大なそれを一息に引き抜いた。
少女が小さく口笛を吹く。その余裕が癪に障った妖夢は切っ先を相手に向けた。
「貴女のことはよく分からないけど、一つだけ知っていることがある。自分の庭を大切にしない奴に、碌な奴はいない。それだけで十分だ」
妖夢の殺気が高まる。
「とりあえず、斬る!」
身を屈めたままの突進。素早い横薙ぎ。渾身の一振りはだが、寸でのところで空を切る。足元に積もる雪が踏み込みを鈍らせているのだ。
見ると、少女は箒に乗って空を飛んでいた。
「ちゃんばらに乗るつもりはないぜ。悔しかったら追いついてみろよ、足無し幽霊!」
妖夢に背を向けて森の奥へと飛び去る少女。
冷静になればこの時点で森を去るという選択肢もあったが、挑発されたまま逃げ帰れるような妖夢ではなかった。
足が利かないとあれば、別の足を使うだけだ。
「行こう。半人半霊を馬鹿にしたこと、後悔させてやる」
妖夢は半霊に飛び乗り、少女の後を追った。
前方から光弾が飛来する。なんとか小回りを利かせて回避すると、少女の後ろ姿が見えてきた。初速より遅い。わざと追いつかせているのは明らかだ。
「遅かったな。逃げたかと思ったぜ」
「あなたと一緒にしないで。冥界の剣士は敵に背中なんて見せない」
「知るか。そんな教え、私の魔導書には載ってないぜ」
木々の合間を縫う飛行の最中、妖夢の揺れ動く視界は少女の手に握られた何かを捉えた。
「魔法使いの流儀を教えてやるよ。いいか……?」
身の危険を直感した妖夢は全力で半霊の頭を持ち上げて高度を上げる。
「弾幕は火力だぜ!」
直後、妖夢の真下を極太の光線が通り抜けた。
進路上の木々は嵐の後のように倒れ、小川のような轍が地面を深々と抉っている。
「こ、殺す気か!」
「細かいこと言うなよ。すでに死んだような顔してるくせに」
妖夢は激憤した。必ずこの阿婆擦れ女を晒し首にせねばならぬと決意した。
「……命のやり取りがしたいのなら、乗ってやる。二倍ほどお前の分が悪い賭けになるが、文句はないな?」
「悪いな。私は代償を払わない主義だぜ!」
少女が逃げ、妖夢が追う。再び逃走劇が始まった。
妖夢の飛行はまだ拙く、木々と弾幕の合間を抜けるので精いっぱいだ。対する少女はそんな妖夢を嘲笑うかのように距離を詰めさせては離すのだ。
妖夢が血走った眼で飛んでいると、前方から何かが飛来する。握りこぶしのような白い塊は妖夢の顔面にぶつかり、霧散した。雪玉だ。
視界が閉ざされる中、少女の下卑た笑い声が響く。激痛が走るが、執念が妖夢を動かし続けた。その一方、冷たい雪に冷やされた妖夢の頭には冷静さが戻っていた。冷静な怒り、いかにしてあの女を殺すかという建設的な打算である。
相手は飛び道具を持っていて、自分には無い。近接戦闘になれば古びた箒など一刀両断だが、向こうに応じる気は無い。追いつこうにも飛行速度の差は歴然。走ろうにも足元には積雪。これではいつまで経っても追いつく筈がない。
妖夢は己の半霊と足元の雪を恨めしそうに見つめた。するとそこである考えが去来した。
「速度が落ちてきたぜ。いっぱいいっぱいなんだろ?」
少女の煽りを受け、全速力で突進する妖夢。急な加速によって二人は肉薄し、ついに楼観剣の間合いに迫る。
しかし次の瞬間、合わせて打ち込まれた大玉の光弾が妖夢の腹に直撃する。半霊から落ちた妖夢の体は真後ろに吹き飛び、木に背中を打ちつけて止まった。
それまでの気迫はどこへやら、妖夢が立ち上がる様子はなかった。
それを見た少女は少し怯えたような顔をしながら、箒の向きを変えて妖夢へと迫る。
そのとき少女の下の雪が不自然にうねり、盛り上がった。否、それは雪ではない。白い大きな塊は、先ほどまで妖夢が乗っていた半霊である。
半霊は勢いよく箒を突き上げてへし折ると、そのまま少女を空高く打ち上げた。少女は木々を見下ろす高さから垂直落下し、雪に人型の穴を開ける。
起きあがった妖夢が背中を踏みつけると、「ぐえ」という蛙のような声が漏れてきた。
「安心して、命以外は奪わないから。冥界では丁重におもてなししてあげる」
少女は何やら怒鳴りたてているようだが、雪がその台詞を白く塗りつぶす。
「いざ、切り捨て御免」
冥界の剣士は刀を大きく振り上げた。瞳に宿した光を消し、そっと目を閉じる。
そして妖夢は少女に折り重なるように雪中に倒れた。
「おーい」
妖夢の眠りに無遠慮な声が割り込んできた。
「おーい、起きろ」
目を開ける。徐々に鮮明になる視界の中央に、憎たらしい少女の顔が形成された。
「やっと起きたか。おい幽霊。お前の言ってた冥界ってのはこんなに狭いのか?」
どうやらここは屋内のようだ。板張りの天井に障子にふすま。背には畳の感触。白玉楼と同じ日本家屋のようだが、この部屋には見覚えがない。体を起こしてみると、少女も妖夢も粗末な着物に身を包んでいる。
「大体、何でお前が私と同じ布団で寝てるんだ? 冥界じゃそういうおもてなしをするのか?」
現状を把握しようと懸命に思考を巡らせるが、少女の軽口が気に障って考えが纏まらない。
妖夢は堪らず少女に向き直った。
「はくしょん!」
怒鳴りつけようと息を吸い込むと、代わりにくしゃみが出た。
妖夢は体の底からの冷えに気づいた。そして森での一戦と、自分が雪中に倒れたことを思い出す。
「……んにゃろう、続きがしたいならやってやるぜ!」
少女は青筋を立て、妖夢の頬を思いきり引っ張った。妖夢も負けじと少女の髪をふん掴む。すると少女はその力を利用して妖夢の鼻に頭突きを食らわせた。雪玉の痛みが残る妖夢がのけぞると、少女はそのまま妖夢を押し倒して馬乗りになった。だが妖夢はこれを力任せに振り落とす。
取っ組みあいの喧嘩の最中、部屋の障子が勢いよく開いた。
「うるさいぞ!」
男の姿を見た二人は赤くなり、慌てて掴みあいで乱れた服を正した。
話によると妖夢たちは拾われたらしい。森で薪を拾っていた男があの後すぐに二人を発見し、近辺の人里にある自宅まで運んんだのだという。
男は先ほどとは打って変わって鷹揚な態度で二人の世話をする。
「今日はもう遅い。具合も悪いだろうから、遠慮せんと泊まってけ」
寝込んでいる間に時間が経ったようで、既に日が傾いている。
妖夢が迷っていると、少女は何かを思い出したように慌てて立ち上がった。
「悪い、おっさん。私はやりかけの用事があるから帰るぜ。ありがとな」
仕返しが済んでいないことを思い出すが、少女は妖夢が止めるよりも早く支度を済ませて出ていってしまった。後を追うことも考えたが、怒りを蒸しかえすだけの気力は残っていなかった。
「嬢ちゃんはどうする?」
「えっと、私は……」
妖夢は日が落ちる前に帰ろうと思ったが、冬の夜空を遥か天空まで登る余力は残っていない。とはいえ幽々子を心配させるわけにもいかなければ、これ以上世話になるのも気が引ける。結論の出ないまま俯いていると、腹の虫が妖夢に代わってぐぅ、と大きな声で返答した。
「ははは、素直な子だ。構わんよ、ちょうど今から飯だ。食ってけ食ってけ」
「そんな。お礼もできないのに、悪いです」
すると二人の会話に口を挟む者があった。
「大丈夫だよ。うちは今、お金持ちだから」
奥の台所から粥を持ってきたのは、妖夢の半分ほどの歳ごろの娘だ。
「お金持ち?」
「このまえ変な恰好した女中さんが来てね、薪をすごく高く買ってくれたの」
「こら、あまりそういうことを人に言わないの」
奥から母と思しき声が聞こえる。娘は妖夢に軽く笑顔を向けると、奥へと引っ込んでいく。
「まあ、なんだ。そういうこったから気にすんな」
「えっと……では、お言葉に甘えさせていただきます。ありがとうございます」
妖夢は丁寧に頭を下げて粥を持ち上げる。匙が無いことに気づいた男が奥に伝えた。
暫しの沈黙。やがて耐えかねた妖夢がおもむろに口を開く。
「可愛い娘さんですね」
「おう、自慢の一人娘だ」
するとちょうど匙を持ってきた娘の顔を見て、男は続けた。
「そうだ、礼なら今夜こいつに昔話でも聞かせてやってくれ」
「そうですね……分かりました。あまり面白いものは知りませんが」
妖夢が答えると、娘は目を輝かせた。
「やった。楽しみにしてるね、侍のお姉ちゃん」
「お、お姉ちゃん?」
妖夢は慣れない響きに狼狽しながらも、どこか照れくさそうな様子だった。
「それじゃあ、始めるね」
「うん」
「時は元弘。えっと、まあ今から何百年も前の話だよ。その年は流行り病でたくさんの人が死んでしまった年でした。人々が悲しんでいると、都の御殿に一羽の鳥がやってきます」
「鳥さん?」
「でもこの鳥は普通の鳥ではありません。この鳥は妖怪の鳥、怪鳥だったのです」
「妖怪は分かるよ。怖くて悪い奴ら!」
「鋭い嘴と爪、蛇の姿の尻尾に、それからこの鳥は人間の顔を持っていました。そして人間の声で鳴くのです。毎晩毎晩大きな声で、『いつまで……いつまで……』と。ある晩、誰かが姿を見にいくと、怪鳥は病気で死んだ人たちの屍体を食べていました」
「怖いよ、お姉ちゃん」
「都の人たちも怯えていました。そこで侍を呼ぶことにしました。この侍は弓の名手で、目に見えるものなら何でも撃ち落とせると言って怪鳥退治に向かいます」
「それで、どうなったの?」
「侍が御殿に着くと、空が黒い雲に覆われて雷が鳴り始めます。やがて都じゅうに響く大きな声とともに雲の中から怪鳥が現れ、侍をめがけて降りてきました。侍は弓を構えると、弦をいっぱいに引き絞って放ちます。すると矢は怪鳥の喉を貫き、怪鳥は地面に落ちました。以来、都の人々が怪鳥の声に震えることはなくなりましたとさ。めでたしめでたし」
「やったね。凄いね」
「気に入ってもらえた?」
「うん。ありがとう」
「どういたしまして」
「お姉ちゃんはこの話、誰に聞いたの? お母さん? お父さん?」
「えーと……お母さん……から……かな……」
「ふーん。あっ!ねえねえ、お姉ちゃんも妖怪退治とかできるの? 剣でズバーって!」
「もちろん。悪い妖怪はお姉ちゃんがみんな斬っちゃうよ」
「そっか。じゃあ私、もう妖怪なんか怖くない!」
「でも、あんまり危ないところに行っちゃだめだよ。妖怪とか不審者とか、いろいろいるから。お父さんにもちゃんと言っといてね。一人しかいない、大事なお父さんなんだから」
「…………」
「……って、もう寝ちゃったか」