或る妖の曰く
文字数 8,208文字
騒がしい来客が去ってから数刻、部屋には斜陽と共に伸びた影が入り込んできた。
妖夢は窓の格子の落とす影が自分の手に不気味な縞模様を作るのをただ眺めていた。
一番星が光り、夜が降りてくる。薄暗くなった視界の一部が僅かに揺らいだ。揺らぎはすぐに黒い平面に変わる。
妖夢がそれをこの空間に生じた「スキマ」だと認識したとき、スキマは声を発した。
「おはよう、妖夢」
「……おはようございます、紫様」
八雲紫 。幽々子の親友。幻想郷の管理者。境界を操る程度の能力を持つ、妖怪の賢者。
紫は白玉楼の客人としては小町以上に馴染みの顔である。妖夢との付き合いも長く、初めて会ったのは白玉楼に引き取られた翌日のことだ。
当時の妖夢は妖怪というだけで無条件に拒否反応を起こし、紫に対して必要以上の恐れを懐いていた。初めの数カ月は紫がやってくる度にすごすごと奥へ引っ込んでしまうのが常であり、紫も長居を控えて幽々子と立ち話をしてはすぐに帰っていった。
一年が経つころには妖夢も主人の親友に対して茶を出す程度の仕事はするようになり、今ではときおり二人に同席することもある。幽々子にも勝って悪戯な性格の紫は妖夢をからかって遊ぶのがお気に入りのようで、妖夢を取られまいと幽々子がそれに張り合うため、三人でいる時の妖夢はいつも振り回されっぱなしである。
掴みどころの無さといい幽々子とはどこか重なる部分のある人物だが、妖夢が紫に対して抱いている感情は幽々子に対するそれとは決定的に異なる。それは立場の違いに起因するものもあるが、それ以上にこの妖怪は胡散臭かった。
幽々子の持つ器がすべてを任せて身を委ねたくなる安心感や包容力に満ちているとすれば、紫の持つそれは同じ大きさでももっと黒い、得体の知れないもので満たされているのだ。
それが悪意あるものなのかどうかさえも分からない。ただ一定の距離を置いておかなければ絡めとられてしまいそうな、そんな不可思議な何かが彼女の言動の至る所から醸し出されているのだ。
といっても、たかだか人間が知恵を絞ったところでこの老獪な妖怪に敵うはずもない。薬の効能書に同じく、騙されたと思って信じるべし。八雲紫に出会った者は、遅かれ早かれそう悟る。
妖夢は決して紫を悪人だと思っているわけでも、嫌っているわけでもない。彼女のこの性質に関しても、多少の理解と同情を持っているつもりではいる。故に気のせいだと思うことにはしているが、やはりどうやったところで「胡散臭い」というのが彼女の人物評である。
黒いスキマは紫の居場所と病院の一角を繋いで声を届ける。
「今年はよく寝たわ。寝すぎたせいかしら、ちょっと周りがいろいろおかしく見えるの」
のびやかな声だが、今日は一段とトーンが低い。
冬眠癖のある紫の目覚めが遅れたのは、他でもない妖夢が原因である。そして彼女が事の顛末を知らないはずもない。
「紫様……申し訳ございません!」
妖夢は心から謝罪した。
紫の心の内を知ることはできない。だが、そんな彼女にも明確な意思を見せることがある。その一つが、幻想郷への愛だ。彼女が幻想郷に対して抱く愛は、妖夢の白玉楼に対するそれにも勝るものである。親友の出来心とはいえ、それが逆鱗に触れないという法は無い。
やけに遅い返事に冷や汗をかきながら、妖夢は頭を下げつづけた。
「やれやれ、誰に似たのかしら? 妖夢、あなたのそれは単刀直入というよりは刀を忘れたまま事を構えるようなものよ」
少し考えて意味を理解した妖夢は慌てて「失礼しました」と取り繕う。
「この度は紫様の管理なさる幻想郷で勝手をはたらき、大変申し訳ございません。多大なご迷惑をおかけしましたことを、お詫び申し上げます!」
少し遅れて聞こえる溜め息。
「どうやら寝ぼけて刀の代わりに孫の手でも掴んできたようね。あなたは大きな勘違いをしているわ。私がそんなことで怒ると思っていて?」
「ええと、違うと仰るのですか?」
「ええ、違うわ。冬がどれだけ続こうと、赤い霧が立ち込めようと、私としては一向に構わないの。むしろ異変のない幻想郷なんて、味気ないじゃない。誰かが異変を起こして、誰かがそれを解決して……そうして成り立っているのが幻想郷、といってもいいわ」
「はあ。では一体何にお怒りなのでしょうか?」
しばらく間を開けて再び溜め息が聞こえた。
「まあ、仕方のないことよね。あなたにすべての非があるわけじゃないわ。怒るっていうのも筋違いな気はするけど、ちょっと話がしたかったの。幽々子のことよ」
話は理解できたが、少し意外だった。親友といっても二人は遠慮なく意地悪を言い合うような仲であって、互いを気遣う素振りなど見せたことは一度もなかったのだ。
「お会いになったのですか?ご様子はどうでしたか?」
妖夢はスキマに詰め寄った。
「まあ、落ち着きなさい。とりあえず話は聞かせてもらったわ。幽々子とのこと、ついでにあなたと妖忌の間にあった話も、ね。人の心配よりも、今は自分の心配をしたほうがいいんじゃなくて?」
「あ……すみません」
妖忌とのことなど誰から聞いたのか、という問いはこの相手に限り愚問だった。どういうわけか何でも知っているのが彼女である。
「そうね、まずはそっちの話からしましょうか。その方があなたも楽でしょう?」
「すみません」
「いいのよ。それで、あなたはどうするつもりなの?」
「それが、恥かしながら自分では分からないのです。白玉楼を去れば、幽々子様を裏切ることになる。剣を返せば、誇りと生き甲斐を失うことになる。私という人間の本質が幽々子様の従者なのか一人の剣士なのか、その答えが未だに見つからないのです」
「ふーん。なるほどね」
紫は小馬鹿にしたような声で続けた。
「いやいや、これだから人間ってのは見ていて飽きないわ。あなたといい、妖忌といい、実に典型的で馬鹿馬鹿しいわ」
妖夢は熱りたった。
「……撤回してください。私はともかく、お師匠様を愚弄する発言は、たとえ紫様であっても見逃すわけには……」
「ああ、そう。まさにそういうの。馬鹿よ、大馬鹿。鰯の頭。本当に好きよね、そういうの」
妖夢はむっとしてスキマを睨んだが、干渉する手段がないのをいいことに紫は続ける。
「ねえ妖夢。どうして私が大妖怪なんて呼ばれているか、分かるかしら?」
「何の話ですか? ……長い時を生き、強大な力と知恵を備えているからだと思いますが」
「それはトートロジーよ。寒いから寒い、というのと何も変わらないわ。じゃあなぜ私という妖怪がそんな力を持って生まれ、今もそうあり続けるのか。それは、あなたたちのおかげよ」
妖夢が黙っていると、紫が説明を始めた。
「分りやすく話してあげましょうか。妖怪なんて所詮は人間の想像の産物よ。人類の共有する恐怖というイメージが結像し、実体を持った結果として私たちは生まれる。恐怖が強ければ強いほど、妖怪は強大になる。恐怖が存在しつづける限り、妖怪は生きつづける。この意味、分かるわよね? 私は境界を操る妖怪。私が千年以上生きる大妖怪だということは、人間が千年以上にわたって境界というものを深く恐れてきたことの何よりの証拠よ」
「はあ。それで、そのことがこの話とどうつながるのでしょうか?」
「まあ最後まで聞きなさい。つまるところ人間はこの世界の至る所に境界線が引かれていて、それはとても強い力を持った恐るべきものだと思いつづけている。でもね、それには実体がないの。人間は自分たちで引いた境界を自分たちで恐れ、そしてそれに囚われているのよ」
「実体がない境界、ですか」
「水とお湯、白と黒、大人と子供、正義と悪。世の境界のすべてが、人間がそれを定義する前から存在すると思っていて? ……まさか。そんなもの全部程度の問題よ。ただ頭の悪い人間が言葉や法を使って世界に線引きをしていっただけのこと。これはこっち、あれはあっち。あっちとこっちに振り分ける。分ければ分かる。分かれば怖くない。分からないことは、怖いこと。だから人間は過剰に境界を作りたがる。その分かたれた境界を越えることを恐れる。そしてその境界の上に立ち続けることを、自分が自分を分からない状態でいることを何よりも畏怖すべきものだと信じ込んでいる」
「分かったような分からないような……」
「ふふ、そういう事よ。分かれているような、分かれていないような、それがこの世界の常。だからね、妖夢。ああするべきだとかそれだけはダメだとか、そんな窮屈なことはこの際全部忘れてしまうのはどうかしら?」
妖夢はそう言われて少し、考えた。
「……駄目です、紫様。やっぱりそれが具体的にどういう事なのかが分りません。その考え方をどうやってこの問題に応用するのか、結局私はどうすればいいのかが、どうしても」
「そりゃそうでしょうね、そう考えているうちは。どうすればいいのか、なんて考えるからいつまでも他人の引いた線を越えられないのよ。一度、真っ白な状態から考えてみるといいわ。何でもいいの。明日から新しい世界が始まるとか、記憶を無くしたことにするとか。出来る、出来ないなんてこの際度外視して、すべてが思いのままになるとしたら? とにかく、自分の行動を縛るものが何もないと仮定してみて。純粋な欲望に従っていいなら、あなたはこれからどうしたいの?」
「純粋な欲望、ですか……。それはもちろん、剣を持ったまま白玉楼に帰りたいです。そして幽々子様に認めていただけるような一人前の剣士になれれば、何も言うことはありません」
「なるほどね。じゃ、その障害として妖忌の出した条件が立ち塞がっている、という認識でいいのかしら?」
妖夢は少し逡巡してから「まずは、そうなりますね」と答えた。
「それじゃあ、その障害を取り除くためにあなたは何かしらの手段を取らなければならない。でもその手段はいま、あなたの手の中に無い」
「そうですね」
「なら、こうしましょうか。あなたは今から剣を持って白玉楼に帰りなさい。妖忌には私が言って聞かせておくわ。場合によっては多少強引な手を使うことになるけど、加減はしておくから安心しなさい。あなたは何事も無かったかのように日常に戻る。それから鍛錬がしたければ、すればいいわ。ほら、これでいいんじゃないかしら?」
「それじゃ駄目です」
「あら、どうして駄目なのかしら?」
「どうしてって、そんなのずるいじゃありませんか。紫様のご厚意には感謝しますが、それでは何の解決にもなっていません。お師匠様との事は私の力不足によるものであって、それを他人の力で解決しているようでは私は何も変われません」
「他人の力、ねぇ。それじゃ聞くけど、私がその辺の人間に頼まれて動くような親切な妖怪に見えるかしら?」
どうやっても想像のつかなかった妖夢はそれを否定した。
「そう。私は好き好んで他人のために動くほど優しくも殊勝でもない。そんな私を動かせるのは、あなたの持つ人脈という力よ。私はあなたに戻ってきてほしいから助力を申し出る。あなたの首を縦に振らせるために詭弁を並べる。そう、すべては詭弁よ。他人を自分の都合通りに動かすための、聞こえのいい言葉。ねぇ妖夢、世の中には人間を力や幸福から遠ざけるための詭弁が溢れているわ。誇り、名誉、道徳、義務。でもこれって結局人間が社会の中で他人を縛るために定めたものであって、まさに他人の決めた線引きでしょう? あなたがそれのために躍起になるのは分かるわ。本や大人にそう教えられて育ったら、誰だってそうなる。でも、もうそろそろそんなものに縛られずに生きてもいいんじゃないかしら? 楽な方に流れるのは何も悪いことじゃないわ」
紫の言うことは理解できる。そう言われればそうだ。しかし、やはりそれに従うのは何か騙されたような気がしてならないのである。
妖夢がなんとか反論しようと口を開いたとき、それが声になる直前で紫がかぶせる。
「話を変えましょうか。幽々子の話」
その名前を出された妖夢は半ば仕方なく、半ば助かったように直前の思考を放棄した。
「幽々子の様子の前に、あなたには話しておくことがあるわ。幽々子の過去の話。失われた生前の記憶。幽々子が亡霊になった過程と、西行妖の伝説の真相。少し長くなるけど、あなたにまだ白玉楼に戻る意思があるのなら知っておくべきことよ」
「お聞かせください」と続きを促す。
「今から千年ほど前の話……って言ったら、もうあなたにとっては歴史上の出来事ね。平安時代、と言い換えた方がいいかしら? それなら冒頭はいずれの御時にか……なんてね」
妖夢はスキマの声に耳を傾けながら、遠い過去の世界を垣間見る。
佐藤義清 の名を聞けば、平成の世人ははてそんな役者でもいたかと首を捻る。しかしそれが西行法師の俗名であることを聞くと、歌集に名高い歌の一つを諳んじる者もいるだろう。
藤原に連なる武家に生まれた彼は武芸もさることながら和歌や故実により才を示し、都で彼の名を知らぬ者はなかった。彼を師と仰ぐ者も多く、屋敷には侍の喊声に代わって琴の音が響いていたという。
鳥羽院より北面に叙され何不自由ない生活を送っていた彼は、だがあるとき家人の一人を喪ったのを期に世を捨て、妻子を残したままどこかへと消えてしまった。
都を騒がせた彼の出家は、妖怪である八雲紫の耳にも入ってきた。人の世の浮き沈みなど彼女の知ったことではない。然るに彼が残した娘については、かねてからある噂が流れていた。なんでも西行の娘は死霊が見えるのだという。
霊感など珍しくもないが、暇つぶし程度にはなるだろう。そう考えた紫はさっそく自分の棲み処とその女の部屋をスキマで繋ぎ、何の前触れもなく現れてみせた。すると桜色の髪の女は紫を恐れるでもなく追い払うでもなく、新しい友達でも見つけたように名前を聞くのである。それが女――幽々子と紫の出会いだった。
西行の影響か幽々子は若くして老成した奥ゆかしさを備えており、その人間性は遥かに長く生きてきたはずの紫を飽かせなかった。ほんの見物のつもりでいた紫だったが気付けば幽々子と会うのが毎日の楽しみになり、来る日も来る日も彼女を訪ねるようになっていた。
幽々子もまた、紫の訪問を喜んでいた。貴人の娘に外出は許されず、顔を合わせるのは侍女ばかり。西行の去ったいま好き好んで不気味な娘に近づく者もないとあらば、この秘密の友人との時間を心待ちにしていたことは想像に難くない。
それから何度目かの春が来ようとしている時期のことである。煙霞たなびく都には西行の訃報に代わって彼の辞世の句が流れていた。
願わくば 花の下にて 春死なん
その如月の 望月のころ
庭の桜は満開に咲いていた。ついに帰ることのなかった西行の死を悼み、彼を慕う人々はこの場所から後を追って旅立ってゆく。幽々子はその有様を見つめながら、悲しみの中にも父の最期を孤独なものにしなかった桜の樹に深い感謝の念を抱いていた。
異変が起こったのは数日後のことである。殉死者の列に混ざって西行とは縁の無さそうなみすぼらしい男が一人、屋敷を訪れた。ひどく虚ろな眼をしていたが、事が事である。屋敷の者たちは何も言わずに男の最期を見とどけた。
ところが翌日、翌々日にはそれが十、五十と増え、いつしか殉死者はそうした者たちばかりになっていた。家来の呼び止めにも応じず、何やら小さな声でぼそぼそと答えるだけでまともな会話ができていない。そのうえ制止を振り切ってまで押し通ろうとするのだ。誰もがこれはいよいよおかしいと思った。
すぐに屋敷の門が閉ざされた。それでも昼夜を問わずひっきりなしに門を叩く来訪者たち。呻き声の中には人間以外のものも混ざっている。気づけば家の者たちも皆、桜の樹の下に倒れている。眠りを妨げる音で幽々子の気が変になる直前だった。冬眠から目覚めた紫がやってきた。
紫はすぐに状況を理解した。そして導き出した最適解に言葉を失った。
殉死者たちの無数の魂を飲み込んだ桜は、ついに新たな魂を求めて人々を死に誘う妖となったのだ。それもその力は一介の小妖怪の比ではない。すでに紫の力をもってしてもどうにもならないほどにまで、この桜は化けて しまっている。焼こうが切ろうが圧倒的な生命力を殺しきることはできない。
だが、もしこの樹に外から死を植えつけることができたら? 脆弱な生命、たとえば人間を生贄に樹との境界を無くして一体化させた上で殺す。生贄の死に呼応して、樹もその生命活動を停止するだろう。
しかしこの方法は生贄が樹に対して影響を与えるだけの優位性を持っていることを前提としている。樹に招かれ、樹に殺される人間では樹に生かされるだけだ。樹の力の下に晒されてなお、影響を受けずに自我を保っている者……その適材は術者となる紫を除けばこの場に一人しかいない。
躊躇う紫に、幽々子は詰め寄った。戻らぬ父を思って大事に育てた桜だ。注いできた愛情の分だけ、その変容は残酷に幽々子の心を抉る。親友の切実な願いを無碍にすることはできなかった。かくして妖怪は友を犠牲に厄災を押しとどめた。
のちに幽々子の亡霊が樹とともに屋敷に縛られた結果、屋敷は地獄の裁定によりまるごと冥界に移され白玉楼となった。幽々子の記憶は戻らず、今も自分の屍体の上に立つ桜の開花を夢見ている。
これがあの古書の記述――西行妖伝説の顛末である。
つまるところ件の反魂の試みが成功した暁には幽々子の亡霊としての暮らしは終わりを迎え、ひとたび抑えられたはずの厄災が冥界と妖夢を襲っていたことになる。結果として博麗の巫女が白玉楼を救った形となるが、仇敵であるはずの巫女に恩を売られるのは多分に不愉快だった。
「まあ、知らなかった以上は仕方のないことよ。幽々子が危機に晒されて、その実行犯がたまたまあなただっただけのこと。あなたに腹を立てているのは、強いて言えば私の腹の虫の気まぐれかしら」
「気まぐれで買う怒りにしては高すぎる気がするのですが……」
「そうかしら? まあたまには贅沢もいいじゃない。さてと、気まぐれの次はわがままと相場が決まっているわね」
「紫様のお国の相場はどうなっているのですか?」
「インフレーションなんてよくある話よ。実は幽々子とあなたのこれからについて、私から一つだけお願いがあるの」
「何でしょうか? お応えできるかどうか、分かりませんが……」
「幽々子はいま、とても沈んでいるわ。多分、私じゃなくても分かるくらいに。幽々子にとってのあなたの存在は、あなたが思っている以上に大きかったのよ。だからきっと怖かったのでしょうね、あの樹のようにあなたが変わってしまうことが」
心配ない、と答えることはできなかった。事件の直後、妖夢は自分の行為を突発的なミスと捉えていた。しかし、今となってはやはりあれは紛れもない自分の意思に基づいた行為だったのだと認めざるを得ない。
妖夢はいま、蛹化した芋虫のような不定形の自我の行く末を知らない。薄い面の皮を食い破って羽化する新たな自分。それがひどく荒みきった生き物である可能性を、ありありと想像できてしまう。
絡みつく愛を引きちぎり、痛みに悶える幽々子を置き去りにする時が来るとして、その自分は間違いなく今の自分と地続きのところにいる。
「あなたの変化を止めようなんてことは考えないわ。だけどね、妖夢。どういう形であれ幽々子には納得のできる答えを聞かせてあげてほしいの。あなたがこのまま苦しめ続ければ、幽々子は壊れてしまう。そうなったら……」
残光は西の地平に遮られて消えた。
「……私はあなたを、赦せないと思うの」
妖夢は窓の格子の落とす影が自分の手に不気味な縞模様を作るのをただ眺めていた。
一番星が光り、夜が降りてくる。薄暗くなった視界の一部が僅かに揺らいだ。揺らぎはすぐに黒い平面に変わる。
妖夢がそれをこの空間に生じた「スキマ」だと認識したとき、スキマは声を発した。
「おはよう、妖夢」
「……おはようございます、紫様」
紫は白玉楼の客人としては小町以上に馴染みの顔である。妖夢との付き合いも長く、初めて会ったのは白玉楼に引き取られた翌日のことだ。
当時の妖夢は妖怪というだけで無条件に拒否反応を起こし、紫に対して必要以上の恐れを懐いていた。初めの数カ月は紫がやってくる度にすごすごと奥へ引っ込んでしまうのが常であり、紫も長居を控えて幽々子と立ち話をしてはすぐに帰っていった。
一年が経つころには妖夢も主人の親友に対して茶を出す程度の仕事はするようになり、今ではときおり二人に同席することもある。幽々子にも勝って悪戯な性格の紫は妖夢をからかって遊ぶのがお気に入りのようで、妖夢を取られまいと幽々子がそれに張り合うため、三人でいる時の妖夢はいつも振り回されっぱなしである。
掴みどころの無さといい幽々子とはどこか重なる部分のある人物だが、妖夢が紫に対して抱いている感情は幽々子に対するそれとは決定的に異なる。それは立場の違いに起因するものもあるが、それ以上にこの妖怪は胡散臭かった。
幽々子の持つ器がすべてを任せて身を委ねたくなる安心感や包容力に満ちているとすれば、紫の持つそれは同じ大きさでももっと黒い、得体の知れないもので満たされているのだ。
それが悪意あるものなのかどうかさえも分からない。ただ一定の距離を置いておかなければ絡めとられてしまいそうな、そんな不可思議な何かが彼女の言動の至る所から醸し出されているのだ。
といっても、たかだか人間が知恵を絞ったところでこの老獪な妖怪に敵うはずもない。薬の効能書に同じく、騙されたと思って信じるべし。八雲紫に出会った者は、遅かれ早かれそう悟る。
妖夢は決して紫を悪人だと思っているわけでも、嫌っているわけでもない。彼女のこの性質に関しても、多少の理解と同情を持っているつもりではいる。故に気のせいだと思うことにはしているが、やはりどうやったところで「胡散臭い」というのが彼女の人物評である。
黒いスキマは紫の居場所と病院の一角を繋いで声を届ける。
「今年はよく寝たわ。寝すぎたせいかしら、ちょっと周りがいろいろおかしく見えるの」
のびやかな声だが、今日は一段とトーンが低い。
冬眠癖のある紫の目覚めが遅れたのは、他でもない妖夢が原因である。そして彼女が事の顛末を知らないはずもない。
「紫様……申し訳ございません!」
妖夢は心から謝罪した。
紫の心の内を知ることはできない。だが、そんな彼女にも明確な意思を見せることがある。その一つが、幻想郷への愛だ。彼女が幻想郷に対して抱く愛は、妖夢の白玉楼に対するそれにも勝るものである。親友の出来心とはいえ、それが逆鱗に触れないという法は無い。
やけに遅い返事に冷や汗をかきながら、妖夢は頭を下げつづけた。
「やれやれ、誰に似たのかしら? 妖夢、あなたのそれは単刀直入というよりは刀を忘れたまま事を構えるようなものよ」
少し考えて意味を理解した妖夢は慌てて「失礼しました」と取り繕う。
「この度は紫様の管理なさる幻想郷で勝手をはたらき、大変申し訳ございません。多大なご迷惑をおかけしましたことを、お詫び申し上げます!」
少し遅れて聞こえる溜め息。
「どうやら寝ぼけて刀の代わりに孫の手でも掴んできたようね。あなたは大きな勘違いをしているわ。私がそんなことで怒ると思っていて?」
「ええと、違うと仰るのですか?」
「ええ、違うわ。冬がどれだけ続こうと、赤い霧が立ち込めようと、私としては一向に構わないの。むしろ異変のない幻想郷なんて、味気ないじゃない。誰かが異変を起こして、誰かがそれを解決して……そうして成り立っているのが幻想郷、といってもいいわ」
「はあ。では一体何にお怒りなのでしょうか?」
しばらく間を開けて再び溜め息が聞こえた。
「まあ、仕方のないことよね。あなたにすべての非があるわけじゃないわ。怒るっていうのも筋違いな気はするけど、ちょっと話がしたかったの。幽々子のことよ」
話は理解できたが、少し意外だった。親友といっても二人は遠慮なく意地悪を言い合うような仲であって、互いを気遣う素振りなど見せたことは一度もなかったのだ。
「お会いになったのですか?ご様子はどうでしたか?」
妖夢はスキマに詰め寄った。
「まあ、落ち着きなさい。とりあえず話は聞かせてもらったわ。幽々子とのこと、ついでにあなたと妖忌の間にあった話も、ね。人の心配よりも、今は自分の心配をしたほうがいいんじゃなくて?」
「あ……すみません」
妖忌とのことなど誰から聞いたのか、という問いはこの相手に限り愚問だった。どういうわけか何でも知っているのが彼女である。
「そうね、まずはそっちの話からしましょうか。その方があなたも楽でしょう?」
「すみません」
「いいのよ。それで、あなたはどうするつもりなの?」
「それが、恥かしながら自分では分からないのです。白玉楼を去れば、幽々子様を裏切ることになる。剣を返せば、誇りと生き甲斐を失うことになる。私という人間の本質が幽々子様の従者なのか一人の剣士なのか、その答えが未だに見つからないのです」
「ふーん。なるほどね」
紫は小馬鹿にしたような声で続けた。
「いやいや、これだから人間ってのは見ていて飽きないわ。あなたといい、妖忌といい、実に典型的で馬鹿馬鹿しいわ」
妖夢は熱りたった。
「……撤回してください。私はともかく、お師匠様を愚弄する発言は、たとえ紫様であっても見逃すわけには……」
「ああ、そう。まさにそういうの。馬鹿よ、大馬鹿。鰯の頭。本当に好きよね、そういうの」
妖夢はむっとしてスキマを睨んだが、干渉する手段がないのをいいことに紫は続ける。
「ねえ妖夢。どうして私が大妖怪なんて呼ばれているか、分かるかしら?」
「何の話ですか? ……長い時を生き、強大な力と知恵を備えているからだと思いますが」
「それはトートロジーよ。寒いから寒い、というのと何も変わらないわ。じゃあなぜ私という妖怪がそんな力を持って生まれ、今もそうあり続けるのか。それは、あなたたちのおかげよ」
妖夢が黙っていると、紫が説明を始めた。
「分りやすく話してあげましょうか。妖怪なんて所詮は人間の想像の産物よ。人類の共有する恐怖というイメージが結像し、実体を持った結果として私たちは生まれる。恐怖が強ければ強いほど、妖怪は強大になる。恐怖が存在しつづける限り、妖怪は生きつづける。この意味、分かるわよね? 私は境界を操る妖怪。私が千年以上生きる大妖怪だということは、人間が千年以上にわたって境界というものを深く恐れてきたことの何よりの証拠よ」
「はあ。それで、そのことがこの話とどうつながるのでしょうか?」
「まあ最後まで聞きなさい。つまるところ人間はこの世界の至る所に境界線が引かれていて、それはとても強い力を持った恐るべきものだと思いつづけている。でもね、それには実体がないの。人間は自分たちで引いた境界を自分たちで恐れ、そしてそれに囚われているのよ」
「実体がない境界、ですか」
「水とお湯、白と黒、大人と子供、正義と悪。世の境界のすべてが、人間がそれを定義する前から存在すると思っていて? ……まさか。そんなもの全部程度の問題よ。ただ頭の悪い人間が言葉や法を使って世界に線引きをしていっただけのこと。これはこっち、あれはあっち。あっちとこっちに振り分ける。分ければ分かる。分かれば怖くない。分からないことは、怖いこと。だから人間は過剰に境界を作りたがる。その分かたれた境界を越えることを恐れる。そしてその境界の上に立ち続けることを、自分が自分を分からない状態でいることを何よりも畏怖すべきものだと信じ込んでいる」
「分かったような分からないような……」
「ふふ、そういう事よ。分かれているような、分かれていないような、それがこの世界の常。だからね、妖夢。ああするべきだとかそれだけはダメだとか、そんな窮屈なことはこの際全部忘れてしまうのはどうかしら?」
妖夢はそう言われて少し、考えた。
「……駄目です、紫様。やっぱりそれが具体的にどういう事なのかが分りません。その考え方をどうやってこの問題に応用するのか、結局私はどうすればいいのかが、どうしても」
「そりゃそうでしょうね、そう考えているうちは。どうすればいいのか、なんて考えるからいつまでも他人の引いた線を越えられないのよ。一度、真っ白な状態から考えてみるといいわ。何でもいいの。明日から新しい世界が始まるとか、記憶を無くしたことにするとか。出来る、出来ないなんてこの際度外視して、すべてが思いのままになるとしたら? とにかく、自分の行動を縛るものが何もないと仮定してみて。純粋な欲望に従っていいなら、あなたはこれからどうしたいの?」
「純粋な欲望、ですか……。それはもちろん、剣を持ったまま白玉楼に帰りたいです。そして幽々子様に認めていただけるような一人前の剣士になれれば、何も言うことはありません」
「なるほどね。じゃ、その障害として妖忌の出した条件が立ち塞がっている、という認識でいいのかしら?」
妖夢は少し逡巡してから「まずは、そうなりますね」と答えた。
「それじゃあ、その障害を取り除くためにあなたは何かしらの手段を取らなければならない。でもその手段はいま、あなたの手の中に無い」
「そうですね」
「なら、こうしましょうか。あなたは今から剣を持って白玉楼に帰りなさい。妖忌には私が言って聞かせておくわ。場合によっては多少強引な手を使うことになるけど、加減はしておくから安心しなさい。あなたは何事も無かったかのように日常に戻る。それから鍛錬がしたければ、すればいいわ。ほら、これでいいんじゃないかしら?」
「それじゃ駄目です」
「あら、どうして駄目なのかしら?」
「どうしてって、そんなのずるいじゃありませんか。紫様のご厚意には感謝しますが、それでは何の解決にもなっていません。お師匠様との事は私の力不足によるものであって、それを他人の力で解決しているようでは私は何も変われません」
「他人の力、ねぇ。それじゃ聞くけど、私がその辺の人間に頼まれて動くような親切な妖怪に見えるかしら?」
どうやっても想像のつかなかった妖夢はそれを否定した。
「そう。私は好き好んで他人のために動くほど優しくも殊勝でもない。そんな私を動かせるのは、あなたの持つ人脈という力よ。私はあなたに戻ってきてほしいから助力を申し出る。あなたの首を縦に振らせるために詭弁を並べる。そう、すべては詭弁よ。他人を自分の都合通りに動かすための、聞こえのいい言葉。ねぇ妖夢、世の中には人間を力や幸福から遠ざけるための詭弁が溢れているわ。誇り、名誉、道徳、義務。でもこれって結局人間が社会の中で他人を縛るために定めたものであって、まさに他人の決めた線引きでしょう? あなたがそれのために躍起になるのは分かるわ。本や大人にそう教えられて育ったら、誰だってそうなる。でも、もうそろそろそんなものに縛られずに生きてもいいんじゃないかしら? 楽な方に流れるのは何も悪いことじゃないわ」
紫の言うことは理解できる。そう言われればそうだ。しかし、やはりそれに従うのは何か騙されたような気がしてならないのである。
妖夢がなんとか反論しようと口を開いたとき、それが声になる直前で紫がかぶせる。
「話を変えましょうか。幽々子の話」
その名前を出された妖夢は半ば仕方なく、半ば助かったように直前の思考を放棄した。
「幽々子の様子の前に、あなたには話しておくことがあるわ。幽々子の過去の話。失われた生前の記憶。幽々子が亡霊になった過程と、西行妖の伝説の真相。少し長くなるけど、あなたにまだ白玉楼に戻る意思があるのなら知っておくべきことよ」
「お聞かせください」と続きを促す。
「今から千年ほど前の話……って言ったら、もうあなたにとっては歴史上の出来事ね。平安時代、と言い換えた方がいいかしら? それなら冒頭はいずれの御時にか……なんてね」
妖夢はスキマの声に耳を傾けながら、遠い過去の世界を垣間見る。
藤原に連なる武家に生まれた彼は武芸もさることながら和歌や故実により才を示し、都で彼の名を知らぬ者はなかった。彼を師と仰ぐ者も多く、屋敷には侍の喊声に代わって琴の音が響いていたという。
鳥羽院より北面に叙され何不自由ない生活を送っていた彼は、だがあるとき家人の一人を喪ったのを期に世を捨て、妻子を残したままどこかへと消えてしまった。
都を騒がせた彼の出家は、妖怪である八雲紫の耳にも入ってきた。人の世の浮き沈みなど彼女の知ったことではない。然るに彼が残した娘については、かねてからある噂が流れていた。なんでも西行の娘は死霊が見えるのだという。
霊感など珍しくもないが、暇つぶし程度にはなるだろう。そう考えた紫はさっそく自分の棲み処とその女の部屋をスキマで繋ぎ、何の前触れもなく現れてみせた。すると桜色の髪の女は紫を恐れるでもなく追い払うでもなく、新しい友達でも見つけたように名前を聞くのである。それが女――幽々子と紫の出会いだった。
西行の影響か幽々子は若くして老成した奥ゆかしさを備えており、その人間性は遥かに長く生きてきたはずの紫を飽かせなかった。ほんの見物のつもりでいた紫だったが気付けば幽々子と会うのが毎日の楽しみになり、来る日も来る日も彼女を訪ねるようになっていた。
幽々子もまた、紫の訪問を喜んでいた。貴人の娘に外出は許されず、顔を合わせるのは侍女ばかり。西行の去ったいま好き好んで不気味な娘に近づく者もないとあらば、この秘密の友人との時間を心待ちにしていたことは想像に難くない。
それから何度目かの春が来ようとしている時期のことである。煙霞たなびく都には西行の訃報に代わって彼の辞世の句が流れていた。
願わくば 花の下にて 春死なん
その如月の 望月のころ
庭の桜は満開に咲いていた。ついに帰ることのなかった西行の死を悼み、彼を慕う人々はこの場所から後を追って旅立ってゆく。幽々子はその有様を見つめながら、悲しみの中にも父の最期を孤独なものにしなかった桜の樹に深い感謝の念を抱いていた。
異変が起こったのは数日後のことである。殉死者の列に混ざって西行とは縁の無さそうなみすぼらしい男が一人、屋敷を訪れた。ひどく虚ろな眼をしていたが、事が事である。屋敷の者たちは何も言わずに男の最期を見とどけた。
ところが翌日、翌々日にはそれが十、五十と増え、いつしか殉死者はそうした者たちばかりになっていた。家来の呼び止めにも応じず、何やら小さな声でぼそぼそと答えるだけでまともな会話ができていない。そのうえ制止を振り切ってまで押し通ろうとするのだ。誰もがこれはいよいよおかしいと思った。
すぐに屋敷の門が閉ざされた。それでも昼夜を問わずひっきりなしに門を叩く来訪者たち。呻き声の中には人間以外のものも混ざっている。気づけば家の者たちも皆、桜の樹の下に倒れている。眠りを妨げる音で幽々子の気が変になる直前だった。冬眠から目覚めた紫がやってきた。
紫はすぐに状況を理解した。そして導き出した最適解に言葉を失った。
殉死者たちの無数の魂を飲み込んだ桜は、ついに新たな魂を求めて人々を死に誘う妖となったのだ。それもその力は一介の小妖怪の比ではない。すでに紫の力をもってしてもどうにもならないほどにまで、この桜は
だが、もしこの樹に外から死を植えつけることができたら? 脆弱な生命、たとえば人間を生贄に樹との境界を無くして一体化させた上で殺す。生贄の死に呼応して、樹もその生命活動を停止するだろう。
しかしこの方法は生贄が樹に対して影響を与えるだけの優位性を持っていることを前提としている。樹に招かれ、樹に殺される人間では樹に生かされるだけだ。樹の力の下に晒されてなお、影響を受けずに自我を保っている者……その適材は術者となる紫を除けばこの場に一人しかいない。
躊躇う紫に、幽々子は詰め寄った。戻らぬ父を思って大事に育てた桜だ。注いできた愛情の分だけ、その変容は残酷に幽々子の心を抉る。親友の切実な願いを無碍にすることはできなかった。かくして妖怪は友を犠牲に厄災を押しとどめた。
のちに幽々子の亡霊が樹とともに屋敷に縛られた結果、屋敷は地獄の裁定によりまるごと冥界に移され白玉楼となった。幽々子の記憶は戻らず、今も自分の屍体の上に立つ桜の開花を夢見ている。
これがあの古書の記述――西行妖伝説の顛末である。
つまるところ件の反魂の試みが成功した暁には幽々子の亡霊としての暮らしは終わりを迎え、ひとたび抑えられたはずの厄災が冥界と妖夢を襲っていたことになる。結果として博麗の巫女が白玉楼を救った形となるが、仇敵であるはずの巫女に恩を売られるのは多分に不愉快だった。
「まあ、知らなかった以上は仕方のないことよ。幽々子が危機に晒されて、その実行犯がたまたまあなただっただけのこと。あなたに腹を立てているのは、強いて言えば私の腹の虫の気まぐれかしら」
「気まぐれで買う怒りにしては高すぎる気がするのですが……」
「そうかしら? まあたまには贅沢もいいじゃない。さてと、気まぐれの次はわがままと相場が決まっているわね」
「紫様のお国の相場はどうなっているのですか?」
「インフレーションなんてよくある話よ。実は幽々子とあなたのこれからについて、私から一つだけお願いがあるの」
「何でしょうか? お応えできるかどうか、分かりませんが……」
「幽々子はいま、とても沈んでいるわ。多分、私じゃなくても分かるくらいに。幽々子にとってのあなたの存在は、あなたが思っている以上に大きかったのよ。だからきっと怖かったのでしょうね、あの樹のようにあなたが変わってしまうことが」
心配ない、と答えることはできなかった。事件の直後、妖夢は自分の行為を突発的なミスと捉えていた。しかし、今となってはやはりあれは紛れもない自分の意思に基づいた行為だったのだと認めざるを得ない。
妖夢はいま、蛹化した芋虫のような不定形の自我の行く末を知らない。薄い面の皮を食い破って羽化する新たな自分。それがひどく荒みきった生き物である可能性を、ありありと想像できてしまう。
絡みつく愛を引きちぎり、痛みに悶える幽々子を置き去りにする時が来るとして、その自分は間違いなく今の自分と地続きのところにいる。
「あなたの変化を止めようなんてことは考えないわ。だけどね、妖夢。どういう形であれ幽々子には納得のできる答えを聞かせてあげてほしいの。あなたがこのまま苦しめ続ければ、幽々子は壊れてしまう。そうなったら……」
残光は西の地平に遮られて消えた。
「……私はあなたを、赦せないと思うの」