迷いの果て
文字数 4,855文字
波紋が消えると、水鏡は妖夢の顔を映しだした。張りつめた顔が崩れる前に、妖夢は河原に転がる石を放り込む。
とぷん、と静かな音。跳ねた水滴が波紋を生み、反響し、束の間綺麗な模様を描く。静まり返る水面に浮かぶのは、やはり気詰まりな妖夢の顔。
石を投げる。波紋は新たな模様を紡ぐ。
石を投げる。再び結像する沈鬱な表情。
小町の話を聞いた後、妖夢は逃げるように里を出た。遠くへ遠くへと川を下り、歩き疲れて座り込むうちに傾いた日は水面を赤く染めている。
やがて手ごろな石を投げきると、虚しさとともにこらえていた感情が押し寄せてきた。
「あああああああああ! ああっ! ああっ! …………あああああっ!」
妖夢は川に入ると、水面を拳や平手で打ち、掬っては投げ、蹴り上げた。水の重み、冷たさ、掌の痛み。どれも痛快だが、快を貪れば貪るほどになおも満たされぬ不快が浮き彫りになる。それでも、それを重ねるよりほかにどうしようもない。
もっと奇怪な動きを。もっと荒々しい声を。
もっと狂え。もっと狂え。
「ああああああああああああああああああああああああああああぁぁぁぁぁ……」
しかし、どうやってもまとわりつく理性は妖夢を放そうとしない。諦めた妖夢は濡れた体を引きずるようにして陸に上がった。
「もういやだ」
ポツリと漏らす。《なに?》と半霊。
「もういやだよ。こんなの……こんなのあんまりだよ。白楼剣も、白玉楼も、幽々子様も……私が大切にしてきた何もかもが、お師匠様の、ひいては私の人生に影を落としていたなんて」
決壊した心から、失意の濁流が溢れでた。呪詛のように口から零れるそれを止める気力などどこにもない。
「お師匠様のことも、もっとまともな人間だと思っていたのに。追い剥ぎやって、千年も迷いだらけの人生過ごして、愛も無いのに結婚して……そりゃ孫に自分の重荷を押し付けたところで心も痛まないだろうね。私の人生はどうなるの?紫様の言う通りだよ。武士道とか、忠義とか、誇りとか、いいようにされてただけじゃない。私が板挟みになるのも、半人半霊が遺伝したのも、全部お師匠様のせいじゃないか」
《何だと? お前、自分が何を言ってるか分かってるのか?》
「だっておかしいよ!私だって普通の人間に生まれたかった!こんな私なんて嫌だ!どうして私だけこんな……」
《ああそうか。もういい。もういいよ。よく分かった》
半霊は呆れたように笑う。
《私も同じ考えだよ。もう半人半霊なんてこりごりだ。だから……》
半霊は妖夢の中に入り込んだ。混濁する意識を抑えようと集中すると、妖夢は内的世界でもう一人の自分と対峙した。
《私も弱い自分を……お前を斬る!》
客人が妙な頼み事を持ち込むまで、その日は博麗霊夢にとって何の変哲もない一日だった。
霊夢の朝は遅い。気温が上がってくると、不機嫌な顔で目を覚ました霊夢は朝食をとる。真っ黒な豆と、青野菜。つややかな白米を山盛りに、あっさりとした麩のお吸い物、薬味を添えた魚と小さな芋が変わりない日本の食卓を彩っている。
結構な量のある食事だが、霊夢にとってはもう十時にもなるので時間の取れない昼食と併せてのブランチだった。
昨夜この博麗神社で行われた宴会のせいである。人妖問わず友人の多い霊夢だが、幻想郷住民の乱痴気ぶりばかりは潰瘍の種だった。
もはや日常と化した喧噪。境内に散らばるゴミを掃除するのも楽な仕事ではないが、それでも霊夢はこの日常を悪くないと思っている。
掃除が半ばに差し掛かったころ、ここでようやく冒頭にあった妙な頼み事が持ち込まれることとなった。
神社の入り口に一人の少女。長い階段で息が上がっているのが見て取れる。確か人里で見た顔だ。霊夢は名前を思い出そうと回らない頭で少し考えた後、まあいいかと諦めた。
「いらっしゃい。素敵なお賽銭箱はそこよ」
辺鄙な場所だ。危険と労力を越えてくる参拝客など滅多にいないが、博麗の巫女である霊夢はこれを決まり文句としている。
「違うんです。ちょっとお願いしたいことがあって」
賽銭箱の方を向いたまま微動だにしない霊夢。少女が賽銭箱に小銭を入れると、霊夢はコイン式の筐体のように再び動作を始める。
「まあ立ち話もなんだし、上がりなさい。お茶でも出そうかしら?」
「あ、いえ。手短に済ませますので」
神社の状況を察してか、少女は申し出を断る。
「そう。それじゃここで聞くわ」
「はい。実は人里に辻斬りが出たんです」
霊夢は「へぇ」と淡白に相槌を打つ。
「それで?」
「それで? って……いえ、その辻斬りを霊夢さんに退治してもらいたいんです」
霊夢は組んでいた腕を解いて手を振った。
「あー、駄目駄目。それ、私の専門外だから」
「そんな! もう何人も死んでるんですよ?」
少女は声を大にする。
「駄目なものは駄目なんだったら」
「どうしてですか? 博麗の巫女は人間を守るのが仕事じゃないんですか?」
「頭が取れてるわ。あくまで『妖怪から』よ」
霊夢は手に持ったトングをカチカチと鳴らしながら訂正する。
「そんな薄情な!」
「あーもう、いろいろあるのよこっちも。大人の事情。巫女の立場。幻想郷の掟。そういうやつ。とにかく、里の人間で何とかしなさい」
霊夢はトングを指でくりくりと回してから握りなおすと、ゴミ拾いに戻ろうと少女に背を向けた。
「それができないから言ってるんじゃないですか! 里の人間じゃ歯が立たないんです!」
霊夢は既に無視を決め込んでいる。
「それに私、現場を見たんです! あいつ、明らかにおかしいですよ! 目がイッてるし、何か譫言みたいにブツブツ言ってて……いや、ただの気違いとかそういうレベルじゃなくて! 肌も死人みたいに真っ白だし……あんなの、絶対人間辞めてますよ!」
霊夢は手を止めた。
「……それは由々しき事態ね。そいつ、他に特徴は?」
「えっ、退治してくれるんですか? えっと、えっと……あ、思い出しました!」
鳥居に影が落ちる。北東からの黒雲が日輪に手を伸ばしていた。
「そう、銀髪。銀色の髪の侍でした!」
雨夜、月は翳り、道は泥濘む。橋の木板を捌ける雨水に朱を滲ませながら、それはいた。
血塗れの身体と短刀を引き摺ったまま、肩で息をする侍。銀髪の少女の目は何かに憑かれたように見開かれ、血走っている。
ときおり真黒な空を仰ぎ、叫ぶ。それは悲痛だけを訴えては、空しく雨に掻き消される。さながら捨て犬の遠吠えのように。
ひとしきり叫び終えた後、侍はべっとりと血のついた刀を両手で持ち直した。殺気立った青い瞳が、刀身を溶かさんばかりに凝視する。震える手で、侍はその刃をゆっくりと自分の腹に這わせはじめた。
歯を食いしばりながら刃を進めたのも束の間、堪らず悶絶して刀を落とす。のたうち回り、叫び散らし、疲れ果て、倒れ伏す。
「どうして離れない……? どうして消えない……? どうして斬れない……? どうして……」
「ふぅん。多分、もう一歩ってところね」
霊夢は傘を片手に地を這いずる侍を見下ろした。霊夢の姿を見た途端、侍は駆り立てられた獣のように熱りたった。
「博麗の巫女ぉ!」
すぐに腹を押さえて苦しむ侍。だが、目だけは頑なに霊夢を睨みつづけている。
「……殺してやる」
糸に吊られたように立ち上がる。
「お前さえ……お前さえ殺せば……」
背中の長刀を抜き、下段とも呼べない低い構えをとる。
「証明してやる……私なら、お前なんか……」
大きく振りかぶり、重みに任せて振り下ろす。霊夢が一歩横にずれると、侍は勢い余って前に倒れた。
「があああああっ!」
傷口に沁みる雨水で悶える侍。
「どうしてだよぉ!? どうして……どうして……こうすれば迷いも弱さも断ち切れるんじゃなかったのかぁっ!?」
「よく分からないけど……」
霊夢は回れ右して肩越しに侍を一瞥すると、最後の一言を残してその場を去った。
「それで斬れなきゃ迷いでも弱さでもないってことじゃないの?」
侍は橋に拳を叩きつけ、それきり動かなくなった。
知人が妙な言いつけをするまで、その日は博麗霊夢にとって何の変哲もない一日だった。
遅い起床から始まる長閑な日中。来客が無ければ、巫女の一日は退屈を極める。その退屈を苦にしない点は、彼女のこの仕事に対する適性と言えた。
縁側でぼんやりと雲を眺めて過ごす時間がしばらく続いたあと、霊夢は棚にあった煎餅を取り出す。木鉢をちゃぶ台の上に置くと、それが儀式の生贄にでもなったように虚空から手が出現し、煎餅を贅沢に二枚も攫っていった。
台所からそれを眺めていた霊夢は特に慌てることなく、茶を沸かしたばかりの急須の蓋を煎餅の上に置く。果たして三枚目を求めた手は火傷した。
「いらっしゃい、紫。お茶を淹れたんだけど、あなたもどう?」
「……どうもありがとう。いただくわ」
それからしばらくの間、スキマ越しに他愛もない茶飲み話が続いた。紫が最初のおかわりを要求したころ、そこでようやく冒頭にあった妙な言いつけが与えられることとなった。
「さて、実は今日はちょっとあなたに用事があって来たの」
「何となく、そろそろかなって気はしていたわ」
「はい、そういうこと。お待ちかねの妖怪退治よ」
「待ちかねてないんだけどなぁ……」
苦笑する霊夢。
「どんな奴よ?」
「今回の敵は剣士の亡者。里で辻斬りをはたらく不届き者よ。銀の髪、青い目、白い肌。まあ、挙動不審だから見れば分かるわ」
覚えの悪い霊夢も、これには流石に心当たりがあった。
「あー、これは入れ違いね。そいつ、一昨日あたりに見てきたわ。ぶつくさ言いながら切腹してた。あれはまだ一応人間よ。私の出る幕じゃない」
すると紫は不敵に笑った。
「さて、何を勘違いしているのかしら?あれが人間だった試しなんて、一度たりともないわ」
「どういうことよ?」
「山の方にある小さな祠を見たことは?」
霊夢は脳内の覚え書きを見るように空に目をやる。
「って言われてもね。いくつか該当する気がするわ」
「それもそうね。まあいいわ。どうもその一つがこの前の大雪で潰れたみたいなの」
「あー。あったわね、そんなこと。多分、それこそ探せば十個くらい潰れてそうね」
「でしょうね。でも、とりあえず大事なのは『当たり』が一つあったことよ」
「それ、神社式に訳せば『大凶』よね?」
「はい、大当たり!」
紫が年甲斐もなく茶目っ気を見せると、決まって場が凍る。
「そういうことよ。少々まずい物の封印が解けたちゃったみたい」
ズズズ、とスキマから茶をすする音がする。
「ネクロマンシー。いえ、反魂と言った方がいいかしら? かつて従者を亡くした貴人が隠遁して、密かに死者の魂を呼びもどす術を求めた。禁忌の果てに出来上がったのは、人ならざる者。作り物の身体に不完全な魂を宿した失敗作は殺戮を繰り返した」
「よくある話ね。何番煎じかしら?」
「さあね。このお茶と同じくらいじゃない?」
霊夢は一瞬ムッとすると湯呑の茶をぐいと飲み干し、熱さを読み違えて咽せた。
「当然退治しようという動きはあったんだけど、これがどうにもしぶとくてね。結局、殺せないから封印しようという流れになったみたい。もうざっと千年くらい前の話よ。その妖怪は製作者の名を取ってこう呼ばれているわ」
湯呑を返しながら、紫が続ける。
「西行鬼」
ちゃぶ台に置かれた湯呑がピシリと割れた。
「あら……縁起が悪いわね」
とぷん、と静かな音。跳ねた水滴が波紋を生み、反響し、束の間綺麗な模様を描く。静まり返る水面に浮かぶのは、やはり気詰まりな妖夢の顔。
石を投げる。波紋は新たな模様を紡ぐ。
石を投げる。再び結像する沈鬱な表情。
小町の話を聞いた後、妖夢は逃げるように里を出た。遠くへ遠くへと川を下り、歩き疲れて座り込むうちに傾いた日は水面を赤く染めている。
やがて手ごろな石を投げきると、虚しさとともにこらえていた感情が押し寄せてきた。
「あああああああああ! ああっ! ああっ! …………あああああっ!」
妖夢は川に入ると、水面を拳や平手で打ち、掬っては投げ、蹴り上げた。水の重み、冷たさ、掌の痛み。どれも痛快だが、快を貪れば貪るほどになおも満たされぬ不快が浮き彫りになる。それでも、それを重ねるよりほかにどうしようもない。
もっと奇怪な動きを。もっと荒々しい声を。
もっと狂え。もっと狂え。
「ああああああああああああああああああああああああああああぁぁぁぁぁ……」
しかし、どうやってもまとわりつく理性は妖夢を放そうとしない。諦めた妖夢は濡れた体を引きずるようにして陸に上がった。
「もういやだ」
ポツリと漏らす。《なに?》と半霊。
「もういやだよ。こんなの……こんなのあんまりだよ。白楼剣も、白玉楼も、幽々子様も……私が大切にしてきた何もかもが、お師匠様の、ひいては私の人生に影を落としていたなんて」
決壊した心から、失意の濁流が溢れでた。呪詛のように口から零れるそれを止める気力などどこにもない。
「お師匠様のことも、もっとまともな人間だと思っていたのに。追い剥ぎやって、千年も迷いだらけの人生過ごして、愛も無いのに結婚して……そりゃ孫に自分の重荷を押し付けたところで心も痛まないだろうね。私の人生はどうなるの?紫様の言う通りだよ。武士道とか、忠義とか、誇りとか、いいようにされてただけじゃない。私が板挟みになるのも、半人半霊が遺伝したのも、全部お師匠様のせいじゃないか」
《何だと? お前、自分が何を言ってるか分かってるのか?》
「だっておかしいよ!私だって普通の人間に生まれたかった!こんな私なんて嫌だ!どうして私だけこんな……」
《ああそうか。もういい。もういいよ。よく分かった》
半霊は呆れたように笑う。
《私も同じ考えだよ。もう半人半霊なんてこりごりだ。だから……》
半霊は妖夢の中に入り込んだ。混濁する意識を抑えようと集中すると、妖夢は内的世界でもう一人の自分と対峙した。
《私も弱い自分を……お前を斬る!》
客人が妙な頼み事を持ち込むまで、その日は博麗霊夢にとって何の変哲もない一日だった。
霊夢の朝は遅い。気温が上がってくると、不機嫌な顔で目を覚ました霊夢は朝食をとる。真っ黒な豆と、青野菜。つややかな白米を山盛りに、あっさりとした麩のお吸い物、薬味を添えた魚と小さな芋が変わりない日本の食卓を彩っている。
結構な量のある食事だが、霊夢にとってはもう十時にもなるので時間の取れない昼食と併せてのブランチだった。
昨夜この博麗神社で行われた宴会のせいである。人妖問わず友人の多い霊夢だが、幻想郷住民の乱痴気ぶりばかりは潰瘍の種だった。
もはや日常と化した喧噪。境内に散らばるゴミを掃除するのも楽な仕事ではないが、それでも霊夢はこの日常を悪くないと思っている。
掃除が半ばに差し掛かったころ、ここでようやく冒頭にあった妙な頼み事が持ち込まれることとなった。
神社の入り口に一人の少女。長い階段で息が上がっているのが見て取れる。確か人里で見た顔だ。霊夢は名前を思い出そうと回らない頭で少し考えた後、まあいいかと諦めた。
「いらっしゃい。素敵なお賽銭箱はそこよ」
辺鄙な場所だ。危険と労力を越えてくる参拝客など滅多にいないが、博麗の巫女である霊夢はこれを決まり文句としている。
「違うんです。ちょっとお願いしたいことがあって」
賽銭箱の方を向いたまま微動だにしない霊夢。少女が賽銭箱に小銭を入れると、霊夢はコイン式の筐体のように再び動作を始める。
「まあ立ち話もなんだし、上がりなさい。お茶でも出そうかしら?」
「あ、いえ。手短に済ませますので」
神社の状況を察してか、少女は申し出を断る。
「そう。それじゃここで聞くわ」
「はい。実は人里に辻斬りが出たんです」
霊夢は「へぇ」と淡白に相槌を打つ。
「それで?」
「それで? って……いえ、その辻斬りを霊夢さんに退治してもらいたいんです」
霊夢は組んでいた腕を解いて手を振った。
「あー、駄目駄目。それ、私の専門外だから」
「そんな! もう何人も死んでるんですよ?」
少女は声を大にする。
「駄目なものは駄目なんだったら」
「どうしてですか? 博麗の巫女は人間を守るのが仕事じゃないんですか?」
「頭が取れてるわ。あくまで『妖怪から』よ」
霊夢は手に持ったトングをカチカチと鳴らしながら訂正する。
「そんな薄情な!」
「あーもう、いろいろあるのよこっちも。大人の事情。巫女の立場。幻想郷の掟。そういうやつ。とにかく、里の人間で何とかしなさい」
霊夢はトングを指でくりくりと回してから握りなおすと、ゴミ拾いに戻ろうと少女に背を向けた。
「それができないから言ってるんじゃないですか! 里の人間じゃ歯が立たないんです!」
霊夢は既に無視を決め込んでいる。
「それに私、現場を見たんです! あいつ、明らかにおかしいですよ! 目がイッてるし、何か譫言みたいにブツブツ言ってて……いや、ただの気違いとかそういうレベルじゃなくて! 肌も死人みたいに真っ白だし……あんなの、絶対人間辞めてますよ!」
霊夢は手を止めた。
「……それは由々しき事態ね。そいつ、他に特徴は?」
「えっ、退治してくれるんですか? えっと、えっと……あ、思い出しました!」
鳥居に影が落ちる。北東からの黒雲が日輪に手を伸ばしていた。
「そう、銀髪。銀色の髪の侍でした!」
雨夜、月は翳り、道は泥濘む。橋の木板を捌ける雨水に朱を滲ませながら、それはいた。
血塗れの身体と短刀を引き摺ったまま、肩で息をする侍。銀髪の少女の目は何かに憑かれたように見開かれ、血走っている。
ときおり真黒な空を仰ぎ、叫ぶ。それは悲痛だけを訴えては、空しく雨に掻き消される。さながら捨て犬の遠吠えのように。
ひとしきり叫び終えた後、侍はべっとりと血のついた刀を両手で持ち直した。殺気立った青い瞳が、刀身を溶かさんばかりに凝視する。震える手で、侍はその刃をゆっくりと自分の腹に這わせはじめた。
歯を食いしばりながら刃を進めたのも束の間、堪らず悶絶して刀を落とす。のたうち回り、叫び散らし、疲れ果て、倒れ伏す。
「どうして離れない……? どうして消えない……? どうして斬れない……? どうして……」
「ふぅん。多分、もう一歩ってところね」
霊夢は傘を片手に地を這いずる侍を見下ろした。霊夢の姿を見た途端、侍は駆り立てられた獣のように熱りたった。
「博麗の巫女ぉ!」
すぐに腹を押さえて苦しむ侍。だが、目だけは頑なに霊夢を睨みつづけている。
「……殺してやる」
糸に吊られたように立ち上がる。
「お前さえ……お前さえ殺せば……」
背中の長刀を抜き、下段とも呼べない低い構えをとる。
「証明してやる……私なら、お前なんか……」
大きく振りかぶり、重みに任せて振り下ろす。霊夢が一歩横にずれると、侍は勢い余って前に倒れた。
「があああああっ!」
傷口に沁みる雨水で悶える侍。
「どうしてだよぉ!? どうして……どうして……こうすれば迷いも弱さも断ち切れるんじゃなかったのかぁっ!?」
「よく分からないけど……」
霊夢は回れ右して肩越しに侍を一瞥すると、最後の一言を残してその場を去った。
「それで斬れなきゃ迷いでも弱さでもないってことじゃないの?」
侍は橋に拳を叩きつけ、それきり動かなくなった。
知人が妙な言いつけをするまで、その日は博麗霊夢にとって何の変哲もない一日だった。
遅い起床から始まる長閑な日中。来客が無ければ、巫女の一日は退屈を極める。その退屈を苦にしない点は、彼女のこの仕事に対する適性と言えた。
縁側でぼんやりと雲を眺めて過ごす時間がしばらく続いたあと、霊夢は棚にあった煎餅を取り出す。木鉢をちゃぶ台の上に置くと、それが儀式の生贄にでもなったように虚空から手が出現し、煎餅を贅沢に二枚も攫っていった。
台所からそれを眺めていた霊夢は特に慌てることなく、茶を沸かしたばかりの急須の蓋を煎餅の上に置く。果たして三枚目を求めた手は火傷した。
「いらっしゃい、紫。お茶を淹れたんだけど、あなたもどう?」
「……どうもありがとう。いただくわ」
それからしばらくの間、スキマ越しに他愛もない茶飲み話が続いた。紫が最初のおかわりを要求したころ、そこでようやく冒頭にあった妙な言いつけが与えられることとなった。
「さて、実は今日はちょっとあなたに用事があって来たの」
「何となく、そろそろかなって気はしていたわ」
「はい、そういうこと。お待ちかねの妖怪退治よ」
「待ちかねてないんだけどなぁ……」
苦笑する霊夢。
「どんな奴よ?」
「今回の敵は剣士の亡者。里で辻斬りをはたらく不届き者よ。銀の髪、青い目、白い肌。まあ、挙動不審だから見れば分かるわ」
覚えの悪い霊夢も、これには流石に心当たりがあった。
「あー、これは入れ違いね。そいつ、一昨日あたりに見てきたわ。ぶつくさ言いながら切腹してた。あれはまだ一応人間よ。私の出る幕じゃない」
すると紫は不敵に笑った。
「さて、何を勘違いしているのかしら?あれが人間だった試しなんて、一度たりともないわ」
「どういうことよ?」
「山の方にある小さな祠を見たことは?」
霊夢は脳内の覚え書きを見るように空に目をやる。
「って言われてもね。いくつか該当する気がするわ」
「それもそうね。まあいいわ。どうもその一つがこの前の大雪で潰れたみたいなの」
「あー。あったわね、そんなこと。多分、それこそ探せば十個くらい潰れてそうね」
「でしょうね。でも、とりあえず大事なのは『当たり』が一つあったことよ」
「それ、神社式に訳せば『大凶』よね?」
「はい、大当たり!」
紫が年甲斐もなく茶目っ気を見せると、決まって場が凍る。
「そういうことよ。少々まずい物の封印が解けたちゃったみたい」
ズズズ、とスキマから茶をすする音がする。
「ネクロマンシー。いえ、反魂と言った方がいいかしら? かつて従者を亡くした貴人が隠遁して、密かに死者の魂を呼びもどす術を求めた。禁忌の果てに出来上がったのは、人ならざる者。作り物の身体に不完全な魂を宿した失敗作は殺戮を繰り返した」
「よくある話ね。何番煎じかしら?」
「さあね。このお茶と同じくらいじゃない?」
霊夢は一瞬ムッとすると湯呑の茶をぐいと飲み干し、熱さを読み違えて咽せた。
「当然退治しようという動きはあったんだけど、これがどうにもしぶとくてね。結局、殺せないから封印しようという流れになったみたい。もうざっと千年くらい前の話よ。その妖怪は製作者の名を取ってこう呼ばれているわ」
湯呑を返しながら、紫が続ける。
「西行鬼」
ちゃぶ台に置かれた湯呑がピシリと割れた。
「あら……縁起が悪いわね」