幽冥境を異にする

文字数 4,455文字

 落陽は山際に差し掛かり、棄てられた田畑を黄色く染めている。林道を抜けると、開けた空間にはポツリと一軒の小屋が建っていた。妖夢はその軒先、あぜ道に立ち塞がる人影に向かって歩を進めてゆく。

「お待たせしました、お師匠様」

「うむ。では、答えを聞かせてもらおうか」

「はい」

 妖忌を見上げる。小町の話を聞いた今、先日の違和感の正体はすぐに分かった。半霊の喪失である。
 いや、それだけではない。魂魄妖忌という男の過去を知った妖夢にとって、目の前にいるのはもはや超越者でも何でもない。迷いの果てに多くを失い、切り捨て、諦め、手放し、そして選び取ってきた一人の人間である。
 弱さに抗い生き続けたその強さにより一層の畏敬を覚えながら、半霊を傍らに妖夢は一歩前に出た。

「私は家督を受け継いだ日、この白楼剣に恥じぬ使い手になることを誓いました。この剣は私の魂。たとえお師匠様であっても、それをお譲りすることはできません。ですが私は幽々子様に忠義を誓った身。何があろうと必ず冥界へ戻らねばなりません。どちらかを捨てることなど、できないのです。ですので……」

 妖夢は楼観剣を背中から下ろし、前に掲げた。

「一人の侍として、この剣で力を示したいと思います。お師匠様、お手合わせ願います」

 妖忌はしばらく目を細めたまま黙り込んだ。

「……正気か?」

 妖夢が頷くと、妖忌は一旦小屋へ引っ込んだ。戻ってきたとき、その両手に握られていたのは真剣ではなく、木刀である。妖忌はその片方を妖夢に差し出した。

「なっ……ふざけないでください、お師匠様!」

「いいや、儂は至って真剣じゃ。魂魄流の剣士を名乗るなら、『華と散る』などという世迷言は許さん。死など生ぬるいわ。お前が懸けるのは魂の敗北。己の力が儂に異を唱えるに足りぬと自ら認める事じゃ。それでもこの儂に挑む覚悟があるのなら、剣を取れ。そして万に一つの勝ちを掴むまで立ち上がって見せろ」

 妖夢は一瞬歯噛みしてから木刀を受け取った。

「感謝します」

「なに、これで儂も心おきなく全力が出せるというもの。さあ構えろ。容赦はせん。その心、儂がへし折ってくれる」

 二人は剣を構え、向かい合った。
 魂魄流の剣術は、どの体系にも属さない。魂魄妖忌という一人の侍が放浪の中で敵の技を盗み、窮地から天啓を得、独自進化の果てに編み出した我流の剣。家人時代に学んだ基礎こそあれ、既にその原点からは遠くかけ離れている。巨怪をも両断する大太刀の技、剣が無くとも戦い抜く格闘術、半人半霊を活かした忍びの如き軽業……あらゆる状況で勝つための手段を集積したものこそ、魂魄流の本質である。
 木刀を握れば木刀で勝つ。真剣の立ち回りは想定しない。それが魂魄流のルールだ。
 妖夢は駆けだした。大きな跳躍から振りかぶると見せて顔に肘を突き出す。妖忌はこれを腕で受けた。
 妖夢はそのまま妖忌の肩を手で掴むと、それを支点に妖忌を飛び越える。

「取った!」

 がら空きの頭をめがけて振り下ろす。
 妖忌は身を捻ってこれを躱し、その勢いで水平斬りを放つ。
 妖夢が屈むと、その真上を木刀が薙いだ。
 追撃に次ぐ追撃。身を起こしながら、必死に前進する。何とか距離を取り、向き直って睨みあう。
 妖忌は昔からいつも全力だ。その力量をよく知った上で、妖夢は「取った」と確信した。だが、妖忌はそれを上回る反応を見せた。以前にも増して動きがいい。
 「これが迷いを捨てるということか」と、妖夢は思い知った。
 妖忌が走りこみ、左下から大きく振り上げる。
 妖夢は上体を反らしてその場で躱し、反撃する。
 しかし妖忌が無防備を晒すはずもなく、空いた左手がそれを掴んだ。下に投げつけて隙を作ると、右手は木刀を振り下ろす。
 直撃だった。頭の割れるような激痛が走る。

「うっ……っぐ!」

何とか堪え、牽制程度に剣を振る。しかしこれも悪手。続けざまに叩き込まれたこめかみへの一撃が脳を揺すぶる。
平衡感覚がやられ、足がもつれる。及び腰で後退し、尻もちをつく。

「立て!」

 容赦無く腹を蹴る妖忌。自傷の跡が痛む。

「どうした妖夢、立たんか! 儂に挑んだ覚悟はその程度か!?」

 妖忌は怒鳴りながら、絶えず妖夢を打ちつづけた。

「ぐあああああああああああっ!」

 反射的に転がり起きる。既に興奮に任せて意識を保っているようなものだ。妖夢は仇敵にでも対するように剥きだした歯とぎらついた目で妖忌を威嚇した。
 雄叫びを上げ、突撃する。捨て身の猛攻。妖忌が一旦受けに回る。
 しかし所詮は勢い任せ。大振りになったところで蹴り飛ばされ、難なく距離を取られる。
 妖夢が踏みとどまる間に、妖忌は踏み込んでいた。
 袈裟懸けから翻る斬り上げ。燕返しだ。
 妖夢は一段目を躱し、二段目で上から木刀を押さえつけた。
 妖忌との鍔迫り合いに勝ったことは無いが、今は上からという利がある。妖夢はここで一矢報いようと躍起になった。対する妖忌もそれを意地でも許さんとばかりに一切の技に頼らず、あくまで力で対抗する。
 そこには祖父と孫でなく、師と弟子でもなく、剣士と剣士の顔があった。
 意地と意地のぶつかり合い。徐々に均衡が崩れ、組まれた木刀が持ち上がりはじめたとき、妖忌の腹から刃が生えた。

「がっ……」

 二人の空間が霧散する。妖忌の背後から影を切り出したようにゆらりと顔を覗かせたのは、異相の剣客である。
 乱れた銀の髪は土埃にまみれ、ぎょろりと見開いた青い瞳。血の通わぬ青白い肌に、異音を漏らす乱杭歯。確かに人間の姿をしているが、不自然に固まった表情はそれが異質な何かであることを告げる。
 剣客は妖忌の背に足をかけながら剣を引き抜いた。傷口から血が溢れる。
 崩れる妖忌を庇って妖夢が斬りかかるが、僅か一合にして木刀は両断された。

「何っ!?」

 ただの亡者ではない。妖夢がその業に驚いている間にも、凶刃は躍る。
 斬られた。
 そう思った瞬間だった。妖夢は後ろに引き倒された。そして目の前には入れ替わりに剣客の一刀を浴びる妖忌。再びの失血に崩れかかるが、尚も木刀を握り、立ち塞がる。

「お師匠様!」

「逃げろ妖夢! 剣を持って逃げろ、早く!」

 妖夢は後ろ髪を引かれる思いで剣のもとへ向かう。

「嫌です! 私も戦います!」

「馬鹿者! 儂を無駄死にさせる気か!?」

 吐血の合間にも新たに切り裂かれる体。

「儂の生きた証、魂魄流の剣を受け継ぐ者はお前しかおらん。ここでお前に死なれては、死んでも死にきれんわ! 儂に報いる気があるなら、せいぜい生きて、そして誰にも負けぬほど強くなれ、馬鹿弟子があっ!」

 最後の言葉を貫く刃。

「お師匠様あああああああああぁー!」

 妖忌の手が木刀を放し、だらりと力なく垂れさがる。

「うっ……うっ……うああああああああああ!」

 妖夢は楼観剣を握り、剣客に斬りかかった。剣客は妖忌に刺さったままの剣から手を放し、妖夢の顔に踵を打ち込む。力強く振り抜かれたそれは妖夢を身体ごと横に押し倒し、首を鞭打ちにした。
 妖夢がそれきり起き上がらないのを確認すると、剣客は再び剣を取り、妖忌の胸を断ち割った。真新しい傷を抉り、心臓を暴く。すると剣客は飢えたけだもののように乱雑に歯を突き立て、妖忌の心臓を貪りはじめた。
 そうしている間にも開かれた胸からは血が溢れ、赤黒い血だまりが遠目にも分かるほどに広がってゆく。
凄惨な光景に絶叫する妖夢。

「ああ……これだ……。やっと……やっとだ……。……ああ……ああ、いい……」

 剣客は血塗れの顔を上げて立ち上がると、天を仰いだ。諸手は顔を覆い、血に潤った喉から嘆息が漏れる。恍惚のままに白楼剣を拾い上げる。しばらくまじまじと見つめた後で鞘を拾うと、刃の擦れる音を味わうようにゆっくりと納刀する。しかしその余韻が去ると、剣客は首をかしげた。

「おかしい……違う……何だ……? まだだ……まだ、何か、足りない……」

 呻き声を発すると、剣客は額に手を当てて目を閉じた。暫しの黙考。開眼と同時に再び空を仰ぐ。そして剣客は発音を確かめるようにその名を口にした。

「白……玉……楼……?」

 ふわりと足が地面を離れる。剣客の身体は宙に浮き、上昇を続けて空の彼方へと飛び去った。
 妖夢はそれを、茫然と見ていた。





 その直後、亡骸に寄り添う妖夢のもとに魔理沙がやってきた。魔理沙は妖夢に語りかけるが、放心した妖夢は悲泣の中に喃語のようなものを漏らすばかりである。
 半霊――かつての妖夢は一部始終を見ていた。
 妖忌への誤解は身をもった行動によって解かれた。祖父は愛を斬り捨ててなどいない。妖忌は確かに妖夢を孫として、そして弟子として愛したのだ。
 半霊は妖忌の愛すべき孫として守られるままにその最期を見届けた。その結果生まれたのは幽々子の時と同じ、剣士としてのプライドへの抵触である。あの時もそう。今もそう。すべての懊悩は自らの義理を果たし、力を示せないという一点に起因する。
 もう一人の自分は苦渋の選択に答えを出し、最も難しい、しかしいま思えば最も真っ当な道を歩いた。それは自暴自棄になっていた自分にはできなかったことだ。
 それでも、自分は魂魄妖夢の中に残った。あの巫女の言う通り、白楼剣は自分を弱さでも迷いでもない魂魄妖夢の一部として認めたのだ。では、その意味するところは何だ?
 いま、妖忌は無念にも討たれ、白楼剣は持ち去られた。もう一人の自分は動けず、祖父の仇はその魂を斬る剣を手に主のもとへと向かっている。
 己の為すべきところ、為さんと欲するところ、そのすべては一致した。
 半霊は妖夢の肉体に戻った。もう一人の妖夢はいとも簡単に押し負け、再び半霊として吐き出された。





 妖夢の目が魔理沙に焦点を合わせる。

「気がついたか! 悪い。今、さっきの奴を追ってる最中だ。仲間が待ってる。私はもう行くぜ」

 魔理沙が箒に乗りなおす。体中に痛みを感じながら、妖夢は剣を拾った。

「待って。……私も行く」

「おいおい正気か? そんな状態で一体何が……」

「お願い! お願い……やっと何か、見つかった気がするんだ」

「……」

 魔理沙は妖夢を見つめた後で目を逸らすと、ぼりぼりと頭を掻きながら溜め息をついた。そして思い切り笑って見せた。

「……そうか。よし、なら乗れよ!」

「ありがとう」

 妖夢は妖忌の亡骸に向けて短く黙礼すると、箒に跨った。
 残光は尽き、宵闇が空を不気味な藍に染める。

「もういいのか?」

「うん。行って」

「……そうだな。しっかり掴まっとけよ!」

 魔女の箒は限りなく垂直に近い角度で逢魔が時の空に飲まれていった。
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登場人物紹介

魂魄妖夢


主人公。

冥界の館、白玉楼の庭師にして剣術指南。

真面目で努力家。しかし多感であり、物事を考えこんで思い詰めてしまう。

西行寺幽々子


冥界の館、白玉楼の管理人。

奥ゆかしく包容力のある貴人。

妖夢の主人であり、娘のようにかわいがっている。

魂魄妖忌


妖夢の先代にして剣術の師。血縁上は祖父に当たる。

厳格な人物で、妖夢は畏怖と憧憬を抱いている。

五年前、妖夢に家督を譲って白玉楼を去った。

小野塚小町


彼岸の死神。三途の川の船頭。

極めて怠惰で、頻繁に職務を放棄しては白玉楼で油を売る。

妖夢の幼いころから面識があり、年の離れた姉のような存在。

博麗霊夢


顕界は幻想郷を護る博麗の巫女。妖怪退治と異変解決を生業とする。


霧雨魔理沙


森に住む魔法使い。

破天荒でお節介な変わり者。

八雲紫


妖怪の賢者。幻想郷の管理人。

どこへ行っても「胡散臭い」と言われる。

幽々子の親友であり、白玉楼ではなじみの顔。

四季映姫


地獄の最高裁判長を勤める閻魔。小町の上司。

公正さを尊ぶ人物で、説教臭い。

彼岸と冥界の組織図の都合上、間接的に妖夢たちの上司にもあたる。

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