亀裂
文字数 3,682文字
妖夢は剣を振り下ろした。巫女服の少女は二つに裂け、赤い影となって消える。すると奥からまた一人、同じ少女が現れる。
次々と切り伏せるも、妖夢の体力が失われる一方、少女は涼しい顔で階段を上ってくる。
「私がいる限り、幽々子様の所には行かせない!」
渾身の一振りの後で少女の姿を探す妖夢だが、視界には誰もいない。
妖夢が安堵しかけたその時、背後から大きな音がした。少女が門扉を開け放ち、奥へと入っていくところである。
「待て!」
必死で後を追うものの、目の前で閉ざされた扉はいくら強く押しても開かない。どんどんと扉を叩きつづける最中、屋敷の中から悲鳴が聞こえた。
「幽々子様!」
妖夢は扉を蹴破った。
妖夢は布団を蹴り上げた。目を覚ますと、見慣れた天井と欄間が目に入る。白玉楼の自室である。
妖夢は全身に違和感を覚えた。起き上がろうと体を動かすと、まだあちこちに鈍い痛みが残っている。
「いたた……」
弱弱しい声を上げる妖夢に、何者かが語りかけた。
《情けない……》
怪訝に思って周りを見回すが、部屋には妖夢の他に誰もいない。
《情けないぞ、魂魄妖夢!》
突如、布団の下から白い塊が飛び出し、妖夢の目の前に踊り出た。
「きゃあ!喋ったぁ!」
慌てて部屋の隅に退避する妖夢。しかし白い塊は容赦なく突撃し、開きかかった妖夢の口を塞ぐ。
《ええい、そんなみっともない声を上げる侍があるか!》
「あがが、あがが」
もがく妖夢の手足の動きが異常な域に達したところで、白い塊は呼吸を許す。
妖夢は肩で息をしながらその姿を見つめた。見慣れた色と形、何より体の違和感がこの塊の正体を物語っていた。
「あなた、私の半霊ね」
《そうかもしれない、半分くらいは》
妖夢は「何よそれ?」といかにも不機嫌そうに聞いた。
《確かに私はいま半霊として動き回っているが、自分がこれまでお前に付き従っていた覚えはない。私は魂魄妖夢としてこれまでの人生を歩んできた。ここに引き取られて修行を重ね、幽々子様にお仕えしてきたのは紛れもなく私だ》
「そんなはずはないよ。妖夢は私だもん」
《それはそうだろう。だが私も妖夢だ。私はお前の中にいた、もう一人の魂魄妖夢だ》
妖夢は首を傾げた。
「どういうこと?」
《私はずっとお前の中からお前の行いを見守り続けていた。時にその心に働きかけることもあったが、数年前から腑抜けたお前は少しずつ私の声に耳を傾けなくなった。いつしか私はお前の心に僅かな力をかけることしかできなくなり、ここ数カ月に至ってはほとんど消えかかっていた》
「心外ね。いつから私が腑抜けたっていうのよ?」
《何を偉そうに。お師匠様が出ていってからというもの、私がどれだけ苦労して毎日お前に木刀を握らせていたと思っている? なのにお前は幽々子様の誘いに負けてすぐに稽古を投げていたじゃないか。なんなら顕界での務めが始まってから、お前は一度でも稽古をしたか? 早々に切り上げれば午後には帰って稽古ができたというのに、お前は人里で油を売るばかりだったじゃないか。これを腑抜けと呼ばずして何と呼ぶ?》
「それは……そうかもしれないけど……」
目を伏せる。反論の言葉もなかった。
《けど、何だ?》
「けど、私も今は悔しいよ。自分の未熟さのせいで幽々子様を守れなかったことが、本当に悔しい。「頼りにしている」って、初めて言ってもらったのに……」
俯いた妖夢の声は僅かに震えている。それを見た半霊は目を逸らすように向きを変えた。
《ふん。悔しがるだけなら誰にだってできる。この軟弱者が》
それきり半霊が妖夢を責めることはなかった。
しばらくして、部屋に幽々子がやってきた。幽々子は障子を閉じたあとで布巾の乗った盆を持って立ち上がり、妖夢の布団の傍で腰を下ろす。
「幽々子様、申し訳ありません。私の力が及ばなかったばかりに……。いかなる処分も覚悟しております」
何を言われるよりも早く、妖夢は畳に手をついて深々と頭を下げた。
「顔を上げなさい」
幽々子の声は優しかった。その表情は怒りとはかけ離れ、むしろ慈愛に満ちていた。
「謝るなんてとんでもない。むしろあなたには感謝しているわ。私のためにこんなに必死に頑張ってくれたのに、それ以上何も望むことなんて……」
「ですが、私は負けてしまいました。剣士として何一つ、幽々子様のお役に立てませんでした」
妖夢はにじり寄ってくる幽々子を制する。すると幽々子はにっこりと笑顔を作ってみせた。
「どうでもいいのよ、そんなこと」
妖夢は思わず「は?」と漏らした。理解が追いつかなかった。
「どうでもいいのよ、そんなことは。あなたが頑張ってくれたこと、あなたがこうして生きて帰ってきてくれたこと、それだけで私はとても嬉しいの。だからね、妖夢。ありがとう」
幽々子が妖夢を抱きしめようと手を広げる。
しかしそのとき妖夢の中に起こったのは悪寒にも似た居心地の悪さだった。嫌悪と憤りが、吐き気のように腹の底からこみあげていた。
自分があれほどまでに必死で報いようとしていた期待は、嘘だったのだ。剣士として初めて感じた喜びも悲しみも、幽々子にとっては「どうでもいい」ことだったのだ。結局のところ、幽々子はどこまでも自分のことを剣士としてではなく可愛い娘のようにしか見ていないのだ。一切の悪意なく行われたその裏切りが、妖夢には許せなかった。
ふと、値踏みするような半霊の視線を感じた。ここで抱擁を受け容れてしまえば、それは幽々子の定義に従って剣士としての自分を殺してしまうことと同義である。そう思うと、今まさに自分を包み込まんとしている諸手がひどく汚らわしい、魂を奪う悪霊の手のように見えはじめた。幽々子という存在が、自分を堕落へと誘う全ての権化のように思えた。
「嫌ぁっ!」
妖夢は息のかかる距離に迫っていた幽々子の体を突き飛ばした。そして刀掛けにある白楼剣の方へと目をやった。
そのとき、妖夢はハッと冷静になった。自分は白楼剣で何をしようとした? 一瞬でも浮かんでしまったその考えに、妖夢は戦慄した。
できる限り素早く、何事もなかったかのように視線を戻す。だがそのとき、妖夢は自分が既に取り返しのつかないことをしてしまったのだと実感した。
幽々子が乱れた服のまま仰向けに倒れ、無抵抗な少女のようにこちらを見上げている。
その目に浮かんでいるのは恐怖。山のような化け物か、あるいはこの世の終わりでも見ているかのような、そんなどうしようもない恐怖だ。幽々子のこの表情を、妖夢は知らない。いつも余裕のある笑みを湛えている幽々子が、他ならぬ妖夢に怯えているのだ。
「ち……違う……」
妖夢の足は邪眼によって石化したかのように自由を失った。さっきにも増して得体の知れない恐怖が全身をぞわぞわと這いまわる。尻餅をついたままじりじりと後退する。襖にぶつかって追い詰められた瞬間、理性の火は掻き消えた。妖夢は襖を突き飛ばし、何かわけの分からぬことを喚き散らしながら部屋を飛び出した。
翌日、妖夢は物置部屋で朝を迎えた。
昨夜は入口から隠れるように箪笥の陰で小さくなり、疲れ果てれて眠るまで泣きつづけた。
目を覚まして一番に感じたのは、茫洋たる虚無感と喪失感であった。謝らなければという考えはあったが、もう一度顔を合わせる勇気だけがどうしても起こらなかった。
主人がまだ起きだしていないことを祈りながら、物取りのようにそろそろと廊下を歩く。自分がそんな立場に置かれていることが、たまらなく悲しかった。
自室に辿り着いた妖夢は恐る恐る中をのぞき込む。主人の姿は無く、妖夢が外した襖はそのままになっている。広げたままの布団の脇には、一枚の紙が置かれていた。
妖夢へ
昨日はごめんなさい。私にはあなたの気持ちが分かっていませんでした。
今すぐ会って話がしたいのは山々ですが、まだ自分の中でもいろいろと整理がついていません。しばらくは一人で考える時間がほしいと思います。
たいへん勝手なことですが、あなたには暇を出させてもらいます。
いつまでとは言いません。あなたがそのままどこかへ行ってしまっても、仕方がないと思っています。それでももし、あなたがまだ私に愛想を尽かしていないようでしたら、どうか戻ってきてください。そのときにはきっと、私はあなたと向き合う準備を済ませておきます。
幽々子
追伸
少ないですが、あなたのこれまでの働きに対する報酬を置いておきます。今までありがとうございました。
紙の下には一束の小判が積まれていた。その僅かな重みを手に取りながら、妖夢は悲しみに震えた。
次々と切り伏せるも、妖夢の体力が失われる一方、少女は涼しい顔で階段を上ってくる。
「私がいる限り、幽々子様の所には行かせない!」
渾身の一振りの後で少女の姿を探す妖夢だが、視界には誰もいない。
妖夢が安堵しかけたその時、背後から大きな音がした。少女が門扉を開け放ち、奥へと入っていくところである。
「待て!」
必死で後を追うものの、目の前で閉ざされた扉はいくら強く押しても開かない。どんどんと扉を叩きつづける最中、屋敷の中から悲鳴が聞こえた。
「幽々子様!」
妖夢は扉を蹴破った。
妖夢は布団を蹴り上げた。目を覚ますと、見慣れた天井と欄間が目に入る。白玉楼の自室である。
妖夢は全身に違和感を覚えた。起き上がろうと体を動かすと、まだあちこちに鈍い痛みが残っている。
「いたた……」
弱弱しい声を上げる妖夢に、何者かが語りかけた。
《情けない……》
怪訝に思って周りを見回すが、部屋には妖夢の他に誰もいない。
《情けないぞ、魂魄妖夢!》
突如、布団の下から白い塊が飛び出し、妖夢の目の前に踊り出た。
「きゃあ!喋ったぁ!」
慌てて部屋の隅に退避する妖夢。しかし白い塊は容赦なく突撃し、開きかかった妖夢の口を塞ぐ。
《ええい、そんなみっともない声を上げる侍があるか!》
「あがが、あがが」
もがく妖夢の手足の動きが異常な域に達したところで、白い塊は呼吸を許す。
妖夢は肩で息をしながらその姿を見つめた。見慣れた色と形、何より体の違和感がこの塊の正体を物語っていた。
「あなた、私の半霊ね」
《そうかもしれない、半分くらいは》
妖夢は「何よそれ?」といかにも不機嫌そうに聞いた。
《確かに私はいま半霊として動き回っているが、自分がこれまでお前に付き従っていた覚えはない。私は魂魄妖夢としてこれまでの人生を歩んできた。ここに引き取られて修行を重ね、幽々子様にお仕えしてきたのは紛れもなく私だ》
「そんなはずはないよ。妖夢は私だもん」
《それはそうだろう。だが私も妖夢だ。私はお前の中にいた、もう一人の魂魄妖夢だ》
妖夢は首を傾げた。
「どういうこと?」
《私はずっとお前の中からお前の行いを見守り続けていた。時にその心に働きかけることもあったが、数年前から腑抜けたお前は少しずつ私の声に耳を傾けなくなった。いつしか私はお前の心に僅かな力をかけることしかできなくなり、ここ数カ月に至ってはほとんど消えかかっていた》
「心外ね。いつから私が腑抜けたっていうのよ?」
《何を偉そうに。お師匠様が出ていってからというもの、私がどれだけ苦労して毎日お前に木刀を握らせていたと思っている? なのにお前は幽々子様の誘いに負けてすぐに稽古を投げていたじゃないか。なんなら顕界での務めが始まってから、お前は一度でも稽古をしたか? 早々に切り上げれば午後には帰って稽古ができたというのに、お前は人里で油を売るばかりだったじゃないか。これを腑抜けと呼ばずして何と呼ぶ?》
「それは……そうかもしれないけど……」
目を伏せる。反論の言葉もなかった。
《けど、何だ?》
「けど、私も今は悔しいよ。自分の未熟さのせいで幽々子様を守れなかったことが、本当に悔しい。「頼りにしている」って、初めて言ってもらったのに……」
俯いた妖夢の声は僅かに震えている。それを見た半霊は目を逸らすように向きを変えた。
《ふん。悔しがるだけなら誰にだってできる。この軟弱者が》
それきり半霊が妖夢を責めることはなかった。
しばらくして、部屋に幽々子がやってきた。幽々子は障子を閉じたあとで布巾の乗った盆を持って立ち上がり、妖夢の布団の傍で腰を下ろす。
「幽々子様、申し訳ありません。私の力が及ばなかったばかりに……。いかなる処分も覚悟しております」
何を言われるよりも早く、妖夢は畳に手をついて深々と頭を下げた。
「顔を上げなさい」
幽々子の声は優しかった。その表情は怒りとはかけ離れ、むしろ慈愛に満ちていた。
「謝るなんてとんでもない。むしろあなたには感謝しているわ。私のためにこんなに必死に頑張ってくれたのに、それ以上何も望むことなんて……」
「ですが、私は負けてしまいました。剣士として何一つ、幽々子様のお役に立てませんでした」
妖夢はにじり寄ってくる幽々子を制する。すると幽々子はにっこりと笑顔を作ってみせた。
「どうでもいいのよ、そんなこと」
妖夢は思わず「は?」と漏らした。理解が追いつかなかった。
「どうでもいいのよ、そんなことは。あなたが頑張ってくれたこと、あなたがこうして生きて帰ってきてくれたこと、それだけで私はとても嬉しいの。だからね、妖夢。ありがとう」
幽々子が妖夢を抱きしめようと手を広げる。
しかしそのとき妖夢の中に起こったのは悪寒にも似た居心地の悪さだった。嫌悪と憤りが、吐き気のように腹の底からこみあげていた。
自分があれほどまでに必死で報いようとしていた期待は、嘘だったのだ。剣士として初めて感じた喜びも悲しみも、幽々子にとっては「どうでもいい」ことだったのだ。結局のところ、幽々子はどこまでも自分のことを剣士としてではなく可愛い娘のようにしか見ていないのだ。一切の悪意なく行われたその裏切りが、妖夢には許せなかった。
ふと、値踏みするような半霊の視線を感じた。ここで抱擁を受け容れてしまえば、それは幽々子の定義に従って剣士としての自分を殺してしまうことと同義である。そう思うと、今まさに自分を包み込まんとしている諸手がひどく汚らわしい、魂を奪う悪霊の手のように見えはじめた。幽々子という存在が、自分を堕落へと誘う全ての権化のように思えた。
「嫌ぁっ!」
妖夢は息のかかる距離に迫っていた幽々子の体を突き飛ばした。そして刀掛けにある白楼剣の方へと目をやった。
そのとき、妖夢はハッと冷静になった。自分は白楼剣で何をしようとした? 一瞬でも浮かんでしまったその考えに、妖夢は戦慄した。
できる限り素早く、何事もなかったかのように視線を戻す。だがそのとき、妖夢は自分が既に取り返しのつかないことをしてしまったのだと実感した。
幽々子が乱れた服のまま仰向けに倒れ、無抵抗な少女のようにこちらを見上げている。
その目に浮かんでいるのは恐怖。山のような化け物か、あるいはこの世の終わりでも見ているかのような、そんなどうしようもない恐怖だ。幽々子のこの表情を、妖夢は知らない。いつも余裕のある笑みを湛えている幽々子が、他ならぬ妖夢に怯えているのだ。
「ち……違う……」
妖夢の足は邪眼によって石化したかのように自由を失った。さっきにも増して得体の知れない恐怖が全身をぞわぞわと這いまわる。尻餅をついたままじりじりと後退する。襖にぶつかって追い詰められた瞬間、理性の火は掻き消えた。妖夢は襖を突き飛ばし、何かわけの分からぬことを喚き散らしながら部屋を飛び出した。
翌日、妖夢は物置部屋で朝を迎えた。
昨夜は入口から隠れるように箪笥の陰で小さくなり、疲れ果てれて眠るまで泣きつづけた。
目を覚まして一番に感じたのは、茫洋たる虚無感と喪失感であった。謝らなければという考えはあったが、もう一度顔を合わせる勇気だけがどうしても起こらなかった。
主人がまだ起きだしていないことを祈りながら、物取りのようにそろそろと廊下を歩く。自分がそんな立場に置かれていることが、たまらなく悲しかった。
自室に辿り着いた妖夢は恐る恐る中をのぞき込む。主人の姿は無く、妖夢が外した襖はそのままになっている。広げたままの布団の脇には、一枚の紙が置かれていた。
妖夢へ
昨日はごめんなさい。私にはあなたの気持ちが分かっていませんでした。
今すぐ会って話がしたいのは山々ですが、まだ自分の中でもいろいろと整理がついていません。しばらくは一人で考える時間がほしいと思います。
たいへん勝手なことですが、あなたには暇を出させてもらいます。
いつまでとは言いません。あなたがそのままどこかへ行ってしまっても、仕方がないと思っています。それでももし、あなたがまだ私に愛想を尽かしていないようでしたら、どうか戻ってきてください。そのときにはきっと、私はあなたと向き合う準備を済ませておきます。
幽々子
追伸
少ないですが、あなたのこれまでの働きに対する報酬を置いておきます。今までありがとうございました。
紙の下には一束の小判が積まれていた。その僅かな重みを手に取りながら、妖夢は悲しみに震えた。