或る閻魔の曰く

文字数 6,244文字

 寝苦しい夜だった。季節外れの分厚い布団の中、汗で蒸れた体を捩る。もうほとんど痛みは無いが、眠りが妖夢のもとを訪れる気配はなかった。
 紫の去り際に放った一言は、妖夢に恐怖を植え付けるに十分なものだった。しかしそれ以上に、今は己の内より溢れる葛藤が安眠を許さないのだ。

 紫と話しているときは、なるほど彼女の言う通りに易きに流れることが正しいように思えた。それこそが自分の真の望みであるかのように思えた。しかし今思いなおしてみると、やはりそれだけでは済ませられないものがあるのだ。
 紫と現状を整理するにあたり、妖夢は剣を持ったまま白玉楼に帰るという目的に対して妖忌との約束が障害として立ちふさがっている、という形の解釈を取った。だが、その構図そのものがおかしいのだ。
 真逆のことを言われて初めて気がついた。妖忌から逃げて持ち帰る剣には何の意味もなく、やはり何らかの形でけじめをつけねば刀に宿した侍の魂は置き去りとなるのである。つまるところはこの件もまた、幽々子の従者としての進退に同じく逃れえぬ一つの目的と化しているのだ。断じて手段を選ばず排除してよい障害などではない。
 では紫の放った言葉の数々が本当に自分をただ誤った道へと誘うものなのかと考えると、そうとも思えない。確かに意図的に捨象された要素や特定の答えを誘導するような問いかけはいくつもあった。しかし、自分には無かったものの見方や考え方を提示してくれたこともまた事実である。

 もっと簡単に、それこそこの世の中に善人と悪人、敵と味方しかいなければどれだけ楽だったことだろう、と妖夢は思う。このところ、他人というものがどんどん分からなくなっているのだ。主人は優しさで自分を苦しめ、殺しあったはずの相手が見舞いに来て、師の言葉は忠の道と相反している。
 同じ人間が、別々の顔を見せる。そのことが、たまらなく不気味に思えるのだ。こうなると悪い癖で妄想ばかりが頭の中で蠢く。
 例えば世の人間がみな今の自分のように第二、第三の自我を持っていて、それを表出させぬよう生きているものだとしたらどんなに恐ろしいことだろう。道行く人が自分とすれ違った後に顔をしかめていたら? 自分の与り知らぬところで全人類が共謀し、自分を陥れようとしていたら? 自分の知らない言葉で、知らない道具で、知らない常識で世界が回っていたら? 
 問いと呼ぶにはあまりにも曖昧で衝動的な不安。まどろみを温床に繁殖したそれは、強い日光を浴びてもなお死に絶えることなく妖夢の中に残った。







 その日から外出が許可された。
 医者の処を出てからしばらく、妖夢はぶらぶらと里を練り歩いていた。
 行くあてもなく彷徨っていると、道行く人々がいやに忙しなく見える。自分が猶予という名の倦怠を貪っている間に、他者は各々の目的で何らかの営みを通じて世界を回している。そう思うと、自分だけが取り残されていくような気がした。自分一人を置き去りに世界が明日へと進んだとして、それに気づく者がこの視界の中にどれだけいることだろう。
 妖夢は向うからやってくる通行人に偶然を装ってぶつかってやろうかと考えた。或いはいっそこの鬱屈しきった自我のすべてをうち捨てて狂いまわり、辻斬りに堕ちた後でただ一匹の獣のように屠殺されれば。獣が血塗れで人混みを駆けるに従い、その自我は魂魄妖夢という人間から遠く離れてゆく。それがその果てで何をしようと、良心は己という檻の外で行われた行為について何を咎めることもないのである。
 すれ違う男をじっと見つめ、その腹が裂ける様を思い描くと、だがすぐに馬鹿らしくなった。まだ冷静でいる頭が、すぐにその虚しさに気付くのだ。そして妖夢はこの不健全な思考を払拭するための場所を探した。

 人のいない方へと歩いていくうち、見覚えのある場所に着いた。建物が無くなり景色は随分と変わったが、いまだ残る臭いが嫌でも記憶に訴える。あの日妖夢が妖怪に挑み、そして敗れた場所だ。
 早いもので既に廃材の搬出は終わっており、更地には数人の法被が図面や紐を持ち込んでいる。
 妖夢は犠牲になった娘の両親の安否を尋ねようとしてやめた。どんな答えであれ自分が罪悪感に苛まれることに違いはない。知ったところで誰に伝えることもなければ、義務や責任といった言葉を持ち出したところですでに彼らとの関係が悲劇で終わったことはどうやっても変えられない。ならばその悲劇のエピローグをそっと閉じ、曖昧さの霧の彼方に追いやってしまうのはいけないことだろうか? そう思えてしまう程度には、妖夢の心は疲弊していた。
 長屋の跡を尻目に踵を返したとき、頬を撫でる生暖かい風に吹かれた妖夢は紫の話を思い出した。なるほど実際にやってみれば何も難しいことはない。我こそは卑劣に手を染める最後の人と思っていたが、その実魂魄妖夢という人間は存外簡単に誤魔化しが利くようだ。
 受け容れたくはなかった。だが結局妖夢がそこに留まることはなかった。
 逃げるように早々と歩を進めて医者の家へ入ろうかというところで、ふとすれ違いざまに呼び止める者があった。

「おや、その剣……あなた、魂魄家の人間ですか?」

 見ると、随分と華奢な女性である。細い指も短いスカートから覗く足もそのすべてが緻密な数式によって作られた金細工のようにしなやかで、それでいて無機質だ。青い服と帽子には金属製の飾り。その所々から垂れる紅白のリボン。鮮やかな緑の髪。極彩色の装いはこの金細工をまさにアーティスティックに彩るが、不思議とその彩りは原始の草花が生命を称えるがごとく奔放に目を楽しませるのではなく、より洗練された未知なる美感の産物、たとえば極楽からの使いか或いは未来人のような、そんな超越者に対する羨望を惹起するのである。

「ああ、失礼しました。こうして会うのは初めてでしたね。私は閻魔の四季映姫(しきえいき)。是非曲直庁で最高裁判長を勤める者です。その剣は魂魄妖忌の持つ白楼剣と見受けますが」

 閻魔を名乗る女性は青い瞳に冷たい光を湛えて妖夢を見つめる。それは裁判長の席にあらずしてなお世界の掟を代表でもするかのように神々しく、一片の偽りすらも許さぬ厳格さを秘めていた。
 妖夢はいかにも自分が当代の魂魄家当主・魂魄妖夢である、と声高に名乗れない身の上を恥じ入り、呟くように答えた。

「妖忌は私の祖父です」

「そうですか。ではあなたが魂魄妖夢ですね」

「……閻魔様が私などに何か御用でしょうか?」

 妖夢は不審に思った。幽々子の報告書があるとはいえ、閻魔に名を覚えられるほどの大物になった覚えはない。反魂未遂の件で処分を受けるのかと考えたが、そのときに湧いた感情は既に恐怖ではなく煩わしさだった。

「いえ、特にこれといった用はありません。ただ、あなたがあまりにも深刻な顔をしているので、放っておくのもどうかと思いまして」

「そんなにまずい顔でしたか?」

「ええ、それはもう。そう、今にも自殺か殺人にでも走りそうなくらいには」

「御冗談を。気のせいですよ」

 妖夢は小さく肩を竦めてみせると、再び映姫に背を向けた。しかし、なおも変わらず背に張り付く視線のために歩を進めることはかなわなかった。

「閻魔様のお気になさるようなことではありません」

「さて、そうであれば良いのですが……」

 映姫はそう言って一枚の手鏡を取り出した。そしてそれを妖夢の方へ向けてしばらく眺めると、「なるほど、分かりました」といって元の場所へしまった。

「失礼ながら、あなたのこれまでの人生を見せてもらいました。どうやら、看過できる状況ではないようですね」

 妖夢は観念した。閻魔に隠し立てなど、無駄な抵抗である。

「いやはや、随分と勝手なことを……ああ、まずはそのことから話さなければなりませんね。白楼剣のことについて、あなたは何も聞かされていないようですので」

 そんな馬鹿な話があるか。この断迷の剣は魂魄家の家宝であり、誇りである。自分の懊悩も祖父の後悔も、すべてはこの剣を中心に回っているのだ。
 妖夢は苛立ちを隠そうともせず、露骨に眉を顰めた。しかし映姫はそれを宥めるでもなく、淡々と続ける。

「その剣は本来、我々是非曲直庁が収容・管理していたものです。しかしあるときそれが持ち出され、顕界で振るわれるという事件が起きました。その際、犯人の逮捕に協力したのが魂魄妖忌です。白楼剣はこちらで回収する手筈でした。しかし彼は自分が収容前の所有者であると主張し、剣の返却を求めたのです。魂の理を乱すその剣を再び野放しにするわけにはいきません。そこで交渉の結果、我々は直庁の監視下における彼の白楼剣所持を認めました。そして彼は直庁の下部組織である白玉楼に送り込まれ、西行寺幽々子に仕えることとなったのです」

 思えば、妖忌は自らの過去を孫娘に対して語ることが無かった。もっとも、剣の道の外において口を開くこと自体稀な人間が魂魄妖忌だが。

「さて、それを踏まえた上で……我々はあなたと魂魄妖忌との間に起こった問題について、何の干渉もできません。契約は永代所有を認めるものであり、継承が自由であればその逆もまた然り。白楼剣があなたの手にあろうと彼の手に戻ろうと、何ら問題ありません。ですが剣が白玉楼を離れるのであれば、それは別の問題。白玉楼を去った魂魄妖忌が剣を持つ場合も、あなたがこのまま剣を持ち去る場合も、我々は回収の手を差し向けることになるでしょう」

 鬼を地獄の獄卒に使うような組織である。「回収」の二文字の意味するところが穏便でないことは容易に想像できた。

「逆を言えばあなたが白玉楼に剣を持ち帰るという選択をする場合、魂魄妖忌の要求は我々が撥ね退けることになりますね。不本意ながら我々があなたにできる助言は八雲紫と同じ、このまま彼の要求を無視して帰ることです」

「ですが……!」

「ええそう。ですがそれではあなたの納得がいかない。……ですのでここからは少しだけ、私からのお説教です」

 映姫はこれまでで初めて有機的な表情を見せた。

「あなたは今、迷っている。白楼剣に相応しい使い手となるべく修行の旅に出るか、忠義のために白玉楼へと戻るか。そしてそれは決して最終的に剣を失うかどうか、白玉楼に戻れるかどうかという即物的、結果的な問題ではなく、この状況においてあなた自身がどちらを選んだかという、いわばあなたの意志、在り方を問う問題です。故に、たとえ我々の手によって魂魄妖忌が退けられても、それはあなたにとって何の解決にもならない」

「はい。その通りです」

「さて、是非曲直庁の職員としての私の立場、意見は先に述べたとおりです。しかし一個人として、私はあなたのその葛藤を決して無意味なものだとは思いません。むしろ人間の最も尊い営みの一つとして賞賛したいとさえ思っています。ときに、八雲紫はあなたに対して助言を与えた。古き戒めを解き、苦を背負うことなく生きる。それが彼女の示した道です。しかし、私に言わせるならこれは性急かつ怠惰な思想で若者を誑かす甘言です」

 映姫と紫。白黒はっきりつける審判者と、そのスキマたるグレーゾーンの住人。まさに水と油である。二人の意見が噛み合うはずもない。

「教えや道徳、価値観というものは、何も無意味に決められたものではありません。あなたと同じように悩み苦しみ、それでもなお善く生きる術を求め続けた先人たちの意志が積み重なったもの。愚かで短命な人類が痛みと喪失、徒労と相克を繰り返し、その果てに掴んだ知識の結晶。それが法となり正義となるのが、人の世です。もともと地上に道はなく、歩く者が多くなれば、それが道になるのです。だからこそ、それは尊ばれるべきなのです。そう、人間の意志とは絶え間ない選択の連続に他ならない。そしてそれを投げだす者とは、畢竟、人生に対する路傍の人に過ぎないのです」

 映姫の言葉に込められた熱が、忘れようとしていた感情を焚きつける。

「あなたは今、迷っている。それは無知ゆえの事でなく、あなたは忠義と求道という今まさに決別せんとする二人の巨人の肩にその両足を乗せているのです。暗愚へと、人生の路傍へと落ちるこの瀬戸際にあなたは……そう、あなたは少し優柔不断に過ぎる。迷いとは葛藤とは確かに素晴らしいことです。ですがそれはその果てに得た結論があってのこと。答えを出さないままの迷いには、何の意味もないのです。あなたがただ保身と思考停止のためだけに直庁を盾にして事なきを得たときには、きっと私はあなたを軽蔑することでしょう」

 映姫はそこで耐えかね、ほんの一瞬だけ目を逸らした。

「ええ、まったくもって残酷なことです。私は今まさに、自ら焚いた火の中に悩める若者を追い立てようとしているのですから。好きなだけ恨んで構いません。しかしながら、これが私の善意が導き出すところの結論なのです。それを偽ることは、何をおいてもできないのです」

 そこには慈愛に満ちた菩薩の顔があった。映姫はだが憐憫の涙を零さんとする目に再び冷たい光を灯すと、一転して元の毅然とした態度に戻る。

「無論、これはあくまで通りすがりの大人としての助言です。彼岸で裁判長としてあなたと向きあう時には、私はあなたにかける慈悲を持ちません。法の意志の元、罪人には必ず裁きが下される。そのことは忘れないでください。では、くれぐれも悔いの残らぬよう」

 そう言い残すと、映姫は返事の暇も与えず足早にその場を去っていった。







「ケッ、何が『裁判長として』だ。手前が一番ブレてんじゃねえか」

 部屋に戻ると、妖夢は縁起の悪い先客に顔をしかめてみせた。

「よう妖夢。見舞いに来てやったぜ」

 死神がいた。それも、枕元どころか布団そのものを占拠して我が物顔で寝転がっている。

「閻魔大王の命の下に、ですか?」

「まあ、そう邪険にしなさんなや」

 死神――小町は起き上がると、布団の空いたところに座った妖夢と向きあう。しばらく真剣な眼差しで見つめあっていた二人だったが、小町はそれを崩すように妖夢の頭を掴むと、がしがしと指で髪を乱した。

「何があった? ちゃんとお前さんの口から言ってみな」

 これまで幾度となく見てきた、すでに白玉楼の日常と化した笑顔。過酷に晒され苦渋に苛まれ、喘ぐ無力な心にとっていま、思い出だけがただ優しい。それは疑いと強がりで固めた妖夢の守りを瓦解させるのに十分だった。

「……やっぱり小町さんはずるいです」

 妖夢は包み隠さず全てを語った。死神はただうたた寝のように深く頷きながら耳を傾ける。それはまるで泥に塗れた人間の生を全て受け入れて洗い流す川のように。

「そうかい、なるほどねえ」

 ひとしきり聞き終えたあと、だが死神は命ある者にその泥を掬い上げて返す。

「……そうだねえ、そんなら多分、どんな説教を並べるよりもこの話をしてやるのがお前さんのためってもんだろうよ。こいつぁ昔、ある死者の魂から聞いた話だ」

 川底に沈殿するひときわ頑固な泥と併せて。

「といっても、正確にゃ魂の一部だ。とびきり偏屈な侍の、な」
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登場人物紹介

魂魄妖夢


主人公。

冥界の館、白玉楼の庭師にして剣術指南。

真面目で努力家。しかし多感であり、物事を考えこんで思い詰めてしまう。

西行寺幽々子


冥界の館、白玉楼の管理人。

奥ゆかしく包容力のある貴人。

妖夢の主人であり、娘のようにかわいがっている。

魂魄妖忌


妖夢の先代にして剣術の師。血縁上は祖父に当たる。

厳格な人物で、妖夢は畏怖と憧憬を抱いている。

五年前、妖夢に家督を譲って白玉楼を去った。

小野塚小町


彼岸の死神。三途の川の船頭。

極めて怠惰で、頻繁に職務を放棄しては白玉楼で油を売る。

妖夢の幼いころから面識があり、年の離れた姉のような存在。

博麗霊夢


顕界は幻想郷を護る博麗の巫女。妖怪退治と異変解決を生業とする。


霧雨魔理沙


森に住む魔法使い。

破天荒でお節介な変わり者。

八雲紫


妖怪の賢者。幻想郷の管理人。

どこへ行っても「胡散臭い」と言われる。

幽々子の親友であり、白玉楼ではなじみの顔。

四季映姫


地獄の最高裁判長を勤める閻魔。小町の上司。

公正さを尊ぶ人物で、説教臭い。

彼岸と冥界の組織図の都合上、間接的に妖夢たちの上司にもあたる。

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