ボーダーオブライフ
文字数 5,431文字
魔理沙の駆る箒の後方、妖夢の面持ちは神妙だった。
あの別れを最後に、幽々子とは顔を合わせていない。鬱屈しきった自分はこの後の再会で何を思い、そして何と口にするのだろうか? 成り行きのままに舵を切ったが、まだ自分の心に確信は持てない。
「見えてきたぜ!」
風に揉まれながら、魔理沙が声を張る。
そうだ、今は後のことを気にしている場合ではない。この後の戦いに備えて精神を研ぎ澄ませる必要がある。
妖夢は魔理沙を抱く手に力を入れると、小さな背中に顔をうずめた。
闇を泳ぐように飛び交う二つ。霊夢と異相の剣客――西行鬼である。
弾幕を抜けて二刀を振るう西行鬼。辛くも躱し距離を取る霊夢。正弦波のような軌跡を描きながら、二人は長い階段を上ってゆく。
眼下に白玉楼が見えたとき、西行鬼は霊夢に迫ると見せて脇をすり抜けようと試みた。しかし霊夢の勘は安易なそれを許さない。すれ違いざま、霊夢が掌で練った太極図模様の光球が西行鬼の腹を抉る。西行鬼はそのまま墜落し、地に伏した。
「ふぅ」
霊夢は地上に降り立つと、額の汗を拭いながら袖にしまった御札の束を取り出した。左手の御札を指でずらしながら、その中の数枚をより分けて右手に挟んでゆく。
そのとき、西行鬼が跳躍した。霊夢の直感は手作業をしていたこの時に限り隙を作る。回避も防御も手遅れ。必殺の軌道である。
「待たせたな!」
敵の背中に衝撃音。斬撃の軌道は大きく狂い、霊夢の頬に朱の一筆を入れる。飛んできた西行鬼の身体を蹴り返し、霊夢は空を見上げた。
「霧雨魔理沙、ただいま見参! あと、おまけもいるぜ」
颯爽と現れた魔理沙。その後ろから現れる緑の侍を見て、霊夢の表情が険しさを増す。
「ちょっと魔理沙、なんて奴を連れてきたの? 背中から刺されたらどうするのよ?」
「大丈夫だ霊夢。こいつのことは私が保証する」
魔理沙が親指を立てた。
「……死んだらあんたにも祟ってやるから」
「上等!」
魔理沙は魔道具を取り出した。霊夢は札を一枚だけ残してしまい、空いた手に針を挟む。妖夢は二人の前に立つと、楼観剣を抜き放ち、青眼に構えた。
「行くぞおぉ!」
先陣を切って踏み込む妖夢。長丁場に耐えられる体ではない。初太刀から渾身の一振りを打ち込む。
空振り。その瞬間、刃渡りの長さは隙の大きさに転じる。白楼剣が迫る。
しかし、妖夢は単騎ではない。後方からの針が西行鬼を遮る。すると再び妖夢の番が来る。
援護射撃は的確だった。魔理沙の光弾が妖夢に攻めの隙を与え、霊夢の針が敵の攻めの機会を奪う。妖夢と西行鬼の戦力差は埋まり、勝負は互角となっていた。
状況の変わらぬうちにと妖夢が押し込む。しかしかすり傷を除いて一切の当たりが無い。それどころか防戦の中で敵は徐々に紙一重の間合いを把握し、切り結ぶうちにいよいよかすりもしなくなっていく。
やがて西行鬼は耐久性を頼りに多少の被弾を顧みぬ攻めに転じた。こうなれば状況は一対一と大差無い。受けに徹してなお、薄氷の見切りが続く。
「ゴリ押しはご法度だぜ!」
魔理沙が大玉を打ち込む。西行鬼の身体が吹き飛んだ。あわや階段から落ちそうになった西行鬼は立ち上がると、火力を上げた援護射撃を前に無理な攻めを諦める。
再びの拮抗。被弾により敵の動きは僅かに鈍っているが、妖夢の身体も悲鳴を上げている。しかし、この消耗戦から一番に脱落したのは魔理沙だった。
「悪い、弾切れだ!」
「くっ……幽々子様の避難、お願い!」
「了解!」
魔理沙が白玉楼の門に手をかける。
すると西行鬼は白楼剣を頭の後ろに構え、投げつけた。飛刀術。手裏剣のように放たれたそれは魔理沙の背中に迫るが、その途中で何かに当たったように弾かれた。
不自然に光を屈折させる面。その向こうで、霊夢が一枚の御札を浮かせている。
「サンキュー!」
魔理沙の離脱を確認する間もなく、妖夢は落ちた白楼剣に飛びつく。しかし、敵も考えることは同じ。二人の動きがかち合う。
妖夢は拾った白楼剣での受けを決めこんだ。
しかし、攻撃を優先した敵の方が早い。剣を掴んだものの、妖夢の背中は西行鬼の刃によって深々と切り裂かれた。
「ああああああ!」
悲痛な叫びと共に、妖夢はその場に倒れた。
焼けるような痛みも鈍化し、体の熱が失われてゆくのが分かる。
霞む視界には巫女の背中。妖夢を結界で庇い、一人前線に立って戦っている。
ここで果てるわけにはいかない。妖夢は意識を引きずり込まんと迫る闇を振り払い、地を押す手に力を込めた。すると、半霊の声が聞こえた。
《私を斬れ》
「え?」
《私を斬れ。大丈夫、今なら白楼剣の刃に触れるだけでいい。こっちから出ていってやる。お師匠様のように、お前も迷いを捨てて強くなるんだ》
あまりに唐突な提案だった。いつ身体を奪い返されてもおかしくないとさえ思っていたのに。
「そんな、どうして?」
《私は負けた。負けたんだよ。あの瞬間、お師匠様を目の前で殺されたあの瞬間に、私は全てを奪われた。もうお師匠様に力を示せる機会は無い。あんな言葉で納得なんていくもんか。白玉楼に戻るのも、白楼剣を握るのも、お師匠様が許したって私自身が許せないんだ。それに、このさき何を目標に強くなればいいのかも分からない。いつかお師匠様に勝つと決めて頑張ってきたのに、これじゃあもう永遠に挑むことすらできないじゃないか》
半霊は続ける。
《私の誓いは破れた。依って立つものが無くなって初めて、自分の弱さに気付いたよ。あいつを倒せたとしても、この先を生きていくことが怖くて仕方がないんだ。今の私はもう、弱さ以外の何者でもない。これ以上は生き恥を晒すだけだ。情けない半分で悪かった。だからさあ、斬ってくれ》
彼女に似合わない、力ない告白。
「……なんだよ、それ」
諦めきったその様に、妖夢は吐き捨てるように言った。
「なんだよ、それ! 誓いなんて言って、過去の自分に判断も責任も押し付けて思考停止してるだけじゃないか! そりゃ怖くもなるだろうね。誓いが破れたら生きていけないなんて、大馬鹿だよ!」
激情に任せ、いつになく強い言葉を浴びせかける。
「私だって、自分の弱さなら嫌というほど思い知ったよ。先のことは分からないし、怖いよ。でも、いま守りたいものがあるからここに来たんだ。これからも何度だって打ちのめされると思う。恥も晒すと思う。考えも変わると思う。一度誓ったことをずっと貫ける自信なんて無いし、貫きたいとも思わない。でも気付いたんだ。選ぶんじゃない、選び続けるんだって。それが迷いだっていうなら、私は一生迷い続けるって決めてやる! だからあなたも過去がどうとかじゃない、今の気持ちを聞かせてよ!」
《私は……》
言いよどむ半霊。
《そりゃ、私だって出来るなら戦いたい。あいつを倒して、幽々子様をお守りしたい。それは今でも同じだ。じゃなきゃこんなこと頼んでない》
「なら!」
《でも、それじゃ勝てないから言ってるんだ! さあ斬れ! そうすることで、魂魄妖夢は完成する!》
「嫌だ! 私、あなたがいなきゃあのとき逃げ出してた! でもあなたは現実に真正面からぶつかっていった! 弱い私の代わりに戦ってくれた! 私にできないことをやってくれた! あなたが否定したって、私が言ってやる! あなたは強いよ! 私にはあなたが必要なんだ! それに、あなたが教えてくれたんだよ? 大切なものはどっちも手放せないって。剣と白玉楼だけじゃない。私がいて、あなたがいる。それではじめて魂魄妖夢なんだ! だから、死んでも捨ててたまるもんか!」
思いの丈をぶつけた後、妖夢は長い沈黙を祈るような心持ちで待った。やがて半霊は静かに問いを返す。
《……本当に、私でいいのか?》
「あなたじゃなきゃ、駄目なんだよ。私に足りないもの、あなたが全部持ってる。あなたに足りないもの、私が全部持ってる。だから、怖がらないで。一緒ならきっと、何だって出来るから!」
それは二つの魂が共鳴した瞬間だった。妖夢と半霊は引かれあい、二つの人格は一つの身体に収まる。脳が撹拌されるような意識の混濁は徐々に収まり、二つの意識は渾然と溶けあった。
体の奥から湧出する二倍の力。それは圧倒的な熱量を持ちながらも、血潮を冷え渡らせるように全身の感覚を研ぎ澄ます。肉体は疲れと痛みを脱ぎ捨て、枷を外したように軽い。
妖夢は二刀を手に立ち上がった。
「気がついたようね。まだ戦える?」
霊夢は西行鬼の猛攻を前に結界を維持しながら声をかける。
「大丈夫」
「そう。なら提案。この後しばらくあいつを任せてもいい?」
「何をするの?」
「ちょっと手のかかる除霊よ。その剣とあいつのからくりは大体分かったわ。私にできるのは下準備まで。私が当てたら、すかさず斬りなさい。それで終わり。どう、乗る?」
「何秒欲しいの?」
「六十六秒。行ける?」
「請け負った」
隙を見て飛び出す妖夢。西行鬼が大きく距離を取る。
妖夢は呼吸を整えると、楼観剣の一振りで地を裂いた。冥界の地に深く刻まれる一本の線。掲げる剣に瑕疵は無く、前口上は高らかに。
「今、私は線を引いた。これが冥界の境界線。これが、私の一線。この線は私が命に代えても守る。だから……それを越えるというのなら、生死の境を跨ぐ覚悟を決めろ!」
然して構える西行鬼。不退転の意志は敵とて同じ。となればもはや言葉は不要。
時間は妖夢に利する。口火は西行鬼によって切られた。変速する跳躍。間合いを眩まし、喉首狙いの一突き。
しかし妖夢の狙いは後の先。鋭化した眼が足取りを追い、体がそれに追従する。軸をずらし、交差する突きで迎え撃つ。敵の勢いを借りたそれは脇腹を鋭く刺し貫いた。
流れるように剣にこめる力の向きを変える。刃が肉に捕まらぬよう、外へ。斬り抜けると、案の定この妖怪も膝をつかない。
位置が入れ替わり、霊夢が無防備だ。即座に追撃。躱されるも、再び二人の間に入る。
焦った攻撃は隙を生み、攻守が交代する。振り下ろしで丸まった背を踏みつけられ、骨が鈍い音を立てる。構わない、まだ戦える。
妖夢は敵の呼吸に合わせて身を転がし、踏みつけを抜けた。とどめを免れるも、二の腕に大きな傷を受ける。構わない。まだ、戦える。
ぐるりと弧を描いて回避を誘い、起き上がる隙を作る。距離を取りたい気持ちを堪え、起き攻めをその場で捌く。二、三と受けに徹する間に腿が裂ける。構わない。まだ、戦える。
突如、頬に打撃。二刀に対抗した西行鬼の、鞘による奇襲。口の中が切れた。視界にもわずかに支障がある。構わない。まだ、戦える。
妖夢は敵をきと睨みつけた。荒々しい吐息を一つ。そしてまた、激しさを増す戦いの中に身を投じる。
猛攻。応報。丁々発止。白き嵐と舞う刃。
創傷。高揚。咆哮。闘争。血風に滾る二人の修羅。
狂奔の中で、だが妖夢はその声を聞き逃さなかった。
「行くわよ!」
「お願い!」
妖夢は離脱した。露骨な逃げを咎められ、新たに傷を受ける。
苦悶。だが妖夢が手痛い代償を払い作った隙を、霊夢は見逃さない。敵の懐へ飛び込み、まばゆい光球を押し当てる。轟音。閃光。動きを止める西行鬼。
「今だ!」
楼観剣を捨て、駆ける。白楼剣を握る両手。小さな手で、ありったけの力で、強く、強く握りしめて。あの悔しさを、あの寂しさを、あの苦しみを、あの悲しみを。今、すべての思いを、全身全霊を込めた一刀。
「行っけええええ!」
「うおおおおおおおおおおおおおお!」
一筋の光となって走る。光速下の精神は一つの次元を突き抜け、向こう側の領域で剥離したそれら低次の情動を置き去りにした。
虚無感を虚無感と捉え、遅れて来た感覚を疾走感と名付け、意識が物質世界に復帰したとき、妖夢の耳には既に断末魔さえも聞こえなかった。
達成感が溢れることは無かった。倒れ伏す西行鬼と道具をしまう霊夢。それらの状況が戦いの終わりを淡々と告げるばかりで、沸々と湧き上がるそれをどこか信じられないまま、妖夢は立ち尽くしていた。
「妖夢!」
声が聞こえる。懐かしい声。聞き慣れた声。魔理沙と共に門から出てくる主の姿。
「幽々子様……」
幽々子は何度も躊躇う素振りを見せながら、傷ついた妖夢を抱きしめた。
「妖夢! 戻ってきてくれたのね! ああ、こんなになって……」
あのとき拒んだ、そして長く焦がれ続けたその腕の中で、ようやくすべての帰結を実感する。紆余曲折は組み立てられ、感動を形成する。
「幽々子様! 私……私……」
妖夢は万感の思いを伝えようと努めたが、一つとして言葉にならなかった。謝罪も不満も場違いならば、喜びは語り尽せない。最後は止めど溢る涙に身を任せるよりほかなかった。
「おかえり、妖夢」
「ただいま、帰りました!」
二人はそれからしばらく再開の喜びを分かち合った。妖夢がそのまま眠ってしまう頃には、霊夢たちの姿はどこにもなかった。
あの別れを最後に、幽々子とは顔を合わせていない。鬱屈しきった自分はこの後の再会で何を思い、そして何と口にするのだろうか? 成り行きのままに舵を切ったが、まだ自分の心に確信は持てない。
「見えてきたぜ!」
風に揉まれながら、魔理沙が声を張る。
そうだ、今は後のことを気にしている場合ではない。この後の戦いに備えて精神を研ぎ澄ませる必要がある。
妖夢は魔理沙を抱く手に力を入れると、小さな背中に顔をうずめた。
闇を泳ぐように飛び交う二つ。霊夢と異相の剣客――西行鬼である。
弾幕を抜けて二刀を振るう西行鬼。辛くも躱し距離を取る霊夢。正弦波のような軌跡を描きながら、二人は長い階段を上ってゆく。
眼下に白玉楼が見えたとき、西行鬼は霊夢に迫ると見せて脇をすり抜けようと試みた。しかし霊夢の勘は安易なそれを許さない。すれ違いざま、霊夢が掌で練った太極図模様の光球が西行鬼の腹を抉る。西行鬼はそのまま墜落し、地に伏した。
「ふぅ」
霊夢は地上に降り立つと、額の汗を拭いながら袖にしまった御札の束を取り出した。左手の御札を指でずらしながら、その中の数枚をより分けて右手に挟んでゆく。
そのとき、西行鬼が跳躍した。霊夢の直感は手作業をしていたこの時に限り隙を作る。回避も防御も手遅れ。必殺の軌道である。
「待たせたな!」
敵の背中に衝撃音。斬撃の軌道は大きく狂い、霊夢の頬に朱の一筆を入れる。飛んできた西行鬼の身体を蹴り返し、霊夢は空を見上げた。
「霧雨魔理沙、ただいま見参! あと、おまけもいるぜ」
颯爽と現れた魔理沙。その後ろから現れる緑の侍を見て、霊夢の表情が険しさを増す。
「ちょっと魔理沙、なんて奴を連れてきたの? 背中から刺されたらどうするのよ?」
「大丈夫だ霊夢。こいつのことは私が保証する」
魔理沙が親指を立てた。
「……死んだらあんたにも祟ってやるから」
「上等!」
魔理沙は魔道具を取り出した。霊夢は札を一枚だけ残してしまい、空いた手に針を挟む。妖夢は二人の前に立つと、楼観剣を抜き放ち、青眼に構えた。
「行くぞおぉ!」
先陣を切って踏み込む妖夢。長丁場に耐えられる体ではない。初太刀から渾身の一振りを打ち込む。
空振り。その瞬間、刃渡りの長さは隙の大きさに転じる。白楼剣が迫る。
しかし、妖夢は単騎ではない。後方からの針が西行鬼を遮る。すると再び妖夢の番が来る。
援護射撃は的確だった。魔理沙の光弾が妖夢に攻めの隙を与え、霊夢の針が敵の攻めの機会を奪う。妖夢と西行鬼の戦力差は埋まり、勝負は互角となっていた。
状況の変わらぬうちにと妖夢が押し込む。しかしかすり傷を除いて一切の当たりが無い。それどころか防戦の中で敵は徐々に紙一重の間合いを把握し、切り結ぶうちにいよいよかすりもしなくなっていく。
やがて西行鬼は耐久性を頼りに多少の被弾を顧みぬ攻めに転じた。こうなれば状況は一対一と大差無い。受けに徹してなお、薄氷の見切りが続く。
「ゴリ押しはご法度だぜ!」
魔理沙が大玉を打ち込む。西行鬼の身体が吹き飛んだ。あわや階段から落ちそうになった西行鬼は立ち上がると、火力を上げた援護射撃を前に無理な攻めを諦める。
再びの拮抗。被弾により敵の動きは僅かに鈍っているが、妖夢の身体も悲鳴を上げている。しかし、この消耗戦から一番に脱落したのは魔理沙だった。
「悪い、弾切れだ!」
「くっ……幽々子様の避難、お願い!」
「了解!」
魔理沙が白玉楼の門に手をかける。
すると西行鬼は白楼剣を頭の後ろに構え、投げつけた。飛刀術。手裏剣のように放たれたそれは魔理沙の背中に迫るが、その途中で何かに当たったように弾かれた。
不自然に光を屈折させる面。その向こうで、霊夢が一枚の御札を浮かせている。
「サンキュー!」
魔理沙の離脱を確認する間もなく、妖夢は落ちた白楼剣に飛びつく。しかし、敵も考えることは同じ。二人の動きがかち合う。
妖夢は拾った白楼剣での受けを決めこんだ。
しかし、攻撃を優先した敵の方が早い。剣を掴んだものの、妖夢の背中は西行鬼の刃によって深々と切り裂かれた。
「ああああああ!」
悲痛な叫びと共に、妖夢はその場に倒れた。
焼けるような痛みも鈍化し、体の熱が失われてゆくのが分かる。
霞む視界には巫女の背中。妖夢を結界で庇い、一人前線に立って戦っている。
ここで果てるわけにはいかない。妖夢は意識を引きずり込まんと迫る闇を振り払い、地を押す手に力を込めた。すると、半霊の声が聞こえた。
《私を斬れ》
「え?」
《私を斬れ。大丈夫、今なら白楼剣の刃に触れるだけでいい。こっちから出ていってやる。お師匠様のように、お前も迷いを捨てて強くなるんだ》
あまりに唐突な提案だった。いつ身体を奪い返されてもおかしくないとさえ思っていたのに。
「そんな、どうして?」
《私は負けた。負けたんだよ。あの瞬間、お師匠様を目の前で殺されたあの瞬間に、私は全てを奪われた。もうお師匠様に力を示せる機会は無い。あんな言葉で納得なんていくもんか。白玉楼に戻るのも、白楼剣を握るのも、お師匠様が許したって私自身が許せないんだ。それに、このさき何を目標に強くなればいいのかも分からない。いつかお師匠様に勝つと決めて頑張ってきたのに、これじゃあもう永遠に挑むことすらできないじゃないか》
半霊は続ける。
《私の誓いは破れた。依って立つものが無くなって初めて、自分の弱さに気付いたよ。あいつを倒せたとしても、この先を生きていくことが怖くて仕方がないんだ。今の私はもう、弱さ以外の何者でもない。これ以上は生き恥を晒すだけだ。情けない半分で悪かった。だからさあ、斬ってくれ》
彼女に似合わない、力ない告白。
「……なんだよ、それ」
諦めきったその様に、妖夢は吐き捨てるように言った。
「なんだよ、それ! 誓いなんて言って、過去の自分に判断も責任も押し付けて思考停止してるだけじゃないか! そりゃ怖くもなるだろうね。誓いが破れたら生きていけないなんて、大馬鹿だよ!」
激情に任せ、いつになく強い言葉を浴びせかける。
「私だって、自分の弱さなら嫌というほど思い知ったよ。先のことは分からないし、怖いよ。でも、いま守りたいものがあるからここに来たんだ。これからも何度だって打ちのめされると思う。恥も晒すと思う。考えも変わると思う。一度誓ったことをずっと貫ける自信なんて無いし、貫きたいとも思わない。でも気付いたんだ。選ぶんじゃない、選び続けるんだって。それが迷いだっていうなら、私は一生迷い続けるって決めてやる! だからあなたも過去がどうとかじゃない、今の気持ちを聞かせてよ!」
《私は……》
言いよどむ半霊。
《そりゃ、私だって出来るなら戦いたい。あいつを倒して、幽々子様をお守りしたい。それは今でも同じだ。じゃなきゃこんなこと頼んでない》
「なら!」
《でも、それじゃ勝てないから言ってるんだ! さあ斬れ! そうすることで、魂魄妖夢は完成する!》
「嫌だ! 私、あなたがいなきゃあのとき逃げ出してた! でもあなたは現実に真正面からぶつかっていった! 弱い私の代わりに戦ってくれた! 私にできないことをやってくれた! あなたが否定したって、私が言ってやる! あなたは強いよ! 私にはあなたが必要なんだ! それに、あなたが教えてくれたんだよ? 大切なものはどっちも手放せないって。剣と白玉楼だけじゃない。私がいて、あなたがいる。それではじめて魂魄妖夢なんだ! だから、死んでも捨ててたまるもんか!」
思いの丈をぶつけた後、妖夢は長い沈黙を祈るような心持ちで待った。やがて半霊は静かに問いを返す。
《……本当に、私でいいのか?》
「あなたじゃなきゃ、駄目なんだよ。私に足りないもの、あなたが全部持ってる。あなたに足りないもの、私が全部持ってる。だから、怖がらないで。一緒ならきっと、何だって出来るから!」
それは二つの魂が共鳴した瞬間だった。妖夢と半霊は引かれあい、二つの人格は一つの身体に収まる。脳が撹拌されるような意識の混濁は徐々に収まり、二つの意識は渾然と溶けあった。
体の奥から湧出する二倍の力。それは圧倒的な熱量を持ちながらも、血潮を冷え渡らせるように全身の感覚を研ぎ澄ます。肉体は疲れと痛みを脱ぎ捨て、枷を外したように軽い。
妖夢は二刀を手に立ち上がった。
「気がついたようね。まだ戦える?」
霊夢は西行鬼の猛攻を前に結界を維持しながら声をかける。
「大丈夫」
「そう。なら提案。この後しばらくあいつを任せてもいい?」
「何をするの?」
「ちょっと手のかかる除霊よ。その剣とあいつのからくりは大体分かったわ。私にできるのは下準備まで。私が当てたら、すかさず斬りなさい。それで終わり。どう、乗る?」
「何秒欲しいの?」
「六十六秒。行ける?」
「請け負った」
隙を見て飛び出す妖夢。西行鬼が大きく距離を取る。
妖夢は呼吸を整えると、楼観剣の一振りで地を裂いた。冥界の地に深く刻まれる一本の線。掲げる剣に瑕疵は無く、前口上は高らかに。
「今、私は線を引いた。これが冥界の境界線。これが、私の一線。この線は私が命に代えても守る。だから……それを越えるというのなら、生死の境を跨ぐ覚悟を決めろ!」
然して構える西行鬼。不退転の意志は敵とて同じ。となればもはや言葉は不要。
時間は妖夢に利する。口火は西行鬼によって切られた。変速する跳躍。間合いを眩まし、喉首狙いの一突き。
しかし妖夢の狙いは後の先。鋭化した眼が足取りを追い、体がそれに追従する。軸をずらし、交差する突きで迎え撃つ。敵の勢いを借りたそれは脇腹を鋭く刺し貫いた。
流れるように剣にこめる力の向きを変える。刃が肉に捕まらぬよう、外へ。斬り抜けると、案の定この妖怪も膝をつかない。
位置が入れ替わり、霊夢が無防備だ。即座に追撃。躱されるも、再び二人の間に入る。
焦った攻撃は隙を生み、攻守が交代する。振り下ろしで丸まった背を踏みつけられ、骨が鈍い音を立てる。構わない、まだ戦える。
妖夢は敵の呼吸に合わせて身を転がし、踏みつけを抜けた。とどめを免れるも、二の腕に大きな傷を受ける。構わない。まだ、戦える。
ぐるりと弧を描いて回避を誘い、起き上がる隙を作る。距離を取りたい気持ちを堪え、起き攻めをその場で捌く。二、三と受けに徹する間に腿が裂ける。構わない。まだ、戦える。
突如、頬に打撃。二刀に対抗した西行鬼の、鞘による奇襲。口の中が切れた。視界にもわずかに支障がある。構わない。まだ、戦える。
妖夢は敵をきと睨みつけた。荒々しい吐息を一つ。そしてまた、激しさを増す戦いの中に身を投じる。
猛攻。応報。丁々発止。白き嵐と舞う刃。
創傷。高揚。咆哮。闘争。血風に滾る二人の修羅。
狂奔の中で、だが妖夢はその声を聞き逃さなかった。
「行くわよ!」
「お願い!」
妖夢は離脱した。露骨な逃げを咎められ、新たに傷を受ける。
苦悶。だが妖夢が手痛い代償を払い作った隙を、霊夢は見逃さない。敵の懐へ飛び込み、まばゆい光球を押し当てる。轟音。閃光。動きを止める西行鬼。
「今だ!」
楼観剣を捨て、駆ける。白楼剣を握る両手。小さな手で、ありったけの力で、強く、強く握りしめて。あの悔しさを、あの寂しさを、あの苦しみを、あの悲しみを。今、すべての思いを、全身全霊を込めた一刀。
「行っけええええ!」
「うおおおおおおおおおおおおおお!」
一筋の光となって走る。光速下の精神は一つの次元を突き抜け、向こう側の領域で剥離したそれら低次の情動を置き去りにした。
虚無感を虚無感と捉え、遅れて来た感覚を疾走感と名付け、意識が物質世界に復帰したとき、妖夢の耳には既に断末魔さえも聞こえなかった。
達成感が溢れることは無かった。倒れ伏す西行鬼と道具をしまう霊夢。それらの状況が戦いの終わりを淡々と告げるばかりで、沸々と湧き上がるそれをどこか信じられないまま、妖夢は立ち尽くしていた。
「妖夢!」
声が聞こえる。懐かしい声。聞き慣れた声。魔理沙と共に門から出てくる主の姿。
「幽々子様……」
幽々子は何度も躊躇う素振りを見せながら、傷ついた妖夢を抱きしめた。
「妖夢! 戻ってきてくれたのね! ああ、こんなになって……」
あのとき拒んだ、そして長く焦がれ続けたその腕の中で、ようやくすべての帰結を実感する。紆余曲折は組み立てられ、感動を形成する。
「幽々子様! 私……私……」
妖夢は万感の思いを伝えようと努めたが、一つとして言葉にならなかった。謝罪も不満も場違いならば、喜びは語り尽せない。最後は止めど溢る涙に身を任せるよりほかなかった。
「おかえり、妖夢」
「ただいま、帰りました!」
二人はそれからしばらく再開の喜びを分かち合った。妖夢がそのまま眠ってしまう頃には、霊夢たちの姿はどこにもなかった。