車輪の話
文字数 4,764文字
やあやあいらっしゃい。このたびはご愁傷さま。あたいは死神。ここは三途の川。これからあんたは彼岸行きだ。ってなわけで、さっそく運賃をもらえるかい? 有り金全部だ。さあさ、果たしてあんたの人徳、いかほどになったのかねえ? ……はっはぁ! お前さん、こりゃまたえらくシケてやがるなぁ。どんな生き方したらこうなるのか、聞いてみたいもんだねえ。よぉし、こりゃ鈍行だ。最鈍行だ。こまっちゃんとたっぷり一日船の上だよ。喜びな。
あーこら、人が漕いでるのに寝る奴があるか馬鹿野郎。退屈は死に至る病だよ? いや、あたいが。それよか最後くらい小話でも聞いてかないかい? こちとらあんたみたいな悪党は何人も乗せてきた。どいつもこいつもシケてやがるが……何だろうね、連中の糞みたいな話ってのは、どういうわけか覚えてるもんでねえ。まああれだ。この後の裁判より面白い事だけは保証するから、せいぜい期待せずに聞いとくれよ。
二条大路の屋敷で火が出たのが盗人の仕業だと分かったのは、その片割れの自供からだった。蔵破りの時間稼ぎだという。風の噂を耳にすると、輪入道は「そも、破れるからいかん」と言った。
妖怪という存在が超常の脅威であるとともに人知の超越者であるとして、この妖怪は後者としての在り方をこそ好んだ。人の世に知恵と技術を。我は灯を盗み与える者。それが発明家・輪入道の自ら任ずるところであった。
さて、綻びを見ては直さねばならぬ。世界の針を進めねばならぬ。輪入道はさっそく住処に籠ると、錠前の発明に取り掛かった。
外された錠は海老錠。中の金具を専用の部品で外から挟んでつっかえを無くす仕組みだ。申し訳程度の施錠機能はあるが解錠は容易く、専ら蔵の飾りとしての色が強い。これでは駄目だ。決して破れぬ錠を、と輪入道は研究に明け暮れた。
構想が形になるうち、輪入道はこの発明に手ごたえを感じていた。これまでにもいくつかの発明を並べてきた彼だが、満足のいくものはなかった。最適解の追求の果てに糟粕を嘗めるに落ち着いたことがあった。小さな進歩が先駆者の流通に飲まれたこともあった。しかし、これは違う。この革新は必ずや世界を塗り替える。そう思えるだけの新規性が、独創性が、この錠にはあった。
輪入道が鍛冶屋に最後になるであろう試作品を発注して待っていると、あるとき山奥の住処に来訪者があった。僧である。僧は家人を喪って出家したとの旨を告げた。家人は僧の娘を守って死んだ。僧はこの得難き生涯の忠臣を何に代えても取り戻したいのだという。
輪入道は目的を達成するためのあらゆる術の蒐集者である。それは邪法や外法とて例外ではない。人の世に寄り添う妖怪として憚りはあれど、彼の蔵書には反魂の書も確かにあった。僧の懇願に負けた輪入道は書を紐解き、ついに反魂の術を実行に移した。
老人の白髪に、舶来人の青い目、屍体から集めた肉と骨を集めて縫い合わせ整形する。調合した香を焚き、魂を呼び戻してやると、それはむくりと起きあがった。
僧は喜び、それに手を差し伸べた。しかし、それは僧の手を撥ねつけると、覚束ない足取りで何度も転げながら逃げていった。
僧はたいそう憤慨した。そして「我が忠臣への侮辱である。鐚一文くれてやるものか」と残して去っていった。
それから数日後のことである。輪入道が鍛冶屋から受け取った試作品を手に住処へ帰ると、庵の傍には烏帽子の男と、少女の姿があった。また何か頼み事かと思っていると、こちらに気付いた烏帽子の男が声をかけてきた。
「技師の輪入道なるは、そなたか?」
「いかにも」
「鬼を作りたるという噂、真か?」
「否。俺は人を作ったのだ」
「戯言を。鬼と振る舞えば其は鬼よ」
烏帽子は悠々とした言葉の間から鋭く空を斬る御札を投げた。
「封じる」
御札は輪入道に張りついたかと思うと、燃え尽きる。
「人よ、俺は灯だ。扱いには気をつけろ」
輪入道の威圧に動じることなく、烏帽子の男が答える。
「……某、陰陽師なれば」
すると、男の連れていた少女がするりと服から抜け出した。かと思うと、その姿は白い狐に変わり、しなやかな動きで輪入道に飛びかかる。
輪入道は狐の頭を掴むと、掌から噴き出す炎で丸焼きにした。狐は「クゥン」と悲鳴を上げたが、火が消え去った後には毛の一本さえも焼けてはいない。
狐は立ち上がると、火の球を浮かべて輪入道へと放った。これを挑発と取った輪入道は、火球の一つを手で掴んでみせた。
「熱ッ!」
それは輪入道にとってあり得ないことだった。炎の妖怪が、火傷を負ったのだ。
「妖よ、それは火だ。扱いには気をつけよ」
焦げた手を握りながら、これは炎ではなく力に頼らねばならぬ、と輪入道は理解した。理解して、なお腹を立てた。これではまるで妖に対する人間である。
怒り任せに殴りつける。しかし、それは遊ぶように跳ねまわる狐を捕らえることができない。
「小癪な!」
ならば、と輪入道は奥の手を使った。真の姿、燃え盛る車輪へと転じ、突進する。
狐は素早く身を躱したが、狙いは奥の陰陽師。
「轢き潰してくれる!」
障害物を踏んだ車輪が跳ねあがる。グシャリ、と確かな感触。それを確かめてから、輪入道は再び人型を取った。
「愚かな……」
輪入道が振り返ると、だがそこには轢き殺したはずの陰陽師の姿がない。そこで輪入道は首筋の違和感に気がついた。貼りつけられた何かを剥がす。形代だ。
「招雷」
空からの鉄槌が輪入道を打ちつけた。
目を覚ましたとき、最初に見たのは奇妙なからくりだった。輪入道は手近にいた少女にこの滅茶苦茶にひしゃげた笠のような金属器の名を尋ねた。少女は恐るおそる、「蓄音機です」と答えた。発明家の詰問は現状の把握をしばらく遅らせた。
聞くところによると、彼は千年近く封じられていたらしい。彼を封じた書の流れ着いた先は幻想郷のとある貸本屋。解放の原因は少女の興味という偶然だ。
一通りありがちな時間旅行者のやり取りを済ませると、輪入道は大事なことを思い出した。やりかけの仕事が、まだ残っている。錠前づくりである。ひとまず住処へ戻ろうとした輪入道だが、どういうわけか店の扉が開かない。
「あ、もう閉めちゃいましたよ。夜ですから」
輪入道は驚いた。庶民が戸締りなど、考えもしなかったからだ。少女が鍵を持ち出し、扉を開ける。その様子を横でまじまじと眺めていた輪入道は、むむ、と唸った。
複雑な凹凸パターンにより錠に個別対応する解錠器具。それはまさに、輪入道の開発していたものだった。
「おい、これは何だ?」
「何って、鍵ですけど」
「誰が作った?」
「誰って……鍵屋さんじゃないですか?」
「誰が考えたのかと聞いている」
「知りませんよ、そんなの」
「知らないでは済まされるか。これは盗用だ」と輪入道は詰め寄った。
「ひえぇ。分かりました。探すの、協力しますから!」
その晩、不憫な貸本屋は徹夜で蔵書を漁る羽目になった。
翌日、輪入道は人里を出て山へ向かった。用があるのは麓の沢である。河城という河童を出せと言うと、奇妙な格好の少女が出てきた。童顔に二つ結い。眩しいばかりの笑みが無邪気な子供を思わせる。
「やあ。河童のにとりだよ。何か用かい?」
「鍵を発明したというのは、お前か?」
河童の胸元を見つめる。ちょうどそこには鍵を象った飾りがついていた。
「ああこれ? そういやうちのご先祖様、確か鍵の発明者だったっけな」
「それは俺の発明だ」
「へ? それじゃあ、ご先祖様?」
「河童を嫁にした覚えはない。単刀直入に言おう。俺にはその発明が盗用にしか見えん」
一瞬の沈黙。
「やだなあ。ってか、証拠は?」
輪入道は自分の鍵の仕組みを試行錯誤の過程とともに細かく説明した。
「どうだ? こんな偶然があるか。もはや設計図でも盗んだとしか考えられんだろう」
「あー、はいはい。なるほどね。うーん。あのさあ……悪いけど、帰ってくれるかな?」
河童は笑顔を崩さぬまま、続けた。
「いちいち使ってる技術は古いし、あんたの言ってるそれ、いつの時代の鍵だよ? 第一、いまどき鍵なんて常識なんだよ。誰が作ったかなんて、誰も気にしない程度にね。それを今さら盗用だ? いくらなんでも遅すぎだろ。や、知らないけどさ。実際ご先祖様が盗んだのかも知れないけどさ。それ以前に、一つだけ言わせてもらっていいかな?」
河童の可愛らしい声が、いやにねっとりと聞こえた。
「知識を常に更新しない奴のことは、発明家とは呼ばねーんだよ」
ブチリ、と何かが切れる音がした。癪に障った、などというものではない。拳が勝手に燃えあがる。
そのとき、輪入道はせせらぎの音が不自然なまでに大きくなっていることに気付いた。周りを見ると、至るところに目、目、目。いつの間にか周囲は河童にとりかこまれている。相性、地の利、頭数。勝ち目のないことは沸騰した頭にも分かるほど明らかだった。
輪入道は矛を収め、沢を後にした。
翌日、輪入道は再び貸本屋へ向かった。盗用の確証を得るにも、それを超えるにも、別の物を作るにも、とにかくこの時代の知識がいる。
しかし、今日は昼間だというのに貸本屋の扉は開いていない。
「おおい」
呼びかけたが、返事が無い。
「俺だ、貸本屋。本が読みたい。開けてくれ」
扉は閉ざされたまま、開く気配がない。するとまた、憎たらしい河童の顔が頭によぎった。輪入道は鍵穴に針金を挿すと、何が何でもこの鍵を破ってやろうと躍起になった。しかし、どうやっても開かない。一向に開かない。解錠が難航するうち、どんどんと怒りが込み上げてきた。それは河童への怒りだけではない。自分に対して門を閉ざし、拒絶の意を示す人間、あるいは不可能への、真理への、輪入道にとってすべてである世界への怒りである。
思えば初め、彼には革新などという高尚な目的は無かった。拙いからくりが動いたときの感動を覚えている。眠りさえ忘れて改良を繰り返した。誰かを助けて感謝された喜びを覚えている。むしろこちらが感謝したいほどのものだった。ただ純粋にものづくりが楽しい。そんな心に灯った小さな灯を大事に包んでいた頃が懐かしい。
発明家を名乗りその定義を己に課すことで、矜持は世界のあらゆる求めを受け容れた。独自性、新規性、時代性、社会性。容赦ない外気に触れた自意識は、価値観を摺り寄せながら変敗していくしかなかった。
今さら昔のようには戻れない。形を歪めてまで順応したのだ、この業はもはや、世界からの承認によってしか果たされない。だが、不条理は彼を千年という致命的な遅れに突き落とした。
自己の基底を崩された者にとって、既に則は意味をなさない。輪入道は自嘲の笑みを浮かべながら、深く息を吸って吐いた。
「人の世を照らす灯の役目、もはや俺には果たせぬか。ならば仕方ない……棄てられた灯は、ただの火となるよりほかあるまい」
扉に手を押し当て、火を放つ。炎は鍵によって閉ざされた扉を燃やし、やがて貸本屋の家屋を包み込んだ。ごうごうと燃え盛る炎。それは炉や提灯といった利器に封じられた他の火たちが窮屈に見えるほどに放埓に。一気に胸のつかえが取れた。もっと早くこうすればよかったとさえ思った。輪入道はそうして晴れやかな気分で、目に映るすべてを燃やそうと決めた。
それから、妖怪は通りすがりの侍に斬られて命を落とした。
あーこら、人が漕いでるのに寝る奴があるか馬鹿野郎。退屈は死に至る病だよ? いや、あたいが。それよか最後くらい小話でも聞いてかないかい? こちとらあんたみたいな悪党は何人も乗せてきた。どいつもこいつもシケてやがるが……何だろうね、連中の糞みたいな話ってのは、どういうわけか覚えてるもんでねえ。まああれだ。この後の裁判より面白い事だけは保証するから、せいぜい期待せずに聞いとくれよ。
二条大路の屋敷で火が出たのが盗人の仕業だと分かったのは、その片割れの自供からだった。蔵破りの時間稼ぎだという。風の噂を耳にすると、輪入道は「そも、破れるからいかん」と言った。
妖怪という存在が超常の脅威であるとともに人知の超越者であるとして、この妖怪は後者としての在り方をこそ好んだ。人の世に知恵と技術を。我は灯を盗み与える者。それが発明家・輪入道の自ら任ずるところであった。
さて、綻びを見ては直さねばならぬ。世界の針を進めねばならぬ。輪入道はさっそく住処に籠ると、錠前の発明に取り掛かった。
外された錠は海老錠。中の金具を専用の部品で外から挟んでつっかえを無くす仕組みだ。申し訳程度の施錠機能はあるが解錠は容易く、専ら蔵の飾りとしての色が強い。これでは駄目だ。決して破れぬ錠を、と輪入道は研究に明け暮れた。
構想が形になるうち、輪入道はこの発明に手ごたえを感じていた。これまでにもいくつかの発明を並べてきた彼だが、満足のいくものはなかった。最適解の追求の果てに糟粕を嘗めるに落ち着いたことがあった。小さな進歩が先駆者の流通に飲まれたこともあった。しかし、これは違う。この革新は必ずや世界を塗り替える。そう思えるだけの新規性が、独創性が、この錠にはあった。
輪入道が鍛冶屋に最後になるであろう試作品を発注して待っていると、あるとき山奥の住処に来訪者があった。僧である。僧は家人を喪って出家したとの旨を告げた。家人は僧の娘を守って死んだ。僧はこの得難き生涯の忠臣を何に代えても取り戻したいのだという。
輪入道は目的を達成するためのあらゆる術の蒐集者である。それは邪法や外法とて例外ではない。人の世に寄り添う妖怪として憚りはあれど、彼の蔵書には反魂の書も確かにあった。僧の懇願に負けた輪入道は書を紐解き、ついに反魂の術を実行に移した。
老人の白髪に、舶来人の青い目、屍体から集めた肉と骨を集めて縫い合わせ整形する。調合した香を焚き、魂を呼び戻してやると、それはむくりと起きあがった。
僧は喜び、それに手を差し伸べた。しかし、それは僧の手を撥ねつけると、覚束ない足取りで何度も転げながら逃げていった。
僧はたいそう憤慨した。そして「我が忠臣への侮辱である。鐚一文くれてやるものか」と残して去っていった。
それから数日後のことである。輪入道が鍛冶屋から受け取った試作品を手に住処へ帰ると、庵の傍には烏帽子の男と、少女の姿があった。また何か頼み事かと思っていると、こちらに気付いた烏帽子の男が声をかけてきた。
「技師の輪入道なるは、そなたか?」
「いかにも」
「鬼を作りたるという噂、真か?」
「否。俺は人を作ったのだ」
「戯言を。鬼と振る舞えば其は鬼よ」
烏帽子は悠々とした言葉の間から鋭く空を斬る御札を投げた。
「封じる」
御札は輪入道に張りついたかと思うと、燃え尽きる。
「人よ、俺は灯だ。扱いには気をつけろ」
輪入道の威圧に動じることなく、烏帽子の男が答える。
「……某、陰陽師なれば」
すると、男の連れていた少女がするりと服から抜け出した。かと思うと、その姿は白い狐に変わり、しなやかな動きで輪入道に飛びかかる。
輪入道は狐の頭を掴むと、掌から噴き出す炎で丸焼きにした。狐は「クゥン」と悲鳴を上げたが、火が消え去った後には毛の一本さえも焼けてはいない。
狐は立ち上がると、火の球を浮かべて輪入道へと放った。これを挑発と取った輪入道は、火球の一つを手で掴んでみせた。
「熱ッ!」
それは輪入道にとってあり得ないことだった。炎の妖怪が、火傷を負ったのだ。
「妖よ、それは火だ。扱いには気をつけよ」
焦げた手を握りながら、これは炎ではなく力に頼らねばならぬ、と輪入道は理解した。理解して、なお腹を立てた。これではまるで妖に対する人間である。
怒り任せに殴りつける。しかし、それは遊ぶように跳ねまわる狐を捕らえることができない。
「小癪な!」
ならば、と輪入道は奥の手を使った。真の姿、燃え盛る車輪へと転じ、突進する。
狐は素早く身を躱したが、狙いは奥の陰陽師。
「轢き潰してくれる!」
障害物を踏んだ車輪が跳ねあがる。グシャリ、と確かな感触。それを確かめてから、輪入道は再び人型を取った。
「愚かな……」
輪入道が振り返ると、だがそこには轢き殺したはずの陰陽師の姿がない。そこで輪入道は首筋の違和感に気がついた。貼りつけられた何かを剥がす。形代だ。
「招雷」
空からの鉄槌が輪入道を打ちつけた。
目を覚ましたとき、最初に見たのは奇妙なからくりだった。輪入道は手近にいた少女にこの滅茶苦茶にひしゃげた笠のような金属器の名を尋ねた。少女は恐るおそる、「蓄音機です」と答えた。発明家の詰問は現状の把握をしばらく遅らせた。
聞くところによると、彼は千年近く封じられていたらしい。彼を封じた書の流れ着いた先は幻想郷のとある貸本屋。解放の原因は少女の興味という偶然だ。
一通りありがちな時間旅行者のやり取りを済ませると、輪入道は大事なことを思い出した。やりかけの仕事が、まだ残っている。錠前づくりである。ひとまず住処へ戻ろうとした輪入道だが、どういうわけか店の扉が開かない。
「あ、もう閉めちゃいましたよ。夜ですから」
輪入道は驚いた。庶民が戸締りなど、考えもしなかったからだ。少女が鍵を持ち出し、扉を開ける。その様子を横でまじまじと眺めていた輪入道は、むむ、と唸った。
複雑な凹凸パターンにより錠に個別対応する解錠器具。それはまさに、輪入道の開発していたものだった。
「おい、これは何だ?」
「何って、鍵ですけど」
「誰が作った?」
「誰って……鍵屋さんじゃないですか?」
「誰が考えたのかと聞いている」
「知りませんよ、そんなの」
「知らないでは済まされるか。これは盗用だ」と輪入道は詰め寄った。
「ひえぇ。分かりました。探すの、協力しますから!」
その晩、不憫な貸本屋は徹夜で蔵書を漁る羽目になった。
翌日、輪入道は人里を出て山へ向かった。用があるのは麓の沢である。河城という河童を出せと言うと、奇妙な格好の少女が出てきた。童顔に二つ結い。眩しいばかりの笑みが無邪気な子供を思わせる。
「やあ。河童のにとりだよ。何か用かい?」
「鍵を発明したというのは、お前か?」
河童の胸元を見つめる。ちょうどそこには鍵を象った飾りがついていた。
「ああこれ? そういやうちのご先祖様、確か鍵の発明者だったっけな」
「それは俺の発明だ」
「へ? それじゃあ、ご先祖様?」
「河童を嫁にした覚えはない。単刀直入に言おう。俺にはその発明が盗用にしか見えん」
一瞬の沈黙。
「やだなあ。ってか、証拠は?」
輪入道は自分の鍵の仕組みを試行錯誤の過程とともに細かく説明した。
「どうだ? こんな偶然があるか。もはや設計図でも盗んだとしか考えられんだろう」
「あー、はいはい。なるほどね。うーん。あのさあ……悪いけど、帰ってくれるかな?」
河童は笑顔を崩さぬまま、続けた。
「いちいち使ってる技術は古いし、あんたの言ってるそれ、いつの時代の鍵だよ? 第一、いまどき鍵なんて常識なんだよ。誰が作ったかなんて、誰も気にしない程度にね。それを今さら盗用だ? いくらなんでも遅すぎだろ。や、知らないけどさ。実際ご先祖様が盗んだのかも知れないけどさ。それ以前に、一つだけ言わせてもらっていいかな?」
河童の可愛らしい声が、いやにねっとりと聞こえた。
「知識を常に更新しない奴のことは、発明家とは呼ばねーんだよ」
ブチリ、と何かが切れる音がした。癪に障った、などというものではない。拳が勝手に燃えあがる。
そのとき、輪入道はせせらぎの音が不自然なまでに大きくなっていることに気付いた。周りを見ると、至るところに目、目、目。いつの間にか周囲は河童にとりかこまれている。相性、地の利、頭数。勝ち目のないことは沸騰した頭にも分かるほど明らかだった。
輪入道は矛を収め、沢を後にした。
翌日、輪入道は再び貸本屋へ向かった。盗用の確証を得るにも、それを超えるにも、別の物を作るにも、とにかくこの時代の知識がいる。
しかし、今日は昼間だというのに貸本屋の扉は開いていない。
「おおい」
呼びかけたが、返事が無い。
「俺だ、貸本屋。本が読みたい。開けてくれ」
扉は閉ざされたまま、開く気配がない。するとまた、憎たらしい河童の顔が頭によぎった。輪入道は鍵穴に針金を挿すと、何が何でもこの鍵を破ってやろうと躍起になった。しかし、どうやっても開かない。一向に開かない。解錠が難航するうち、どんどんと怒りが込み上げてきた。それは河童への怒りだけではない。自分に対して門を閉ざし、拒絶の意を示す人間、あるいは不可能への、真理への、輪入道にとってすべてである世界への怒りである。
思えば初め、彼には革新などという高尚な目的は無かった。拙いからくりが動いたときの感動を覚えている。眠りさえ忘れて改良を繰り返した。誰かを助けて感謝された喜びを覚えている。むしろこちらが感謝したいほどのものだった。ただ純粋にものづくりが楽しい。そんな心に灯った小さな灯を大事に包んでいた頃が懐かしい。
発明家を名乗りその定義を己に課すことで、矜持は世界のあらゆる求めを受け容れた。独自性、新規性、時代性、社会性。容赦ない外気に触れた自意識は、価値観を摺り寄せながら変敗していくしかなかった。
今さら昔のようには戻れない。形を歪めてまで順応したのだ、この業はもはや、世界からの承認によってしか果たされない。だが、不条理は彼を千年という致命的な遅れに突き落とした。
自己の基底を崩された者にとって、既に則は意味をなさない。輪入道は自嘲の笑みを浮かべながら、深く息を吸って吐いた。
「人の世を照らす灯の役目、もはや俺には果たせぬか。ならば仕方ない……棄てられた灯は、ただの火となるよりほかあるまい」
扉に手を押し当て、火を放つ。炎は鍵によって閉ざされた扉を燃やし、やがて貸本屋の家屋を包み込んだ。ごうごうと燃え盛る炎。それは炉や提灯といった利器に封じられた他の火たちが窮屈に見えるほどに放埓に。一気に胸のつかえが取れた。もっと早くこうすればよかったとさえ思った。輪入道はそうして晴れやかな気分で、目に映るすべてを燃やそうと決めた。
それから、妖怪は通りすがりの侍に斬られて命を落とした。