向こう側の物語
文字数 6,678文字
主人が妙な思い付きを言い出すまで、その日は魂魄妖夢 にとって何の変哲もない一日だった。
妖夢の朝は早い。まだ辺りが薄暗い中、畳張りの部屋で目を覚ました妖夢は鏡に向かう。真っ白な肌と、青い瞳。冷ややかな色合いとは裏腹に、はっきりとした目と短い鼻、丸みを帯びた頬と小さな顎があどけない少女の顔を形づくっている。
端正で愛嬌のある顔だが、妖夢にとってはもう十五にもなるのに五尺に満たない身長と併せてのコンプレックスだった。
短く切りそろえた銀の髪に櫛を入れ、黒いリボンを結ぶ。寝巻を脱ぎ、白いブラウスに緑のベストを合わせる。人魂を象った紋付きのベストは彼女お気に入りの一張羅だ。
首元に黒いリボンタイを結んできつめに締めると、よし、と一声気合を入れて妖夢は仕事に向かった。
妖夢の職業は庭師だ。ここ白玉楼 は広大な敷地を持つ屋敷だが、その大部分を占める庭園の手入れは住み込みで働く彼女の手によるものだ。
ちょうど庭に植えられた桜の木々が蕾をつけはじめる季節である。遣水は冷たく冴えわたり、水面を撫でる風は夜明け前の空気を凍てつかせる。
体が冷え込むだけならともかく、妖夢の気苦労の種は雪だ。平屋の広い屋根に積もった雪を掻くために、この時期は毎朝早起きしなければならない。
正午までかけてようやくそれが終わると、食事もそこそこに本来の仕事である庭の手入れにかかる。冬場の水やりは日が高くなってからと決まっている。植物を冷やしてしまわないためだ。
春になると、白玉楼には桜が咲き乱れる。庭一面に散らばる花びらを掃除するのも楽な仕事ではないが、それでも妖夢は春が、そしてこの庭のことが好きだった。
庭師の仕事を終えた妖夢は裏庭へ向かう。日課の素振りをこなすためだ。普段は朝一番に済ませるのだが、この時期に限ってはどうしても後回しになる。仕事の疲れはあるが、彼女がそれを怠ったことは殆ど無い。
妖夢には庭師に加えてもう一つ、剣術指南という顔がある。といっても、その実態は皆無だ。本来は主人を護るとともに剣の手解きをする立場にあるのだが、妖夢自身まだまだ修行中の身なのである。
早く一人前にならねばという思いで日々精進しているものの、自分が今どの程度なのかも分からないのが現状である。
黙々と木刀を振り続けていると、視界の端をちらつく何かが妖夢の心に入り込んで雑念へと変わる。見ると、それは一匹の蝶だった。冬の蝶は何かに引かれるように母屋の方へと消えてしまう。
程なくして母屋から出てくる女性の姿があった。
「妖夢~」
どこか間抜けなほどにとろんとした甘い声の主は妙齢の女性だ。淡い桜色の髪が柔和な顔にかかり、優しい笑みは母性的な魅力を出していた。空色の着物には季節を先取りした桜模様があしらわれており、彼女はその襟を左前に着ている 。
女性の姿を認めると、妖夢の表情がぱっと華やいだ。
「幽々子様!」
妖夢は縁側に座る女性の元へ駆け寄った。
彼女の名は西行寺幽々子 。彼女はこの白玉楼の管理人であり、妖夢の仕えるべき主人であり、そして同時に死人である。
といっても、彼女は化けて出ているわけでもなければ妖夢の妄想の産物でもない。この白玉楼が死者の住む世界、すなわち冥界に建てられているのだ。顕界での一生を終えた魂は彼岸にて裁きを受けた後、この白玉楼で転生の時を待つ。
ただし管理人である幽々子はその例外だ。故あって輪廻の輪から外れ永劫にも近い時をこの地で過ごす彼女は、幽霊と区別して亡霊と呼ばれる。
だがこの屋敷にはそれ以上の例外が一人、いや半人だけいた。
「今日も霊が出ているわね、妖夢」
「これでも精を出しているつもりですけどね」
主人の言葉にそう言って肩を竦める妖夢だが、その後ろには確かに白い半透明の物体が付き従っている。
魂魄妖夢は半人半霊である。冥界に在りながらも生きた肉体を有する彼女だが、その魂は半分だけ死に、霊体となって体から漏れ出しているのだ。尋常の人間と比べるに、体温も半分なら体重も半分。瞬きは少なく、呼吸も浅く、およそ生命の営みに乏しい彼女は、まさに半分だけで生きている。
べつだん誰に半殺しにされたわけでもなければ、新手の奇病の類でもない。生まれた時から、加えて言うなら父親や祖父の傍らにもまた半霊があった。つまるところ、そういう体質の家系なのだ。
この半霊は確かに妖夢の一部として自由に動かすことができるのだが、感覚が伝わってくることはない。鋏や箸のような道具かあるいは従順な飼い犬にも似た、しかしそれらとはどこか決定的に違う何か。妖夢は未だにこの物体について計りかねていた。
もしも半霊に意思があるなら、いつもどんなことを考えているのだろう?そんなことを思って虚空を見つめていた妖夢だったが、いつの間にか半霊が幽々子の手慰みに使われているのを見るとすぐ我に帰った。
「ちょっと、幽々子様!」
感覚がないからといって、自分の半身を弄ばれて気分のいいものではない。
妖夢は主の手から半霊を奪い返すと、血の気のない顔をほんの僅かに赤面させながら睨みつけた。
「ごめん妖夢。お饅頭みたいに柔らかいから、つい」
依然、半霊を抱えて身を引いたままの妖夢。
「ごめん妖夢。お饅頭を持ってきたから、ね?」
途端、半霊を放して身を乗り出した妖夢。
「つぶあんとこしあん、どっちがいい?」
「……つぶあんで」
出されるが早いか、幸せそうに饅頭を頬張る。そこには無防備な、年相応の少女の顔があった。
両親のいない妖夢にとって、幽々子は母親のような存在だ。主従という関係を越えて無条件に注がれる優しさ。厳しい生活に身を置く中で、こうして主と二人で過ごす午後の時間が妖夢にとってなによりの安らぎになっていた。
口直しの茶もなくなったころ、ここでようやく冒頭にあった「妙な話」が話題に上がることとなる。
「桜の樹の下には、屍体が埋まっている」
幽々子は出し抜けにそう言い放った。
「え?何か仰いましたか?」
「桜の樹の下には、屍体が埋まっているのよ、妖夢」
妖夢は繰り返された主人の言葉に首を傾げた。
白玉楼の管理人であり、妖夢の主人であり、死人である西行寺幽々子は、また同時に歌人でもあった。掴みどころのない主の言葉に、妖夢はしばしば困惑させられる。そして幽々子はそんな妖夢の様子を見て、口元を隠しながら愉しげに笑うのだ。
「屍体、ですか。それは一体……」
「一体か二体か、あるいはもっとたくさん」
顔の下に両手をぶら下げる幽々子。本物の亡霊が怪談を語るという、奇妙な光景があった。
そして妖夢はどういうわけかこの手の話が大の苦手だった。幽霊に囲まれて暮らす半分幽霊の彼女だが、いざこういう形でそれを聞かされると途端にいつも及び腰になるのだ。剣士としての矜持はそれが表出することをよしとしないが、この怯懦な一面もまた魂魄妖夢という少女の持つ一つの顔である。
「茶化さないでください!」
「ふふふ、ごめんなさい。それじゃ、ちゃんと説明するわね」
幽々子はそう言うと塀の向こう、敷地の外れにある大樹に目をやる。
庭にあるものよりも遥かに大きな桜の木だ。天を衝かんばかりの大樹は地を抉るように力強く根を下ろしているが、春も近いというのに花開くはおろか蕾の一つさえつけてはいなかった。
「実はね、どうやらあの桜……西行妖の根元に屍体が埋まっているみたいなの」
西行妖 。妖夢もその名前は知っている。この桜は十年ほど前、彼女がこの白玉楼に来るよりも前からここにあった。にもかかわらず、妖夢はおろかこの白玉楼に千年近く住む幽々子でさえも西行妖が花開くところを見たことがないというのだ。
永遠に咲かない桜というのも妙なものだが、しかしそれ以上に妙な点があった。
「屍体、ですか?」
ここは冥界である。妖夢のような特例を除けば肉体は現世へと取り残され、決してここへ送られることはない。冥界において屍体を探すことは、山で鯨を探すようなものだ。
「そう、屍体よ。実は昨日、蔵で古書を見つけたの。そこに面白いことが書いてあってね」
冒頭に屍体が転がる話を「面白い」と言ってしまうあたり、この亡霊は生死観が歪んでいた。
そもそも自分が死んだときのことはおろか、生前のことすら覚えていないのだという。死んだ記憶もなければ死を迎えることもない。彼女にとって死とはどこまでも「他人事」だ。
幽々子の了承を得た妖夢は恐る恐る巻物を紐解く。拵えは立派だが紙の経年劣化が酷く、半分近い文字が掠れていた。使われている言語は日本語だが字体、仮名遣いともに古く、妖夢の古典知識では不十分な情報を補って判読することは不可能だ。
だがこの書物は絵巻物のようで、最後に描かれた樹の下に人が横たわっていることだけは確認できた。
幽々子がその隣から説明を加える。
「千年近く前のもののようね。読めたことを纏めると、こうよ。ある桜の樹が、故あって封印されることになった。その方法は、樹の下に屍体を埋めること。そしてこの書の最後はこう締めくくられているわ。『屍体と桜は一つであり、屍体が死体であり続ける限り、桜は死に続けるだろう』とね」
「なるほど」と妖夢は主の目に答えた。
「確かに、偶然にしては出来すぎています。つまりその封印された桜がこの西行妖である、と?」
「確証はないけど、ね」
幽々子は再び西行妖を見上げた。
「ねえ妖夢。私のお願い、聞いてくれるかしら?」
妖夢は庭からの光に照らされた幽々子の横顔を眺めながら、従者という自分の立場を思い出してほんの少し姿勢を正す。
「もちろんです。何なりとお申し付けください」
どこか芝居がかったその台詞にクスリと笑みをこぼしながら、幽々子は続ける。
「実はね、面白い本はもう一冊あるの。出家僧の日記みたいなんだけど、そこには人を蘇らせる方法……反魂の術について書かれているのよ。屍体に自然から集めた生命力を注げば、それは自らの魂を呼び戻して蘇るだろう、と」
妖夢はまたも臆しそうになったが、今度は倫理観が勝った。
「反魂って……幽々子様、まさか邪法に手を染めるおつもりですか? 危険です。第一それが本当に千年前の屍体なら、すでに転生している可能性も高いはず。生きた人間の魂を奪うとなれば、いくらなんでも問題があります」
妖夢も冥界に住む者として魂の扱いには無関心でいるわけにもいかない。そもそもこの白玉楼自体が地獄で魂を裁く閻魔の管轄下にある。その威光の下で勝手をはたらこうというのだから、妖夢とて片棒を担ぐわけにもいかない。
「まあ聞きなさいな。この術はもともとそんな大昔の人じゃなくて、著者の知人を蘇らせる目的で編まれたものよ。他の肉体から魂を引きずり出してまで連れてくる力はないみたい。それにもしもこの冥界に屍体があるのだとしたら、それこそ看過できない問題よ。持ち主がいるのなら、白玉楼の管理者としては回収してもらうのが妥当じゃないかしら?」
珍しく真剣な顔をしている幽々子だったが、いい加減に飽きたのかいつもの表情に戻る。
「ふふふ。まあ本当はそんなこと、どうでもいいのよ。私はただ、あの西行妖が花開くところを一度でいいから見てみたいの。だから妖夢、私のために春を集めてちょうだい」
「春を、ですか」
「ええ、そうよ。私の力をあなたに託す。だからあなたは自然の生命力を――春を集めてくるの。この話が本当なら、屍体を蘇らせて花を咲かせることができるかも。……なんて、思っちゃってね」
幽々子はそう言っておどけて見せた。しかし、桜の枯れ木を見つめるその目は幼い子供のように一途だ。
「きっと咲きますよ。いえ、咲かせてみせます」
「ふふ、ありがとう妖夢」
微笑みかける幽々子。しかし、そこで妖夢はふと思いかえした。
「ところで幽々子様。生命力なんてどこから集めてくればいいのでしょうか?」
冥界で生きているものといえば、妖夢の他には庭の植物くらいのものだ。どちらも妖夢にとってそう易々と犠牲にできるものではない。
「そうね、あなたの記憶ではこれが初めてになるかもしれないわね。……いつか話したこと、覚えているかしら?この冥界から結界を越えた向こう側、命ある者たちの住む世界のこと」
「顕界、ですか」
「ええ、そう。あなたには顕界に行ってもらうことになるわ。結界を抜けた先にあるのは人妖混ざり住む幻の地――」
幽々子はどこか遠くを見るような目で語る。
「――幻想郷よ」
その夜、自室の床の間に向かう妖夢の面持ちはいつにもまして神妙なものだった。その眼差す先には刀掛けに掛けられた長短二振りの刀。拵えこそ質素なものの、存在するだけでその場の空気を厳粛なものにするだけの存在感がそれにはあった。
それは刀自体の格によるものでもあるが、それ以上に妖夢はこの刀を見る度に先代の顔を思い出さずにはいられない。
先代は名を魂魄妖忌 といい、妖夢の祖父にあたる。
庭師であり剣士であった妖忌は引き取ってきた幼い妖夢を跡取りとして厳しく育てた。それも生半可なものではない。相手が少女であるということをおよそ勘定に入れていないのだ。
日が傾こうが落ちようが仕事が終わるまで休憩は与えられず、妖夢が泣こうが喚こうがお構いなしに稽古は続いた。日常生活においても師弟関係は絶対であり、祖父を「お師匠様」と呼ぶことが二本の前歯を代償に妖夢が初めて得た教えである。
主人である幽々子も妖夢のことでは妖忌に口出しすることができず、稽古が終わると妖忌が去った隙を見計らって盗人のようにこそこそと手当てをするのが常だった。
とにもかくにも厳格の一言に尽きる妖忌ではあったが、そんな師に対して妖夢が抱いていたのは恐怖よりも憧れだった。強く迷いない妖忌の剣と生き方は妖夢にとっての理想であり、その背中を追い続けることで妖夢は強くなっていった。
その妖忌は今、すでに白玉楼を去って久しい。五年ほど前のある日、妖夢に家督を譲るという旨の書置きを残して忽然と姿を消したのだ。そのとき魂魄家の家督と共に引き継ぐことになったのが、これら二本の刀である。
長刀の名は楼観剣 。妖怪が鍛えたという曰くつきの名刀である。五尺を超える長大なそれは尋常の人間が振るにはあまりに長く、まして妖夢の背丈では抜くことさえも容易でない。
その細腕でもってこれを御するために注いだ時間こそ、妖夢の修行の全てであったと言えよう。丸太のようなその重みも今では自信に変わっている。
短刀の方は名を白楼剣 といい、魂魄家の家宝である。妖忌は楼観剣の使い方を体で教える一方で、白楼剣の扱いについては口を尖らせて妖夢を戒めた。「白楼剣を抜くな」と。宝刀が傷つくことを恐れているのではない。というのも、この刀には特別な力が宿っているのだ。
白楼剣は断迷の剣である。煩悩に迷う人間の霊魂を断ち切ればたちまちに魂は解脱へと至り、昇天する。
魂の輪廻は一介の庭師に干渉の許された領域ではない。濫りに抜けば即座に閻魔の裁くところとなるだろう。この刀を守りそして正しく用いることは魂魄家の家長の重要な務めであると、妖夢は深く肝に銘じている。
此度の務め、一歩誤れば自分たちは外道に落ちることとなる。幻想郷という場所が自分に何をもたらすのか、妖夢はまだ知らない。不安がないといえば嘘になる。だがその一方で妖夢は嬉しかった、今まで妖夢を甘やかしていた幽々子が初めて自分を頼り、何かを求めてくれたことが。
忠義を果たすことは未熟な自分を高みへと導いてくれる。先代に代わって白玉楼を守る剣士としての自分を完成させてくれる。そう信じればこそ、務めに対して前向きにもなれた。
双刀は語らない。だが、師との間には沈黙だけで十分だった。妖夢は刀に頭を垂れた後、灯りを消して眠りについた。その日は特に緊張することもなく、深く眠れた。
妖夢の朝は早い。まだ辺りが薄暗い中、畳張りの部屋で目を覚ました妖夢は鏡に向かう。真っ白な肌と、青い瞳。冷ややかな色合いとは裏腹に、はっきりとした目と短い鼻、丸みを帯びた頬と小さな顎があどけない少女の顔を形づくっている。
端正で愛嬌のある顔だが、妖夢にとってはもう十五にもなるのに五尺に満たない身長と併せてのコンプレックスだった。
短く切りそろえた銀の髪に櫛を入れ、黒いリボンを結ぶ。寝巻を脱ぎ、白いブラウスに緑のベストを合わせる。人魂を象った紋付きのベストは彼女お気に入りの一張羅だ。
首元に黒いリボンタイを結んできつめに締めると、よし、と一声気合を入れて妖夢は仕事に向かった。
妖夢の職業は庭師だ。ここ
ちょうど庭に植えられた桜の木々が蕾をつけはじめる季節である。遣水は冷たく冴えわたり、水面を撫でる風は夜明け前の空気を凍てつかせる。
体が冷え込むだけならともかく、妖夢の気苦労の種は雪だ。平屋の広い屋根に積もった雪を掻くために、この時期は毎朝早起きしなければならない。
正午までかけてようやくそれが終わると、食事もそこそこに本来の仕事である庭の手入れにかかる。冬場の水やりは日が高くなってからと決まっている。植物を冷やしてしまわないためだ。
春になると、白玉楼には桜が咲き乱れる。庭一面に散らばる花びらを掃除するのも楽な仕事ではないが、それでも妖夢は春が、そしてこの庭のことが好きだった。
庭師の仕事を終えた妖夢は裏庭へ向かう。日課の素振りをこなすためだ。普段は朝一番に済ませるのだが、この時期に限ってはどうしても後回しになる。仕事の疲れはあるが、彼女がそれを怠ったことは殆ど無い。
妖夢には庭師に加えてもう一つ、剣術指南という顔がある。といっても、その実態は皆無だ。本来は主人を護るとともに剣の手解きをする立場にあるのだが、妖夢自身まだまだ修行中の身なのである。
早く一人前にならねばという思いで日々精進しているものの、自分が今どの程度なのかも分からないのが現状である。
黙々と木刀を振り続けていると、視界の端をちらつく何かが妖夢の心に入り込んで雑念へと変わる。見ると、それは一匹の蝶だった。冬の蝶は何かに引かれるように母屋の方へと消えてしまう。
程なくして母屋から出てくる女性の姿があった。
「妖夢~」
どこか間抜けなほどにとろんとした甘い声の主は妙齢の女性だ。淡い桜色の髪が柔和な顔にかかり、優しい笑みは母性的な魅力を出していた。空色の着物には季節を先取りした桜模様があしらわれており、彼女はその襟を
女性の姿を認めると、妖夢の表情がぱっと華やいだ。
「幽々子様!」
妖夢は縁側に座る女性の元へ駆け寄った。
彼女の名は
といっても、彼女は化けて出ているわけでもなければ妖夢の妄想の産物でもない。この白玉楼が死者の住む世界、すなわち冥界に建てられているのだ。顕界での一生を終えた魂は彼岸にて裁きを受けた後、この白玉楼で転生の時を待つ。
ただし管理人である幽々子はその例外だ。故あって輪廻の輪から外れ永劫にも近い時をこの地で過ごす彼女は、幽霊と区別して亡霊と呼ばれる。
だがこの屋敷にはそれ以上の例外が一人、いや半人だけいた。
「今日も霊が出ているわね、妖夢」
「これでも精を出しているつもりですけどね」
主人の言葉にそう言って肩を竦める妖夢だが、その後ろには確かに白い半透明の物体が付き従っている。
魂魄妖夢は半人半霊である。冥界に在りながらも生きた肉体を有する彼女だが、その魂は半分だけ死に、霊体となって体から漏れ出しているのだ。尋常の人間と比べるに、体温も半分なら体重も半分。瞬きは少なく、呼吸も浅く、およそ生命の営みに乏しい彼女は、まさに半分だけで生きている。
べつだん誰に半殺しにされたわけでもなければ、新手の奇病の類でもない。生まれた時から、加えて言うなら父親や祖父の傍らにもまた半霊があった。つまるところ、そういう体質の家系なのだ。
この半霊は確かに妖夢の一部として自由に動かすことができるのだが、感覚が伝わってくることはない。鋏や箸のような道具かあるいは従順な飼い犬にも似た、しかしそれらとはどこか決定的に違う何か。妖夢は未だにこの物体について計りかねていた。
もしも半霊に意思があるなら、いつもどんなことを考えているのだろう?そんなことを思って虚空を見つめていた妖夢だったが、いつの間にか半霊が幽々子の手慰みに使われているのを見るとすぐ我に帰った。
「ちょっと、幽々子様!」
感覚がないからといって、自分の半身を弄ばれて気分のいいものではない。
妖夢は主の手から半霊を奪い返すと、血の気のない顔をほんの僅かに赤面させながら睨みつけた。
「ごめん妖夢。お饅頭みたいに柔らかいから、つい」
依然、半霊を抱えて身を引いたままの妖夢。
「ごめん妖夢。お饅頭を持ってきたから、ね?」
途端、半霊を放して身を乗り出した妖夢。
「つぶあんとこしあん、どっちがいい?」
「……つぶあんで」
出されるが早いか、幸せそうに饅頭を頬張る。そこには無防備な、年相応の少女の顔があった。
両親のいない妖夢にとって、幽々子は母親のような存在だ。主従という関係を越えて無条件に注がれる優しさ。厳しい生活に身を置く中で、こうして主と二人で過ごす午後の時間が妖夢にとってなによりの安らぎになっていた。
口直しの茶もなくなったころ、ここでようやく冒頭にあった「妙な話」が話題に上がることとなる。
「桜の樹の下には、屍体が埋まっている」
幽々子は出し抜けにそう言い放った。
「え?何か仰いましたか?」
「桜の樹の下には、屍体が埋まっているのよ、妖夢」
妖夢は繰り返された主人の言葉に首を傾げた。
白玉楼の管理人であり、妖夢の主人であり、死人である西行寺幽々子は、また同時に歌人でもあった。掴みどころのない主の言葉に、妖夢はしばしば困惑させられる。そして幽々子はそんな妖夢の様子を見て、口元を隠しながら愉しげに笑うのだ。
「屍体、ですか。それは一体……」
「一体か二体か、あるいはもっとたくさん」
顔の下に両手をぶら下げる幽々子。本物の亡霊が怪談を語るという、奇妙な光景があった。
そして妖夢はどういうわけかこの手の話が大の苦手だった。幽霊に囲まれて暮らす半分幽霊の彼女だが、いざこういう形でそれを聞かされると途端にいつも及び腰になるのだ。剣士としての矜持はそれが表出することをよしとしないが、この怯懦な一面もまた魂魄妖夢という少女の持つ一つの顔である。
「茶化さないでください!」
「ふふふ、ごめんなさい。それじゃ、ちゃんと説明するわね」
幽々子はそう言うと塀の向こう、敷地の外れにある大樹に目をやる。
庭にあるものよりも遥かに大きな桜の木だ。天を衝かんばかりの大樹は地を抉るように力強く根を下ろしているが、春も近いというのに花開くはおろか蕾の一つさえつけてはいなかった。
「実はね、どうやらあの桜……西行妖の根元に屍体が埋まっているみたいなの」
永遠に咲かない桜というのも妙なものだが、しかしそれ以上に妙な点があった。
「屍体、ですか?」
ここは冥界である。妖夢のような特例を除けば肉体は現世へと取り残され、決してここへ送られることはない。冥界において屍体を探すことは、山で鯨を探すようなものだ。
「そう、屍体よ。実は昨日、蔵で古書を見つけたの。そこに面白いことが書いてあってね」
冒頭に屍体が転がる話を「面白い」と言ってしまうあたり、この亡霊は生死観が歪んでいた。
そもそも自分が死んだときのことはおろか、生前のことすら覚えていないのだという。死んだ記憶もなければ死を迎えることもない。彼女にとって死とはどこまでも「他人事」だ。
幽々子の了承を得た妖夢は恐る恐る巻物を紐解く。拵えは立派だが紙の経年劣化が酷く、半分近い文字が掠れていた。使われている言語は日本語だが字体、仮名遣いともに古く、妖夢の古典知識では不十分な情報を補って判読することは不可能だ。
だがこの書物は絵巻物のようで、最後に描かれた樹の下に人が横たわっていることだけは確認できた。
幽々子がその隣から説明を加える。
「千年近く前のもののようね。読めたことを纏めると、こうよ。ある桜の樹が、故あって封印されることになった。その方法は、樹の下に屍体を埋めること。そしてこの書の最後はこう締めくくられているわ。『屍体と桜は一つであり、屍体が死体であり続ける限り、桜は死に続けるだろう』とね」
「なるほど」と妖夢は主の目に答えた。
「確かに、偶然にしては出来すぎています。つまりその封印された桜がこの西行妖である、と?」
「確証はないけど、ね」
幽々子は再び西行妖を見上げた。
「ねえ妖夢。私のお願い、聞いてくれるかしら?」
妖夢は庭からの光に照らされた幽々子の横顔を眺めながら、従者という自分の立場を思い出してほんの少し姿勢を正す。
「もちろんです。何なりとお申し付けください」
どこか芝居がかったその台詞にクスリと笑みをこぼしながら、幽々子は続ける。
「実はね、面白い本はもう一冊あるの。出家僧の日記みたいなんだけど、そこには人を蘇らせる方法……反魂の術について書かれているのよ。屍体に自然から集めた生命力を注げば、それは自らの魂を呼び戻して蘇るだろう、と」
妖夢はまたも臆しそうになったが、今度は倫理観が勝った。
「反魂って……幽々子様、まさか邪法に手を染めるおつもりですか? 危険です。第一それが本当に千年前の屍体なら、すでに転生している可能性も高いはず。生きた人間の魂を奪うとなれば、いくらなんでも問題があります」
妖夢も冥界に住む者として魂の扱いには無関心でいるわけにもいかない。そもそもこの白玉楼自体が地獄で魂を裁く閻魔の管轄下にある。その威光の下で勝手をはたらこうというのだから、妖夢とて片棒を担ぐわけにもいかない。
「まあ聞きなさいな。この術はもともとそんな大昔の人じゃなくて、著者の知人を蘇らせる目的で編まれたものよ。他の肉体から魂を引きずり出してまで連れてくる力はないみたい。それにもしもこの冥界に屍体があるのだとしたら、それこそ看過できない問題よ。持ち主がいるのなら、白玉楼の管理者としては回収してもらうのが妥当じゃないかしら?」
珍しく真剣な顔をしている幽々子だったが、いい加減に飽きたのかいつもの表情に戻る。
「ふふふ。まあ本当はそんなこと、どうでもいいのよ。私はただ、あの西行妖が花開くところを一度でいいから見てみたいの。だから妖夢、私のために春を集めてちょうだい」
「春を、ですか」
「ええ、そうよ。私の力をあなたに託す。だからあなたは自然の生命力を――春を集めてくるの。この話が本当なら、屍体を蘇らせて花を咲かせることができるかも。……なんて、思っちゃってね」
幽々子はそう言っておどけて見せた。しかし、桜の枯れ木を見つめるその目は幼い子供のように一途だ。
「きっと咲きますよ。いえ、咲かせてみせます」
「ふふ、ありがとう妖夢」
微笑みかける幽々子。しかし、そこで妖夢はふと思いかえした。
「ところで幽々子様。生命力なんてどこから集めてくればいいのでしょうか?」
冥界で生きているものといえば、妖夢の他には庭の植物くらいのものだ。どちらも妖夢にとってそう易々と犠牲にできるものではない。
「そうね、あなたの記憶ではこれが初めてになるかもしれないわね。……いつか話したこと、覚えているかしら?この冥界から結界を越えた向こう側、命ある者たちの住む世界のこと」
「顕界、ですか」
「ええ、そう。あなたには顕界に行ってもらうことになるわ。結界を抜けた先にあるのは人妖混ざり住む幻の地――」
幽々子はどこか遠くを見るような目で語る。
「――幻想郷よ」
その夜、自室の床の間に向かう妖夢の面持ちはいつにもまして神妙なものだった。その眼差す先には刀掛けに掛けられた長短二振りの刀。拵えこそ質素なものの、存在するだけでその場の空気を厳粛なものにするだけの存在感がそれにはあった。
それは刀自体の格によるものでもあるが、それ以上に妖夢はこの刀を見る度に先代の顔を思い出さずにはいられない。
先代は名を魂魄
庭師であり剣士であった妖忌は引き取ってきた幼い妖夢を跡取りとして厳しく育てた。それも生半可なものではない。相手が少女であるということをおよそ勘定に入れていないのだ。
日が傾こうが落ちようが仕事が終わるまで休憩は与えられず、妖夢が泣こうが喚こうがお構いなしに稽古は続いた。日常生活においても師弟関係は絶対であり、祖父を「お師匠様」と呼ぶことが二本の前歯を代償に妖夢が初めて得た教えである。
主人である幽々子も妖夢のことでは妖忌に口出しすることができず、稽古が終わると妖忌が去った隙を見計らって盗人のようにこそこそと手当てをするのが常だった。
とにもかくにも厳格の一言に尽きる妖忌ではあったが、そんな師に対して妖夢が抱いていたのは恐怖よりも憧れだった。強く迷いない妖忌の剣と生き方は妖夢にとっての理想であり、その背中を追い続けることで妖夢は強くなっていった。
その妖忌は今、すでに白玉楼を去って久しい。五年ほど前のある日、妖夢に家督を譲るという旨の書置きを残して忽然と姿を消したのだ。そのとき魂魄家の家督と共に引き継ぐことになったのが、これら二本の刀である。
長刀の名は
その細腕でもってこれを御するために注いだ時間こそ、妖夢の修行の全てであったと言えよう。丸太のようなその重みも今では自信に変わっている。
短刀の方は名を
白楼剣は断迷の剣である。煩悩に迷う人間の霊魂を断ち切ればたちまちに魂は解脱へと至り、昇天する。
魂の輪廻は一介の庭師に干渉の許された領域ではない。濫りに抜けば即座に閻魔の裁くところとなるだろう。この刀を守りそして正しく用いることは魂魄家の家長の重要な務めであると、妖夢は深く肝に銘じている。
此度の務め、一歩誤れば自分たちは外道に落ちることとなる。幻想郷という場所が自分に何をもたらすのか、妖夢はまだ知らない。不安がないといえば嘘になる。だがその一方で妖夢は嬉しかった、今まで妖夢を甘やかしていた幽々子が初めて自分を頼り、何かを求めてくれたことが。
忠義を果たすことは未熟な自分を高みへと導いてくれる。先代に代わって白玉楼を守る剣士としての自分を完成させてくれる。そう信じればこそ、務めに対して前向きにもなれた。
双刀は語らない。だが、師との間には沈黙だけで十分だった。妖夢は刀に頭を垂れた後、灯りを消して眠りについた。その日は特に緊張することもなく、深く眠れた。